されど誰(た)が為の恋は続く

DNDD(でぃーえぬでぃーでぃー)

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起章

起章 第三部 第一節

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「わあー……すごぉい!」

 <彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>の正門をくぐった瞬間、キルルはごくひかえめに感想を述べた。

 丁寧に整地されたグラウンドへと踏み込んだ二頭の騎獣きじゅうは、それまでと違った砂の感触を味わうような緩慢な歩速で、広大な敷地をまっすぐに縦断していく。それにつれてまぶしさに耐え切れなくなり、キルルは頭巾ずきんを下げて目を細めた―――小さな村くらい造作なく開墾かいこんできそうなただっぴろい空間にうず巻く千変万化せんぺんばんか極彩ごくさい色は、雹砂ひょうさの無色に慣れていた彼女の目には鮮麗せんれい過ぎた。茂る草木の青緑。腐葉ふよう黄枯茶きがらちゃ。そして……

 いかなる風景にも勝る鮮やかな原色を身にまとった旗司誓きしせいたちの、彼ら自身が着込んだ色彩と、それをも上回る陽気な歓声と喧騒けんそう

「お疲れ様です! 二十重はたえある祝福しゅくふくに!」

「背の二十重ある祝福に―――無事で何より! お帰りなさい!」

 十人や二十人どころではない……というくらいしか、ひと目では判断できかねる大人数だった。砕いたステンドグラスをぶちまけたようにグラウンドのあちこちへ散乱していた旗司誓たちが、次々とこちらの姿に気付いては、喜色を満面にしていく―――手元の何かを放り出して、振り上げた両腕を交差させるようにして振ってくる者すらいる。世界を灰色にくすませようとする曇天ごしの陽光など、払拭ふっしょくして余りある活気だった。そのおかげで、キルルも遠慮せずに歓声を続けることができたわけだが。

 その時だった。沸き上がる坩堝るつぼの中にありながら、ひときわ空に近い場所から、更に天へと腕が伸びる。

 騎獣で先行していたザーニーイがふとその場にとどまり、そうしてふてぶてしく笑んでみせた。

「おいてめぇら。まさかおれに、『背に二十重はたえある祝福を』とでもこたえてほしいってのか? はは! だとしたら、冗談じゃねえ―――」

 と、笑みを不敵にけわしくして、

「そんなありきたりの返礼じゃ、この俺の万分の一すら肩代わりできるはずがねえだろが! てめぇらのその背中に、二十重はたえどころじゃ済まねえ祝福を―――その旗幟きし、俺が信じてる!」

 空気がはじけた。

 ひとつひとつを聞き分けることなど出来ようもないひときわの喝采かっさいに、鼓膜こまくがぶちぬかれやしないかときもをつぶすが、そんなことを危惧きぐしているのは自分だけらしかった……大音声だいおんじょうのど真ん中にいるザーニーイさえ、耳をふさぐそぶりすらなく、背筋せすじを伸ばして周囲へと視線をせている。そこへ向けて、派手なはずの服の色さえ判然としないくらい遠くにいる旗司誓達までもが、はっきりした動作で敬礼を決めているのが見えた。

「ザーニーイったら、人気者ね」

「あたぼうよ!」

 ぽつりとつぶやいただけだというのに、ありえない激しさで背後から同調されて、キルルは背中が引きつる反動まじりに振り返った。彼女の真後ろに陣取って騎獣を操舵そうだしているエニイージーが、興奮するままにほお紅潮こうちょうさせて、どこか少年じみた面影を割り増ししている。

「頭領をしたわねえ奴がいるかよ! 誰よりすげえ……ほんとすげえ人なんだ! 先代がこの人を見出して<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>に来てくれたことに、俺はほんとに感謝の言葉しか浮かばねえ―――!」

 こちらを置いてきぼりに矢継やつばやに放たれる賛美さんびに、キルルは目を白黒させながらどうにかうなずいた。振り向いた視界には、熱狂するエニイージーと、重厚な門扉もんぴの向こうに残してきた雹砂まみれの荒野が見える―――敷地は、四隅よすみに物見塔がある高い外壁が取り囲んでおり、今は通り過ぎて背後にある出入り口からだけ、外輪の光景をのぞむことができた。

 そして、タイミングを見て視線を元に戻し―――

 今、目の前にそびえ立つ頑強な建築に、胸を高鳴らせる。

 ほぼ曲線で構成された王襟街おうきんがいの街並みに慣れたキルルにとって、それは圧巻だった。形状としては、巨大な長方形に近い―――とてつもなく、強固で超大ちょうだいな長方形である。

 その屋上から、巨大な<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>の旌旗せいきが青々と掲げられているとなれば、抱いた印象は否が応もなく強まっていった。その双頭三肢そうとうさんし青鴉あおがらすを視界に納めきるには、こうして騎獣にまたがっていてもなお、高さを補正するために、空まで振りあおがなければならない。騎獣の行進が再開され、建物への距離が縮まるにつれて首を急勾配きゅうこうばいにしつつ、キルルは高揚任せに胸元で手を組んだ。

「なんて強そうな家なのかしら!」

 彼女の緊張がほぐれたことで、騎獣の操舵が楽になったのかもしれない。彼女の背中を預かるエニイージーが、キルルの勢いに便乗するように、声をうわつかせる。

「だろ? 窓は小さい上に鉄格子てつごうしつきで、硝子がらすがあるのはほとんど最上階のみ。一階は、食堂みてぇな、構成員の共有スペース。二階は物置や書庫。そんで三階は、頭領達の部屋や、屋上で物見する奴の仮眠室とかだ。でっけえ圧縮あっしゅく煉瓦れんがを使っての三階建てで、ちょっとのいさかいじゃびくともしねえぜ」

「まるで城塞じょうさいね!」

「―――ああ。そうだな! 俺らの城だ!」

 エニイージーが、意気揚々いきようようと宣言した。

 それと共に彼が胸を張ったために、わずかに前へと押し出される。それを肩甲骨けんこうこつの辺りに感じ、キルルは何の気なく視線だけで振り返ろうとして……やめた。エニイージーの表情は予想できたし、自分がそれを見て、多少なりとも気落ちしないとは考えられなかった。

(あたしはあの城を、こうやって自慢できないもの)

 規模だけで言えばこことは比較にならない王城、国家の王冠たるデューバンザンガイツを思い出す。嘆息し……そこにお似合いのイヅェンの姿がついでに脳裏に浮かんできて、更に気分が陰鬱いんうつに傾くのを感じる。あの冷血漢れいけつかんが抱えることのない、他愛ないのだろう・・・・懊悩おうのうを、自分ひとりばかりが溜め込んでいく。もう慣れたことだが、だからといって気分が良くなるわけもない。

「―――ルちゃん、どうしました? 酔いましたか?」

「え、あ、何?」

 呼びかけに、我に返る。

 騎獣が止まったことにも気づかず、いつの間にかうつむいていたらしい。その先の地面には、騎獣からとうに降りた様子で、ゼラが立っていた。彼と相乗りしていたザーニーイはと言うと、少し離れたところで、キルルのチェストと旗幟きしを騎獣から降ろしているところだ―――というのに見下ろせば、やはりゼラは、ただ諸手もろてをこちらへ向けて挙げているだけである。

 とりあえず、いてみる。

「なにしてるの? ゼラさん。ザーニーイ手伝わないと」

「ええと。ナニをするために、こうしているんですけれども」

「?」

「ひとりで降りられるはずないでしょう。そこから」

 愕然と思い知って、キルルはただ悲鳴を上げるしかなかった。

 結局は、泡を食ったせいでかえって尻にひいた騎獣を混乱させてしまい、ひと悶着もんちゃく招いたが。

 それでも彼女が無事に土を踏んだ頃には、エニイージーの手腕によって、すっかり収まりが着いていた。瞠目どうもくしながらまじまじと、騎獣の巨大な鼻面と、それよりは愛嬌あいきょうがあるエニイージーを見詰めて―――

 そのエニイージーは彼女の注視に気づくこともなく、さも慣れた様子で最後にひらりと降りてみせた。そして、もう一頭の騎獣の手綱をザーニーイから受け取って、その革帯かわおびを軽く示してみせる。

「それじゃ俺は、こいつらを街に預けなおすよう、手はずを整えますんで」

「任せた。頼む。背に二十重はたえある祝福を」

「はい! 頭領こそ、背に二十重はたえある祝福を!」

 エニイージーは、なつくように寄せられる騎獣の首根っこをあやすのに片手を塞がれていたために、片手で簡単な敬礼をした。そうして数秒を捧げてから、バンダナの新緑色を含んだ髪をはためかせながら、門の方へ騎獣を連れて引き返していく。

 キルルはその背中に手を振って、エニイージーから返されてくる同じ仕草がおさまるまで見届けてから、わきにいるザーニーイに話しかけた。

「あの二頭、ここで飼ってないの?」

「あれは王裾街おうきょがいにキープしてるやつだよ。街からこっちへどうしても騎獣を使わにゃならん時は、あいつらを使うんだ。悔踏かいとう区域くいきの騎獣は、悔踏区域の空気でしか暮らせねぇからな―――ここから無理やり街に近づければ、ひたすら逃げ出そうとして手綱ブッ千切ちぎりやがるし。そいつも無視して市街につないでおいたところで、秒単位でばんばん弱るだけだ。郊外に預けといたとしても、街の腐臭ふしゅうの抜けねぇ人間は絶対に騎乗させちゃくんねぇしな」

「それって、面倒くさくない? 外輪がいりん用と市街用とをとっかえひっかえ、行ったり来たりしなきゃならないってことでしょ」

「普通は、面倒にゃ思わん」

「なんで?」

「普通、そんなこと起きん」

「ふーん。なら普通じゃないのね。今」

 ふと返事が絶えたことに、今一度、彼を振り向く。

 控えめに言っても、彼は答えあぐねているようだった……会話の展開に無言を強いられたと言うよりも、言い出しかけた何らかのせりふを噛み潰そうとして歯に挟まったような顔つきにも思えたが。

 どちらにせよ自分が口出しできることではなく、キルルは無難に話題を続けた。

「いっそのこと、馬にしたりしないの?」

「馬、は、」

 と、眉根まゆねを人差し指の付け根でこすって、言葉を反復する。

「馬は騎獣と違って純粋な雑食じゃねえから、飼料しりょう調達ちょうたつが手間だ。言ったろ。行ったり来たりっつっても滅多にあることじゃなし、馬を飼うよりは面倒じゃねぇさ。ほれ、もう行くぞ」

