急いで戻って来た猫

朝山みどり

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12  タマの葛藤

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あの匂いが、どうしても鼻について離れない。
リリ子さんが帰ってきたとき、玄関の扉が開いた瞬間に、わたしの耳はぴくりと立ち、尻尾の先はいつもよりも鋭く動いた。
知らない猫の匂い。しかも一匹や二匹ではない。
壁に残る柔らかい風の流れからも、複数の鳴き声と人の笑い声が混じっていたのがわかった。

リリ子さん一人で行ったのではないのがせめてもの慰めだ。

「ただいま、タマちゃん」

そんな甘い声で言われたって、わたしはすぐには飛びついていかない。
わたしは玉座。いや、寝椅子の上で貴族のように背筋を伸ばして彼女を見上げた。
膝に乗れと言われれば乗ってやるつもりだったが、その匂いだけはどうしても気に食わない。

どうして他の猫の匂いをつけて帰ってくるんだ、リリ子さん。
わたしはこの家で唯一の王だ。
なのに猫カフェ?
犬ならまだ許す。マロンだったら。あのイッヌの背中を借りて寝てやったこともある。
でも、知らない猫が何匹も彼女に纏わりついていたと思うと、どうにも胸の奥がもやもやして仕方がない。

優しく、撫でてやったに違いない・・・あいつら、喉を鳴らしただろう・・・くそ!

リリ子さんは小さな箱を開いて、わたしの好きなレモンパイを取り出した。
それで機嫌を取れると思っているのだろう。

甘い匂いが鼻先をくすぐる。だが、わたしは首をそむけた。
ふふん、わたしを誰だと思っている。
こんな安っぽい菓子一つで、わたしの機嫌が直るものか。

「ふふ、タマちゃん怒ってるの?」

リリ子さんは困ったように笑って、わたしの頭を撫でた。
その手の温かさに一瞬、喉がゴロゴロ鳴りそうになる。
だが必死に堪えた。

他の猫の匂いをつけておいて、それはないだろう。
そう言いたくて、わたしはそっと前足で彼女の膝を叩いた。

そうして寝椅子に戻りながら、わたしは自分の気持ちに気づいてしまった。
なぜこんなに苛立つのか。
なぜ、こんなに胸がざわつくのか。
猫カフェの猫たちは、わたしからすれば取るに足らぬ連中だ。
でも、リリ子さんが楽しそうに猫たちを撫でて、笑って、多分写真をたくさん撮っただろう。

そうだ。わたしは、嫉妬している。

まさか、わたしが嫉妬!
このわたしが、リリ子さんに惹かれている?

はからずも、この姿だが、わたしは猫ではない。
南銀河帝国の皇弟の息子、ニャンダート・ターマ・シャグラン。

皇帝の息子より、期待されている存在だ。

銀河会議では百戦錬磨の外交官だ。
そんなわたしが、こんなチャチな地球の一軒家で、たった一人の人間に撫でられて、優しい声をかけられて、心を縛られている?

寝椅子で丸くなりながら、わたしはじわじわと認めざるを得なかった。
わたしはリリ子さんに惹かれている。
彼女の膝の温もりに、あの柔らかい声に、撫でる手・・・
地球の春風と同じくらい、彼女がわたしにとって心地いい存在になってしまっていた。

そして、思い出してしまう。迎えのことを。

いつか、必ず帝国から探索艇が来る。
あの最新型宇宙船に乗っていたわたしを探しに、優秀な探索班がこの星を嗅ぎまわるだろう。
「ターマ様、ようやくお探ししました!」と敬礼して、
「さあ、元の姿にお戻りください」と言われるのだ。

戻ったら、わたしは帝国に帰らなければならない。
最大の権力と最大に不自由。
あの輝く玉座に、うやうやしく跪く臣下たちに、つまらない報告書の山に。

寝椅子の上で、わたしは小さく尻尾を振った。
帰りたくない。そう思ってしまう自分が、怖い。
リリ子さんが「さようなら」と言うだろうか。
わたしが去った後、また一人になるのだろうか。

