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化け物の棺
過去の疼き
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遥か昔、大地が氷に閉ざされていた頃バロイは天からわずかニ十人の天人《あまびと》を伴い眩い雲の皿に乗ってやって来た。
そうしてバロイとニ十人の天人達はまだ他の動物となんら変わらなかった地上の人々に知恵の息吹を吹き込んだ。
バロイは人間に火を与え、黒曜石で作った刃物で魚や獣を穫る術を教えた。
草や木が布になると教えると、それで人々は衣を作りあらゆるものを生み出した。
数字の概念を教えると人々は家だけではなく空に聳える神殿や墓を作るようになった。
全ての知恵の源はバロイと二十人の天人がもたらした。
そしていつしか人々は、バロイと二十人の天人を神と崇めるようになったのだ。
これはヤールカナンの子供たちが最初に教わるバロイ神の物語だ。
メイルールも幼い頃親しんだ物語だが、まさか自分がその物語の神の社の住人になるとは思っても見なかった。
失意のうちに僧侶となったメイルールの一日は朝日が昇る時刻から始まる。
祈りから始まりバロイ神が祀られている神殿や、僧侶達が寝食を共にする寺院の掃除、田畑の世話や洗濯などをして過ごし、毎日バロイ神への供物を手づから作り花を飾った。
自らの心の安寧を願って祈る毎日の中で、少しづつ荒んだ気持ちも律する事が出来るようになったある日、神殿で王家の祝い事が執り行われることになった。
バロイ神を祀る神殿はメイルール達僧侶が暮らす目と鼻の先にあり、その日は朝から沢山の花を摘めとメイルール達僧侶も花摘みに駆り出されていたのだ。
いったい何の祝いだろうか。
俗世を離れた身となってもメイルールはそれがとても気になった。
メイルールは楽しそうに花を摘みながら話に興じている二人の女性へと恐る恐る声を掛けてみた。
「あ、あの。今日はどんなお祝い事があるのですか?」
太った方の女がキョトンとした顔で答えた。
「あら、あんた知らなくて花を摘んでいたのかい?」
もう一人の痩せた女が顔を輝かせた。
「王子様に初めてのお子様が生まれるんだよ!その安産祈願にやって来るのさ!」
「安産…祈願…」
「そうさ!めでたいねえ!コレで男の子を授かれば王様や女王様も安心なさるだろうねえ!王家は安泰!」
そう笑って話す女達の声がメイルールには何処か遠くに聞こえるようだった。
その時、咄嗟に自分はどんな顔をしていたのだろう。
もう大丈夫だと思っていた。何を聞かされても動じたりしないと思っていたのに、懐かしい痛みがメイルールの胸を疼かせた。
おめでたい事。
そう。これはおめでたいことではないの?メイルール。
アトモルに子供ができた。
あの人が父親になる。
なのになぜこんなに悲しい気持ちになるの?
蓋をしたはずの心から湧いて来た自分の気持ちにメイルールは戸惑った。
何かのタガが外れたのだろうか。それとも魔がさしたのか。
ここまでアトモルを忘れようと努めて来たのに、この日メイルールはこっそりと寺院を抜け出していた。
神殿はこの日メイルール達が摘んだ花々で美しく華やかに飾られていた。
メイルールはこっそりと神殿へと向かう参道の木立の影へと身を隠した。
楽器が打ち鳴らされて参道を王家の人々がやって来る。
王様や女王様。そこに使えていた下僕達や侍女達。
メイルールを可愛がってくれた懐かしい人達の姿にあっという間にメイルールはあの日の自分へと引き戻された。
今すぐに飛び出して行って懐かしい人達を抱きしめたい。
だが、今更そんなことをしても誰も喜んではくれない。メイルールの存在は彼らの迷惑にしかならないのだ。
気持ちが沈みかけた時、音楽が益々賑々しく鳴り響いた。
王族の人々の輪から二人の若者が参道の先頭へと押し出された。
アトモルと初めて見る彼の妻だった。
アトモルはこの二年の間にすっかり逞しい青年になっていた。
懐かしい顔。
初めて深く愛した人。
だがその隣に幸せそうな顔をした美しい女性がアトモルのエスコートを受けている。
薔薇色の頬は確かに彼女のお腹には子供がいると告げていた。
アトモルも嬉しそうに彼女のお腹を撫でている。
王蟲でなければ、腹を撫でられているのは自分だったはず。
幸せな王家の人々。
幸せな二人。
そこにはもう自分の入る余地など微塵もありはしない。
分かっている。当たり前だ。
もう自分達は天と地ほど遠い存在になったのだ。
この日メイルールは初めて現実を突きつけられた気持ちだった。
忘れたはずの過去が自分を追いかけて来て自分を殴る。
それでもメイルールは忘れようと努力した。
そして数年が経ちアトモルは二人目の子供の父となっていた。
別にもうなんとも思わない。これで良かったのだと今は思う。
だけどほんの少しでもいい。自分を忘れないでいて欲しと言う気持ちはメイルールのどこかに燻り続けた。
そんな時、メイルールはギトキトにこっそりと耳打ちされたのだ。
「アトモルの心にほんの少しでも爪痕を残す方法はあるぞ。そしてアトモルが傷ついた時、病を得た時、お前が役に立つかもしれない。アトモルの血となり肉となって永遠にアトモルの中で生きる事が出来るかもしれない。それだけでは無いぞ。お前はヤールカナンの人々を永遠に救える唯一無二の存在になるのだ。その方法を私は知っているぞ」と。
