聖女を怒らせたら・・・

朝山みどり

文字の大きさ
7 / 17

07 侍女目線

しおりを挟む
 その日、邸の空気は薄い紙のように張りつめていた。
 二度目の流産の後ご実家で静養するのをお嬢様は望まれたのだ。
 お嬢様、いまは第二妃と呼ばれるべき方は、朝になると少し熱を出し、夕方には黙って眠り、夜中に目を開けて天井を見つめる。医官は「安静に」とだけ言い置き、去っていった。
 廊下の片隅では、若い侍女たちが小声で祈りの言葉を繰り返し、私はシーツの皺を伸ばしながら、答えのない家事に没頭した。どれほど手を動かしても、部屋に漂う冷えは消えない。

 昼少し前、執事が早足で来て囁いた。
「聖女ユラリ様がお見舞いにいらっしゃる。茶の支度だ、最上のものを」

 最上とは、誰のための言葉か。姫様のためか、客のためか、それとも邸の体面のためか。私は頷いて、茶葉の箱を開けた。乾いた初夏の野草の香り、蜂蜜をひとかけら落とすと柔らぐ。傷ついた喉にも優しい「野薔薇」のブレンド。銀器はくすみ一つなく磨いてある。白磁のカップは縁の薄いものを。湯は一呼吸おいて、沸点より心持ち低く。蒸らしは一分半、香りを逃がさぬよう蓋をあてる。失ったものは戻らない。せめて今ここに残るものを、丁寧に。

 到着の知らせを受けて、わたしはお嬢様の枕元へ。
「ユラリ様が、お見えになります」
 お嬢様は、まつ毛をわずかに震わせた。答えの代わりに、指先が布団の端をつまむ。そこに白い跡が浮いた。言葉がどこにも置けないとき、人は小さな布の角を握りしめるのだと、私はこの十日で覚えた。

 やがて、足音。
 控えの間の扉が静かに開き、二人の侍女を従えた聖女様が入っていらした。白い衣。薄い青の刺繍。苦行の跡を思わせる細い手首。噂よりも華奢で、噂よりも静かで、噂と同じくらい美しかった。

「お見舞いに参りました、第二妃殿下」
 柔らかい声。優しい響き。私は一歩下がり、盆を膝の高さに保つ。

「ようこそ」姫様は上体を起こそうとして、すぐ諦めた。
「お構いなく」聖女様の言葉はつぶやきのようだ。

「どうか無理はなさらないで。少しだけ、お顔を見たくて」
 聖女様は椅子を寄せ、枕元に腰を下ろされた。私は人の気配が邪魔にならぬ位置に小机を置き、茶を注いだ。湯気が一度ふくらみ、花が開くように散って、部屋に野薔薇の香りが広がる。

 聖女様はカップを両手で包み、目を細めて香りを吸い込んだ。
「ありがとう。優しい匂い。聖樹の旅のとき、こういう香りを、どれだけ待ち焦がれたか」

 彼女は、語りはじめた。
 七本の聖樹。それぞれの根に絡みついた黒い瘴気。近づけば耳鳴りに倒れ、祈れば喉に血の味が上がり、夜明けと共にわずかな緑が戻る、その一方で指は裂け、掌は痺れ、熱と悪夢にうなされること。
 言葉は淡々と、しかし途切れなく流れた。語り慣れた口ぶりではない。忘れるには重すぎ、誰かに渡すには熱すぎる記憶を、少しずつ空気に放す。そんな話し方。

「でも、続けられたのです」カップの縁に微笑みを落とし、聖女様は言った。
「王子殿下が、励ましてくださったから」

 お嬢様の指が、布団の端を強くつまんだ。
 わたしは目を伏せた。盆の上でスプーンがかすかに鳴った。わざとではない。手が乾いていたのだ。乾いて、音が立った。

「殿下は、いつも側にいてくださいました。だけど、一度お城に戻られました。なにをなさったのでしょうか?」聖女様は首を傾げて困った顔をなさいました。

 「その後から本当に優しくなられて・・・わたし。信用できると思いました。そこから本気になりました。いろいろなことに」

 聖女様はそこで小さく笑った。軽い笑いではない。
「そのおかげで、祈れたのです。七本、全部」
「そう、でしたか」お嬢様の声は、枯れ枝に触れたように細い。
「殿下は、昔からお優しい方だから」と言ったお嬢様の声はため息に消えた。

