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05 エミリーのいない屋敷
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わたしが侯爵家に仕えるようになったのは、つい最近のことだ。父が下働きをしていた縁で、若い手が必要だと呼ばれた。
わたしにとって、大きな屋敷はまるで迷宮で、広間の天井を仰ぐたびに足がすくむ。
わたしの精霊は水色の猫だ。毛並みは透きとおるようで、月明かりに浮かび上がると水面に映った幻のようだ。
臆病だが嗅覚が鋭く、失せ物を見つけるのが得意で、わたしの心を支えてくれている。
屋敷の先輩の下女たちは、わたしにまず廊下の拭き掃除を教えた。磨き残しがあると、扇を持った女主人に叱られるという。わたしは膝を擦りむきながらも必死に磨いた。
そのうち気づいた。彼女たちは口々に「あれがいなくなって困った」と囁き合っているのだ。
あれ、とはエミリー様のことだった。
侯爵家の次女。けれど屋敷の人々は、あの方を名で呼ばず、ただ「あれ」「トカゲのお嬢様」と陰で言う。
わたしが来たとき、もう彼女は学園の寮に移ってしまっていて姿を見たことはない。けれど、あの方がいなくなった後の混乱は、いやというほど見せつけられた。
最初に問題になったのは、大広間のシャンデリアの掃除だった。
天井近くに吊られたガラス細工は、何十もの燭台を支えている。高い脚立に上って磨こうとした古株の下女は、足がすくんで途中で降りてしまった。若い者が試しても、ほこりを払うだけで精いっぱい。ガラスを割ってしまう危険が大きい。
そこで皆が口を揃えて言ったのだ。
「前はエミリー様がやっていた」
「簡単だと思ったのに」
わたしは耳を疑った。あの方は笑いものにされていたと聞いたのに、実際はこんな繊細な仕事をこなしていたの?しかも、ご主人なのに。
ある日、侯爵夫人が広間を通りかかり、煤けたシャンデリアを見て眉をひそめた。わたしたちは震えあがり、必死で脚立を持ち出したが、結局たいした成果も出せなかった。
エミリー様にお願いする前はどうしていたのだろう?
夜になって使用人部屋で溜息をついていると、先輩の下女が毒づいた。
「トカゲのくせに魔法と魔力だけは無駄にあったのさ。だから便利に使えたのよ」
別の者も続ける。
「そうそう。上から笑われ、下からも使い潰されて。おかげで楽だったのに、今じゃ苦労するばかりだわ」
わたしは言葉を失った。
それは、感謝ではないのか?
彼女がいなくなった今、残されたのは困惑と不満ばかり。だが少なくとも、その力を借りていたのは確かだろうに。
そして前はどうしていたか、教えて貰った。
シャンデリアの係りは、それだけをやっていたそうだ。毎日、脚立に上って緑風のハトの精霊が誇りを吹き飛ばし、蒼谷のキツネの精霊が磨きあげるのを手伝っていたそうだ。
「毎日脚立に上がって、上向いてさぁ。たまんなかった」だそうだ。
問題はシャンデリアだけでない。高窓の蜘蛛の巣払い、屋根裏の換気口の修繕、どれもエミリー様が魔法で片付けていたという。
わたしが脚立に上ってほうきで払うが、上を向いてほうきを振り回すのは大変だ。
猫の精霊が心配しているのがわかる。
「やっぱりあの娘がいれば・・・」
誰かがぼそりと呟く。けれど、その口調は惜しむよりも恨めしそうだった。
夜、わたしは自分の寝台で考え込んだ。
どうして彼女は、あれほど魔法も魔力も技術もあるのに、馬鹿にされ続けたのだろう。精霊が小さなトカゲだから?
精霊は力を貸してくれると言うけれど、エミリー様がそんなに凄いなら精霊が凄いのでは?
精霊がへんなトカゲなら、その力はエミリー様のもの? それって物凄く、凄いのでは?