 あっさりと会話を終わらせ、ザーニーイは顎先あごさきで促してから、建物の方へと歩き出した。チェストと旗を抱えたゼラの背中を追い越して、その後ろにキルルが続く。

 建物に足を踏み込むまでのあいだに、旗司誓たちの敬礼と呼びかけは倍加していた。ザーニーイは律儀にそれらに応えながらも、慣れたように歩を進めている。ななめ後ろを見やると、さすがに両手が荷物でふさがったゼラは笑顔だけで対応していた。自分も笑顔でも振りまくべきかと迷ったが、その頃にはもう、要塞ようさいじみた建物の中へと足を踏み込み終えている。

 外見からはあまりに無愛想で頑健すぎる堡塁ほうるいと思えだが、こうして入ってみれば、何の変哲もない散らかった廊下と生活臭があるだけだった。窓はほとんど上階にあるとエニイージーが言っていた通り、差し込む日光もまばらで、人影はさらに少ない。まあ後者は、食事の時間帯をとうに過ぎているせいもあるのだろうが。

 迷うことなく、ザーニーイが進んでいく。それに付いていくのも慣れた頃、歩調を落とした彼が振り返ってきた。

「今回のあんたの役目は、後継第一階梯かいていについて俺らが悔踏かいとう区域くいき外輪がいりんで探索を終えるまで、<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>に滞在することだ。つっても、あんたの親父おやじさんの事情によっては―――つまり容態の急変ってことだが―――、切り上げられる可能性が高いだろうが」

 と、そこで彼は、天井を指差してみせた。

「あんたの部屋はちょうどこの二階分真上……三階にある応接間のひとつを用意してある。一応、ここでは一番上等の客室だ。これからそこにあんたの荷物を置いて、<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>であんたがようになるだろう生活空間を案内する。それとも、少し休んでからにしたいか?」

「ううん。全然」

「オーケイ。ちなみに、巻き上げ機を動かす人間なんざ馬鹿馬鹿しくて配置してねぇから、昇降機エレベーターは使えねぇぞ。階段は建物の真ん中あたりにある―――こっちだ」

 キルルが口をとがらせたことで、そこから不平が飛び出る気配を察知したのだろう。彼はそっぽを向いて、早足を再開した。首を伸ばしてキルルを見てきたゼラが、抱えるチェストの影から微笑びしょうを投げかけて、出遅れた彼女を追い抜いていく。

 二人の背後でぶちぶちとくちびるを鳴らすが、どちらも反応してくれなかった。仕方なく地味な抗議をやめて、ザーニーイの横まで戻る。廊下は広くもなかったが、そうして歩く程度には差し支えない。

「ねえザーニーイ。あたし、どこかでお披露目ひろめされるの? 王女が着いたぞーって」

「そのつもりだったが、やめた」

「何で?」

 そこで階段に差し掛かり、ザーニーイは視線でキルルに注意を促してきた。研磨けんまされているとはいえ、それなりに勾配こうばいのある段は石材がむきだしであり、段通だんつうも引いていない。

 のぞき込こんでいたキルルの顔が引っ込むと、ザーニーイが先陣を切って階段を上り出した。

「あんた、王女っぽい扱いしなくていいんだろが?」

「うん」

「それが一つ目の理由。やるだけ無駄なら、形式なんざ、こなすだけ損だ」

「無駄って。紹介は無駄じゃないでしょ? なんていうか、ほら……あたしが来たことで、護衛だなんだで、誰かの勤務が替わったりとかもするんじゃない?」

「無駄なのは、構成員を一度集合させて、はい姫様ですとお披露目するっつう方法だ」

「え?」

「あんた一人をお立ち台に立たせたところで、うちの連中がろくすっぽ興味持たねぇのは目に見えてる。俺があんたを連れ回して<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>の造りでも案内しながら、会う奴から適当においおい紹介したほうがなんぼかマシだ。頭領が見知らぬ奴を連れまわしてりゃ、嫌でも目に留まっだろ」

「羽が生えた美少女が来たのに、一目見たいとも思わないの?」

 階段は、一階から三階まで蛇腹じゃばら螺旋らせんで直通する構造ではなかった……ひと階層に達するごとにその階段は終わり、そこから違う方向へ廊下を進んでから、また更に上階へ至る階段をのぼることができる。敵に攻め込まれても、一気に占拠せんきょされないようにとの工夫なのだろう―――とはいえ、敵でも攻め込んでいるのでもない身としては、非常に迷惑極まる代物である。通路と段をひたすら踏むうちに息切れがかなりきつくなってきたが、キルルはそれでもザーニーイへ問いかけた。階段を上りながらしゃべるなど、あまり得意ではない―――当たり前といえば、当たり前だが。もっとも鍛え方が違うのか、ザーニーイは彼女よりもはるかに喋っているというのに、まったくせりふによどみが無い。

つばさ頭衣とういなんぞ、うちの誰も一見の価値は感じねぇだろうな。美少女とやらは見たい野郎もいるかもしれんが、……ぎりっぎりのラインだし」

「後半の失礼な部分はひとまず置いておくとして、仮にも王女相手に一見の価値もないの?」

 そこでようやく―――キルルにとっては、ようやく―――階段が終わる。最後の一段を踏み越えてうわずった呼吸を整えていると、さすがにザーニーイも立ち止まってくれた。

 三階は、目に見えて、下の階層よりも窓の数が多い。おかげで明度が上がっているので、廊下も隅々すみずみまで見渡せた。雑多に放置された荷物が床に見当たらないのは、この階層を利用する人間が限られているせいだろう。その当事者であるらしいザーニーイは、チェストを抱えたゼラが何事も無くその廊下に出てくるのを、目の動きだけで追っていた。

「無礼な話かもしんねえがな」

 前置きしたわりに躊躇ためらうことなく、ザーニーイが続けた。

「今回の俺たちに重要なのは【血肉ちにく約定やくじょう】の遂行すいこうであって、そのダシにされた姫様じゃねぇんだ。シェッティの箱庭の骨肉こつにく事情の末に飛び出てきたなんか毛色の違う奴は、ここにしばらくいるらしいから、いつも通り動いて旗幟きしごと守ってりゃ問題ねえ―――箱庭はこにわも血縁もどうでもいい俺たちにとっっちゃ、キルル・ア・ルーゼはそんくらいの認識なんだよ」

「箱庭? シェラちゃんシェッティって誰?」

「ただの外輪のスラングだ。ごちゃごちゃした建物が子どもの作った箱庭みたいだってんで、市街地の事を、箱庭。その中でも特に、西の碑姫ひきシェーラマータ・ア・ヴァラージャが見る先にあるから、王冠城おうかんじょうデューバンザンガイツを含めた王襟街おうきんがい王裾街おうきょがいっつう首都周辺の街を、シェラちゃんシェッティの箱庭って呼んでんだよ」

「ふうん。ところで」

 そこにきて、ようやく落ち着かせた呼吸をキルルは意図的に荒らげた。開いてしまっていた距離を埋めて、つかつかとザーニーイへ詰め寄る。

「あたしがぎりっぎりのラインってどういうこと!?」

「プリンセスだったら毛色の違う奴云々うんぬんって軽薄けいはくに表現されたことの方に気位きぐらい逆撫さかなでされるべきじゃねえのか?」

 どこかどんよりまゆを寄せて指摘してくる彼に、更なる苛立いらだちが募る。それを手を振り回すことで表現しつつ、キルルは感情に任せて怒声を発した。

「なりたくてなったわけでもない王女なんかより、女の子のプライドの方が重要に決まってるでしょ! なんなの! ぎりっぎりって!」

「うちの連中の一見いっけん以上の価値になるにゃ、色気のレベルが足らん。具体的には上から乳・腰・尻」

「なあんですってぇ!!」

 途端、目の前にあったザーニーイの顔面が消える。

 ぎょっとして半身ほどると、彼の頭は彼女よりかなり下まで押し下げられていた。余計わけが分からず更に後ずさると、チェストと旗を手放したゼラが何やら複雑な羽交はがい絞めをザーニーイに極めているという全貌ぜんぼうが、ようやっと理解できる。相当な苦痛なのか、ザーニーイはなんとも形容しがたい苦悶くもん形相ぎょうそうとなっていたが、そんなことはそ知らぬ風体ふうていで、ゼラがキルルへとびてきた。

「すいませんねぇキルルちゃん。この子ったらこの通り馬鹿ばかで。この通り馬鹿で。ほら、土下座どげざよりも面白おもしろ体形たいけいを見せますから、許してあげてください」

 と、力を込め始めたのか、確かにザーニーイは面白い体形にさせられた―――と同時に、人体の可動域かどういきぎりぎりまで変形させられた肢体したいからごりゅりゅりゅりゅと奇妙きみょう軋轢音あつれきおんを垂れ流しつつ、それに勝るとも劣らない勢いで脂汗あぶらあせと悲鳴を噴き出し始める。

「おじさんやばいやばいやばいっ! 外れる! このままだと関節的かんせつてきなものが外れるっっ!」

「ゼラ、でしょ頭領。折角せっかくの機会ですし、肉体から魂魄的こんぱくてきなものが外れる体験もしてみてはいかがですか?」

「ああああああああっっ!!」

「ええええええっ!?」

 叫び声の最後をザーニーイからかすめ取って、キルルは目を丸くした。いろんな意味でぎりぎりになりかかってきたザーニーイに至極しごく穏やかにとどめを刺そうとするゼラを、思わず指差して、

「おじさん!?」

「はい」

「あのええと! だって! わりと中年って自分で言ってたけど自称なりにウソ臭かったし!」

「あらま。傷ついちゃおうかな。わたし」

「でも! そんなこと言われても―――どう見ても、ザーニーイの先輩くらいじゃ……!?」

「まあ、先輩はあながち間違ってもいませんけど」

 目玉も口も綺麗きれいな円にしてぱくつかせる彼女に対して、ゼラはわずかに首をかしげた。そして手元で顔を変色させているザーニーイを見下ろしながら、微妙に愁眉しゅうびを寄せる。

「わたし、そんなに三十六に見えません? 顔はまあ仕方ないとして……髪、伸ばしてるせいでしょうか。どう思います? 頭領」

「今の俺に査定さていできるか! ンなこと!」

「あ。髪と言えば」

 ぱっとザーニーイを捨てて、ゼラはキルルへと向き直ってきた。そのままぼとっと床に落下してうめいている頭領に見向きもせず、自分の漆黒しっこくの長髪のふさをつまんでキルルへと示してみせる。

