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起章
起章 第二部 第二節
しおりを挟む弟に起き抜けからわけの分からないことを説かれた挙句、悔踏区域外輪の旗司誓の元へ出向くためと、身支度もそこそこに馬車に押し込められて連行された―――経緯に不平不満は尽きなかったが、目の前にいる男は司左翼の騎士であってそれを吐露すべきイヅェンではなく、だとすればそうしたところで何一つ解決されはしない。よってキルルは無難に、この騎士によって解決されそうな質問を、馬車の中で発していた。
「旗司誓って、悔踏区域真域の外側に住んでて、逃げ込んできた犯罪者を警察に引き渡したり、旅の護衛とか輸出入の代行とかをしてる何でも屋でしょ? 街にいる義賊とどう違うのかは知らないけど、なんでそんなのと【血肉の約定】が関わってくるのよ? 【血肉の約定】は創国録、創国録は百英雄、百英雄は貴族でしょ?」
王城の自室には匹敵しないが、それでも数人が満足して寛げるだろう豪華な馬車に、今は三人の人間が押し込められていた。キルル当人、馬車専用の侍女、そして相手となっているこの騎士である。
名前は、自己紹介のときに聞いたそばから忘れたが―――どうせ通り過ぎていく一人だ―――その初老の固太りの男は、気のいい商人といった風体で、とても例年九十倍を超える試験を生き残った猛者には見えなかった。白髪混じりの灰髪を短く整え、口髭を丁寧に手入れしている。階位を表しているのか、ヴァシャージャーとは異なった型の緋色の制服を陽気にゆらして、彼は無礼にならない程度に笑ってみせた。
「ひとつひとつ整理しましょう。まず、義賊と旗司誓。確かに彼らの稼業内容は共通する部分も少なくありませんが、決定的に異なるのは由来です。旗司誓はその設立が我が国の建国の時まで遡ることができるもの、義賊はのちの世で旗司誓を手本として設立され、大半が旗司誓と結託して働く組織となります」
市井出身の司左翼らしく、貴族のように格式ばっていたりしないため、すぐに話の筋が通る。よってキルルは、素直に首を傾げることもできた。外すのが面倒くさくて被ったままである頭巾がずれて、やわらかく頬をくすぐってくる。
「建国の時って……創国録には、百英雄関連のことしか書いてないわよ。イヅェンに言われて、全部書き取りしたもの。腱鞘炎の痛みと一緒に忘れやしないわ」
思い出した鈍痛にげんなりと頬杖をついたキルルに、相手は何に対する相槌なのか、やんわりと一度顎を引いてみせた。出入り口以外の壁をすべて囲うように内側に張り巡らされたソファはばねが甘く、ひどくやわらかいクッションで、馬車が揺れたところでその仕草を見間違えることはない。
「つまり旗司誓は、世が世ならば貴族であるということです」
「はい?」
「―――いえ。正しくありませんな。訂正させていただきたい。世が世ならば……とはつまり、彼らの祖先は族名を綴る資格があったということです。現在、我が国に彼らが貴族として認められているということではありません」
付け足され、余計に謎が深まっていく。正直に、彼女はそれを告げた。
「どうなってるの? 貴族なら、創国録にそれが書かれて無いはずないじゃない。百英雄は、炎の色の翼の頭衣を持っていたうちの先祖が王になって、残りは全員が貴族になったはずだもの。そりゃあそのころには、英雄のほとんどがいなくなっちゃってたらしいけど」
「創国録をお覚えならば話は早い。つまり旗司誓とは、その失われた八十枝族の―――」
「生憎だけど、イヅェンと違って、諳んじられるくらい一字一句まで丸暗記してるわけじゃないの。あとほかに分かるのは、百英雄は全員が赤毛だったってことくらいよ。だから、創国録も併せてあなたから説明してもらえるとありがたいわ」
「では、そのように」
一端区切ってから、騎士は再開した。
「姫がおっしゃられたとおり、創国録は我が国の発祥を記したものです。圧政を敷く前政権を打倒した無二革命を軸に、その前後の百英雄の武勇伝を編纂した傑作―――現在の貴族の大半の先祖である百英雄を、彼らにまつわる逸話計百話にわたり、唯夜九十九詩篇として纏めています。ここまではよろしいですか?」
頷く。その様子を見届けてから、相手は後続した。
