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起章
起章 第二部 第一節
しおりを挟む<楽園崩落>以前、神話に語られる“鳥”という生き物は、その翼でもって風を支配し、穹窿を自由に謳歌していたという。しかし今現在、同じく翼を髪とするア族ルーゼ家は、要であるその羽の神秘性ももってしてこの国を治めてはいるが、意のままに全土を謳歌できるほどに、厳格な支配を置いているわけではない。
無論そのような完璧な統治は独裁以外のなにものでもなく、そこから生じる利害の計算をできない王でもなかろう―――仮にもはるか昔、圧制を理由として前政権を打ち破り、その首とすげ替わった身なれば尚の事だ―――が、彼らが全土の完璧な統治など望まないのは、もっと単純な理由からに違いなかった。
(そりゃここは、整備して人を置いたところで、見返りもうまみもねえだろうよ)
嘆息してエニイージーは、はためく髪と、そこに絡ませた新緑色のバンダナの隙間から、ぐるりと視線を巡らした。国の王冠と称される王城デューバンザンガイツの影ははるかかなたに翳んでおり、ここからでは羽虫一匹程度の大きさにも認められない。王襟街や王裾街はそこに比べればまだ近距離にあるとはいえ、それでも個々であるはずの建物がまぜこぜに合体して見えるくらいには離れている。間近な風景を満たしているのは、ひたすら無味乾燥とした平野だけだった―――こうして騎獣に跨って睥睨してみたところで、いつだって代わり映えしない、白い風景……あるいは、白くなりつつある風景。白い砂のような粒に緑素をこすりとられ、まだらに濁った草木。空。そして、
(とっくに、濁る余地すらなくなった場所―――)
悔踏区域。
エニイージーは、その方向へ横目をくれた。特別、何が見えるということもない―――本物の悔踏区域は、それこそ正真正銘はるかかなたにある。それでも足元を見れば、白い砂じみたものがちらほらと土の中に紛れ込めずにいるという事実に、エニイージーはそら寒いものを覚えた。はるかかなた? うそつけ。
白い砂じみたものというからには、それは砂ではなかった。雹砂と呼ばれる、悔踏区域から流れてくる不可思議の粒子である―――水に混じらず火に溶けず、土に還らず風に乗らない。つまり決して農牧に適した物質ではなく、それにまみれたこんな場所を開拓したところで、あてにできる利益は見込めないということだった……国録総人口が増大に転換してはや数年、開拓事業がそれなりの規模の市場へ成長を遂げたとはいえ、人の管理を浸透させやすい農村向きの土地はいまだに業者が消化しきれないくらいは残っている。となると、ここに残るのは悔踏区域に住まう有翼亜種の貿易路の一部としての重要性ということになるが、国が押さえるべきはその便宜を図る際の仲介料や税金であって土地そのものではなく、悔踏区域から一歩も出はしない偏狭な有翼亜種にとっては、それこそ区域外の事情などどうでもいい。
よって自然とこの地域は閑散とし、社会から概ね見捨てられることとなった。が、それこそを歓迎し、あろうことか拡大すら望む者もいた―――同じく社会から見捨てられた者、犯罪者の類である。
(だからって、警戒環なんて名づけるか? 警戒環―――環状に広がる、警戒を要する土地……)
くそくらえだ。そうやって吐きかけた言葉を、ヂッと奥歯ですり潰す。
(ざけんな。ここと接する悔踏区域外輪は旗司誓が治める界隈だ。こっちと契約さえすりゃ、旗幟に恐れをなして近寄ってきさえしねえっての。実際、契約した人間に関する頻度で見れば、重大犯罪はほとんど箱庭と同じ程度しか起きてねぇんだぞ)
有翼亜種の住む独立区を悔踏区域、その周囲で特に雹砂の濃い土地を悔踏区域外輪、そこと農牧地(王裾街郊外)との境界―――つまり今いるここ一帯を、警戒環と呼ぶ。それらはまとめて『三戒域』と呼ばれ、特に市街民らは忌避する傾向が強かった―――そこに住む者もまとめて、犯罪者であろうがなかろうが、一緒くたに。
(あいつら、なんで間違ってて平気でいられるんだ? 旗司誓は旗司誓だ。旗司誓じゃない奴は旗司誓じゃない。混同できるはずあるかよ)