「キルルちゃん。実は、悔踏かいとう区域くいきの空気がこの辺りまで流れてきていまして、それがつめや髪をじわじわと侵食しんしょくするんです。つまりものすごい早さで痛んで、色が抜けたり、切れたり、ぼろぼろになってしまいます。わたしのように手入れする方法もありますが、手間を考えると、爪は短く切ってしまって、頭は頭巾ずきんでなく密閉できる方法でカバーしておいた方がいいでしょう。それとその高そうな刺繍服ししゅうふくも糸が切れてばらけてしまうと思いますので、そちらはしまって無地の服を着ていた方が無難ぶなんかと」

「え? そうなの?」

 ぐでりと倒れこんだままのザーニーイから、視線をチェストへと移す。中身を詰める作業を見ていないため、具体的にどんなものが入っているかは知らなかったが、その総額程度はキルルでも予想できた。それを傷物きずものにするのは、できれば遠慮したい―――イヅェンが聞けば途端に説教せっきょうが降ってくるに違いない貧乏臭びんぼうくさ志向しこうだが、今はいない弟の機嫌を取る気はさらさらなかった。

(あいつの目が届かない上に、あたしをお姫様って見る人すら誰もいない、絶好の機会だもの。のがす手はないわ―――ここでは、ただのキルルで気楽に過ごすの。連日連夜の王家だったんだから、この辺でガス抜きしたってバチは当たらないはずよ)

 そう考えると、王家の持ち物を使わないでいい言いわけができる今の状況は、むしろありがたいともいえる。

 かといって、彼女の持ち物は、あのチェスト一個しかない。ゼラをうかがうと、彼はとうにこちらの言いたいことを察しているようにほほ笑んでいた。ほっとして、安心しながら尋ねる。

「ごめんなさい。一式、貸してもらっていい?」

「はい、わたしの持ち物でよければ」

 裏切らず、ゼラが答えた。思い出すようにちらとよそ見して、続ける。

「そうですね……あそこなら髪をまとめる物もそろっているので、まずはわたしの部屋へどうぞ。ほら頭領、そんなところでナメクジの真似まねなんかしてないで、行きますよ」

 さっさとチェストを旗もろとも床から拾い上げたゼラが、つくばるザーニーイを避けて通るルートを歩きだした。それに付いて行きながら背後を見やると、目元を陰険いんけんにしたザーニーイが、手足を接着剤からがすようにしてずるずると起き上がったところだった。キルルがちょろっと出した舌をそこへ向けると、瞬時にザーニーイの双眸そうぼうは凶悪な斜度しゃどを強めたが、それに見ないふりを決め込んでゼラの横まで追い上げる。

 こうしてみると、やはり自分よりも彼の方が背が低かった。その柔和にゅうわな横顔は、とんでもなく若々しい。顔立ちの系統けいとうが異なるせいでもあろうが、とても三十代とは思えなかった―――この語り口と物腰さえなければ、せいぜいザーニーイの兄程度か、あるいは……

(お姉ちゃん、の方がしっくり来るわね)

 姉。

 それの意味合いに、別の思考が重なる。異母いぼから生まれ出た、自分の姉……

 思わず、今はひたすら短くなった自分の髪を、目の動きだけで見上げてみる。緋色ひいろに混じっただいだいのメッシュは、ぎりぎり視界にとらえることができた。

(お父様とジヴィンの子どもは、あたしより先にこれを持って生まれてる。そして、貴族に監禁されて秘密裏ひみつりに生きてた……その羽根を売って、法外な利益を得るために。そしてその貴族は、私腹を肥やし続けるために、お父様の勅命ちょくめいも無視して丸ごと秘匿ひとくしてる……?)

 どうも納得できない。

 後継第一階梯がからんでいるとはいえ、そのような小金こがね収集目的の貴族ごとき、あの小賢こざかしいイヅェンがここまでして―――つまり後継第二階梯である自分を、王威によって安全圏が保たれているとは言いがたかろう悔踏区域外輪に差し出すリスクを犯してまで、目のかたきにするだろうか? キルルのことをどうでもいいと思っているのはキルルの凡庸ぼんようさとイヅェンの非凡さを知るごく身近な臣下たちであって、イヅェン当人ではありえない・・・・・のだから。

 それは、キルル自身が身をもって知っていることだった。王家に迎えられて以来、イヅェンはあくまでも彼女の補佐役として、身を粉にしているのである―――キルルの命令に従って政務を完璧に代行したとて、最後の押印おういんだけは必ず彼女へ要求するという無意味な手間を弟が欠かしたことがないのは、その最たる例だった。無論、例の後続は事欠かない。キルル自身・・・・・を玉座に相応ふさわしくするために彼女の勉学に全く妥協しないが、そのスパルタの反面、とりあえず機械的にきっかり八時間の睡眠は確保させる。毎朝の御殿医ごてんいの往診を欠かさせたこともなければ、食事の摂取量やバランスにまで逐一ちくいちと口を出す。決まって、こう言いながら。

―――当然のこと。今は小姉君ちいあねぎみこそが、王位を継承される御身おんみであらせられる―――

 ありがた迷惑なことに、彼は実に忠実に、王家として母親に教育されたらしい。よって、キルルと三流貴族を天秤にかけた末に彼が導き出した結論として、今のこの状況に違和感を感じざるをえない。

 そもそも今回の【血肉の約定】どうこうの根拠となった話自体、海のものとも山のものとも知れない風聞ふうぶんである。頭脳ずのう明晰めいせきを絵にしたような弟の腰を上げさせるには、レベルが低すぎる―――どころか、鼻で笑わせることさえ無謀だろう。

 が、キルルの胸中をさいなむには、それについての疑惑はあまりに深すぎた。そのようなパズル、弟がとうに解き明かしたからこそ、自分はここに派遣されたのだろう。そんなことは、この半年のイヅェンの行いからいって、疑うべくもない。

 よってキルルの煩悶はんもんは、もっと単純な矛盾から生まれていた。姉。血統。紅蓮ぐれんごとつばさ頭衣とうい。長子。後継―――姉。

(なんで、あたしより先にこれをもって生まれてる人がいるのに、あたしがイヅェンと結婚してお父様の次に王様になんてなんなきゃいけないの?)

 と。

 ふとゼラが荷物を運ぶまま、手袋に包まれた右手でほおいて、こちらへ横目を寄せてきた。チェストと旗は片手で保持するにはそれなりの重量のはずだが、そんなことはおくびにも出していない。

「長々と歩かせてしまって、申し訳ありません。女の子には大変でしょう? ここ、結構大きいんですよ。部屋数は各階に十から十七、離れとして別に三むねあります……まあ、そこは武器庫や病人宿舎しゅくしゃですから、キルルちゃんは立ち入ることもないとは思いますけれど。先ほど通ってきた前のところには及びませんが、中庭もかなり広さがありますね。小屋が三つありますから、すぐ分かりますよ。裏庭はもっと狭くなって、それのもう半分程度といったところでしょうか」

「……とてもじゃないけど、想像できない規模だわ。純血の貴族でさえ持ってるかしらね、こんな屋敷」

「今から箱庭に建てようとするなら、首都にある金庫を残らず強奪するしかありませんでしょうねぇ。さ、ここがわたしの部屋です」

 ゆったりと、ゼラが立ち止まった。

 彼の体を挟んで向こう側に、時代遅れの彫細工ほりざいくが成された木製の扉がある。ゼラは顔へやっていた手をそのまま取っ手に掛けて、その入り口を開けた。

 が、全開にはしない。半分ほどだけひらいた隙間すきまから体をななめにして入っていく様子に不審ふしんを感じ、その姿を目で追うと―――あっという間に、その疑問は氷解した。部屋の中は、彼女の視線すら侵入をはばむかのように、洒落しゃれにならないほどの荷物で埋め尽くされていた。

 そっと扉を押してみるが、やはり予想にたがわず、裏側に積み上げられている何かが邪魔になって、それ以上は進んでいかない。

 キルルは顔を半分だけ中に突っ込んで、そのままぐるりと奥まで見渡した。ここから確認できるのは、大小の箱が渓谷けいこくの如く部屋を覆い、石柱のように整然と本が足元から天井に向けて林立しているという有り様であり―――つまりは、それがすべてだった。内容物に遮られ、壁どころか床さえ見えない。立てかけられた棒のようなもので窓からの日光は半減しており、それが差し込む先にあるベッドは大半がメモ用紙のようなものに占拠せんきょされている。そこにある、ゼラが普段寝ているのだろう人型にしわの寄ったシーツのスペースだけが、ここが倉庫ではなく私室なのだと主張していた。

 それ程散らかってもないし汚くもないのだが、とにかく物が多すぎる……なにせ壁が見えないのだから、本来の部屋の大きさなど知れやしないのだが、許容量オーバーであることは火を見るより明らかだった。

 ゼラはというと、彼女のような反応はとっくに慣れっこらしい。適当に旗を立て掛けてから、チェストを周囲の荷に引っ掛けないように振り向いて、照れたような困ったような苦笑いをふわつかせるだけだった。そのつま先を見ると、獣道けものみちとしか言いようがないその場所さえ、用途がよく分からない端切はぎれのようなものに覆い尽くされている。

「……床はどこ?」

「とりあえず、踏み出せば靴底に触りますとも」

「やめい。そんな冒険心」

 唐突ににょっきりと背後から首を出したザーニーイがそう言って、キルルのすぐわきでため息をついた。

「だから気が進まないってんだよ。ゼラの部屋は。ちったぁ片付けてくれっつったろ?」

下手へたに触ると、逆にどこに何があるか分からなくなるじゃありませんか」

「分かろうが分からなかろうが、昔っからあんたは自分の好きなことしかしねぇだろが」

 言いながら、彼はさっさと中に入っていった。慣れた様なり足でゼラとは違う方向に進んで、荷物の山陰に隠れて見えなくなる。それとほぼ同じくして、向こう側からなにやらがさがさという物音が聞こえてきた。間もなくその騒音にまぎれて、彼のあきれ声が吐き出される。

「……そらやっぱり、もうないっつってた整髪油せいはつゆ、切れたまんまじゃねぇか。あ、保持剤まで。ほれ、机に新品置いとくぞ。まあ、そこからじゃ見えねぇだろうけど」

「ちゃんと買い置きはしてあるところが、わたしらしいですよね?」

 ようやくドアまで戻ってきて、ザーニーイはゼラに半眼はんがんを向けた。横転した戸棚を跨いでいたため、中途半端に体をひねりながら。

「チャームポイントだとでも思ってんなら認識は改めとけよ。あと、先にキルルの着替え出してやれよ。頭を整えてからだと面倒になるだろ」

「はぁい」

 返事もそこそこに、ゼラはチェストを家財の一角に置いて、すぐ横にある箪笥たんすの一段を引き出した。が、ねらいの物がないと、すぐに分かったのだろう。物色は一瞥いちべつだけにとどめて、さっさとその下の段を開ける。それを幾度か繰り返してから、彼は軽く吐息して顎先あごさきに指を当てた。

