ラブ・ソングをあなたに

天川 哲

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沼田 安夫

1.底で出会った

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 人生最悪の日、というのは、今日みたいな日のことを指すのだろう。
 もっと言うなれば、最悪が最悪を呼び、雪だるま式に大きく膨らみ、今に至っているのだ。
 どん底に底などないと知ることができたのが、唯一の収穫だったのかもしれない。沼田安夫は力なく首を振り、足元に広がる暗い川面を眺めるともなく眺めていた。
 あと一歩、あと一歩この橋を踏み出せば、終わりの見えない人生に終止符を打てる。
 わかってはいたが、その一歩が出ないまま、半刻程が過ぎていた。
 四月の花冷えする夜、薄ぼんやりと街灯に照らされる川面で、風采の上がらない中年親父の顔が揺れている。
 誰の所為でもない。沼田の呟きが、暗闇のような水面へと溶けていく。
 リストラされたのは、社会が不況で喘いでいるから。
 離婚を迫られ、妻が家から消えたのは、仕事がなく生活に苦しむことが目に見えていたから。
 借金まみれの無職中年親父など、価値はゼロもないだろう。
 あの水は、冷たいのだろうか、などと邪念が混じるようになった頃、不意に沼田の腹が、その場に似つかわしくない空腹の音を奏でた。
 辞めたい、死にたいと願う思いを掻き消すかのような、壮大な音が辺りを震わせる。
 途端に、出端を挫かれたようで、沼田は大きな溜息をついた。
 一歩、また一歩と後退り、そのままゆっくりと欄干を越え、川から離れた。
 思い返せば、ここ数日まともに食事をしていなかった。
 何もかも、死ぬことすらどうでも良くなってしまった。
 沼田は、どこを目指すでもなく、覚束ない足取りで、横浜駅へと向かって歩き出した。

 終電を終えた横浜駅の周りには、淋しさを他の淋しさに付け込み、埋め合う人々で溢れていた。
 何がそんなに可笑しいのか、互いの存在を確かめ合うかのように爆笑する輩もいれば、その陰でしけ込みに消える輩もいる。
 沼田も、何かが足りない彼等の雰囲気に惹き寄せられ、ふらふらと歩みを進めた。
 西口を過ぎ、少し行くと、小さな広場に出た。沼田は遂に足を止め、橋の柵に寄りかかった。
 腹は未だになり続け、空腹を訴えている。
 ポケットには、皺くちゃに捩れた一万円札が二枚と、小銭が幾許か、それで全てである。
 そもそもこのお金は、欲を満たすためではなく、最期の地へ赴かんとするべく残したものであった。
 今際の際に腹が空いて死にきれないなど、つくづく馬鹿らしいと、沼田は力なく舌打ちをし、俯向いた。
 喧騒、狂騒、嬌声、怒声、沢山の音が溢れ、波のように押し合いへし合い、沼田の周りを占めていた。
 そのひとつひとつを聞き流し、ただひたすらに時が過ぎるのに任せていたが、ふと、耳に留まるギターの音が気になった。
 目を上げると、目の前でチューニングをする少女が見えた。
 随分小柄だが、成人はしていそうな、そんな印象だった。
 弾き語りでもするのだろうが、あまり興味はなかった。
 再び俯こうとした沼田だったが、その瞬間、少女と目があった。
 「あ、お兄さん!いま目が合いましたね?」
 目の前とはいえ、道を挟んだ向かいのため、それなりに距離があるが、それでも聞こえるということは、かなりの声量で語りかけている。
 周囲の人々は、何事かとこちらを窺い、注目された沼田は嫌な汗を掻いた。
 面倒くさいな、と頭の中で舌打ちし、少女の語りかけに無視を決め込むことにした。
 「運命ですよ、お兄さん。
 これだけの人間がいるのに、目が合ったのはお兄さんが初めて!」
 構わず続ける少女の声に蓋はできず、やむなく目を閉じ無視をし続けている沼田に対して、何ら気にすることなく少女はギターを奏で始めた。
 瞬間、今までの喧騒が消え、彼女の音で辺りが満たされた。
 気付けば沼田は彼女の奏でる音と歌に惹き込まれた。
 一音一音が、身体の奥に、少しずつ染みわたり、固まっていた何かがゆっくりと溶けていく感覚を覚えた。
 ──溢れた涙掻き集めて
   飲み干してしまえば、ほら
   少しずつ満たされていく──
 足元に、ぽつり、ぽつりと黒い染みが広がり、それが涙だと気付いた時には、声を上げて泣いていた。
 彼女の歌の、何かが沼田の琴線に触れ、堪えていたものが溢れて止まらなくなった。
 突然号泣する中年親父に周囲は困惑と好奇の眼差しで見つめる。
 収集のつかないほど涙を流す沼田の前に、先程まで歌っていた少女が立つ。
 「これ、使う?」
 彼女が差し出すハンカチを一瞥し、沼田は首を横に振った。
 嗚咽を漏らしながら、涙を乱暴に拭った沼田は、少女を見遣った。
 「……とても、その、良かった」
 「そう、ありがとう」
 沼田が再び俯きかけたとき、盛大に腹が鳴った。
 思わず腹を抑える沼田に、少女は微笑み、手を取った。
 いきなりのことに驚き、手を振り払おうとする沼田であったが、少女はそれを抑え、手を引き歩き始めた。
 「お腹空いてるんでしょ?ご飯、食べに行こうよ!」
 先程まで歌っていた少女に、手を引かれる中年親父、という構図に、誰もが好奇の眼差しを向ける。
 「自分で歩ける、歩けるから」
 離してくれ、と抵抗する沼田であったが、意に介さない少女は、そのままロータリーへと歩き、待機するタクシー   へと乗り込んだ。
 仕方なく、沼田も乗り込み、ドアが閉まる。
 行き先を告げ、ゆっくりと進み始めた頃、ようやく手を離された沼田は、思わず溜息をついた。
 「一体どういうつもりなんだ」
 「中華、好き?」
 「は?」
 「いや、お兄さん、中華料理は好きですか?って」
 「まあ、どちらかといえば、な。っじゃなくて!」
 「んじゃ、中華に決定しまーす」
 全く噛み合わない会話に辟易し、沼田は默まった。
 鼻唄を歌う彼女は、なぜだか少し楽しそうですらある。
 状況に理解が追いついていないが、ほんの少し居心地の良さを感じ、とにかく流れに任せてみる気になった沼田  は、窓の外を見つめた。
 きらきらと輝きながら反射する街灯に目を細めながら、再び小さく溜息をついた。
 底に底なんてない、と思っていたが、そんなことはないのかもしれない。
 横で流れるメロディーを子守唄に、沼田は静かに目を閉じシートに身体を預けた。
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