深まる苛立ちに、エニイージーは片手を手綱から腰のわきへ伸ばした。そこにある慣れた槍の感触に、安堵を得ようとする。背中に斜め掛けにしたそれは、槍として重く、槍として強い。街中では到底携帯できなかった相棒は、様変わりせずに彼の背にある。だからこそ、疑念は深まらざるをえなかった。
(なんで、あいつらは変わるんだ)
彼を見て、槍を見る。そして、あらかたの街の人間は、彼を見なくなる。あるいは見たところで、瞳は遠まわしに嫌忌を物語るようになっている。砂臭い―――どうりで。あれは戒域の連中だ。
「右! 強すぎっぞ、エニイージー!」
呼びかけにぎょっとして、彼は右手の手綱を緩めた。それの結ばれた歯牙に引かれるままふらふら右に行きかけていた騎獣が、ようやく体勢を立て直して直進しだす。知らない内に上がっていたスピードに悲鳴を飲んで、エニイージーは必死で操舵に取り掛かった。騎獣は手綱だけでなく、両足を使っての牙根への司令が胆となる。騎獣を御する術を操舵と呼ぶのも、ひとえにこれが理由といえた……船は、舵をまわすだけでは操れない。舵を回せる状況にあるか船を見定め、必要ならそういった状況に船をもっていく能力を要する―――
「こな……く、そっ!」
早足程度までどうにか減速させて、ようやっと息をつく。
エニイージーは足元を見下ろして、己の腰掛けている騎獣の頚椎の高さと、爪牙の頑強さを確認した。悪寒を口笛を吹くことでごまかして、うなじに浮いた冷や汗を拭う。無理な手綱捌きを続けていたら、ストレスに負けた騎獣が阿呆な騎手に対してどのような報復に出るか、あまりぞっとしないことではあった。
「おい、どうした?」
「あ、頭領……」
言わずもがなのことを呟いて、彼はザーニーイへと顔を向けた。相手は同じく騎獣に跨り、こちらに併走しながら、驚いた表情に窺うような色を覗かせている。箱庭に預けた騎獣は上品を覚えちまって困ると街でぼやいていた通り、その操舵術には多少のぎこちなさが付きまとっていた―――もともと頭領は、騎獣について決して本職とはいえないのだから、当たり前だが。
(だってのに、何やってんだ俺は。本職だろ)
うんざりと息をついて、エニイージーは頭領へ頭を垂れた。
「すんませんでした。考え事してて……」
「いや。どっちかってぇと、謝らにゃならんのは俺の方だろ」
「へ?」
わけが分からず眉を上げると、頭領は意味深にちらりと笑ってから、視線を前方へ翻した。つられて前を見ると、白っぽく広がる荒野の中でただ一点、途方もなく巨大な、黒い石柱が確認できる。目印など皆無といえる警戒環において唯一、公的に設置された東西南北を示す警戒環四杖点が一つ、西の碑姫だった。
悔踏区域に向かって、都市を離れ、都市間公道からも離れれば、人と偶然に出くわすことはめったにない。交通の基本は陸路であり整備もされているとはいえ、大多数の人間にとって悔踏区域が虚なる煉獄のようなものである以上、そこを過剰に迂回した旅路が主流となるのは慮れることではある。ついでに警戒環四杖点はあくまで方角の導であって、いわゆる三里塚のようなものではないため、公道そのものに沿って作られているわけでもない。
街を発ち、公道に背を向けたのは、それなりに前のことになる。
碑姫の足元には、誰の姿も確認できなかった。それでも念を入れて、手綱を繰る手つきを穏やかにしつつ、頭領がせりふを続ける。
「お前が考え込むっつったら、十中八九、うちの旗司誓がらみのことだからな。こんな時にまでそうとは、いつもながら、その尽力に感謝してる、エニイージー。まあ、俺が至らねぇばっかりに、手元狂わせるほどの物思いにふけらせちまうってのは、問題以外のなんでもねえんだが―――」
「何言ってんだよ!!」
大声を出していた。
自分にとっても思わぬことだったが、それは騎獣にとっても疑いないところだった。突然のそれに怯えて反射的に前足を挙げそうになるのを、全力を使って宥める羽目になる。声量にか、その様子にかは知らないが、頭領も騎獣をあやしつつ―――乗獣と違い、すぐにどんな感情でも伝播してしまう性質は、騎獣の長所であるが短所でもある―――なんの気ない自分の発言の効力に、面食らった表情を固まらせている。