「うーん、大きさはいいにしても……やっぱり、女の子が好きそうなセンスの服なんてありませんねー」

「のっけからおっさんの部屋にンなもんが常備されてたら、逆に気色悪ぃと思うが」

 ザーニーイが冷めた声音でつぶやいてから、彼と逆方向にある棚を指差した。

「そこらへんにあるシゾーのおふるとかでいいじゃねえか。雑巾ぞうきんにバラしてねぇやつ、ひとつくらい残ってんだろ? 子ども服だったら、色だってまだマシだろうし」

「あ。そうですね。でしたら、―――あ、ありましたありました」

 ザーニーイの示した棚に、半ば上半身を突っ込むようにしたゼラが、安堵あんどしたような声を上げた。

 キルルは勇気を出して、そこへ近寄って―――四歩目で、なにやら得体の知れないぐにゃりとした感触を足の裏に感じたが、必死に無視し―――、背伸びしてゼラの手元をのぞき込んだ。そこには、男物の上下一揃いの衣服が乗っている。長い間しまわれたままになっていたのか、たたんだ折り目がくっきりと付いていた。簡便な縫製ほうせいで飾り気もないくせに、色合いだけは明るい―――ザーニーイが言うとおり、子ども服なのだろう。

(……子ども体型だって言いたいのかしら)

 先ほどの彼の言葉を思い出すと勘繰かんぐらずにおれないが、これ以上は選択の余地もないらしい。ゼラが先に探っていた箪笥たんすの中を目線でひとさらいするが、その服以上に自分に合いそうなものは見当たらなかった。

 とりあえずゼラから受け取って、胸の前で肩から腕に掛けて広げてみる。多少袖口そでぐちが余るが、それ以外はなんともないようだった。袖口……

(あ。この袖の、縫い目のやり方―――)

 言葉より先に、思い出す。

 この袖口から生えた手首は痩せていた。手首の先にある手も細かった。そして、―――その両手に包み込んだよく分からない枯れ草の団子を誇らしげにこっちへ突き出して、まるくなってうたた寝する子猫を作ったんだと言い張る少年。彼が笑うたび、かけた前歯に気をとられた。しばらくして名前を聞かれ、よく知らないと答えたのは、悪気があってのことではない―――それゆえか、その子はさほど気にかけた様子もなく、剽軽ひょうきんなぎょろ目を上向かせて首をひねった。じゃあさ、まずは俺の名前を知っとけばいいよ。おっちゃんが言ってたんだ。人間は、他人事ひとごとほどに、よく分かるって。それでコツをつかんだら、次は自分のことを知ってけばいいじゃん。いいかい? 俺の名前は―――

(カルガー。そうよ、カルガーって言ってた。あの子のと、おんなじ……)

 前触れなく記憶をいろどった思い出に、キルルは思いがけず息を詰めた。それは多分五歳か六歳の時、なんの悪戯いたずらかひとりで敷地外まで迷い出てしまい、壁づたいに門扉もんぴを探して歩きつかれた時だった―――なんだかよく分からないが少年と仲良くなって、ついには見様見真似みようみまねの鬼ごっこに興じた。そのうちキルルが「あなたの方が足が速いのに、格好まで動きやすそうなんてずるい!」と言い張って、上着を交換させた。ずるずると長い長衣のすそを踏んですっ転んだ少年とは、あれ以来会っていない……はずなのに、視界を奪った記憶の風景の、あまりの鮮烈さにきつく目を閉じる。

(なんで忘れてたの? あそこで、こんな楽しかったこと、忘れるはず―――ないのに)

 にじんだ涙を目蓋まぶたで潰してから、キルルは目を開けた。ゼラに向かって、声を震わせる。

「あたし、これ着させてもらってもいい?」

 自分の外面そとづらを、完璧に取り繕えた自信はなかったが、ゼラは特に追求するそぶりを見せなかった。ただ首肯して、部屋のすみあたりを示してみせる。

「そちらの物陰で着替えてみてください。簡単な作りですから、ひとりで着られると思います。背中に留め具とかありましたら手伝いますので、一声どうぞ」

「ありがとー♪」

「あいつは背中に回す手の邪魔になるほど胸に肉ついちゃいねえだろっていだだだだだだだだだっっ!!!」

「ゼラさん、そいつ半殺しねー」

「はぁい」

「おじさん出る出るってマジで出るマジでっっ!! なんか大切でインポータブルなもんがはみ出ていぐあぁぁぁぁっっ!!」

 ともあれ。

 程なくして、ザーニーイの奇声が消えた。扉が開閉する音もしたので、彼がこれ以上余計なことをしないように、ゼラが廊下に放り出したのだろう。キルルは、ひとりで着替えを終えて―――元々着ていた服にあった悪辣あくらつな謎かけとしか考えられない留め具を外すのは苦労したが、それでもなんとか終えて―――服と頭巾を抱え、そこからひょいと首を伸ばして部屋を見回した。ゼラのいるところまで戻って眼差まなざしだけで探してみるが、やはりザーニーイの姿はない。

 と。

「キルルちゃん。そちらの服なんですが。君の持ってきた箱には入りきらないようなので、別の箱に入れて、釘でも打っておきましょうか?」

 ゼラはそう言って、木箱の上に積んだままのチェストを、軽くたたいてみせた。満杯を示す音の調子を聞かせたかったのかもしれないが、生憎とそのような知識は持ち合わせていない。キルルは胸元で元の服を適当に畳みながら、チェストをながめやった。

「釘? ただ、しまうだけじゃ駄目なの? 悔踏区域の空気ってすごいのね」

「いえ。それもそうですけれど……なげかわしいことですが、この界隈かいわいにも時折泥棒が入り込みましてね。可能性は低いとはいえ、その服、織り方も細工も一級品ですし……泥棒が王家の印章に気づかないまま、売り飛ばしたりすると大変でしょう? 君の持ってきた箱は鍵がかかりますが、こちらの箱にそんな上等な物は付いていませんので」

「そうなんだ。なら、分かったわ。ゼラさんの判断に任せる」

「はい。じゃあ……これにしましょうかね」

 手近な白い木箱を取り上げたゼラに促され、服を手渡す。彼は受け取ったそれを空箱の中に埋めながら、先ほどザーニーイが向かった奥へと、きびすを返した。

「ではこれは後で釘を打ち、チェストとまとめて君の部屋に運んでおきましょう」

「えー? いいわよ、わざわざ持ってこなくても。ここにいる間は、どうせこっちの服しか使わないもの。そうね……チェストごと全部、そこらへんに置いといて」

「はあ? しかし、……」

「いいのいいの。だって、ご飯とかみんなと一緒に食べたいからあたし用の食器もいらないし、小物だってきっとお飾りばっかりで使い勝手が悪いやつだし。どうせ開けもしないんだったら、あたしの部屋に運ぶだけ手間も労力も無駄よ。ね? ね?」

 一気に言いつのって、キルルはゼラに顔を寄せた―――今のこの格好で、城のものを使うなど、どうあってもしたくなかった。

 相手の振り向かせてきた顔は僅かに思案に暮れたように見えたが、別にこだわるでもないらしい。逡巡しゅんじゅんのわりに、ゼラはあっさりとうなずいてきた。

「そうですね。君がそれでいいのなら、結構です。でしたら、わたしと君の部屋は同じ階ですし、必要な時は取りにくるということで構いませんか?」

「うん。ありがと。お願い」

「さ、髪の毛に取り掛かりましょう。こちらへいらっしゃい」

 と、ゼラが進み出す。彼の掻き分ける跡を辿たどるように進むと、すぐに、大きさ自体は大きな執務机にたどり着いた……と表現するのは、そこも例にたがわずごちゃごちゃと物の基地に成り果ててしまっていて、人の使える余地が限られていたからだが。何か光ったような気がして目を凝らすと、積み上げられた紙束や皮製本の間に、小さなびんが押し込められていた。机上で背比べをするような荷物の中で、何となくその瓶だけほこりをかぶっていないため、反射光が目立ったのだろう。これがさっき、ザーニーイが置いていった物らしい。

 椅子を引くスペースを作るため、ゼラが床の物を足の先で薙ぎ払うと、そのたびになにやら致命的な物音が立った―――が、彼は今更、気に掛けるつもりもないらしい。最後には確実にいくつかき潰す軌跡で椅子を出して、キルルに腰を下ろさせた。そして、すぐ横で机にのしかかる様にしながら、奥の方からくしやターバンといった物品をそろえ始める。

(服はしまってあったのに、こういうものはここにあるのね。髪の手入れとか言ってたけど、ゼラさんもターバン巻いたりするのかしら)

 きびきび動いているゼラを見ていると、途端に何もしていない状態に手持ち無沙汰ぶさたを感じた。思考を遊ばせておくのにも飽きて、適当に見繕みつくろった話題を振ってみる。

「ゼラさん。家名かめいのイェスカザはともかく、ゼラなんて変わった名前ね」

 矢先。相手の手にしていた瓶の中の液面が、不自然に揺れた。動揺を示す反応としては、分かりやすい方だろう……それが、暇に飽かせて彼の手元を注視していなければ絶対に見逃していたはずの、ごく些少さしょうな表出だったとしても、だ。

 思いもかけず意表を突けた得意さに、キルルは一本指を立て鼻を上向かせた。

「ゼラ。意味は古語で、分身、表裏、双子、それと……影、だったかしら?」

「―――あらら。分かりますか? 参りましたねえ」

 観念したように、ゼラが答えてくる。見えるはずの横顔は、豊かな黒髪に隠されていて、表情は分からなかった。

 彼の分の感情まで代行するではないが、キルルは表情を一段とにんまりさせて、立てた指をちっちっと振ってみせた。

「イヅェンに習わされてたのよ。現代人は現代語を使えていればいいの、なんて思ってたけど、まさかこんなとこで役に立つなんてね。由来とかってあるの?」

「ふふ、さあ―――でもまあ、わたしは変わり者ですから、名前も変わっていたほうが統一感が出ていいでしょう」

 こちらに背を向ける動きでキルルの後ろに回ったゼラが、一言断ってから、髪に触れてきた。繰り返し、短い髪をくしが滑り、その刺激がとろりとした整髪油の感触と溶けて心地よい。ゼラの指の腹は固かったが、優しい動きはその感触を十二分じゅうにぶんに紛らわせてくれた。