「百英雄のなかにあって、無二革命ののちに、政―――貴族という身分と袂を別ち、悔踏区域外輪へ移り住んだ者らが、便宜上は現在の旗司誓の祖先となります。その綴りの数は、三十七。創国録に記されている失われた八十枝族のうち、およそ半数は彼らだということですな」
「便宜上?」
「彼らはほぼ、実子を後継としませんので。最早ほとんどの旗司誓で、族名はついえてしまっているのです……族名は血族しか受け継ぐことを許されませんから。創国録にある通り、まさしく、八十の綴りは失われたも同然といえます。ゆえに便宜上、と」
「いえあのごめん、ちょっと待ってよ」
わたわたと手を振り回して話を中断させ、キルルは首をひねった。頭巾の影から見上げたところで、そこには馬車に張られた天鵞絨張りの天井しかなかったが、その深い均一な赤色は、思考を落ち着かせるには役立ってくれた。どうにかこうにか、それを言葉にしてみる。
「失われた八十枝族は、前政権を打ち破るのがあまりに苛烈すぎて、志半ばで死んじゃったり行方知れずになっちゃったりした百英雄でしょ?」
「はい。表向きは」
さらりと同意し、騎士は口髭を指で撫でた。
「姫がおっしゃられたとおり、創国の無二革命は困難を極めました。簡単に言えば、前政権を打ち負かすまでも、打ち負かしてからも、熾烈に尽きたということです。残党の多くは国内へ潜み、あるいは国外へ脱出し、虎視眈々と再興を狙ってきました。そこで百英雄たちは、その国内外の連絡網を断つべく、当時からの密通の要所―――悔踏区域外輪をおさえることにしたのです」
「百英雄のうちの三十七が、それに任命されたってこと?」
「はい。正確には、キフォーの綴りを筆頭に志願したとの話ですが。そして、失われた八十枝族の中に紛れることによって人知れず外輪を監視する任に赴き、彼らは表舞台から姿を消しました。前政権の撲滅確認ののち、貴族としての復古を嘱望されたもののそれを断り、現在の旗司誓へと至っています」
「断ったの?」
「不思議ですか?」
訊き返されたことに、逆に言葉に詰まる。もしかしてものすごい馬鹿なことを聞いてしまったのかとも思ったが……とうに通り過ぎてしまって窓から見えることさえないが、それでも脳裏に王冠城と王襟街を思い出すと、自分が間違っているとも思えなかった。それを裏切らず、声に出す。
「だって、外輪とはいえ悔踏区域でしょう? 失われた八十枝族にまざって姿をくらましたってことは、死んだのと同じ扱いよね。人一倍とんでもない場所でずっと縁の下の力持ちなんて、これっぽっちもいいことないじゃないの」
「鶏口牛後を狙ったのだとの陰口もありますが、そうですね―――ようは、彼らにとっては、そのようなことは大したことではなかったのではないかと」
「大したことじゃない!?」
さすがに聞き流せず、キルルは悲鳴を上げた。
「ろくに草木もないとこで日銭を稼いでるとこに来た『頼むから貴族に戻ってよ』ってお願いが、大したことじゃないっていうの!? 普通は願ったり叶ったりでしょ!?」
いくら一流の御者が操作しているとはいえ、城から離れて悪路になるにつれて、振動は強まっていた―――馬車の中も例外でなく、思わず立ち上がったキルルも、侍女に宥められるまでもなく座りなおす羽目になる。それでも語尾だけは勢いそのまま、キルルは握りこぶしを両わきに固めた。
「だって貴族よ!? 今はそりゃあ、こないだの戦争で活躍した軍人が取り立てられて増えはしたみたいらしいけど、昔は血族の綴りを持つなんて羨望の的だったはずでしょ!?」
「ああ―――失礼。姫が、旗司誓と対面なされたことがないということを、失念しておりました」
唖然とキルルの狂乱を見送っていた騎士が、軽く咳払いして問うてくる。
「姫。貴族は羨望の的、とおっしゃられましたが、具体的に貴族の何が羨望されるとお考えですか?」
「偉そうにしても当たり前、贅沢しても当たり前、馬鹿でも一生安泰で当たり前」
「…………」
騎士は、キルルのあまりの言い方に絶句したが、それでもぎりぎりのところで持ち直したらしかった。数瞬の沈黙を挟んだだけで、わずかにくぐもらせながらもしっかり続きを言ってくる。
「ええと……そういったものは、旗司誓にとっては、ほぼ無価値と言えるでしょうな」
「じゃあ、なにに価値があるの?」
「誇り」
言われた言葉に、間が抜ける。