どうにか乗り物をあやしながら、エニイージーは今度は多少小さめに声を上げた。
「今のは、頭領は別にどこも悪くねえだろ! ぼーっとしてたのも、そのまま手に力を込めてたのも、全部俺のミスじゃねえか! あんたは何でいっつもそうやって自分を見下して、自分のせいにばっかすんだよ!」
「―――悪ぃ悪ぃ、俺は臆病者なんだ。俺のせいだって先に言っときゃ、誰かに言われるよりなんぼか楽だからな。悪癖持ちの頭領ですまねぇ」
いつもの言い訳を繰り返して、頭領が苦笑した。いや、その頃自分は騎獣の舵取りに必死でそちらを見る余裕など無かったから、そんな気がしただけだったが。その言葉の気配は確かに、苦笑によく似ていた。
ようやっと顔を上げると、頭領は横にいなかった。とっくに先に進んで、黒い石塔……西の碑姫の元で、騎獣から降りている。エニイージーは、そこまでの距離と騎獣の負担を秤にかけ、さっさと地面に降りるほうを選んだ。乗り手というストレッサーから解放され、いくらか気楽そうになった騎獣を引き連れて、そこまで歩み寄る。近づくにつれ、石碑の表面に彫琢された、無二革命が英雄シェーラマータ・ア・ヴァラージャの怜悧な横顔が鮮明になり、その石の立妃が王城を見つめていることさえ判断できるようになった。大人が十人いれば、ようやっと囲んで輪に手を繋げるような大きな石塔は、その幅に負けぬ高さを誇り、白い大地と曇天を穿つ楔となって存在していた。
(でっけえなぁー。目印にしても、こんなの本当に要るのかよ?)
下からしげしげと石の姫の鼻の穴を眺めて、訝しむ。岩と骨で組み上げた柱、岩の模様、あるいは単に変な立ち姿の潅木……旗司誓はいつもはそんなものをランドマークにして三戒域を行き来しているため、警戒環四杖点には馴染みが薄い。
(目的地によっては、こんなので方向確かめて進んでたら、とんでもない遠回りになるじゃんか。まあ、そもそも公道からして遠回りに作られてるんだから、箱庭野郎はまどろっこしくてもお構い無しなんだろな。しかも今回のクライアントはただの箱庭野郎じゃなくて、まじりっけなしの箱入りだし)
笑えない言い回しに、エニイージーはから笑いをひっこめた。
つと、眼球に思わぬ風が当たって、目をつぶる。悔踏区域外輪には及ばないが、ここにも結構な頻度で突風が吹くようだった。遮蔽物となりそうなものなど、この石碑以外に望むべくもない。雹砂が風に舞う性質を持っていたなら、砂嵐で待ち合わせどころではなかっただろう。
「ゼラもいねえし……早く着きすぎたか。まあ、悪いことじゃねえや」
言いつつ、頭領は騎獣に括り付けていた旗幟を外し、碑姫の脇に立てかけた。通常ならば騎獣の装具に施されている<彼に凝立する聖杯>の印章だけで事足りるのだが、これはそれとはまた別の、身長ほどの丈の棒がついた儀礼用のものである。
「エニイージー。騎獣を休ませるの、俺も手伝ってやろうか?」
「まさか! 頭領は、そいつを守っててくださいよ。俺には出来ないことですから、ある意味」
笑い飛ばして、エニイージーは頭領の持つ騎獣の手綱をひったくり、彼の持つ旗幟を顎先で示した。頭領が、棒にがんじがらめにされて松明の様になっているそれを見やって、肩をすくめる。そして、
「さて。そうらしいが」
とだけ、呟く。
えらく淡白な態度に拍子抜けして、エニイージーはなんとなく頭領に視線を留めたまま、騎獣を引き連れた。頭領は、そのまま旗幟のすぐ横の石の影に陣取り、自分の懐を探っている。エニイージーが、すぐわきの開けた場所に二匹を腹臥位へ安座させているうちに、相手が取り出したのはシガレットケースだった。そこから発火布を人差し指分ほど抜き取ると、同じく抜き取っていた煙草の先端に巻いて、石碑の壁面に押し付け―――途端、字をはねるように、その指先をピッと弾く。擦過によって火を起こした発火布が燃え切るのを待たずに、持ち主は口唇に煙草を挟み込んでいた。