 「昔から……ですか?」
 聖女様が冷たい目でそう言いました。

 「わたしの昔は全部なくなりました。わたし帰りたくてがんばったのですよ。殿下は関係ないのですよ。
 帰りたかったのです。この世界で一人です。親も兄弟も未来もこの国が取り上げました」

 

「バーバラ様」聖女はカップを受け皿に戻し、声を少しだけ明るくした。
「あなたの生む跡継ぎは、国民と、貴族の希望です。どうか、がんばってくださいね」

 がんばって。
 ひらひらと、窓の外から舞い込んだ薄紙のような言葉が、枕元で音もなく沈んだ。
 わたしは息を止めた。目の前で、お嬢様の喉が一度だけ、大きく動いた。

「はい」
 お嬢様は答えた。声は震えていたが、澄んでいた。
 

 聖女様は微笑んだ。薄く、やわらかく。
 茶の香りが、ふたたびふくらみ、ふっと消えた。
 わたしは、茶葉をかえてお茶を入れた。

「聖樹のひとつは、雪の峠にありました」
 聖女様はまた語った。膝まで埋まる雪。凍れる根。祈りの途中で指の感覚が消え、泣きたくても涙も凍る夜。
「そのときも殿下は、わたしの頬に触れて、『戻ったら温かいスープを作らせよう』って。ふふ、実際には、わたしは吐いてしまって何も喉を通らなかったのですが」

 お嬢様のまぶたが伏せられた。
 わたしは、そのまつ毛の影に、ほんの小さな棘を見た。妬みと呼ぶにはやわらかく、痛みと呼ぶには鋭い。お嬢様の知らない二人の思い出。名のない感情は、いつも一番奥に刺さる。

 わたしは盆を抱え、少し下がって控えの間の戸を半ばだけ閉めた。音は遮らない。風だけが違う部屋へ逃げる。使用人にできる残酷で優しい工夫だ。言葉は届く。けれど風は、姫様の頬を冷やしすぎない。

「ユラリ様」姫様が口を開いた。「わたくし、またがんばります。ですから、どうか、祈ってください。国のため、殿下のために」

 聖女は、静かに頷いた。
「もちろんです」

 その言い方は、ひどく優しかった。
 優しさは、ときに最上の毒になる。私はその夜、初めてそう思った。

 短い面会は、そこまでだった。
 聖女は立ちあがり、椅子をそっと戻し、姫様の枕元に一礼した。
「これで失礼します。元気になって戻ってらして」
「ありがとうございます」
 扉が閉まる。白い衣が遠ざかる。控えの間で聖女様の侍女が軽く会釈し、廊下の向こうに消えた。

 静けさが戻ると、部屋の温度が半分落ちたように思えた。わたしは戸を閉め、お嬢様の側に戻る。頬は一滴も濡れていない。けれど手が、小刻みに震えている。握った布の角はくしゃくしゃに潰れて、もはや布ではなく、ただの「つかまるもの」になっていた。

「お嬢様」と低く呼びかける。
「冷えます。肩掛けをもう一枚」
「ええ」
 返事は短いのに、息は長い。長い息は、胸の奥で泣き声の形に折れる。わたしは肩に柔らかな毛布をかけ、ゆっくり背を撫でた。痩せてしまった。

「『がんばって』ね」
 お嬢様は、自分に言い聞かせるように繰り返した。
 その言葉は、さっき部屋を満たした野薔薇の香りに似ていた。甘く、やさしく、そして、すぐに消える。

 わたしは頷いた。他に、何ができる?
 廊下の向こうでは、誰かがまた祈っている。祈りが山のように積もる。けれど、祈りは上から積むだけでは意味がない。祈りは、誰かの名を呼ぶところから始まる。
 わたしはお嬢様の名を、心の中で一度、はっきりと発した。この方がこの部屋にたしかにいることを、世界に示すように。

 その午後、わたしは使用人控えで、耳にした。
 古株が、声をひそめた。
「やっぱり聖女様が」
 誰かが咳払いして遮った。
「口を謹んで」
 ひそひそとした言葉は、居場所を探して屋敷うちを飛び交う。誰かの記憶にとどまるまでひらひらと。

 夜、お嬢様は少しだけ眠った。
 わたしは燭台の火を小さくし、椅子にもたれて、お嬢様の寝息を数えた。
 窓の外では、鐘が鳴る。遠く。何かを送る鐘ではない。何も送れない鐘。国中に同じ音が染みわたる。生まれるはずだった声の代わりに。