キルルの雰囲気から、彼女の頭が単語を理解したところでストップしてしまったことを感じたのだろう。騎士が補足してくる。
「信じがたいやもしれませんが、ただそれに尽きるのです。王家から帰属を望まれた折、時の旗司誓の首魁ヴァエンジフは創国録の一節を読み上げ、『この誇りにこそわたしは満ち足りる』とだけ言い残し、振り返りもせず、悔踏区域外輪へ戻ったとの逸話が残されています」
と、ふと騎士の視線が映す風景が変わっていることに気づいて、キルルは合いの手を含んだ口をつぐんだ。こちらを視界にとらえてはいるが、見ているのは、記憶にある旗司誓であるのは疑いない。彼の口調からそれを想像するのは難くなかった。
「現に旗司誓は、それぞれ掲げる旗幟によって特徴があるとはいえ、己が誇りを第一とする姿勢を崩しません。市街に住む人々にどれほど謗られようが弁解しないのも、そこに根差しているのでしょう。自分の気高さを知るのは自分で充分で、他者の胸先三寸で貶られたところで洟を引っ掛ける価値も無い、と。それゆえに、三戒域にはびこる武装犯罪者や義賊に係る混同や誤解が未だ解けずじまいになっているとも言えますが」
「ほこ、り」
繰り返して独りごちたところを、騎士は律儀に首肯した。
「はい。つまりは、彼らの全てといってもいいでしょう。実子を後継者とするケースが少ないという理由も、それに尽きるのです。彼らが受け継ぐのは血縁ではなく、自らの所属する旗幟の家風―――つまり重要なのは、その者の気稟が旗幟の正義と一致すること。【血肉の約定】を取り付ける際に<彼に凝立する聖杯>と接見を重ねる都度、成る程、革命を起こした精神とやらを時代を超えて実感しました」
さすがに長いことしゃべり続けて疲れたのか、馬車の振幅が口調を保持できる許容量を上回ったのか、相手は言葉を切った。慣れない事ではあったが、指の仕草で侍女に茶を淹れるように指示すると、侍女からすぐに銀杯が差し出されてくる―――中身は、冷えた果実水だったが。礼を言って飲み干す騎士と同じように、キルルも落胆などおくびにも出さずに口をつけた。
ソファに囲まれるようにして、馬車の中心には彫刻も麗しいテーブルが備え付けてありはしたものの、揺れる中ではカップをおけるはずもない。空になった杯を侍女に返し―――侍女が「王女の掌から先じてそれを頂戴すべきだったのに」と蒼白になりかける様子は必死で見ないふりをして―――、ついで自分がこれからしばらく暮らすことになるという、旗司誓について口に出した。
「<彼に凝立する聖杯>……どんな旗司誓なの?」
「まさしく、創国録にあるキフォーの義烈を見るようです」
「キフォーの義烈?」
「はい。<彼に凝立する聖杯>の頭領である霹靂殿は、とうに継承は途絶えたものの、その命脈を辿ればキフォーの綴りに当たる方ゆえ。まあ、噂の当人とは数えるほどしかお目通り願えませなんだが、旗幟の正義に裏付けられたあの気韻生動には、―――」
「数えるほど?」
きょとんとして、キルルは目を見開いた。
「あのイヅェンが、よくそれだけの下調べで許したわね。一目見ただけで、そんなに信頼が置けるような相手なの? そのものすごい名前の人」
「いえ。その―――」
そこで言葉を呑んだ騎士の輪郭が、なにやらぎこちなく戦慄いたような気がしたが。彼は、その印象をあっけらかんと覆す茶目のある仕草で、お手上げのように両手をかざしてみせた。右手につままれたままの銀杯の中身が危なげに揺れるが、頓着せずに笑ってくる。
「はは。これは失言でしたな」
「失言? 名前が?」
「ええ。そうですとも。申し訳ありません。最初から、きちんと説明させていただけますかな? 姫」
「うん。いいけど……」
相手の様子に違和感が湧くが、一度身震いして姿勢を戻した彼に、それを問いかける隙はなかった。目をぱちくりしている間に、騎士の口早な説明が駆け出している。
「神話<終末を得る物語>に登場するキーアイテムのひとつ、彼に凝立する聖杯。その名を冠した旗司誓が、姫の滞在される<彼に凝立する聖杯>です。旗幟の紋章は、双頭三肢の青鴉。たったここ数年で頭角を現し、、悔踏区域外輪の実質的なリーダー格におさまったという、他に類を見ない旗司誓……その頭領を務めている者の異名こそ、『霹靂』です。この名を謳うのは吟遊詩人―――大陸連盟公認の間諜どもが誉めそやすのですから、名実共に、相当な実力者であることは間違いありません」
