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第一章 僕の自殺を止めたのは
第5話 私の研究を見せる時が来たようだね
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「よろしくお願いします」
「お願いしまーす」
僕たちは、互いに相手へ向かって一礼します。挨拶に始まり挨拶に終わる。これが将棋の基本。どんな対局であっても変わりません。たとえそれが、人生最後の一局であったとしても。
先手は死神さん。少々おぼつかない手つきで駒を持ち、パチリと盤上に打ち下ろします。死神さんの初手は、7六歩。
これは、将棋の基本ともいえる一手です。将棋は、飛車、角という二つの強い駒をどれだけ有効に働かせることができるかが、勝利への鍵になります。死神さんの指した一手は、角の動く範囲を広げるために必要な手なのです。
死神さんの手に応じるように、僕も3四歩と角の動く範囲を広げます。お互いの角がバチバチと睨み合う形になりました。
さて、次に死神さんはどんな手を指すのでしょうか。ここから先の展開は、その人の好みによって変わってきます。飛車を定位置に置いて戦う居飛車を好む人なら、2六歩と飛車の頭にある歩を動かすことでしょう。飛車を序盤から横に動かして戦う振り飛車を好む人なら、6六歩や5六歩、あるいは7五歩というように、それ以外の歩を動かすはずです。まあ、全員が全員必ずそうしてくるというわけではありませんが。
そもそも、今目の前に座っているのは、人間ではなく死神。僕の知らない将棋の定跡を知っていても不思議ではありません。もしそんな定跡をぶつけられたら、こちらは手探りで戦い続けることを強いられてしまいます。大まかな構想があるうえで戦う人。構想も何もない手探りで戦う人。どちらが有利かなんて、火を見るよりも明らかです。
「ふふふ。私の研究を見せる時が来たようだね」
そう言いながら、死神さんは不敵に笑いました。どうやら、僕の悪い予感は当たってしまったようです。
「このタイミングで、ですか」
まだ十六歳の子供とはいえ、僕もかなりの数の対局を重ねてきました。たとえ将棋をする相手がいなくても、自分一人で駒を動かしながら勉強をしたことだって何度もあります。けれど、これから始まるのは、十中八九僕の知らない将棋。
死神さん、どんな手指すんだろ? そもそも、居飛車で来るの? 振り飛車で来るの?
はっきり聞こえる心臓の鼓動。自分が興奮しているのだと気づくのに時間は要しませんでした。人生最後に指す将棋としては、これ以上のものはないでしょう。
「さあ、いくよー」
死神さんは、ゆっくりと駒を手に取りました。その駒の名は、桂馬。
ん? このタイミングで桂馬ということは、まさか……。
パチリと響く駒音。死神さんの指した手は、7七桂でした。
7七桂。それは、『鬼殺し』というよく名の知られたマイナー戦法。攻めの破壊力はあるものの、明確な対応策があります。だからこそ、それを指す人なんてリアルの対局ではほとんど見たことがありません。せいぜい、将棋ユーチューバーの動画でたまに見かけるくらいです。
鬼殺しって……ええ……そんなの、ああやって対応すれば……いや、違う。油断しちゃだめだ。
もしかしたらこの先、死神さんが、明確な対応策に引っかからないような独特な手を指してくる可能性もあります。何度も言うようですが、相手は死神なのですから。人間の常識が通用するなんて考えてはいけません。
僕は、しばらく逡巡した後、6二金と王様の横にある金を一つ上に移動させました。上部の守りを手厚くする一手です。
そう。これが、鬼殺しに対する明確な対応策。上部の守りを手厚くしておけば、鬼殺しは封じられたも同然。さあ、死神さんは一体どんな手を指してくるのでしょうか。期待と不安。その両方を背負いながら、僕は、死神さんの次の手を待ちました。
「……あ」
聞こえたのは、何かに気が付いたような呟き。声の主は、死神さん。僕は、思わず盤上から顔を上げ、死神さんの方に視線を向けます。僕の目に映る死神さんの顔は、明らかに歪んでいました。ぎゅっと唇を嚙み、悔しそうにしています。
いや。いやいや。まさか、ね。
しばらく長考した末に、死神さんは次の手を指しました。駒を持つその手は、少しだけ震えているように見えました。
6五桂。
はい。まごうことなき普通の鬼殺しですね。特別なことなんて何もありませんでした。
僕は、6四歩と歩を一つ前に進めました。次に何もなければ、死神さんの桂馬はただで捕られてしまいます。かといって桂馬を逃げようにも、僕の金がその行く手を阻んでいるのです。桂馬が助かる道はもうゼロ。
「ううう。わ、私の研究の成果が。ど、どうしよう。桂馬、捕られちゃうよ~」