わたしの水色の猫は弱っちい。わたしも弱い。たいしたことが出来ない。
次第に、屋敷の空気がギスギスしていった。
姉君や妹君の精霊は立派で、客人の前で誇らしげに羽ばたく。
でもそれってなにかの役に立ってるの?魔法でなにかをやっているってこともないみたい。
ただ、火の粉をまき散らすだけ‥‥‥
ある晩、宴の準備で大広間を飾り立てたが、 シャンデリアの光が曇っていた。
埃を払えず残った筋が、炎を歪ませていたのだ。
すると侍女長が手配したのか、専門家がやってきた。
その人の精霊は黒壁のゴーレムの精霊だった。そんな精霊もあるんだ。ならおもちゃのトカゲの精霊がいたってねとちらっと思った。
その人は精霊に手伝って貰ってシャンデリアを下におろした。
わたしたちは総出でシャンデリアを磨いた。
専門家の手を借りた上、使用人総出で、ようやくシャンデリアは磨かれ、広間に澄んだ光が戻った。
だが、誰も「よかった」とは言わなかった。
「もっと早く呼べばよかった」
「余計な手間ばかりかかった」
使用人たちの口から洩れるのは愚痴と恨み言ばかり。
わたしは布巾を絞りながら、胸の奥がひやりとした。
困っている理由は、ただひとつ。
エミリー様が、ここにいないからだ。
笑われ、蔑まれ、それでも黙って手を貸していた人。
その人の不在が、屋敷をこんなにも重くしている。
煌びやかなシャンデリアの光は、かえってその空虚さを映しているように見えた。
わたしにとって、大きな屋敷はまるで迷宮で、広間の天井を仰ぐたびに足がすくむ。
わたしの精霊は水色の猫だ。毛並みは透きとおるようで、月明かりに浮かび上がると水面に映った幻のようだ。
臆病だが嗅覚が鋭く、失せ物を見つけるのが得意で、わたしの心を支えてくれている。
屋敷の先輩の下女たちは、わたしにまず廊下の拭き掃除を教えた。磨き残しがあると、扇を持った女主人に叱られるという。わたしは膝を擦りむきながらも必死に磨いた。
そのうち気づいた。彼女たちは口々に「あれがいなくなって困った」と囁き合っているのだ。
あれ、とはエミリー様のことだった。
侯爵家の次女。けれど屋敷の人々は、あの方を名で呼ばず、ただ「あれ」「トカゲのお嬢様」と陰で言う。
わたしが来たとき、もう彼女は学園の寮に移ってしまっていて姿を見たことはない。けれど、あの方がいなくなった後の混乱は、いやというほど見せつけられた。
最初に問題になったのは、大広間のシャンデリアの掃除だった。
天井近くに吊られたガラス細工は、何十もの燭台を支えている。高い脚立に上って磨こうとした古株の下女は、足がすくんで途中で降りてしまった。若い者が試しても、ほこりを払うだけで精いっぱい。ガラスを割ってしまう危険が大きい。
そこで皆が口を揃えて言ったのだ。
「前はエミリー様がやっていた」
「簡単だと思ったのに」
わたしは耳を疑った。あの方は笑いものにされていたと聞いたのに、実際はこんな繊細な仕事をこなしていたの?しかも、ご主人なのに。
ある日、侯爵夫人が広間を通りかかり、煤けたシャンデリアを見て眉をひそめた。わたしたちは震えあがり、必死で脚立を持ち出したが、結局たいした成果も出せなかった。
エミリー様にお願いする前はどうしていたのだろう?
夜になって使用人部屋で溜息をついていると、先輩の下女が毒づいた。
「トカゲのくせに魔法と魔力だけは無駄にあったのさ。だから便利に使えたのよ」
別の者も続ける。
「そうそう。上から笑われ、下からも使い潰されて。おかげで楽だったのに、今じゃ苦労するばかりだわ」
わたしは言葉を失った。
それは、感謝ではないのか?
彼女がいなくなった今、残されたのは困惑と不満ばかり。だが少なくとも、その力を借りていたのは確かだろうに。
そして前はどうしていたか、教えて貰った。
シャンデリアの係りは、それだけをやっていたそうだ。毎日、脚立に上って緑風のハトの精霊が誇りを吹き飛ばし、蒼谷のキツネの精霊が磨きあげるのを手伝っていたそうだ。
「毎日脚立に上がって、上向いてさぁ。たまんなかった」だそうだ。
問題はシャンデリアだけでない。高窓の蜘蛛の巣払い、屋根裏の換気口の修繕、どれもエミリー様が魔法で片付けていたという。
わたしが脚立に上ってほうきで払うが、上を向いてほうきを振り回すのは大変だ。
猫の精霊が心配しているのがわかる。
「やっぱりあの娘がいれば・・・」
誰かがぼそりと呟く。けれど、その口調は惜しむよりも恨めしそうだった。
夜、わたしは自分の寝台で考え込んだ。
どうして彼女は、あれほど魔法も魔力も技術もあるのに、馬鹿にされ続けたのだろう。精霊が小さなトカゲだから?
精霊は力を貸してくれると言うけれど、エミリー様がそんなに凄いなら精霊が凄いのでは?
精霊がへんなトカゲなら、その力はエミリー様のもの? それって物凄く、凄いのでは?
わたしの水色の猫は弱っちい。わたしも弱い。たいしたことが出来ない。
次第に、屋敷の空気がギスギスしていった。
姉君や妹君の精霊は立派で、客人の前で誇らしげに羽ばたく。
でもそれってなにかの役に立ってるの?魔法でなにかをやっているってこともないみたい。
ただ、火の粉をまき散らすだけ‥‥‥
ある晩、宴の準備で大広間を飾り立てたが、 シャンデリアの光が曇っていた。
埃を払えず残った筋が、炎を歪ませていたのだ。
すると侍女長が手配したのか、専門家がやってきた。
その人の精霊は黒壁のゴーレムの精霊だった。そんな精霊もあるんだ。ならおもちゃのトカゲの精霊がいたってねとちらっと思った。
その人は精霊に手伝って貰ってシャンデリアを下におろした。
わたしたちは総出でシャンデリアを磨いた。
専門家の手を借りた上、使用人総出で、ようやくシャンデリアは磨かれ、広間に澄んだ光が戻った。
だが、誰も「よかった」とは言わなかった。
「もっと早く呼べばよかった」
「余計な手間ばかりかかった」
使用人たちの口から洩れるのは愚痴と恨み言ばかり。
わたしは布巾を絞りながら、胸の奥がひやりとした。
困っている理由は、ただひとつ。
エミリー様が、ここにいないからだ。
笑われ、蔑まれ、それでも黙って手を貸していた人。
その人の不在が、屋敷をこんなにも重くしている。
煌びやかなシャンデリアの光は、かえってその空虚さを映しているように見えた。
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