「なんで、やめてっていったのにそんな言葉遣いなの?」

「君へのあてつけではありませんよ。自分のですます調がただでさえおかしいのは重々承知しているのですが、話し方をこれ以上崩すと、生まれのなまりが強く出て、とても聞けたものではありませんので。ごめんなさいね―――さ、できた」

「ええ!? はやっ! 慣れてるの?」

 キルルはぐりんっとゼラを振り返った。とは言えそうやったところで、短髪なうえに鏡も無いので、どういった状態なのかさっぱり分からないが。

 ゼラは小さく笑ってから、キルルの両頬りょうほおを耳の後ろからてのひらで挟むと、くいっと元の位置に戻した。

「まあ今のは、髪の毛の痛み止めや頭皮の保護剤などを塗った櫛で、まとめただけなので。ほらほら、次にターバンを巻いて終わりですから、もう少しだけ前を向いていてください。露裏虫つゆうらむし整髪油せいはつゆは時間が経つとすぐにさらさらになって、逆にまとめにくくなってしまいますから」

「え? 露裏虫のならあたしも使われてるけど、ずっとしっとりしてたわよ?」

「それは恐らく、露裏虫は露裏虫でも、殻油からあぶらでしょう。同量の蜜黄金みつおうごんよりも高価だとかいう―――そんなご大層な一品、こんな辺鄙へんぴな場所では手に入りませんし、そこに回せるお金もありません。せいぜい良くて、今こうして使っている甲油こうゆくらいですよ。仕上がりは変わっても、質は殻油と大して変わらないはずですから、ご安心を」

 彼の掌が耳元から離れ、先ほどとはまた違った動きで、キルルの頭に触れていく。それもまた素早く、結局は数分とせずに頭が整ってしまった―――とはいえ、せわしなく鎖骨の上でパタパタしていたターバンのはしが動くのをやめたから完了だと思っただけだったので、じっとしておく。万が一また無闇むやみに動いて、ゼラに迷惑を掛けたくはない。

 すると背後から、中途半端なくしゃみのような音がした。それに振り向けば、ゼラが上唇うわくちびるを指先でこすって、またもや深まった笑みを散らそうとしている……どうやら先ほどの音は、こらえようとした笑い声の残りかすらしい。こちらの不思議そうな空気を感じたらしく、ゼラがキルルの頭上でぼやいた。

「いやあ、すいません。つい、なつかしくて。後ろだけ見ると、ちっちゃい頃のシッズァが帰ってきたようでしてねぇ……服もですけど、こう、肩が狭くって細いところとかがそっくりで」

「この服の元の持ち主だった子ね! シッズァ、ってことは男の子よね? ねえねえ、シーちゃんシッズァってどんな子? 今いるの?」

 思わず立ち上がって、わくわくと胸でこぶしを握り、ゼラの顔を覗き込む―――ふと脳裏をよぎったカルガーの笑い顔に、吉兆さえ感じながら。

 キルルの期待は、ゼラの無難ぶなんな愛想笑いでやりすごされた。そして、なだめるとも降参とも取れる仕草で、胸まで上げた両手をキルルにかざしてくる。

「気をかさずとも、頭領がここを案内する間に、あの子とは嫌でも顔をあわせることになると思いますよ。さ、行って行って。頭領は廊下にいますから」

「え? ゼラさん来ないの?」

 うめくのを止められず、キルルは指をくわえた。ザーニーイを連想したついでに、その外見といちじるしく反比例する言動を反芻はんすうして、人差し指のさきっちょはすぐに嘆息たんそくで押し出すはめになったが。

 それを見てか、ゼラの手つきが、明らかにこちらをなだめる仕草に変わった。どことなく目付きまでそんな色に染めながら、口を開く。

「頭領についてはむしろ、わたしがいない方がいいでしょう。そうした方が、君へ荒っぽさも影をひそめると思います……あの子、劣等感のかたまり臆病者おくびょうものですから」

 出しかけていたいくつかの反駁はんばくは、付け足された彼のせりふで、どれもこれも霧散むさんした。百歩譲っても、奇想天外な批評としか言いようが無い。

 ふと、ゼラの双眸そうぼうに目をとめる。こちらに向いているとばかり思っていた瞳だが、そのまなこの黒漆こくしつを染めた色でさえも、本当にこちらを向いているのか?

 絶妙のタイミングで、ゼラは視線を落としていた。自論の根拠を探しあぐねるように目先を床にうろつかせながら、目蓋まぶたを下ろす。

「……<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>の部隊長第一席であるわたしがそばにいると、あの子はどうしても<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>の頭領として振る舞ってしまいますので」

「…………」

 とりあえず、安易な同意をすることは避けておいた。とはいえ、いまいちぴんと来ないという意味では、ゼラの口にした文脈は前後ともそう大差ないが。

 うんうんと頭をひねり、ようやっとキルルは、上手く要約できる言葉を探り当てた。

「つまりそれって、ええかっこしい―――ってことよね。部下の前ではリーダーらしく。自分はこうあるべき、みたいな見栄っ張り。ちょっとそれ、自意識過剰なんじゃない?」

「……まあ、そうとも言えるかも知れませんね。旗司誓の案内、頭領だけではまだ不安ですか?」

 ゼラはせりふに挟んだ沈黙の間に、なにやら複雑な感情を呑み込こんだらしい。話題が替わる不自然にその片鱗へんりんを感じて気になるが、今一番配慮すべきは雑談に浪費した時間の方だということも分かっていた―――待ちかねたザーニーイが廊下の石畳を苛立たしく踏んでいる様子は、あっさりと思い描くことができる。そして、そこから如才じょさいなく繰り出される悪口雑言あっこうぞうごんも。

 キルルは廊下を振り返って、そのまま体もそちらへ反転させた。ぐっと喉を鳴らして、立ち向かうべく気合を込める。

「大丈夫よ。じゃ、い、行くわね!」

「あー、お願いですから、危ないので、同じ側の手と足を一緒に出さないように歩いてください。それと、もう一つ。お願いですから、」

 話が伸長する気配に、キルルは振り返ろうとした。のだが、

「あまり、わたしたちになつかないであげてください」

 なにがどう、というわけではなかったが―――

 もう、振り返ることはできなかった。せりふはそれで終わったらしく、声も彼自身も追いかけてきはしない。それでもキルルは逃げるようにして、全開にならない扉の隙間に体をねじ込んだ。必要以上の力で床を蹴って、廊下に飛び出し―――

「うおっ!?」

「きゃ―――」

 そこにいたザーニーイと鉢合はちあわせにぶつかりそうになり、体をよじる。慣れない動きに、足がもつれた。

(こ、転―――)

 ぶ、と続くはずだったのだが。

 ザーニーイに支えられて、その予感もぶつ切れる。予期しない立て続けの出来事に動けなくなり、キルルは抱きとめられたままで、相手のせりふを聞いていた。肩の上で交差してちょうど真横にあるザーニーイのあきれ声が、ターバンをかすめる。

「どうしたってんだよ? 足がぞこぞこ生えた虫でも出たか? ちっさくても、えぐいやつ出るからなーゼラの部屋は。シゾーでさえ、一回知らねえうちにへそに入れられたくらいでトラウマになっちまったもんな。俺だけど。やったの」

 と、ザーニーイがぽんぽんとキルルの頭をでて、身体からだを離した。

 特別ひねったわけでもないというのに、ままならない足が後ろ歩きに千鳥足ちどりあしを踏む。なすすべなく、キルルは壁にもたれかかった。

「おい。大丈夫か?」

「分かんない……」

 目覚めてからのことを思うと、つぶやくのも今更という気はしたが。

 それでもキルルは、頭上を仰ぎながらぐったりとうなった。すぐにでも折り合いをつけないといけない様々な転変に急激な困憊こんぱいをもよおしてはいたものの、ため息でけりをつけて、折れかかる膝を伸ばし立ち上がる。ザーニーイはこちらに対して逆光の側にいるので、薄暗い部屋からでたばかりの目では表情を捉えられないが、大雑把なことくらいなら分かった―――彼が一巡いちじゅん、ぐるりとキルルを眺め見る軌跡くらいなら。

「城の荷物はどうした?」

「……使わないから、ゼラさんのとこに置かせてもらうことにしたの。だからもう、部屋まで足を運ぶ必要はないわ」

「そんで、着替えだけか」

「そうよ。どう?」

 とこたえて、キルルは次の応酬おうしゅうを推測した。似合わない、むしろお子様手足によく似合う、……ざっとした予行練習に覚悟を決めて、来るならこいと目に力を込める。が。

「かわいいじゃねえか。行くぞ」

 それで終わりだった。ザーニーイが廊下を歩き出す。

 放心して、キルルはなかば口を開いたまま立ち尽くした。どんどん進んでいくザーニーイは、まだゼラにやられた痛みが残るのか、上半身だけ柔軟体操を繰り返している。

 その背中がえらく小さくなった頃にはっとして、彼女は小走りに彼へと追いついた。やっときたかと面倒くさそうに顔半分だけ振り返らせてくるザーニーイから反射的に目をそらし、ぼそぼそと言質げんちを取ろうとする。

「そ―――そう? かわいい?」

「あん? なんか言ったか?」

「別に! ゼラさんが三十路みそじ越えてるなんて嘘でしょって言ったの!」

「……ああ。かもな。年齢なんて自己申告だから、実際サバ読んでても分かんねぇし。ま、あの通りフラゾアインの血が混ざってるみてぇだから、歳の取り方もただの人間とは違うんだろ」

 思わず口をついたせりふにまともな返事をされ、その話題を継続せざるを得なくなる。彼の隣に並ぶまでの間に、キルルは何とかそれに続ける話題をひねり出した。

「あ、そ、そうなんだ……じゃあ、あの真っ黒い髪が痛んでないのも、そのおかげ?」

「いや。度を越したあのロン毛もその手入れも、単にあの人の趣味だ」

「あなたもちょっとは見習ったら? 雷髪燐眼らいはつりんがんなんてうたい文句なんだし」

「…………」

 茶化ちゃかしたというのに、ザーニーイは頭帯とうたいごとぐしゃぐしゃと毛を掻いただけだった。斜に構えた皮肉が返ってくるのを見越しての発言だというのに、思わぬ肩すかしを食らって、こちらまで面食らう。

(もしかして、霹靂へきれきって言われるの、嫌なのかしら)

 そう考えると彼の仕草は、思わず浮かんだ表情を紛らわそうとしたと捉えられないこともない。仰々ぎょうぎょうしい二つ名に対して、恥ずかしがっているのか、単純に勘弁してくれと思っているのか……好奇心のおもむくまま、その顔つきの雰囲気ふんいきだけでも確認しようとして、キルルは顔を隠している相手の指の向こう側へ凝視ぎょうしを送った。今はそこで彼の髪が赤い色をちらつかせているので顔色が更に分かりづらくなっているが、そのうち掌が退けば髪も動くだろう―――

(え? 赤い色?)