「ああ。それで、噂のってことね」
吟遊詩人。
キルルはそれについて、知る限りの知識を羅列してみた。決して詳しくはないが、かなりの大組織の役職である。まったく無知というわけでもない。
吟遊詩人は司書考究会という組織に所属する、一種の学者だった。大陸連盟のスポンサードを背景として各地を自由に行き来し、独自に研究を深め、それを様々な形―――大半は詩吟によって暗号化し、表現する。その目的はと問えば、彼らは公言して憚らない……全知に赦免を、と。なんだか分からないが、つまるところ彼らは、やっている事だけから見ると、多岐にわたる研究者に他ならない。研究の為ならば、踏許証なくとも全国全土をほぼ好き勝手に旅できる―――と同時に、その代償に、欲されれば万人にその詩吟を広げる義務を負う。つまり誰かに教えてくれといわれれば、どのような機密であろうが、心の赴くままに語るのである。これは彼らが自身を『善意の第三者』と自称する所以でもあったが、それは騎士のような国の治安を預かる者たちからすると、国の内情を掠め取った挙句に他国に吹聴することで飯を食っている曲者でしかないという裏づけでもあった。
ともあれ、吟遊詩人の評価はそういった背景を負っているため、たとえ歌物語の中に比喩されていたとしても、非常に公平と言っていいのである。
「霹靂……いかづちに例えられるなんて、とんでもない豪傑なんでしょうね」
思わず目の前の騎士を見ると、彼はほんの少し、笑みを深めてみせた。
「強さはもちろんですが、何より速さに特化した戦い方をするらしいですな。そして、その容姿からの由来でもあるようです。なんでも、雷光のような金髪に、落雷後に視界に残る残光にも似た碧眼をし、首には稲妻のような傷跡があると、吟遊詩人の一説にもあるとか」
「その文言だけでとんでもないわよ。あーあ。せいぜい、その人達の正義に背かないようにしなくっちゃね」
そこで騎士は、僅かに首を傾げた。飲み干した銀杯を侍女に返し、手袋に包んだ爪の先で口髭の先をこすって、言葉を選んでいる。そして、慎重そうに唇を開いた。
「正義―――というよりも、彼らの旗幟に、ですな」
「同じでしょ? 自分の旗幟に基づいた正義に忠実なら。違いが分からないわ」
「何度も申し訳ない。わたしの不手際で」
再度謝罪を述べ、彼は頭をかいた。
「つまり彼らは、自身の旗幟の家風に忠実なのです。<彼に凝立する聖杯>の家風が、我らにとって正義という性質に例えるのが最も近しかろうというだけで。そう表現したのはわたしの一存であって、彼らは自らの行いを正義と語ったことは一度もありません―――それこそ、彼ら自身の矜持によって」
「じゃあ、その<彼に凝立する聖杯>の家風って、正確には何なの?」
「創国録にある一節です。彼のヴァエンジフも読み上げたという、唯夜九十九詩篇に証された、久遠の予言―――」
□ ■ □ ■ □ ■ □
「其が血肉に忠を立てる限り、我は血肉を以って義に尽くさん」
一声と、一旗と。
有り体に言って、それは美しい光景だった。
青い旗。皚皚にも勝る大地と雲海、黒く聳える石碑を背に、翩翻とたなびく旗司誓の青い旗。そこに印された鴉は双頭のそれぞれに太陽と月を咥え、蒼茫と広げた翼は広く、三本の鈎爪に諸刃の剣を握りこむ。
その元に集っている旗司誓は、三人。馬車から降りてなお盛大な司左翼の護衛が解かれないとは言え、キルルと彼らとの距離は、それぞれの顔を判別できる程度には縮まっていた。だというのに、自分の視線は、たったひとり―――宣言を発した彼から、外れない。
長身の青年だった。隙なく着込んだ服には、赤い襟巻き以外、特に目立ったところもない―――このために盛装してきたというわけでもないようだった。隠すでもなく、青い羽根があしらわれた剣と戦闘用らしい手斧が腰元に提げてある。上の体幹を守る革鎧の光沢は年経た鈍色を浮かべ、いくつもの古傷が陽光に瞬いているのが見えた。頭に締めるのもターバンと黒革の頭帯だけで、そこからはみ出る金髪にも飾り気一つない。だとしても、そんなものは、彼には必要ない……きっと、誰より、必要ない。
(こんな目があるんだもの―――)
