Drown in honey

古森日生

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江梨香の想い

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あれからすぐに喫煙所にもう一人男性教諭が来たので夕子は急いで胸元を隠し、江梨香と一緒に喫煙所を離れた。
男性教諭は泣いている江梨香に驚いたようだったが、すぐに背中を向けて煙草を吸い始めたのでふたりは会釈してそのまま屋上から降りる。
ふたりは1階まで降りて、階段近くの部屋に入った。
そこは夕子の職場である保健室だ。

「ゆーこちゃん、話してもらえる…?」
「さっきも言っただろ? 終わったんだよ。 もう会うことも無いから安心してくれ」
夕子は自分の席に座り、江梨香は体調不良者のためのベッドに腰掛けて向かい合っていた。
「安心なんてできない…」
長い睫毛を涙で濡らした江梨香は目を伏せて悲しそうに言った。
「大丈夫だよ」
夕子は江梨香の膝上で揃えられた小さな手にそっと自分の手を重ねた。
「警察だって注意してくれたし、もう会うことはないから」
江梨香は自分の手に添えられた夕子の手を両手でにぎにぎする。
(話してはくれないんだね…)


江梨香にとって夕子は気になる相手だった。
3年前、この学校に赴任してきたときからずっと。

快活で生徒からも好かれ、面度見もよくて同僚からも信頼される夕子は江梨香にとって眩しい存在だった。

あれは、赴任初年度のレクリエーションだっただろうか。
1年生の引率として一緒になった江梨香と夕子は、それまで挨拶くらいしかしたことはなかった。
ところが、そのレクリエーションでひとりの生徒がはぐれてしまう事件が起きた。
自分よりも生徒から慕われているぶん引率向きだと思った江梨香は、下山を夕子に任せてはぐれた生徒の捜索に行った。
ちょっと崖で滑ったが、無事見つけ出して二人で戻ったので対応には問題ないと思っていた。
しかし、夕子は江梨香を心配して叱ってくれたのだ。
誰かに心配されることも叱られることもほとんど無かった江梨香はそれがとても新鮮で。

――夕子の事をもっと知りたいと思った。もっと仲良くなりたいと思った。

それ以来、生徒に積極的に関わって忙しそうにしている夕子を江梨香が支えるような関係になった。
今、学校内では夕子に一番信頼されているのは自分だ。
江梨香にはその自負もある。

――だが。
同時に江梨香は、夕子に一線を引かれていることにも気づいていた。
雑談としてプライベートの話題が出ることもあったが、夕子とは学校外では会ったことがない。
どこに住んでいるかは教員名簿で知ってはいるが招かれたことも無い。
休日に一緒に出掛けたことも無い。
知っているのは学校での夕子だけ。 正直、それを寂しく思うこともある。

――とはいえ、それは逆も同様で。
プライベートの江梨香を夕子は知らない。

江梨香は「文学少女がそのまま大人になったような」と言われるタイプだ。
いつもニコニコしていておっとり、声を荒らげることも無い。本好きの優しい女性。
それが学校での江梨香の評価だ。
それ自体は間違ってはいないし、そうあろうとしている事でもある。

今の江梨香のプライベートは適度な仕事に適度な休暇。ハードワークというほどでもなく、無理なく伸び伸び過ごせている。
一方で、頻繁に実家に帰っては母親と過ごす時間も多い、という一面もある。

その理由として、江梨香の生い立ちは彼女から受ける印象のようなやさしいものではなかった。
生まれこそ裕福な家庭に育ち、いい妻、いい母になるように育てられてきたが多感な時期に父親の不倫によって両親が離婚。
被害者なのに追い出されるような形で家を出された母親に引き取られ暮らすことになる。
父には不倫相手との間に新たに跡取りになる息子ができたこともあり、親権で揉める事すらなかったのだそうだ。
慰謝料と養育費は一括で支払われたのでお金で苦労という苦労をしたことはなかったのだが、優しかった母親は心労ですぐに体調を崩すようになった。
それもあって、江梨香は母親の前でもいつも「ニコニコ優しい」自分を心がけるようになった。
仕事の関係で同居はできないのだが、今でも実家(これも慰謝料として渡された小さな家だ)には頻繁に帰る。
実家に帰って母親が笑顔で迎えてくれた時、江梨香は心の底からほっとする。

それは、母親にどこか危うい『匂い』を感じるからだ。

そして、そんな母親をずっと監視…、見ていなければいけないことに疲れていることも自覚している。
時には消えてしまいたいと思うこともあるが、自分ではそれを選べないことも確かで。
そんな中で夕子との触れ合いは江梨香にとって本当に癒しだった。

だが、江梨香はなぜか夕子にも母親に近い『匂い』を感じることがあった。
快活な夕子には似つかわしくないはずだが、それもあってつい夕子が気になってしまう。

…と、色々考えてはみたものの、江梨香はやっぱりもっと夕子に近づきたいのだ。


「ゆーこちゃんは、私の事どう思ってるの…?」
ふと、こぼれた言葉に江梨香は自分でも驚いて口元を覆ってしまう。
「どうって…?」
首をかしげる夕子を江梨香はじっと見つめる。
「そりゃあ…、信頼してるよ」
夕子の言葉を聞いて、江梨香の瞳からひとすじ涙がこぼれる。
「じゃあ、頼ってよぅ…」
「…頼ってるよ」
「うそ。ゆーこちゃん何も話してくれないよね?
 何かあってもいつも自分だけで抱えこんで私には大丈夫だよって笑ってる。それ本当に信頼してくれてるの?」
江梨香は泣きながら夕子の手をぎゅっと強く握る。
「…してるよ」

信頼している。そう答えながら夕子は迷っている。

そう見て取った江梨香は質問を変える。
「じゃあ、ゆーこちゃんにとって私って何?」
夕子はそのまましばらく考え込んだ。
やがて夕子は絞り出すように答える。

「…頼りになる、同僚」

「同僚…?」
夕子の答えに江梨香は目を見開いた。
「ひどいよ…。 私たち友達ですら… 無いの?」
江梨香は立ち上がりふらふらしながら保健室を出て行く。
「お、おいエリ…?」
ぴしゃりと扉が閉まり保健室に一人残された夕子は乱暴に頭をかきむしった。
やがて夕子はポケットから煙草を取り出し手早く火をつけると吸い付け、先端が赤熱したのを確認し胸元に押し付けた。

痛みに一瞬息が止まる。
同時に、涙が一筋こぼれる。

――煙草を肌から離すと、胸元には紅黒く火傷の跡が出来ていた。
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