 キルルは眉間みけんを狭めた。目を横ずらせて、ザーニーイのこめかみを見やる。日の光に透けるその色は、金……金髪だ。が、手に遮られて陽光から逃れているわずかな部分だけ、やはりほんのり赤味を帯びている―――というより、よくよく見ればそれは、毛先にいくにつれて急に赤い色素が薄まった髪が、日光をすかしているせいで金色に見えているだけのようだった。まるで、空気にさらされる部分ばかりが脱色されたかのように。空気。悔踏かいとう区域くいきの空気が流れてきて……

 と、ザーニーイの掌が、その横顔から外れた。こちらを見ていぶかしげに目を細めようとする気配を彼の頬に感じ、はじかれるようによそを見る。そしてキルルは惰性で、すぐわきに通りすがった窓に近づいた。

 正直言って、彼の髪の色以上の興味が、そんなところにあるでも無かったが。とりあえず、窓から外をながめやる。

「この辺りにある建物って、ここだけなのね」

 まあそれは、納得できることではある―――最後は口には出さずに、キルルは熟視を遠くへと放り投げた。

 窓からは外輪のみならず、とてつもなく遠くに悔踏区域そのものをも臨むことができる。ここからだと小指の先にも満たない大きさだが、岩や樹海が乱立する向こうで描かれる針山のようなシルエットの白々とした陰影は、なにより濃厚な存在だった。そちらから吹き降りてくる風は、その清冽せいれつな……人が吸うことさえ躊躇ためらうほど清冽な気配を、閉じられた窓さえすり抜けてキルルの肌へ伝えてくる。空を覆って晴れないくもり空の色を含めて見れば、そちら側の風景は、あたかも白い布を払われる直前のオブジェのようだった。布が失せた時に何が出てくるのか、考えたくもないオブジェ……

 背後から、ザーニーイの気のない返事が聞こえた。

「まあな。元はここは、前政権時代に成金なりきんが作った別荘だったらしいが」

「別荘にしては無骨ね……それにこんな場所、何が楽しみで建てたのかしら?」

「へえ。てめぇもまた言うようになったじゃねぇか。キルル」

 声が、急に近くなった。

 はっと身構えて、隣へとまなじりを跳ねさせる。やってきたザーニーイが、上半身を窓枠に預けるような体勢で、キルルと同じく外を眺めていた。その目にそれほど意欲があるように思えないのは、碧玉へきぎょくの瞳が、半眼によって半分、更に残りを睫毛まつげによって覆われているからなのか……

 声もやはりそれに違わずと言うか、どうでもよさそうだった。

「聞くところによると、その成金は骨の髄まで戦闘オタクだったらしくてな。私兵の訓練と模擬戦争が一番の趣味だったんだとさ。だから住処すみか自体の構造にも偏屈へんくつに金をかけた挙句、こーんな、俺たちにとっちゃ都合がいい建築様式になったってわけだ。敵が集団でなだれ込んできても活躍できないように幅も高さも抑えてある通路、そいつらを撹乱かくらんするようにバラバラの位置に作られた階段、隠し部屋に隠し廊下、―――」

 その解説よりも、気にかかることはある。

 窓は小さく、窓枠も小さい。足りないわけではないが、そこは二人の人間が納まるには充分な広さとはいえなかった―――話す相手の歯列しれつの奥にある濃い桃色の舌に意識が引っかかること事態、そこはかとなく後ろめたいものが募っていく。不慣れな間合いに、彼の髪を観察する絶好の機会であることさえ忘れそうになりながら、とりあえず彼の不審を再燃させまいと、キルルは首だけでこくこくと相槌あいづちを打った。

「大体にして、ここがこんな場所・・・・・になってから、意外に日は浅いんだぜ? 悔踏区域の侵食が進んで外輪と認定されてから、まだ百年を越してねぇはずだ。まあ、家主がここを捨てたのは、楽しむべき風光ふうこう明媚めいびが消えたからでも趣味が変わったからでもなく、前政権が俺達のご先祖さんに破られたせいだってのは言うまでもねぇだろうが」

「悔踏区域の侵食!? 悔踏区域が広がってるの!?」

「……ま。箱庭の連中のリアクションは、おおよそそんなもんだろうな」

 ザーニーイはキルルが張り上げた疑問に対して、だらしなく閉ざしたまぶたを挙げさえしなかった。ただ、ちらりと目角だけをこちらへ触れさせて、再び外界へと瞳を向ける。彼女がとっととこの話を流してくれるように、気だるく願っているらしい。

 が、これだけのやり取りで終わりにするには、ことはあまりに脅威的だった。だからこそわたわたと、キルルは話し続けた―――いや実のところ、事実そのものよりも、彼を意識し続けてしまう状況のほうが脅威だったのかもしれなかったが。ともかく、口を開き続ける。

「そ、そんな平気でいていいの? 不毛ふもうの地にどんどんなってってるのに」

「なってってるだけだろ。まだ不毛じゃねぇ」

「そんな悠長な……」

「悠長な話なんだよ、実際。侵食が進むっつったって、風に飛ばされも水に流されもしねぇ雹砂ひょうさがちんたら動いて積もるまで、人間で見積もって何代がかりの話だと思ってんだ。現に、ここは外輪がいりんはんが押されてからン十年、それでも俺たちはここで暮らせてんだぞ……悔踏区域に踏み込むような特別な格好や装備もしねぇでな。人間にとっちゃ、雹砂よか人間の方が、今はまだよっぽど直接的な害悪だろ」

 彼のせりふに、キルルはまゆを上げた。皮肉の中に、皮肉に納まりきらなかった意図があるような気がした―――しかも、彼女の気に食わないたぐいの。反射的に、唇を尖らせる。

「そんな言い方ないじゃない。そりゃ悪いこともするけど、人間だから、それだって勉強して良い方向に持っていけるはずよ」

「……まあ、良い方向に持っていけるパーツが残ってる奴なら、ンな美談で満足もするだろうがな」

 どこかひとり言めいた調子でこぼすザーニーイは、目をこちらへ向けもしない。

 キルルは腰に手を当てて、彼のすずしげな顔を覗き込んだ。そこに特別な居丈高いたけだかさはなくとも、あくまで撤回てっかいしない言い回しと淡泊たんぱくな表情に、とげでも刺してやらなければ気が済まなかった。

「良い方向に持っていけるパーツって、人間の良心の比喩ひゆかしら? お生憎あいにくだけど―――」

「そんな抽象的な話じゃねぇよ。ほれ」

 議論せず、ザーニーイは窓から階下を指し示した。

 指先に催促されるまま、身を乗り出すようにして硝子がらすひたいをくっつける。<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>が盛大に散開する前庭の片隅で、木のみきによしかかるようにして数人……見える範囲では、六人の男たちが座っていた。青年ではないが、中年よりは青年と呼んだほうが差しさわりない、そんな年頃である。彼らはそれぞれ棒のような何かを、手ではなく、首と足で挟んで固定していた。なぜ手ではないのかといえば、片手が端切はぎれのようなものを持っていてふさがっているからだった。もう一方の手は、ふさがるもなにも存在すらしていない。

 気付いて、さらに気付いた。片手だけではない。残る手も数人は明らかに指が欠けているし、二人の男は大腿だいたいから先のズボンが不自然にしぼんでいる。どうやら彼らは片足もないらしい。そうなってから随分と時が経っているのか、彼らの顔には何の痛痒つうようも浮かんではいないが。

「楽園障害者……?」

「違う」

 と、即座に返される。当たり前だが、ザーニーイだった。

「あいつらは、楽園障害じゃない」

 言いながら彼は、やけに白んだ五指を握って、眉間みけんに当てていた。それを支点にして、こちらと同じく窓に密着している。

 キルルはふとした不審に、注意を彼に引き戻した。やはり見間違いではない。まるめた手の下、彼の顔はうすらかに引きつっている。

 どこか空気を上の空にして、ザーニーイは自分で作っていた少しの静寂を破った。

「あいつらのは後天性―――つまり<楽園カオロワイズ>にじゃなくて、八年前の戦争に持っていかれたんだよ。ちょん切られて、現にあいつらの手足はもう無いんだ。なのに、良い方向・・・・とやらに持っていけるってのか? 良心の有無なんざ時と場合と場所によるが、あいつらの手足は、もうどうしたってないんだぞ?」

 問いかけは、彼女に返答を迫る響きではなかった。仮にそうであったとしても、それが正答であることまでは求めてはいなかっただろう。だからこそ彼は、はなから彼女のげ足を取ろうとすらしていなかったわけだが、それでもそのように畳み掛けられた気分にさせられて、キルルは途方に暮れた。いっそのこと、そそくさと話を打ち切ってしまいたかったが、そんな話術は持ち合わせていない。

 ふと、肩にかかる服の重みが変わった。人肌を離れて久しい乾いた布の軽さから、それよりもいささか重い温かな感触へ―――服を通り過ぎて、こちらの肌へと体温が触れる。ザーニーイが、キルルの肩へ手を置いていた。

 彼女が顔を上げると、彼は指をひいた。先ほどと違って明らかな苦笑を浮かべて、片目を閉じてみせる。こちらにびるというよりは、少女を追いやった己を恥じるように伏せた目を、ザーニーイは窓の外へ滑らせた。

「悪ぃ悪ぃ。そんな考えんな。良い方向ってのは、実はもうあいつら自身がとっくに見つけちまってるんだ」

「え?」

「見ろよ。あの顔」

 あごでさっきと同じ方向を示して、彼はキルルを悠長に待つ眼差しを向けた。そちらへ視界を戻すが、そうしても相変わらず、例の男たちがたむろしているだけである―――が、よく見れば、彼らが抱えているのはいくらかの武器と分かった。使い古した布を使って、その手入れをしているらしい。

 作業は手馴てなれた様子で、言葉を交わす余裕さえ存分にあるらしかった。琴線きんせんに触れる冗談でも出たのか、一斉に男達が笑う。そこには、えくぼさえ、見えたように思えた。

「男前だろ?」

 一も二もなく、キルルは首肯しゅこうした。

「ま、そんだけのこった。結局のところ死ぬわけじゃねえんだし、だったらそれでよくなっちまうことも多い。これだから、いいってもんさ。のどもと過ぎたんだ、この熱さも忘れとけ」

 それで、話は終わったらしい。ザーニーイは、体を壁から離して伸びをした。

「ほれ、まだ便所も紹介できてねぇだろうが。足が止まってっぞ。もう進め。行け」

「ちょっと、お尻らないでよ!」

「あー悪かったなぁ。肉が薄っぺらいから痛いよなー」

「ち、違うわよ! 発展途上なだけよ! 今にバインバインになるの!」

「へいへい。楽しみに待っとくよ。だから今はとにかく行け」

 ぎくりとして、キルルは胸を押さえた。確かにずっと変わらず拍動はくどうしていたはずの鼓動が、確かに今一拍だけ、違う大きさで肋骨ろっこつたたいた気がした。

(た、楽しみに待つつもり……かしら……?)