深く翠翹を潤した碧眼。その繊細な色合いは、ともするとひ弱な色調とされるのだろうが、奥底からにじむ強い生気が、その可能性を完全に払拭していた。
次の瞬間、彼が自分の喉元から襟巻きにかけて両手を入れ、ばっと開襟してみせる。
刹那、キルルは息を止めた。そうしなければ、悲鳴まではいかずとも、息を呑む音を派手に漏らしてしまいそうだった。
相手がはだけさせた右側の首元には、酷く醜悪にひきつれた傷痕が一条、大きく走っていた。素人目でも、ただの刀傷で残ったものでなく、しかも致命傷だっただろうことが言わずと知れる代物である。それを負う当人が均整の取れた容貌をしているため、なおその醜さが際立っていた。
キルルと共に馬車から降りた騎士は、今は司左翼全体を総括する立場に立って動いていた。彼女の斜め前で、微動だにせず旗司誓のそれを見届けて、重々しく開口する。
「雷髪燐眼、首筋に稲妻の咬み痕―――確かに当代<彼に凝立する聖杯>が頭領、霹靂ザーニーイ殿とお見受け致す」
(へき―――れきっ!?)
度肝を抜かれ、キルルはぎょっと奥歯を噛み締めた。どうにか狼狽のうめき声を喉仏の奥まで押し流してから、あらためて正面の青年を見やる―――確かに鮮烈で、えらく目を引く雰囲気を持ってはいるが、やはり人間に違いなかった。ついでに、人間離れした筋骨があるわけでも、常人を出し抜く隠し球を無尽蔵に秘めているようにも思えない。
(思ってたのと全然違うじゃない! こんな―――)
きれいな人、というのもどこか間違っているような気がして、キルルはたじろぐ気持ちと言葉を吐呑した。まあ、事前にイメージしていた姿が、悔踏区域外輪の人間とはえてしてそういったものだ―――つまりは野党崩れのような―――という思い込みからきているとすれば、彼にとってみればほとほと失礼な話に違いなかろうが。
ふと、騎士が直立不動で敬礼した。途端、背中を飛び越えて響いた砂鳴りの大きさに、呼吸が止まる……それ自体は決して異様な現象でなく、自分の死角に絨毯のように広がった司左翼の総勢が、上司の仕草に合わせて、一斉に敬礼しただけなのだろうが。
(イヅェンじゃないんだから。驚くわよ。もう)
げんなりと苛立つが、隣にいる騎士でさえ、それに気付いた様子はなかった。彼はただ敬礼を解いて、キルルの隣に控える立ち位置まで一歩でさがり、旗司誓へと声を上げる。
「こちらにおわすは、アの命脈たるルーゼの後継である。確かめられよ」
と、こちらへ目配せしてくる。彼女は了承の意を視線で返して、打ち合わせどおり頭巾を外し、背筋を突っ張らせた。そして、できる限り堂々と、正面の霹靂―――ザーニーイと呼ばれた彼を見据える。いつも無駄に垂れ流しの弟の威風にさらされているのだから、こんな時こそ、門前の小僧としては習わぬ経も読めなければなるまい。
しかしその気構えも、相手の目付きがわずかに怪訝みを帯びたことにより、瓦解しそうになる。彼女は必死に、自分のつま先から脳天までが、緊張で張り詰めていることを確認した……全力でそこの石碑の姫のように直立しているのだから、それで補えない、あるいは誤魔化せない風格などあるはずがない! 今、自分は確かに王家に在る後継第二階梯に見えるはずだ……
必死に胸中で言い訳だか詭弁だかを続けていると、ザーニーイが、はっきりとその双眸をこちらへ向けてから告げてきた。
「火炎にも似た紅蓮の如き翼の頭衣。確かに王家とお見受けした。現王が危うき現在における、後継第一階梯の真偽の蒙昧……其が【血肉の忠】の危機にあたりて、【血肉の約定】に則り、我らが【血肉の義】をお貸しする―――が、」
そこで彼が言葉を切ったのは、単に言うべきせりふに迷った、などという理由ではなかろう。それを裏付けるように、再開された次の彼の言葉は、より静かに沈んでいた。一瞬の動揺が過ぎ去り、今は静かに現実を確かめている―――そんな眼差しが細められる。
「女を<彼に凝立する聖杯>の旗幟に招くことはできない」
予想だにしていなかった峻拒に、唾を飲む。
ザーニーイの両脇にいる旗司誓が無反応であることから見ると、これは相手にとっては当然の提示であるらしい。渋面を抑制することに苦心しながら、キルルはそれでも注視を保っていた。同じくザーニーイも、彼女から目線を外さない。だからこそ、そこに言葉を投げかけてやりたくなる―――こうして見れば分かるだろう?