小さな灯火が紫煙に置き換わるあたりで、エニイージーの作業も終わった。頭領のほぼ真横で仕事をしていたのだが、相手はそのことに、今ようやっと気がついたらしい。ついつい、咎めるような目つきになっていたのだろう―――咥え煙草の頭領はばつが悪そうに笑いながら、シガレットケースを差し出してきた。習慣が無いので、謹しんで辞退しておくが。
自分もまた風を避けるため、バンダナごとこげ茶の髪を押さえながら、黒い碑姫の足元にもぐり込む。武器を肌身から外さなければならなくなるので、座りはしなかった。そして、隣で自分と同じようにシェーラマータ・ア・ヴァラージャの足首に背骨を預けている頭領へと、言いよどみながらも声をかける。
「やめたんじゃなかったんですか? 煙草」
「やめたぜ。喉から奥まで吸いこんでねぇもん」
「またそんなこと言って」
エニイージーのせりふから非難がましい調子が抜けそうにないことが分かったのか、頭領はぶーたれた様子でしゃがみこんだ。ついで、自分の腰に佩いている剣の青い羽根飾りに向けて煙を吹きかけながら、ぼそっと、
「酒で喉を焼いた後の一服なんざ、沁み具合がサイコーなんだけどな」
「ってことはやっぱ喉から奥に吸ってんじゃないですか!」
指摘にそっぽを向き、頭領はくゆっていく先さえもったいないとでも言うように、煙の行く末を見つめている。この位置だとその顔つきは分からないが、分かったところでいい説得が浮かぶとも思えなかった。あまりしたくなかったが、相手に対して最も効果があるであろう人物を、引き合いに出すことにする。
「……あの元ヘビースモーカーの副頭領が聞いたら、めちゃくちゃ怒りますよ?」
「聞かせなきゃいいじゃねえか」
あっさり返され、言葉に詰まる。それを隙とみたか、頭領が不意にこちらを振り仰いできた。思わずびくっとしたエニイージーを見やって、相手はそのまま笑顔を深めていく。常日頃、顔の造作が整っているせいで冷ややかな印象を拭いきれない反動もあって、彼がこうやって感情を出すと途端に親しみやすくなる。のはいいのだが―――
「量は減ってきてんだって。な?」
いかん。流される。予感に、エニイージーはさっと目を逸らした。自分が誰より頭領の肩を持つ側にいるのは自他共に認めるところであり―――大体にして自分のこのバンダナだって、自分の部隊色がみどりなのをいいことに頭領の碧眼に似た色彩を購入したのだ、とうに変色してしまったが―――その『他』の中には頭領本人も含まれている。このままだと、また相手に押し切られ、ずるずると悪い味方になってしまいかねない。
と。
「じゃあ、わたしが告げ口しちゃいましょうかねー?」
「かねー!」
せりふの出所を―――上空を仰ぐ暇も無かった。ばっと目の前に咲いた赤黒い花の巨大さに、風に飛ばされてきた花弁がぶちあたったのかと、思わずのけ反って……
そうやったところで過ぎ去っていかない色味に、勘違いを悟る。花びらと思えたものは、服だった。自分の声を追うようにして上から飛び降りてきたふたつの人影のうち、小さい方が纏っている、小豆色を主体とした服の色。
さふ、という音は、その影に踏まれた雹砂の軋み―――聞こえたのは、ただそれだけだった。その人の肩に屈んだ、もうひとりの影……人型の魔神を介した魔術によって、落下の衝撃を中和でもしたのだろう。その男は、膝を曲げさえしていない。
癖のある黒い長髪は、いつもの様に適当に肩口で束ねて前へ垂らしたままにしているせいで、派手に風に煽られていた。体格は小柄で、面立ちは頭領をはるかにこえる優男。いつも笑んでいるような中性的な目元を彩る瞳は漆黒、どう見ても三十路を過ぎているように見えない肌は象牙色。いかに人種が雑多な旗司誓といえど、フラゾアインとの明らかな混血を示すこのような容姿は、滅多に見かけるものではない。しかもその上、とびきり卓越した腕の練成魔士であるなど。
いくら待ち合わせしていたとはいえ、またとんでもない方法で参上してくれたものだ。同じ心境なのか、頭領がぽかんと開けてしまっていた口をかっくんと閉じて、半ば裏返った声でうめく。
「おじさん……!!」
「ああほら、今のわたしは一団員なんですから、ちゃんとゼラって呼び捨てないといけませんよ。頭領」
「うあう、お、おう、ゼラ」
「ジュサプブロスもいるぞぉー!」