 ザーニーイ。

 振り返れば彼は、不思議そうに首を傾げたとも、こちらを見下ろす角度に顔をそらしたとも言える微妙な角度にうなじをひねっていた。その延長のような、どうともつかない間延びした様子で言ってくる。

「何だよ。まだあいつらのこと気にしてんのか? うじうじ考えることでもねぇだろが、お前がり落としたわけでもあんめぇし。考えてりゃ生えるとでも思ってんのか?」

「ち、違うわよ、馬鹿!」

「ご指摘はありがたく頂戴するとして、馬鹿は気に食わねぇぞ。言ってみろ。俺のどこが馬鹿か、ついでに拝聴させてもらおうじゃねえか」

「……ら、楽園障害について考えてたの!」

 反射的に噛み付いてから、ままならない焦燥を押し殺す。またしても、とっさの話を継ぎ足していかねばならなくなった―――気まずさに、キルルは襟に掛かるターバンのすそを直すふりをしてうつむいた。

「暮らしていく上で不便なのは一緒なのに、身体からだが失われたタイミングなんて、そんなに重要なのかしらって思ってたの。それが生まれる前なら楽園傷害って神聖視してうやうやしく扱うなんて、なんだか間抜けなことみたいに感じたの。分かった?」

 話す間に、ザーニーイの態度は変化していった。次第に落ち着きなく、頬骨ほおぼねの裏をかきむしりさえするようになる。展開に、それなりに意表を突かれたのかもしれない。それと分かるようにではないにしても、その瞳には、動揺にも似た感情がちらついていた。

「先天性の障害を、楽園障害と表現することといい……旅団ツェラビゾの教義だな。『うしなわれるを歓喜せよ。そのなんじが一部こそ、<楽園カオロワイズ>のまねきにあずかるほど、まことにうるわしやかであったのである』か。お姫様が、あのイロイロと名高い宗教の信者とは初耳だ」

「あたしじゃないわよ。お母様がそうだったの」

「だった? 過去形だな。抜けたのか」

「ううん。死んじゃっただけ」

 反応は、一段と明確だった―――とはいえ、彼の何かが、目に見えて変化したわけではない。ただ、この少女の扱いをなお考えあぐねなければならない要因を不用意に増やしてしまったという失策しっさくが、彼の容貌ようぼうくつがえしがたい薄暗さをきざんでいた。

 深入りすまいとしてか、単に言葉に詰まったのかは知らないが、いったんザーニーイは無言で済まそうとしたらしい―――が、結局、そうもいかなかったようである。不慣れな状況に、目が泳いでいた。

「……謝らねぇでいいだろ。知らなかったんだ」

「いいわよ。謝られても困るもの」

「困るのか?」

「困るでしょ。知らなかったのはしょうがないし、死んだのもしょうがないし、死んだからって悲しいわけでもないし」

 いつわる必要も感じず、本音を声にする。

 彼にとってすれば、それは出し抜けの発言だったに違いない。ザーニーイが碧眼へきがんを向けてくる気配に、キルルはさっさと目をそらした。たとえ瞳から詮索されたとて、相手が年端としはもいかない少女に対して想像しているような、肉親を喪失した悲哀ひあいなど浮かんでいない。無駄なことを、彼にわざわざさせずともよかろう。

「本当よ。お母様はイヅェンしか眼中になかったから、あたしの育児なんかまるごと放棄だったの。まあ、そのおかげであたしはあの人に束縛されなかったし、感謝してるくらいよ……たとえそのツケが、今になって回ってきたとしてもね。それに最後の方なんて完全に錯乱さくらんしてて、まともな受け答えなんか無理だったもの。お父様の愛がある<楽園カオロワイズ>に自分も行く、自分も<楽園カオロワイズ>に行けるくらい昇華すればお父様から愛されるって……」

 と、うっかり記憶の中から母の金切り声まで引き出してしまって、キルルは不快なやかましさに歯噛みした。その時その場にいた自分は確かに日常茶飯事として聞き流せていたはずなのに、母が死んだ今になって苛まれるなど、不公平極まりない。愉快でもない感情に蝕まれる勢いで、低温の怒鳴り声を積み上げていく。

「まったく。箱入り娘だったから逃げ場所も頭の中しかなかったんでしょうけど、振られた女の妄執もうしゅうなんて、馬鹿馬鹿しいったらありゃしないわ。昇華の修行だとかいって無茶やって、挙句に―――」

「やめとけ」

 静かに、会話が手折たおられた。

 ぎょっとして身じろぎする間に、ザーニーイがキルルを追い抜いた。たった数歩の距離が開く。その間にもう一度、彼は繰言くりごとのようにささやいた。

「やめとけよ。そんくらいで」

(……なによ)

 彼のそれとすれ違うようにして、胸奥きょうおうがくつくつと沸き立っていく。それからのザーニーイの沈黙は長引いたが、それを埋めるのは怒りに乗っかればたやすいものだった。

(なによなによなによ。やめとけ、だけなの? 表面上は女の子がしんみりした話をしてるんだから、もうちょっと優しい言葉のひとつやふたつ出すなりしてくれたっていいじゃない。だから馬鹿だって言ったのよ。馬鹿)

 そうして単純に感情を燃焼させていけば、燃え尽きるのも早かった。罵倒ばとうも終息するしかない。最後に、キルルは嘆息した。自分自身をさとすでもなかったが。

(……変なの。なんであたし、こんなに苛々してるのかしら。これって、ザーニーイに八つ当たりじゃない)

「―――っ」

 唐突に、前を行くザーニーイが小さい悲鳴を上げて立ち止まった。

 まさか本当に八つ当たりが実ったのではなかろうが、それでもびくっとしてキルルも足を止める。いつしか下を向いていた顔を跳ね上げると、彼はただきょを突かれた様子で、左耳を押さえているだけだった。そして、やれやれとうめきながらも、こちらを気遣うように小さく笑いかけてくる。

「何でもねぇよ。急にシゾーが騒いでるのが聞こえたから、気色悪かっただけだ」

「聞こえてきた……って、どこから?」

「ここから」

 と、くるくると周囲を見回しながら近づいてきたキルルに、ザーニーイは耳を押さえていた片手を広げてみせた。そこには、平たい赤い石が乗せられている。まじまじと顔を近づけても、やはりそれは観察したとおりのものだった。

(こっちも石みたいに硬そう……)

 ザーニーイの五指ごしにへばりついている胼胝たこをうっかり見詰めてしまってから、それを自覚して視線を引き剥がす。後ろ暗いことも無いというのに、うわずらせた視線の先にいたザーニーイの顔面にぎくりとして、キルルは声をあげた。

「い、石よね? 触ってもいい?」

「かまわねぇけど。なに緊張してんだ?」

 うまい言い逃れもなかったため、無言で視線を落として、石の表面を人差し指でこすってみる。

 すると、予期していなかった違和感を覚えたので、キルルは自分の指の先へと目を寄せた。よくよく目を凝らせば、石には正気を疑うような細緻さいち彫琢ちょうたくが施されている。それは何かの規則に則ってうねり、おどり、奇妙な文様もんようをせり出させていた。指紋と比べても遜色そんしょくないほどの細かさに、指紋以上の何らかの使命を染み付かせているような。

 まあその表現が誇大だったとしても、石そのものの評価まで誇大にすることはない―――つまりそれは見ても触れても、ただ変なだけの石だった。落とせば音くらい立つだろうが、どう足掻あがいたところで声など出ようはずもない、ただの石片せきへん

 今度は問いかけではなく、明らかな不承ふしょうの色を両目に宿して、ザーニーイを見返す。彼はそのことを仮に不快だと感じたとしても、露骨に表出させはしなかった。続けてくる。

「言っとくが俺は正気だし、世間知らずをからかおうとも企んでもいねぇからな。これはゼラの細工した鉱石こうせきで、なんつーか、これとついになる石を持ってる奴の声というか考えとか、そーいったもんを伝達する道具なんだよ。まあそう出来るのはこれを手にした者同士が通信しようとしてる時だけだし、雑念やら感情の起伏やらがノイズで入りまくっちまうから、いまいち正確な話はできんが。だから、今のあの野郎みてぇにわめき散らされると、わめき散らしてるってことしか分かんねぇ、なんてことも多くてな」

「……どうして、石が?」

 不可解ふかかいさの一端いったんを、とりあえず声にする。答えてくるザーニーイのせりふはつらつらとなめらかだったが、あきらかに抑揚もやる気も欠けていた。仕入れた説明を、そのまま横流ししているらしい。

「ゼラが言うには、媒体となりうる存在があることが確からしいという認識下にて、その使用者が双方へのベクトルを酷似こくじさせうる場合、その情報を元に積算せきさんとの共振を発生させることが限定的に可能となり、そのため魔神がいないながらも不完全な干渉が―――って、しょせんは練成魔士れんせいましの言うことだからな。俺もよく分からん」

「ゼラさん、練成魔士なの!?」

「ん? そういや言ってなかったか。ゼラ・イェスカザは、うち唯一の練成魔士だよ。あんま使いたがらねぇけど、使うとなれば人型の魔神を難なく操る。はたから見てても文句なしの凄腕すごうでだ」

「人型あ!?」

 目をむいた彼女から外した眼路めじに研磨石を入れると、ザーニーイは付け加えた。

「こんなもん我流で作るくらいだから、実際とんでもない人なんだろうな」

「ほんとよ。魔神が人型ってだけで信じられないのに……」

「もっと信じられないのは、あの人が使ってる魔神は人型にもかかわらず、ランクはただの‘子爵ししゃく’級らしいってことだな。‘子爵’程度、通常は動物型にさえ形作るのも難しいって話なのに、あの人はそれを動物どころか完璧な人間として現出させてる」