 あの笑みは、何だったのだろう。
 聖女が茶を飲みながら語った苦しみは、嘘ではない。あの人は、ほんとうに命を削って祈った。語りの折々に落ちる沈黙は、飾りではなかった。
 けれど、最後のひとこと。
「あなたの生む跡継ぎは希望だから、がんばって」
 あれは、祈りの言葉か。それとも、刃の鞘か。やわらかな鞘に入った刃は、触れる者を疑いのない仕草で切る。切られた側は、切られたことに気づかないまま、深く息を吸ってしまう。

 翌朝、わたしは聖具の点検をした。公爵家に古くから伝わる祝いの宝具、使われないままの香炉、埃はどこにでも降りる。
 信仰の上にも、企みの上にも。金具を磨きながら、昨夜の茶席を思い返した。
 語られた七本の木の名、雪の夜の冷え、殿下の手の温かさ。
 そして、がんばって。

 この家が望んだものは何だったか。
 王家の血に自分たちの枝を接ぎ木し、未来を手の内に戻すこと。秤に乗せたのは「伝統」と「正統」、それから「民意」という響きのよい名札。
 お嬢様はその秤の上で、笑うことと泣くことに憧れた。そしてひたすら「努め」を求められた。努め。努め。努め。
 けれど、努めは扉を開けない。取っ手のない扉にいくら力を込めても、蝶番が軋むだけだ。

 夕刻、お嬢様は少しだけ起き上がった。
 わたしは枕元に座り、髪を梳いた。髪はまだ若く、光を掬って返す。指の先で感じるのは、命の名残だ。
 なくしたもののあとにも、確かに何かが残る。私はそれを撫で、絡まりをほどきながら、呟いた。
「お嬢様は、十分にがんばっておいでです」
 お嬢様は目を閉じ、ほとんど笑いにもならない笑みを口の端に浮かべた。
「ありがとう、ガーベラ」
 名前を呼ばれると、人は少し生き返る。私は自分の名を、胸の内で折りたたんで仕舞った。小さな御守りのように。

 あの晩、わたしは日記に記した。
 聖女ユラリ様、来訪。野薔薇の茶。七本の木の話。殿下の手。最後に「がんばって」。
 文字にすれば、どれも正しい出来事だ。礼儀も敬語も、配慮も。
 けれど、あの出来事の重さは、記憶にしか残らない。湯気の立ち上がり方、カップの縁の微かな濡れ、布団の角に残った小さなしわ、姫様の喉の上下、聖女の笑みの角度。わたしはそれらすべてを、行間に挟んで綴じた。
 いつか誰かがこの家の棚から取り出し、ページを開いたとき、紙の匂いに混じって野薔薇がふっと立ちのぼるように。

 祈りは刃になる。
 笑みもまた、刃になる。

 わたしは侍女だ。世界を動かす言葉は持たない。
 けれど、見たものを確かに見たと言える目と、聞いた言葉をその通りに記す手なら、持っている。
 それで十分だ。
 茶の匂いと、聖女の「がんばって」と、姫様の「はい」を、ここに留める。
 誰かが希望と呼ぶものの重さが、どれほどのものか。わたしたちの小さな部屋にどんな風に置かれ、どんな沈黙を生むのか。それを、忘れないために。
しおりを挟む
感想 15

あなたにおすすめの小説

召喚失敗!?いや、私聖女みたいなんですけど・・・まぁいっか。

SaToo
ファンタジー
聖女を召喚しておいてお前は聖女じゃないって、それはなくない? その魔道具、私の力量りきれてないよ?まぁ聖女じゃないっていうならそれでもいいけど。 ってなんで地下牢に閉じ込められてるんだろ…。 せっかく異世界に来たんだから、世界中を旅したいよ。 こんなところさっさと抜け出して、旅に出ますか。

【完結】遺棄令嬢いけしゃあしゃあと幸せになる☆婚約破棄されたけど私は悪くないので侯爵さまに嫁ぎます!

天田れおぽん
ファンタジー
婚約破棄されましたが私は悪くないので反省しません。いけしゃあしゃあと侯爵家に嫁いで幸せになっちゃいます。  魔法省に勤めるトレーシー・ダウジャン伯爵令嬢は、婿養子の父と義母、義妹と暮らしていたが婚約者を義妹に取られた上に家から追い出されてしまう。  でも優秀な彼女は王城に住み、個性的な人たちに囲まれて楽しく仕事に取り組む。  一方、ダウジャン伯爵家にはトレーシーの親戚が乗り込み、父たち家族は追い出されてしまう。  トレーシーは先輩であるアルバス・メイデン侯爵令息と王族から依頼された仕事をしながら仲を深める。  互いの気持ちに気付いた二人は、幸せを手に入れていく。 。oOo。.:♥:.。oOo。.:♥:.。oOo。.:♥:.。oOo。.:♥:.  他サイトにも連載中 2023/09/06 少し修正したバージョンと入れ替えながら更新を再開します。  よろしくお願いいたします。m(_ _)m