と最後に、場に合わないテンションで声を上げたのは、蝶かなにかのようにゼラの肩口に留まった青年である……そう、見た目だけなら青年は、ひたすら根明な、成長期も終わりかけた人間に過ぎない。しかし彼の実体は、人間どころか生物でさえありはしなかった。人間を模倣しジュサプブロスと名乗ったそれは、ゼラと契約した魔神、つまり練成魔士が魔術を用いる際に欠かせぬ介在媒体たる無機抽象である。ゼラの髪紐に隠してある黒い宝石に封じられているのが常なのだが―――体重どころか質量もないと分かっていても、こうやってごく自然に大の男が小男の首根っこに座り込んでいる様子など見せつけられると、違和感極まりない。
まんまとしてやったりと言わんばかりにほくそ笑んだジュサプブロスが、いまだに目を白黒させているこちらへ向けて、にっと歯ぐきを見せて笑ってみせた。そしてバランスも崩さずに、ゼラの首を跨いで鎖骨を踏んづけたまま、これ以上なくふんぞり返ってみせる。
「んくくくく! 話は聞かせてもらった! 網羅範囲はてっとーてつび!」
「どこで?」
返事を期待するわけもなく、エニイージーは思わず呟いていた。どうせひとりで騎獣に乗れないゼラのこと、適当に先回りして、適当なところから盗み聞きでもしていたに違いない。彼はそういうことが好きな性格で、しかもそれを叶える手段と技を兼ね備えている。
無意識にじりじりと後退していた頭領が、はっとしたように、地面に落としてしまっていた煙草に飛びついた。さすがにゼラの目の前で再度ふかすほど無謀ではないが、まだ半分も吸っていないそれを捨ててしまえるほど、堪能し切れてもいないらしい。指先につまんだそれに名残惜しそうに目を往復させながら、必死にゼラへと言い縋がる。
「ってか頼む、シゾーに告げ口だけは勘弁してくれ! まだカートンで残ってんだから、あのタレ目に家捜しされたら、あっという間に握り潰されちまう!」
「ははあ。ということは、あと最低ひとカートン吸い尽くすまで、禁煙するつもりは無かったと」
「げ」
分かりやすくぎくりとした頭領の態度にはノータッチを決め込んで、ゼラの追及はやんわりと殺傷力を増した。
「しかも君の好きなメーカー、特に悔踏区域の空気に弱くて、どれだけ梱包してもすぐ味が変わっちゃうんでしたよねえ。さて。握り潰されて困るというそれは、いつ購入したカートンなのやら? おととい? さきおととい?」
「うあその。それはな。俺っていつだって現在に足をつけて未来を見据えてるっていうか、そんな過去とか守備範囲外―――」
「でしたら、現在のことについてはお答えいただけるということで?」
「え゛?」
「君の性格から言って、喫煙本数が減ったというのは嘘ではありませんでしょう。具体的にその本数を、数として挙げてもらってもかまいません?」
「いやあのさゼラ」
「小数点単位ですか? 分数単位ですか? ちゃんと約分できますか? 十は二と五で割れるんですよ?」
「ゼラさん勘弁してあげてください! もうほんっと勘弁してあげてください! なんか頭領、脂汗が涙に換かわりそうです!」
とうとう体育座りしだした頭領の背中にいたたまれなくなり、エニイージーは悲鳴で割り込みをかけた。が、ゼラは今までどおりのほほんと構えるだけで、その無敵スマイル(命名者:匿名希望)を色褪せさせる気配すら見せやしない……ただ、なにやら思案するように唇の下に指先を当てて、顎を軽く引いてみせただけだ。そのポーズをオーバーに真似したジュサプブロスが、ゼラの頭に自分のその面を乗っけて、えらく演技臭く音程を低めた囁きをこぼしてくる。
「でも分かる。ザーニーイのことも分かる。頭領なんてストレスと仕事が比例関係の仕事、手軽な発散法なんてスパるくらいしかないもん。まあ仕事っても、月末に徹夜で片付けないとおっつかないくらい書類をためちゃってるのは、ザーニーイのデスクワーク嫌いからくる自業自得だけど、ストレスはストレスだよね。かわいそーカワウソー」
「ハートがねぇ労いにも程がある!」
「当たり前です。ジュサプブロスは労っていませんから。頭領に頭領の仕事を労ってどうします? 死人に、お亡くなりになって大変ですねと言っても間抜けでしょう?」