唸りながら頭を抱えるその姿は、僕の思い描いていた死神の姿とはかけ離れたものでした。
「お願いしまーす」
僕たちは、互いに相手へ向かって一礼します。挨拶に始まり挨拶に終わる。これが将棋の基本。どんな対局であっても変わりません。たとえそれが、人生最後の一局であったとしても。
先手は死神さん。少々おぼつかない手つきで駒を持ち、パチリと盤上に打ち下ろします。死神さんの初手は、7六歩。
これは、将棋の基本ともいえる一手です。将棋は、飛車、角という二つの強い駒をどれだけ有効に働かせることができるかが、勝利への鍵になります。死神さんの指した一手は、角の動く範囲を広げるために必要な手なのです。
死神さんの手に応じるように、僕も3四歩と角の動く範囲を広げます。お互いの角がバチバチと睨み合う形になりました。
さて、次に死神さんはどんな手を指すのでしょうか。ここから先の展開は、その人の好みによって変わってきます。飛車を定位置に置いて戦う居飛車を好む人なら、2六歩と飛車の頭にある歩を動かすことでしょう。飛車を序盤から横に動かして戦う振り飛車を好む人なら、6六歩や5六歩、あるいは7五歩というように、それ以外の歩を動かすはずです。まあ、全員が全員必ずそうしてくるというわけではありませんが。
そもそも、今目の前に座っているのは、人間ではなく死神。僕の知らない将棋の定跡を知っていても不思議ではありません。もしそんな定跡をぶつけられたら、こちらは手探りで戦い続けることを強いられてしまいます。大まかな構想があるうえで戦う人。構想も何もない手探りで戦う人。どちらが有利かなんて、火を見るよりも明らかです。
「ふふふ。私の研究を見せる時が来たようだね」
そう言いながら、死神さんは不敵に笑いました。どうやら、僕の悪い予感は当たってしまったようです。
「このタイミングで、ですか」
まだ十六歳の子供とはいえ、僕もかなりの数の対局を重ねてきました。たとえ将棋をする相手がいなくても、自分一人で駒を動かしながら勉強をしたことだって何度もあります。けれど、これから始まるのは、十中八九僕の知らない将棋。
死神さん、どんな手指すんだろ? そもそも、居飛車で来るの? 振り飛車で来るの?
はっきり聞こえる心臓の鼓動。自分が興奮しているのだと気づくのに時間は要しませんでした。人生最後に指す将棋としては、これ以上のものはないでしょう。
「さあ、いくよー」
死神さんは、ゆっくりと駒を手に取りました。その駒の名は、桂馬。
ん? このタイミングで桂馬ということは、まさか……。
パチリと響く駒音。死神さんの指した手は、7七桂でした。
7七桂。それは、『鬼殺し』というよく名の知られたマイナー戦法。攻めの破壊力はあるものの、明確な対応策があります。だからこそ、それを指す人なんてリアルの対局ではほとんど見たことがありません。せいぜい、将棋ユーチューバーの動画でたまに見かけるくらいです。
鬼殺しって……ええ……そんなの、ああやって対応すれば……いや、違う。油断しちゃだめだ。
もしかしたらこの先、死神さんが、明確な対応策に引っかからないような独特な手を指してくる可能性もあります。何度も言うようですが、相手は死神なのですから。人間の常識が通用するなんて考えてはいけません。
僕は、しばらく逡巡した後、6二金と王様の横にある金を一つ上に移動させました。上部の守りを手厚くする一手です。
そう。これが、鬼殺しに対する明確な対応策。上部の守りを手厚くしておけば、鬼殺しは封じられたも同然。さあ、死神さんは一体どんな手を指してくるのでしょうか。期待と不安。その両方を背負いながら、僕は、死神さんの次の手を待ちました。
「……あ」
聞こえたのは、何かに気が付いたような呟き。声の主は、死神さん。僕は、思わず盤上から顔を上げ、死神さんの方に視線を向けます。僕の目に映る死神さんの顔は、明らかに歪んでいました。ぎゅっと唇を嚙み、悔しそうにしています。
いや。いやいや。まさか、ね。
しばらく長考した末に、死神さんは次の手を指しました。駒を持つその手は、少しだけ震えているように見えました。
6五桂。
はい。まごうことなき普通の鬼殺しですね。特別なことなんて何もありませんでした。
僕は、6四歩と歩を一つ前に進めました。次に何もなければ、死神さんの桂馬はただで捕られてしまいます。かといって桂馬を逃げようにも、僕の金がその行く手を阻んでいるのです。桂馬が助かる道はもうゼロ。
「ううう。わ、私の研究の成果が。ど、どうしよう。桂馬、捕られちゃうよ~」
唸りながら頭を抱えるその姿は、僕の思い描いていた死神の姿とはかけ離れたものでした。
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