Drown in honey

古森日生

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火傷

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終業を知らせるチャイムが校内に響き渡るのを聞き、江梨香はPCに向かっていた作業の手を止めた。
軽く背中を伸ばすように伸びをして、ちらりと時計を見ると15時40分だった。
もう少しすると可愛がっている生徒たちなぎさとこのみが顔を出すだろう。
その前に休憩しよう。
そう決めると、司書室を出てまずお手洗いとメイク直しを済ませ本館の階段を屋上まで上がっていく。
いつもの通りなら、彼女ももうすぐ訪れるはずだ。
(昨日のお話を聞かないとね~)
こちらもいつもの通りにこにこしながら足取り軽く屋上に向かった。

放課後、夕子は教室棟2階の廊下を歩いていた。
授業を終えて帰ろうとする生徒たちの挨拶に手を振って応えながら夕子は廊下を歩いていく。
この時間教室棟の見回りをするのは夕子のいつもの日課だ。

だが、今日の夕子はいつもとちょっと違っていた。

「中南せんせーさよならー、…ってどしたの?」
廊下を歩いていて、今日は何度もあったことなのだが、今もまた教室から出てきた生徒に怪訝な声をかけられた。
「おお、西浜。なにがだ?」
「その顔、なに?」
そう、今日の夕子は右頬に湿布を張り付けてサージカルテープ(肌用の医療用テープ)で留めている。
これまでもすれ違う生徒からたびたび同じ質問を受けていた。
「ちょっとな…。久し振りに料理しようと思って棚から鍋出したら顔に落としちまってなぁ」
「へー…」
女生徒はまじまじと夕子の湿布を見ると納得したように笑った。
「痛そう。せんせーお大事にね!」
「ちょっと待て」
手を振って走り出そうとする女生徒に声をかけると生徒はポニーテールを翻して止まる。
「制作の課題は決まったのか?」
この生徒は夕子が顧問をする美術部の一員なのだ。
「うん!バッチリ! あとは描くだけだよ」
右手でVサインを出して笑う女生徒に夕子は苦笑いする。
この子はいつもそうなのだ。描きたいものは決まっても描き上げたことはない。
「おまえな…」
「今回は本当なの!期待してて!」
今度こそ手を振って女生徒は渡り廊下を駆けていく。
「転ぶなよ!」
注意する夕子にサムズアップして女生徒は渡り廊下に消えた。

夕子は2階縁の階段から3階へ上がり3年生の見回りを終えると3階の渡り廊下から本館に戻り、そのまま屋上へ向かう。
本館の屋上は職員用の喫煙所になっている(なお、教室棟には喫煙所はない)。
ポケットから鍵束を取り出し重い扉を開けて屋上に出る。
屋上の隅に角型の灰皿スタンドとバケツがあるだけの簡素な喫煙所は無人だった。

夕子はまず灰皿を確認する。
水を張った灰皿の中には数本の吸殻が浮いている。
(見覚えのない銘柄は無いな)
夕子は自分以外にこの喫煙所を利用するほかの教員が愛煙している銘柄はだいたい把握している。
愛煙家は必ず好みの銘柄がありそれ以外はあまり嗜まない。
前にここで見覚えのない吸殻を見つけたとき生徒が隠れて喫煙所を使用していることが発覚したことがある。
それ以来の習慣だ。
とはいえ、教員の愛煙する銘柄と同じものを嗜んでいることもあるので気休め程度だが。

夕子はポケットから煙草を取り出すとオイルライターで火をつけて一服する。
吐き出した紫煙が空に散っていく。

夕子は空を見上げてもう一度煙を吐いた。
(ふぅ…)
時刻はもうすぐ16時だがこの時期の日は長い。
透けるような青空に雲が流れていく。吹き通る風はむわりと温く汗ばむ陽気だ。
夕子は首もとのボタンを一つ二つ外して風を通す。
そして、紫煙を吐き出す。

煙が生暖かい風に流されて揺蕩っていくのを夕子はぼんやりと眺める。
その時、煙の向こうに人が立っているのに気づいた。

「ゆーこちゃん」

そこに立っていたのは江梨香だった。
もう初夏というのにゆったりしたいつものだぼっとしたピンクのカーディガンと丈の長いワンピース。
くるくるのくせ毛が風に躍り、いつものやわらかな笑顔を向けていた。
…はずだったのだが、夕子の湿布を見ると目を見開いて駆け寄ってきた。

「ゆーこちゃん!? どうしたのこれ…」
駆け寄ってきた江梨香に肩のあたりをつかまれて見上げられた夕子は気まずそうに視線を外す。
「…昨日、元カレに会いに行ったのは知ってるだろ」
『元カレ』
その単語に、昨日の顛末を悟った江梨香はきゅっと唇をかみしめる。
「こじれて…やられた…の?」
夕子は小さく首を振る。
「正確には、さ。別れ話じゃなかったんだよ。用事」
「え…?」
「別れ話にしたから、殴られた。だから、アタシのせい」


そう。昨日夕子が会いに行った相手は「なかなか会えないならば」と代案を持って来ただけだった。
提案された内容は『同棲』、あるいは『婚約』だった。
付き合っている間はそれなりに楽しかったが、少し考えて夕子はどちらも断った。
江梨香との会話でもう好きじゃないことを自覚してしまったし、そんな彼とこの先を一緒に暮らすことが想像できなかったからだ。
それを伝えるとき、夕子は言葉を『誤った』。

『悪いけど、お前とは将来が見えない』

気が付けば夕子は地面に倒れこんでいた。
右の頬がじんじん熱い。口のなかが切れたようで鉄の味がする。
目の前の男が何か叫んでいる。
夕子は殴られた衝撃か、耳鳴りで音のなくなった世界でぼんやりと男を見上げていた。
やがて男は駆け付けた警察官に取り押さえられた。
一緒に交番に運ばれ、別れ話のこじれで殴られたことが分かると(夕子が許したこともあり)男は厳重注意され解放された。
夕子も注意を受けて病院に行くように言われたが、そのままふらふらと自宅に帰った。
そのままベッドに倒れこむとしばらく動かなかったが、やがてシーツをぎゅっと握りこんだ。
「…アタシは、いつもこうだ」


「ゆーこちゃん…?」
声をかけられて夕子ははっとする。
胸元には江梨香が心配そうな顔でしがみついている。
「いや、何でもないよ。終わったんだ」
笑いかけようとした時、江梨香が夕子の胸元にもたれかかってきた。
「痛っ…」
「ゆーこちゃん!?」
夕子は半歩下がると胸元を押さえる。
首もとのボタンの外されたブラウスからは夕子のデコルテが見えている。
胸元を抑えた指先の裏に小さな傷が見えた。
息を呑んだ江梨香は夕子の腕を捕らえて開かせると、夕子が隠していた胸元を凝視する。
「火傷…?」
そう、普段はブラウスに隠された夕子のデコルテ。豊かな胸のすぐ上に小さな火種を押し付けたような火傷の跡があった。

腕を捕られた夕子は江梨香の思わぬ力の強さに驚く。
とはいえ、夕子の力ならば振りほどくことは簡単だ。
だが、それはできなかった。

――江梨香が、泣きそうな顔をしていたからだ。

「エリ…」
「ひどいよ… どうしてこんな事ができるの…?」

江梨香はそのまま泣き出してしまう。
気が付けば江梨香は夕子にしがみついており、夕子の腕は自由になっていた。
夕子は自由になった腕で落ち着かせようと江梨香の頭をやさしく撫でながら思っていた。

(違うんだよエリ。その火傷はアタシがやったんだ…)
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