(……あたし、女なんだけど……)
その反駁を放つこと自体は容易いが、彼女自身が気安く発していい類の言葉であるのかは判断がつかなかった。その困惑を察知したらしい。隣の騎士の口髭が、開口に先立って動く。
しかしそれよりも、ザーニーイがせりふを重ねてくる方が速かった。彼の見つめる対象が、翡翠が跳ねるようにキルルから騎士へと移る。
「王家は受け入れる。【血肉の忠】の証明としてはもちろんのこと、この者は王位継承権保持者というだけで絶対的だ。性別に関係なく、迷うことなく首をも捧げることができる」
と、そこで、視線がキルルへと返ってくる。すぐには慣れることができないその瞳を、彼女は高まる緊張と共に受け止めた。ザーニーイの声は間断ない。
「だが、王位継承権を持たない女を招くことは拒絶する―――女は女であると言うだけで、男にとって本能的に無二の価値がある。万が一の事態において、王家とただの侍女を天秤に掛かけた結果、危険をこうむるのは誰か分からない。それを理解していながら、あえて両価性を抱きこむことはできかねる」
キルルは、そこでようやく理解した。つまり彼は、キルル自身が旗司誓に滞在することではなく、それに伴って侍女や小間使いがぞろぞろと引き連れられてくることに対して懸念しているのである。
(まあ、普通なら、姫の方がそういったことに神経質と考えるでしょうしね……)
キルルはその考えが徒労であると知っていたものの、果たしてこの場合、どういったリアクションを見せればより姫らしいか考えた……侍女は備品として付いていて然るべきという状況が否定された場合、困惑すべきか、憤慨すべきか、そしてそれを態度にどの程度滲ませるべきか。
しかし、そのどれも選択しないうちに、騎士があっさりとザーニーイに答えていた。
「こちらこそ、それは百も承知。後継第二階梯は、身ひとつでそちらへ滞在召されることとなっている」
その時、ザーニーイは―――というよりも、彼の後ろにいた髪にバンダナを巻きつけている青年は、より明らかな当惑を見せた。頭領を挟んで隣に立つ黒い長髪の旗司誓が何の反応も見せなかった分、『こいつは上げ膳据え膳なしで飯が食えるんですか?』という懐疑を舌の根に持て余していることが見て取れる。彼のぎこちないまばたきがおさまるまでの数秒を見送ってから、再度、騎士が口を開いた―――出し抜けに、とんでもないせりふで。
「『女子が王位を継承する際、血統が子々孫々へと分割されゆく危機を防ぐことに鑑み、王家の男子と契ることを前提とする』」
―――つまり、あとあとどんな種がまかれてもいい作物が取れるように、種より先に畑に肥料を撒いとけってこと!? 冗談じゃないわよ!!
