ゆるっとRAID CORE【ゆるこあ】

コヨタ

文字の大きさ
4 / 6
1話完結・単発シリーズ

所長、何もうまくいかない日

しおりを挟む
 本日の龍調査機関は、静かだ。

 書類の整理も落ち着いており、緊急案件も無く、各所から響いてくる機材の稼働音も今日は穏やか。
 こういう時間を「平和」と呼ぶのだろうと、所長──シエリは静かに椅子から降りた。

「……ん~……」

 小さな足が床に触れると同時、ぐいっと背伸びをしてみる。
 かかとを上げる度、視界の高さが変わる。その差はほんの僅かなはずなのに、見える世界はやけに広く見えた。

(……そうだ)

 ふと、資料に目を通そうと思い、シエリは本棚へと向かう。
 龍因子に関する古い論文集。普段ならセセラが勝手に持ってきて机に積んでいくそれが、今日は棚の最上段に戻されていた。

「…………」

(……整理整頓は、良いことではあるのだけれど)

 シエリはしばらく無言で本棚を見上げた。
 淡い灰色の髪が、少しだけ揺れる。

 また背伸びをする。
 届かない。

 棚に手をかけ、今度はつま先立ちになる。
 ……届かない。

「…………」

 ピンク色の視線が、静かに左右へ動く。

 本棚用の脚立は、部屋の奥。
 そこまで歩くのは、決して苦ではない。ただ、論文は今すぐ読みたい。そして脚立を持ってくるのが単純にめんどくさい。

 少し考えたあと、シエリは近くの椅子を静かに引いた。
 慎重に椅子の上に乗り、そこで背伸びをする。

「……むむ……」

 ついにその小さな指先が、本のかどに触れた──瞬間。

「!」

 バランスを崩してしまうシエリ。
 そして、その拍子にズレた指先が論文の隣に積まれていた資料──書類の山に当たった。

 ──バササッ……!

 山が、ゆっくりと崩れる。

「…………」

 少し指先が当たっただけなのに。
 まるで、重力を思い出したかのように。

 何枚もの紙束が、ふわりふわりと舞った。

 シエリはそれを、ただ静かに見つめている。

 逃げるでもなく、慌てるでもなく、ゆっくりとした瞬きを一度だけ。

 紙は全て、シエリの足元に降り積もった。
 しばらく沈黙が続いたあと、小さく息を吐く。

(……今日は、空気の流れが少し意地悪だな?)

 落ちた資料を丁寧に拾い集め、元の順番に揃えて机に置く。

 読みたい本は結局、手に入らなかった。


 ◇


 午後。
 空腹を覚えたシエリは、珍しく社員食堂の調理場に立っていた。

 理由は単純。甘いものが食べたくなったから。

(私だってたまには自分で作ってみせるのだ)

 エプロンまで着てしっかり気合いを入れたシエリが作ろうとしているものは、好物のパンケーキ。

 フライパンに少量のバターを落とす。
 静かな音を立てて溶けていく様子を見つめながら、生地を優しく流し込む。

 少し待って端が固まり、表面にふつふつと気泡が上がってきた頃合いで生地を裏返す。

 焼き色は、均一。
 膨らみ方も理想的。

「……完璧」

 片面の出来の良さに思わず呟いた、そのとき。

 ──ピロン……♪
 ──ピロロン……♪

 エプロンのポケットに入れていた通信端末が着信音と共に震え出した。

「……?」

 調査班からの確認事項だった。
 緊急性は高くないが、無視もできない内容。

 ──しばらく対応していたシエリ。
 通話が終わって端末を耳から離し、思い出したかのように「……あ」と視線をフライパンに戻した。

「……!」

 すぐに火を止め、生地を裏返す。

 通話前、フライパンの上では綺麗だった円形が──深い茶色、もとい黒へと変化していた。

「…………」

 焦げの匂いが、静かに立ちのぼる。

 シエリは数秒、それを観察したあとそっと皿へと移した。

(……炭化の速度としては、非常に優秀だな)

 小さくそう評価して、茶色と黒のツートンカラーパンケーキの完成。

 ……あんなに食べたかったのに、今はその気も失せてしまった。


 ◇


 廊下を歩いていたシエリは、休憩スペース付近の自動販売機の前に立ち止まる。

「……!」

(……たまには、ジュースもいいな。今日は甘いものが欲しいのだ)

 なんだか妙に喉が渇いていた。

 ──ガーッ……

 紙幣を投入口に入れる。

 ──……ッーガ

 紙幣が投入口から戻ってくる。

「…………」

 もう一度入れる。
 戻ってくる。

 裏側にひっくり返して入れる。
 ……戻ってくる。

 4度目の挑戦で紙幣が中に吸い込まれ数秒、期待を持たせたあと──やはり戻ってきた。

 シエリはしばらく紙幣を見つめた。描かれている肖像画と目が合った、気がする。

(……如何なるものにも相性、というものは確かに存在するのだな)

 結局、購入は諦めた。


 ◇


 無人の社員食堂に戻ってきたシエリ。もう日が沈みかけていく時間になっていた。

(……おや)

 食堂の隅の棚の上、救急箱が開けっぱなしで放置されていることに気がつく。

(……まったく、誰か包丁で指でも切ったりしたのか?)