【完結】婚約者と仕事を失いましたが、すべて隣国でバージョンアップするようです。

鋼雅 暁
ファンタジー
聖女として働いていたアリサ。ある日突然、王子から婚約破棄を告げられる。 さらに、偽聖女と決めつけられる始末。 しかし、これ幸いと王都を出たアリサは辺境の地でのんびり暮らすことに。しかしアリサは自覚のない「魔力の塊」であったらしく、それに気付かずアリサを放り出した王国は傾き、アリサの魔力に気付いた隣国は皇太子を派遣し……捨てる国あれば拾う国あり!? 他サイトにも重複掲載中です。

お言葉ですが今さらです

MIRICO
ファンタジー
アンリエットは祖父であるスファルツ国王に呼び出されると、いきなり用無しになったから出て行けと言われた。 次の王となるはずだった伯父が行方不明となり後継者がいなくなってしまったため、隣国に嫁いだ母親の反対を押し切りアンリエットに後継者となるべく多くを押し付けてきたのに、今更用無しだとは。 しかも、幼い頃に婚約者となったエダンとの婚約破棄も決まっていた。呆然としたアンリエットの後ろで、エダンが女性をエスコートしてやってきた。 アンリエットに継承権がなくなり用無しになれば、エダンに利などない。あれだけ早く結婚したいと言っていたのに、本物の王女が見つかれば、アンリエットとの婚約など簡単に解消してしまうのだ。 失意の中、アンリエットは一人両親のいる国に戻り、アンリエットは新しい生活を過ごすことになる。 そんな中、悪漢に襲われそうになったアンリエットを助ける男がいた。その男がこの国の王子だとは。その上、王子のもとで働くことになり。 お気に入り、ご感想等ありがとうございます。ネタバレ等ありますので、返信控えさせていただく場合があります。 内容が恋愛よりファンタジー多めになったので、ファンタジーに変更しました。 他社サイト様投稿済み。

透明な貴方

ねこまんまときみどりのことり
ファンタジー
 政略結婚の両親は、私が生まれてから離縁した。  私の名は、マーシャ・フャルム・ククルス。  ククルス公爵家の一人娘。  父ククルス公爵は仕事人間で、殆ど家には帰って来ない。母は既に年下の伯爵と再婚し、伯爵夫人として暮らしているらしい。  複雑な環境で育つマーシャの家庭には、秘密があった。 (カクヨムさん、小説家になろうさんにも載せています)

姑に嫁いびりされている姿を見た夫に、離縁を突きつけられました

碧井 汐桜香
ファンタジー
姑に嫁いびりされている姿を見た夫が、嬉しそうに便乗してきます。 学園進学と同時に婚約を公表し、卒業と同時に結婚したわたくしたち。 昔から憧れていた姑を「お義母様」と呼べる新生活に胸躍らせていると、いろいろと想定外ですわ。

神は激怒した

まる
ファンタジー
おのれえええぇえぇぇぇ……人間どもめぇ。 めっちゃ面倒な事ばっかりして余計な仕事を増やしてくる人間に神様がキレました。 ふわっとした設定ですのでご了承下さいm(_ _)m 世界の設定やら背景はふわふわですので、ん?と思う部分が出てくるかもしれませんがいい感じに個人で補完していただけると幸いです。

虐げられた令嬢、ペネロペの場合

キムラましゅろう
ファンタジー
ペネロペは世に言う虐げられた令嬢だ。 幼い頃に母を亡くし、突然やってきた継母とその後生まれた異母妹にこき使われる毎日。 父は無関心。洋服は使用人と同じくお仕着せしか持っていない。 まぁ元々婚約者はいないから異母妹に横取りされる事はないけれど。 可哀想なペネロペ。でもきっといつか、彼女にもここから救い出してくれる運命の王子様が……なんて現れるわけないし、現れなくてもいいとペネロペは思っていた。何故なら彼女はちっとも困っていなかったから。 1話完結のショートショートです。 虐げられた令嬢達も裏でちゃっかり仕返しをしていて欲しい…… という願望から生まれたお話です。 ゆるゆる設定なのでゆるゆるとお読みいただければ幸いです。 R15は念のため。

処理中です...