と、これはゼラの言葉である……彼は常に、爪の先しか露出しない二重の革手袋で両手を包んでいた。よって掌が大きめにみえるため、彼のその童顔の近くにあればあるほど、対比されてより年齢が低く見える―――大人気ないいじめを楽しんでしまうのも仕方ないかと、うっかり納得してしまいそうだった。が、えらく哀愁漂う頭領のまるまった背中を見るとそうもいかず、どうにかして抗弁を連ねてみる。
「気のせいか例が不吉極まりないし、そもそも死ぬってのはジャンルとして仕事ではないよーな……」
「ツッコミ気質ですねえ。シゾーとそっくり」
「馬鹿言ってんじゃねぇ!!」
そうすること以外を全て忘れて、エニイージーは怒号していた。
それが過ぎ去ってやってきた静寂に、息を呑む。正気が事態を理解していくにつれて自分にほとほと愛想が尽き、エニイージーは自分の鼻筋を手の甲で撫でつけた。そうやって顔を隠しながら、指の向こうにいる彼らをのぞき見る―――きょとんとしたゼラと、それと同じようでありながら、より気遣わしげに眉根を陰らせている頭領。頭領のそういった表情を見て後悔したのは、ついさっき―――本当に、騎獣に乗っていたついさっきのことだったのではないか?
エニイージーは、ゼラに向かって姿勢を改めて、しっかりと辞儀をした。
「すんません。あの。なんでもないです。でもその、できれば、副頭領とそんな風に混ぜこぜにされるとこう……混乱するんで、やめてほしいんですけど」
「はい。分かりました」
あっさりと承諾し、そして次の言葉は頭領に向けて、ゼラが告げた。
「ま。なにはともあれ、君が無事に頭領の仕事をこなせてさえいれば、わたしは何も文句ありません。本当に苛立った時しか吸わないことですし、昔のあのドラ息子みたいにとっちめる必要性もありませんでしょう」
それを聞いた頭領が、がばっと立ち上がった。燦然とした表情をぱっと上向かせ、思いがけない吉報に肩を震わせている。
「本当かゼラ!? くあー、たっすかったぁー! あ。ジュサプブロスも口裏合わせ頼むな?」
「何だか俺だけオマケのスメルがぷんぷんするぅー……」
不満げにぶつぶつと漏らしている魔神は最早どうでもいいらしく、頭領は返す左手でつまんでいた煙草を咥え、無駄に晴れやかな笑みを虚空へきらめかせていた。駄目だとは分かっているが、それでもその姿に妙に安心して、紫煙にけぶる横顔を見届け―――
ふと気付いて、エニイージーはゼラを見やった。相手は意味もなく手など振ってくるだけだったが。こちらも反射的に、へらりと右手など挙げつつ、
(頭領の、本当に苛立った時……って、)
心当たりがない。
とはいえ、たかが一部隊の副座の身で、頭領の何を把握していると訊かれれば口ごもらざるをえないが。それでも本当に頭領に何かあれば、自分が知らないでおけるはずがない。全てにおいて順調である今、頭領の仕事といえば、細かい書類の処理や後始末くらいのはずだ。そのような雑用、副頭領にでも任せておけば済む話であろうに。副頭領―――
(まさかあの野郎、また何か……)
シゾー・イェスカザ。
深まろうとする妄想を感じて、エニイージーはぶんぶんとかぶりを振った。仮にも相手は、ゼラ・イェスカザに認められ、頭領の片腕として副頭領まで上り詰めた人物である。個人的な感情で想像していくのは気分がいいかもしれないが、挙句に残るのは益体もない邪推だけだ。やめなければ。
と。
「告げる封緘を受け入れるは汝、‘子爵’ジュサプブロス」
聞こえてきた呪文に、そちらを見やる。ゼラが、高い位置にあるジュサプブロスの顔を見上げて、それを唱えたところだった。魔神は露骨にがっかりとした表情を見せていたが、そこから不平がこぼれ落ちるよりも、術者の効力が行き渡る方が早い―――青年の姿が、炎を消された火影のように薄まって消える。それとすり替わるようにして、ゼラの髪束の艶めきが静まった。彼の頭髪をまとめる赤い紐の内側に結ってあるという宝石に、ジュサプブロスを封印したからだろう。魔神を開放した状態にある宝石は、微弱ながら発光する性質がある。
「あん? ゼラ。そいつ寝かしつけちまうのかよ。仕事はこれからだぜ?」