わたしがいなくなったら、彼女は、一人寂しく泣くのだろうか。
ヨシオがやって来て、ここだとばかりに彼女を慰めるだろう・・・

嫌だ。叫びたくなる。


その夜、リリ子さんはわたしを膝に乗せて、「タマちゃん、今日は機嫌直った?」と笑った。
もうあの猫カフェの匂いは薄れていた。
わたしは膝の上で小さく鳴いて、そっと頭を擦りつけた。
そのとき、彼女が囁いた。

「タマちゃん、どこにも行かないでね」

わたしはゴロゴロと喉を鳴らした。
言葉にできないけれど、返事をしたつもりだった。
どこにも行かない。そう言いたかった。

でも、遠くで誰かの声がする。わたしを呼ぶ声だ。
銀河の向こうから、冷たい金属の声が聞こえる。

迎えが、来る。

わたしは膝の上で目を閉じて、そっとリリ子さんの手の上に前足を置いた。
せめてその日が来るまで、あと少しだけ。

この優しい手の中で、王ではなく、ただのタマでいさせてほしい。


「にゃー」

彼女が撫でてくれるたびに、わたしの鼓動はまだここにいたいと叫んでいる。
けれど遠くで響く母星からの声は、容赦なくわたしを迎えに来るのだ。

それでも、わたしはまだ、この膝の上で夢を見る。

わたしがリリ子さんの隣にいる未来を。
わたしがタマでいられる、儚くも暖かい日々を。

にゃー。にゃー。
どうか、あと少しだけ。


春の夜風が、ほんの少し冷たい。
リリ子さんは小さな電気ストーブをつけて、わたしを膝に乗せたまま、足に毛布をかけた。
外の庭には月の光が落ちている。
白く光る木の枝を、網戸越しに眺めながら、わたしは時折、耳を動かした。

近づいて来ている。

銀河の向こう、帝国の探索艇が、わたしのこの小さな王国を壊しに来る。
この家の静かな時間を、切り裂く。そんなことはあってはならない。
だがわたしには・・・わたしには大きな義務がある。逆らえない。


リリ子さんの指が、ゆっくりとわたしの耳を撫でた。
喉が、また勝手にゴロゴロと鳴る。
鳴き声一つで伝わる想いなんて、本当はどこにもないのに。

この世界で、ただの黒猫でいられるなら、何もいらない。

「タマちゃん、今日はいい夢見てね」

そっと額に唇が触れる。
胸の奥のどこかが小さく震えた。
帝国でも、こんな優しさをもらったことはなかった。


目を閉じて、想像する。
銀色の床、きらびやかなホール、敬礼する衛兵たち。
整然とした船の中では、柔らかな手も、ぬるいお茶の香りもない。


だから、決めた。

もし迎えが来たら、わたしはこの家を離れない。
銀河に背を向ける。
わたしが帝国を裏切ることになっても構わない。
この爪と牙が、もう一度何かのために役に立つのなら。
リリ子さんを守るために使おう。

「にゃ」

寝息を立てかけたリリ子さんが、小さく笑った。
目尻に少し皺が寄る。
その皺を、わたしは誰にも泣かせたくない。

月の光が部屋に落ちる。庭のスミレが風に揺れた。
雨戸の隙間から吹き込む風に、どこか遠くで誰かの声が混じる。
冷たい金属の声だ。

ターマ様。

わたしは耳だけぴくりと動かし、聞こえないふりをする。
喉を鳴らす音で、遠くの声を掻き消す。

「にゃー」

リリ子さんの手が、もう一度わたしを撫でる。

どこにも行かない。そう誓いながら、
わたしはそっと、前足を彼女の胸元に置いた。

ここがわたしの城だ。わたしの王国。膝の上の王国。

そしていつか銀河が呼び戻しに来た時、
きっとこの人は泣くだろう。
それでも、泣かせたくない。

銀河の声よ、もう少しだけ、わたしに時間をくれ。
この小さな王国を、永遠にしたい。

「むにゃー」

夢と覚醒の狭間で、
わたしはリリ子さんの手の温かさに身を預けた。

わたしはリリ子さんの猫だ。
帝国の王子ではなく、
たった一匹の、帰ってきた猫、タマだ。

そして月が雲に隠れる頃、銀河の声も遠ざかっていった。

喉がゴロゴロと鳴り続ける。
春の夜の静かな音だ。


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