随分前に教師に叩きつけた絶叫が、どうしようもなくキルルの脳裏を荒れ狂った。吹き出ようとする不快感を胸中に押し込めるだけで精一杯になりながら、決死の思いで渋面を消しにかかる。その成果があったと言うべきか、とりあえず騎士の声は何の支障も無く荒野の風に流れていった。
「<彼に凝立する聖杯>ならばこの行はご存知と思うが、これは実は建国以来一度たりと実現したことが無い後継箇条であるということまでは、その範疇にありますまい? 王家は代々と男子に恵まれ、仮に姫が生まれたとしてもそのお役目は後継階梯下位の男子が肩代わりすればよく、王裾街へ踏み出す必要さえ生じなかった―――半年前までは」
旗司誓は黙ったままで話を聞いている……そこに言いくるめられる予兆を見つけようとするかのようにこちらへ目を凝らして、途中に相槌を打ちさえしない。その反応は予想のうちだったのだろう。騎士は苦笑もこぼさなかった―――が、続く説明には、失笑を許されたいという気配が漂っていた。
現にその口元は必要以上にゆるんでいる気がしたが、そこから発せられる言葉には、解説以外の意図は感じられない。解説なりに、解説として続いていく。
「が、少々特殊な事情を経て、こうしてキルル姫が後継第二階梯として王家へ迎えられるに至った。姫が王冠城に招かれるまでに同性の付き人をそろえることは可能であったが、姫の王位継承が濃厚となった現在、どうにも手の回りきらない部分が残されている……平たく言えば、同性の護衛。姫は現在王位を継承しておらず、未だイヅェン・ア・ルーゼ後継第三階梯を夫として迎えられぬ身。ゆえに、護衛とはいえ司右翼などといった近しい身分の異性をお傍に召されるなど、言語道断」
(あ。護衛もいないんだから部屋から出るのは最小限に、って言われ続けてたのって、そー言った理由だったのね)
夫云々の部分を無視すべく、自分を取り巻く事情を意外な形で知り得たことに対し、キルルは心の中でうんうんと頷いた。疑問がひとつ解けた満足感で、イヅェンに絡む自分の未来を忘却するよう努める。
騎士の目が、ちらと別の色を含んだ。
「それに比べ、<彼に凝立する聖杯>は、不安なきこと限りなし。綴りは遥か昔に失われたにもかかわらず、キフォーの義烈を双頭三肢の青鴉に明確に受け継いでいる。その旗幟の誇りにかけて、姫に毛筋ひとつの傷も付けさせはすまい」
「そうだ」
ザーニーイから不意に同意され、騎士は驚きを禁じえないようだった……あるいはその言葉をきっかけに致命打となりうる抗弁を打ち込んでくるのではと身構えたのかもしれないが。どうであれ旗司誓はその一言から歯向かうでも一言以上に追従するでもなく、無言に戻って騎士のせりふを待っている。
その態度を値踏みするでもないだろうが、騎士は慎重な様子で、話題を戻した。
「仮に間に合わせの人員を割き、そちらの旗司誓に無理に組み入れようものなら、それこそ組織が動揺するだろう。それを収めることができぬ霹靂ではないと理解してはいるが、避けることができる不幸をあえて抱き込むなど、愚行以外のなにでもない」
それで、騎士の弁舌は投了したらしかった。眼球の動きだけでそちらを見やるが、彼はそれに気付く気配も無い。ただ、やや目尻を厳しくした頑なな表情で、自分のせりふに過誤がなかったかを反芻するかのように半ば瞼を閉じて、前方を観察していた。
その観察される突端にいるザーニーイに、目が留まって―――ふと彼の双眸をよぎった深い色に不意打ちされ、キルルは吐息を中断した。どうやら彼は、騎士の説明に全幅の信頼を寄せることはできないが、それを言葉にして表明したところでどういった変化も生まないと理解したらしい。次に、その碧眼が睫毛にけぶってこちらを熟視してきた時、ザーニーイの声音はそれを体現するような奇妙な落ち着きを見せていた。
「―――どのようにせよ、【血肉の約定】は覆らない。我が双頭三肢の青鴉にかけて、完遂を誓う。この誇りにこそ、<彼に凝立する聖杯>は満ち足りるのだから」
騎士は、その返答に満足したようだった。その感情は呼気でほんの少し表現するだけにとどめて、肢体を律することで司左翼全員への合図とする。それに則り、以下全員が一斉に旗司誓へと黙礼を捧げた。大勢の人間によって小気味良いテンポで地面がこすられて、踵が打ち鳴らされる音が後ろから空気を一掃する。
そして―――
「背の二十重ある祝福に、背に二十重ある祝福を」
ザーニーイがそう口にした―――かと思うと、旗司誓三人全員が、揃った仕草で右手を翻してみせた。二本指でこめかみを擦ったかと思うとその腕を振り下げ、再度首の辺りまで引き戻し、掌の仕草と脚線の動作を唱和させる。旗司誓式の最敬礼なのだろう。それを受け、騎士は更に満足を重ねたように見えた……旗司誓でも司左翼でもないキルルが、あまりの居心地の悪さに汗を滲ませつつある間に。
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