 箱を棚に戻そうと、わざわざシエリが歩み寄った。

(整理整頓は大事だぞ……まあそのおかげで私は本を読めなかったのだが)

 心の中でモヤモヤ言いながら箱の蓋を閉めようとするが──なかなか閉まらない。

(なんだ? どこか緩んでいるのか?)

 奮闘した結果。

 ──ガシャン!!!

「……!」

 箱が手から派手な音を立てて滑り落ち、中身が無惨にも床に散らばった。

「…………」

 シエリは静かにしゃがみ込み、散った絆創膏や消毒液のボトルたちをひとつずつ拾い上げる。
 ……その背中は普段よりも更に小さく見えた。

 ちょうどそのとき、食堂の扉が開けられる。

「おい何の音……」

 たまたま近くを通っていたセセラが食堂へと入ってきた。
 しかし、目の前の光景に足を止める。

 床に散らばる絆創膏。ボトル。ガーゼ。その他諸々。しゃがみ込むシエリ。

「…………」

 その光景を数秒見つめたあと、セセラは何も言わずに一緒に拾い始めた。

 沈黙のまま、作業が続く。

 全て拾い終えて箱を棚に戻したとき、シエリは静かに声を放った。

「……今日は、重力が少し強い日だった」

「……はあ?」

 それだけを告げると、シエリはいつもの歩幅でテーブルへと移動する。
 表情は変わらない。声も、普段と同じ温度のまま。ただ、そのテーブルの上には、温め直された真っ黒いパンケーキが1枚置かれていた。

「…………」

 それを見たセセラは、何か言いかけて──やめる。
 代わりに、無言でフォークをシエリに差し出した。

「……ん……?」

 シエリはそれを受け取り、少しだけ首を傾げる。

「……味の検証は、共同で行うべきだろ」

 そう言って自分のフォークも用意したセセラは、パンケーキをナイフで半分に切った。

 片面真っ黒パンケーキが割れる、ザクッとした音。静かな食堂にやけに響いた。

 外側はツートンだが、内側は均一な炭色。
 シエリはそれを観察するように見つめる。

「……想定外の熱伝導だった」

 理知的な声色はいつも通りだが、僅かに肩が落ちている。
 セセラは何も言わず、フォークで小さく削り取り、口に運んだ。

 数秒、沈黙。

「…………」

 もうひとくち。

「……意外と、いけるかも」

 冗談でも、からかいでもない声だった。
 シエリは横目でセセラを見る。

「本当?」

「炭の風味が前面に出てるけど、甘さは生きてる」

「それは“失敗”の範囲内なのでは」

「“新ジャンル”って言い張っとけ」

 ほんの一拍の

「…………」

 シエリは小さく、ふっと息を吐いた。
 それは笑いに近い、微細なもの。

 そのとき、食堂の扉が再び開く。

「……なんか焦げ臭くね?」

 顔を出したのはリル。
 テーブルの上の黒い円盤を見て無言で固まるリルに、シエリは静かに説明する。

「熱量の実験だよ」

「絶対ウソだろ」

「フフ……、ひとくち食べるかい?」

「…………」

 リルは一瞬迷うが、なぜか受け取る。
 ほぼ炭と化したそれを齧ると、顔が微妙に歪んだ。

「……にがっ……」

「でも一瞬だけ甘いだろう?」

「……う、うん……一瞬な」

「新ジャンル、だ」


 ◇


 所長室へと戻ろうとするシエリ。

「──所長! お疲れ様です!」

「ん……?」

 シエリを待っていたかのように待機していた男性職員が、そっと紙袋を差し出した。

「所長、突然申し訳ございません……。これ、差し入れです。近くの店でイベントやってたもので、つい」

 中には、ふわふわのパンケーキが入っているという。まだほんのり温かい。

「おや……わざわざ悪いね。ありがとう」

 ──所長室に戻るとシエリは早速差し入れのパンケーキを皿に移し、しばらくそれを見つめていた。

 焦げていない。匂いも甘い。

(……今日は、重力も火力も味方ではなかったけれど)

 小さな指をナイフとフォークに添えて、ふわりとした生地を切る。

(人の運は、悪くない日だったみたいだね)

 ひとくち口に運ぶと、甘さと柔らかさにシエリの空気が少しだけ緩んだ。

(日常の失敗という検証は……十分だ)

 今日は、シエリにしては珍しく失敗続きだった。

 背が足りず、火加減を誤り、自販機にも拒絶され、救急箱の中身は散らばった。

 だが最後に残ったのは、炭ではなく。
 自分を囲む、温かくもささやかな温度。

「…………」

 小さな所長は、椅子の上に座ったまま、いつもよりほんの少しだけ足をぶらつかせる。

(……明日は、もう少しだけ火力を下げよう)

 今日はただの、不憫で小さなシエリちゃん。

 でも、ちゃんと。
 “所長のいる一日”だった。



 おしまい







しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

【完結】『続・聖パラダイス病院』(作品260123)

菊池昭仁
現代文学
『聖パラダイス病院』の続編です。こんな病院なら入院生活も悪くはありません。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

処理中です...