頭領が、咥え煙草をひょこつかせつつ、尋ねる。対するゼラの返事は、笑いを押し殺したせいで、多少くぐもっていた。
「人の八百万です。魔神にはご遠慮願いましょう」
「人、ねぇ」
「おや。ご不満で?」
「いんや。ただ、今回のクライアントは、自分自身を人だと見なしてんのかね?」
後ろ半分はひとり言のように煙まみれにして吐き出して、頭領はぷっと吸殻を吹き捨てた。その眼差しは、西の碑姫の見つめる先を眺めやっている。エニイージーは、それを追って視線を伸ばした―――やたら物々しい影がごっちゃに固まって、こちらへと近寄ってくるのが目視できる。
いや、団が影だったのは、その一瞬だけだった。あっという間に、陽光に輝く緋色の騎兵の連隊と、豪奢な馬車へと化ける。
馬車といっても、それを牽くのは馬ではなく、六頭立ての乗獣だった―――まあ、力で馬に勝る乗獣でなくば、防御の役にも立たないごてごての装飾をぶら下げたあのような馬車を、あの速さで牽引できようはずもない。兵の乗る獣はさすがに馬だったが、そこに駕した騎手が纏う焼けた鉄にも似た緋色の軍服と練熟した動きは、騎獣でなくとも充分な威圧感を漂わせていた。悔踏区域外輪へ出向くとはいえ、あらゆる意味で物々しく無駄な装備―――クライアントと見て、まず間違いなかろう。
(さっき考えてたまんまズバリ、箱庭どころか箱入りじゃねーか)
疑うべくもない。ア族ルーゼ家―――即ち、王家である。
(しっかしやっぱ、緋色の連中がその護衛してるなんて、妙だよなぁ)
話には聞いていたが、こうして目にすると、しっくりこない感覚が一段と明確になる。エニイージーはそれに任せて顔をしかめた。王家は貴族の中の貴族であり、連中がそこに占めているアイディンティティーといえば、並大抵のものではない―――つまり、貴族で構成されている司右翼こそが、こういった場面に出張ってくるのが普通だった。そして、橙色の制服に威勢と贅肉を詰め込んで、見下した相手への唾棄にばかり精を出す。実力など、机上では人並み、机上外では人並み以下といっていい。が、【血肉の忠】に裏打ちされた彼らはそれでも変わらず貴族だったし、変わらず司右翼であり続ける―――と、以前のエニイージーならば、きっぱり断言しただろうが。
(まあ、見たもんは否定できねえし。巷で噂の優秀な殿下は生まれ育ちが市井経由って聞いたから、血縁だの身分だのの七光りに付き合ってられないっつってバッサリ切って捨てるってのも、ない話じゃない……の、かな?)
ふと、物思いから醒める。頭領へ向けたゼラの声が、エニイージーの耳にも滑り込んできたせいだった。
「君が今後すべきこと、分かっておいでですか?」
「ああ」
(もちろん、)
頷く頭領に先駆けるように、エニイージーは無言のままそれを口にした。
(頭領に、報います)
そのために、ここにいる。ここで生きている。そして、なんでもする。死ぬか、死なすか、それでもする。そうしてそれを、誰にも笑わせない。
頭領は、ゼラに跳ねさせた視線を前方に取り戻して、頭をかいた。
「【血肉の約定】の履行。それがすべきことだ」
「それを具体的に述べるならば?」
つっこんできたゼラに、頭領は不敵に笑んでみせた。ついで、立てかけていた旗幟を取り上げながら前へと歩み出て、ゼラをわずかに追い越したところで立ち止まる。
「悔踏区域外輪にて、行方不明の後継第一階梯の痕跡を探索し、現王ヴェリザハー・ア・ルーゼが逝去あるいは逝去に準じた状態になる前―――つまり玉座が混乱する前に、その存在に白黒つける。その間、王家から【血肉の忠】として示される王家を護り通す」
頭領の進んだ方角を―――その延長線上にいる王家を確認し、ゼラは一度、相手の回答へかその光景へか、頷いてみせた。それから、ぽそっと頭領へ耳打ちする。
「では、それを主観的に述べるならば?」
「箱庭の尻拭いのために、幽霊探しがてらの子守りだ」
あまりに率直すぎる表現に物事を痛感したのか、頭領がちょっとだけ肩を落とすのが見えた。
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