そうしてバロイとニ十人の天人達はまだ他の動物となんら変わらなかった地上の人々に知恵の息吹を吹き込んだ。
バロイは人間に火を与え、黒曜石で作った刃物で魚や獣を穫る術を教えた。
草や木が布になると教えると、それで人々は衣を作りあらゆるものを生み出した。
数字の概念を教えると人々は家だけではなく空に聳える神殿や墓を作るようになった。
全ての知恵の源はバロイと二十人の天人がもたらした。
そしていつしか人々は、バロイと二十人の天人を神と崇めるようになったのだ。
これはヤールカナンの子供たちが最初に教わるバロイ神の物語だ。
メイルールも幼い頃親しんだ物語だが、まさか自分がその物語の神の社の住人になるとは思っても見なかった。
失意のうちに僧侶となったメイルールの一日は朝日が昇る時刻から始まる。
祈りから始まりバロイ神が祀られている神殿や、僧侶達が寝食を共にする寺院の掃除、田畑の世話や洗濯などをして過ごし、毎日バロイ神への供物を手づから作り花を飾った。
自らの心の安寧を願って祈る毎日の中で、少しづつ荒んだ気持ちも律する事が出来るようになったある日、神殿で王家の祝い事が執り行われることになった。
バロイ神を祀る神殿はメイルール達僧侶が暮らす目と鼻の先にあり、その日は朝から沢山の花を摘めとメイルール達僧侶も花摘みに駆り出されていたのだ。
いったい何の祝いだろうか。
俗世を離れた身となってもメイルールはそれがとても気になった。
メイルールは楽しそうに花を摘みながら話に興じている二人の女性へと恐る恐る声を掛けてみた。
「あ、あの。今日はどんなお祝い事があるのですか?」
太った方の女がキョトンとした顔で答えた。
「あら、あんた知らなくて花を摘んでいたのかい?」
もう一人の痩せた女が顔を輝かせた。
「王子様に初めてのお子様が生まれるんだよ!その安産祈願にやって来るのさ!」
「安産…祈願…」
「そうさ!めでたいねえ!コレで男の子を授かれば王様や女王様も安心なさるだろうねえ!王家は安泰!」
そう笑って話す女達の声がメイルールには何処か遠くに聞こえるようだった。
その時、咄嗟に自分はどんな顔をしていたのだろう。
もう大丈夫だと思っていた。何を聞かされても動じたりしないと思っていたのに、懐かしい痛みがメイルールの胸を疼かせた。
おめでたい事。
そう。これはおめでたいことではないの?メイルール。
アトモルに子供ができた。
あの人が父親になる。
なのになぜこんなに悲しい気持ちになるの?
蓋をしたはずの心から湧いて来た自分の気持ちにメイルールは戸惑った。
何かのタガが外れたのだろうか。それとも魔がさしたのか。
ここまでアトモルを忘れようと努めて来たのに、この日メイルールはこっそりと寺院を抜け出していた。
神殿はこの日メイルール達が摘んだ花々で美しく華やかに飾られていた。
メイルールはこっそりと神殿へと向かう参道の木立の影へと身を隠した。
楽器が打ち鳴らされて参道を王家の人々がやって来る。
王様や女王様。そこに使えていた下僕達や侍女達。
メイルールを可愛がってくれた懐かしい人達の姿にあっという間にメイルールはあの日の自分へと引き戻された。
今すぐに飛び出して行って懐かしい人達を抱きしめたい。
だが、今更そんなことをしても誰も喜んではくれない。メイルールの存在は彼らの迷惑にしかならないのだ。
気持ちが沈みかけた時、音楽が益々賑々しく鳴り響いた。
王族の人々の輪から二人の若者が参道の先頭へと押し出された。
アトモルと初めて見る彼の妻だった。
アトモルはこの二年の間にすっかり逞しい青年になっていた。
懐かしい顔。
初めて深く愛した人。
だがその隣に幸せそうな顔をした美しい女性がアトモルのエスコートを受けている。
薔薇色の頬は確かに彼女のお腹には子供がいると告げていた。
アトモルも嬉しそうに彼女のお腹を撫でている。
王蟲でなければ、腹を撫でられているのは自分だったはず。
幸せな王家の人々。
幸せな二人。
そこにはもう自分の入る余地など微塵もありはしない。
分かっている。当たり前だ。
もう自分達は天と地ほど遠い存在になったのだ。
この日メイルールは初めて現実を突きつけられた気持ちだった。
忘れたはずの過去が自分を追いかけて来て自分を殴る。
それでもメイルールは忘れようと努力した。
そして数年が経ちアトモルは二人目の子供の父となっていた。
別にもうなんとも思わない。これで良かったのだと今は思う。
だけどほんの少しでもいい。自分を忘れないでいて欲しと言う気持ちはメイルールのどこかに燻り続けた。
そんな時、メイルールはギトキトにこっそりと耳打ちされたのだ。
「アトモルの心にほんの少しでも爪痕を残す方法はあるぞ。そしてアトモルが傷ついた時、病を得た時、お前が役に立つかもしれない。アトモルの血となり肉となって永遠にアトモルの中で生きる事が出来るかもしれない。それだけでは無いぞ。お前はヤールカナンの人々を永遠に救える唯一無二の存在になるのだ。その方法を私は知っているぞ」と。
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