「それって―――」

「ああ。自分のスキルだけで、本来は低い魔神のレベルを格段に底上げしてるってことになる―――練成魔士じゃない俺にゃ、よく分からんが」

 驚嘆きょうたんが喉に詰まって息苦しくなり、あんぐり大口を開けていた。気付いてそれを両手で隠し、キルルはこぼれ落ちかかる声を無理矢理呑みくだした。

 とはいえ、彼女自身が、練成魔士によってなにかおびやかされたような経験があるわけではない―――ただ、昔ほんの少し聞きかじっただけでさえ、彼らの能力が途方もないことぐらいは分かってしまっていた。

 彼らは、世界を錯覚させることができる。

 ―――とは、彼ら自身のげんであるので、どうにも判然としないが。

 やっていることを取ってみれば、練成魔士は契約を交わした鉱石から魔神を召喚することによって、魔術を扱うことができる人々だった。魔神とはすなわち練成魔士が世界に干渉する際の媒介であり、次元の中庸ちゅうようすその身は、純粋に抽象のみで構成されている。魔術は、その媒介を介し、世界に存在する法則をちょろまかす・・・・・・ことを可能とした結果、練成魔士になびかせることができた超々ちょうぢょうの法則のことだった。

 ただの人間にとって、それはおしなべて脅威的だった。魔神を現出させた練成魔士の意思は、それの届く限り世界を変化させ、世界の変化を矯正きょうせいする。立ちはだかるならば粉砕ふんさいし、不都合ならばねじ曲げ、襲うならば天災さえ防ぐ、途方もない力。

 とはいえ、その途方もなさ・・・・・の範囲については、練成魔士個々人でひどくばらつきがあるらしかった。なかでも魔神の等級とされる爵位しゃくいと、それを扱う練成魔士の練達の具合によって、効果は大きく左右されるという―――写真機を用いれば素人しろうとでも精確せいかくに風景を写実できるが、玄人くろうとならば木炭の欠片だけで、それにも勝る風景画を描くことができる。玄人のタイプによっては、材木の一刀彫いっとうぼりや粘土の造形でその風景を作り上げもするだろうし、その際に用いるツールが刃物なのかヘラなのかによっても、出来上がりは変化する。練成魔士と魔神と魔術……それらの関係は、門外漢もんがいかんの見地からすると、実にこれとよく似ていた。同じものを同じように使ったとて同一の成果は決して望むことはできないし、それが自明である彼らがそれを望むこともない。いわば、彼らは芸術家なのだ―――手を加える相手が世界そのものである、強力無比な芸術家。

 かといって魔術は決して全能というわけでもなく、彼らがあくまで世界を“錯覚・・させる”という表現を変えないのも、つまりはその一点に尽きるらしい。現実として出現してしまったものを覆すことはできないし、魔術は常に後の先を取るようにしか世界に触れられない。魔術そのもので誰かを殺すことはできないが、魔術で起こした災害でなら殺すことができる―――魔術で怪我けがそのものを消すことはできないが、魔術で怪我をいやすことならばできる―――

 どうせ授業の片端の記憶でしかないので、間違っているだろうし、勘違いしてもいるのだろう。らちが明かない思考をやめて、キルルは自分の脳裏でゼラを眺めた。とてもではないが、のほほんとしたあの童顔が、そんな悪魔的な破壊力を有しているとは思えない。

(―――とも、言い切れないけど。シメてたし。ザーニーイ)

 ちょっと語尾を弱めて、半笑いを引っ込める。まあ手先が器用そうな印象ではあるので、石の彫刻については納得できるが、どちらかといえばハンカチに刺繍ししゅうでもしていた方が、あのおっとり感に合うといえなくもない。

「ゼラさん、大陸連盟にでもいたの? この石も、そこで勉強したとか?」

「さあな。とりあえず俺が確実に分かるのは、この石を持ってる俺がシゾーのことを考えて、対の石を持ってるシゾーが俺のことを考えたら、なんとなくやりとりができるってことだ。だから、キルルにゃシゾーの声なんざ聞こえやしねぇんだよ。お互いに知らねぇ者同士だからな」

「じゃあシゾーさんのこと教えて! あたしもやってみたい!」

「やだね」

 んべ、と舌まで出してみせるザーニーイに、キルルは肩を怒らせた。

「なんでよー!」

「意味がない」

「意味がないってなんでよー!」

「百聞は一見にかずだからだよ。ほれ」

 ザーニーイがこぶしから立てた親指で差した、彼自身の肩の向こう―――つまり、彼の背後を見やる。そことて、今までと特に代わりばえない。階段へ一度だけ枝分かれしたあとは、左側に窓、右側に部屋をつらねて奥へ伸びていく、ただの廊下だった。が。

「あ、ザーニーイさん! ちょっとこっちきてくださいよ、やっぱり妙な―――!」

「なっっっがぁっっ!!」

 とにかくその時に彼女ができた反応は、その一言をき出すだけだった。

 屋上へ続く階段から降りてきたのだろう、その青年は曲がり角からこちらの廊下へと、さかいはりをくぐるように登場したところだった―――くぐるように、というのは決して誇張ではなく、彼が腰を伸ばすと、それなりの高さがあるそこにさえ、跳ねた毛先がれている。とんでもない長身だった……が、その長躯ちょうくに対して絶対的に体重が足りていないと見て取れる、明らかな痩身そうしんでもあった。そのことと叫んでしまった文言をあわせると単なる軟弱と判断されかねないだろうが、なめし皮のような褐色かっしょくの肌と全身に綺麗きれいについた筋肉が、どうにかその印象を防いでいる。鍛えられた肉付きがよく分かるぴたりとした服装をしているのは、彼自身にその自覚があるからなのかも知れなかったが。

 特に目立ったのは、相手の襟元えりもとから胴までをななめに跨いで締める、幅広はばびろの革ベルトだった―――と思えば、よく見るとそれは、冗談のように長大な武器帯ぶきたいである。そしてそこ……つまり、彼の背に帯びた剣もまた、鍛冶師かじしの悪ふざけとしか思えない巨大さだった。ザーニーイとそろいの青い羽根飾りをぶら下げたそれの刃幅ははばはまな板ほどもあるし、刃渡りだけでキルルの身長にも届くかもしれない。ただの人間ならば、構えただけで肩が脱臼だっきゅうするような代物である。どうやら相手に抱いた第一印象は、防がれてしかるべきものであったらしい。

「おいシゾー、なにびびってんだよ。こっち来いって」

「びびってません」

 キルルの大声に、戸惑とまどうようにして立ち止まった彼―――シゾーは、ザーニーイに言い返してから、些少さしょう猜疑さいぎを残しつつもこちらへ近寄ってきた。そうなると身長差のせいで―――なにせ自分の頭は彼の胸までしかないのだから―――、えらいこと頭をらさなければ、相手の顔を直視することもできなくなった。

 なんというか彼は、不機嫌そうな旗司誓だった―――今の今までザーニーイを探して駆けずり回っていたのならそれで当然なのだろうが、そうでなくとも、なんとなくこの男の満面の笑みは想像できかねる。ざんばらに跳ねた長めの黒髪は痛みきっていて、バンダナだけで押さえきれず、左耳にある薄緑うすみどりのリングピアスをうずめてしまっていた。こちらを見る瞳の色は、上等の古酒ふるざけを思わせる琥珀こはく睫毛まつげかげる目元は垂れ気味で、本来ならば雰囲気の精悍せいかんさを紛らわす愛嬌あいきょうをかもし出し、その甘く整った造作ぞうさくの魅力を本領発揮させる部分なのだろうが。今のそれは、こちらへ向けて怪訝けげんそうにたわめられている。

「例の【血肉の約定】の王家、キルル・ア・ルーゼ後継第二階梯だ」

「ア族ルーゼ家ヴェリザハーが第二子、名をキルルといいます。はじめまして! よろしくね!」

「滞在中、姫扱いはいらねぇとよ。ほれ、お前も挨拶あいさつしとけ」

 研磨石けんませき頭帯とうたいにしまいながらザーニーイがキルルを示すと、シゾーは首を折るような角度でこちらを見下ろしてきた。キルルの快活かいかつな声を受けても、その顔つきはいまだ胡散臭うさんくさそうな影を消していない……まあ、次期王と目される純血貴族に出会い頭に身もふたも無い言葉を投げつけられたのだから、仕方ない反応ではある。スムーズに状況に迎合げいごうできない不愉快さを散らすように、指なし手袋をしたその手は、落ち着きなく後ろ頭を掻いていた。ふらふらと剣の飾りの羽根が揺れて、陽光に青い色をばらまいている。

「……はあ、どうも。副頭領ふくとうりょうのシゾー・イェスカザです」

「ゼラの息子だ」

 ザーニーイの蛇足だそくに、またしてもキルルは悲鳴を重ねるはめになった。

「カケラも似てない!!」

「養子ですよ」

 とシゾー当人から注釈ちゅうしゃくされても、彼女の想像力にも限界がある。ぐりんぐりんと、意味もなく目玉をザーニーイとシゾーに往復させながら、

「で、でもでも……も、もう一回、ちゃんと通して名乗ってくれない?」

「ちゃんと? はあ。ええと、イェスカザ家ゼラが第一子、名をシゾー……で、いいんですか? ザーニーイさん。養子とか副頭領とか、どこらへんに組み込めば?」

「箱庭式の自己紹介なんざ俺が知るかよ」

「いやあんたこそ知っとくべきでしょうよそこは。あんたここの頭領なんですから、あっち主体で会合とか色々しなきゃなんないかもしれないし」

「そーいった悔踏区域外輪以外とのことは、ピンからキリまでゼラがさい振ってっからいーんだよ。あの人なら誰とやりあってもかどが立たねぇから」

「自分だと誰とでもやりあった挙句に角が立つとの自覚はあるんですね……」

 不慣れな口上に滑舌かつぜつ悪く舌を噛みかけたシゾーが、逃げるようにこそこそとザーニーイと言葉を交わしている。次第に脱線していく二人の間に、キルルはわたわたと割って入った。

「で、でもゼラさん三十六歳だって……なのに、こんなでっかい息子……!?」

「僕、多分まだギリギリ十代ですけど」

「じゅうううううううっっ!?」

「お前のその服も、五、六年前まではこいつが着てたんだぞ」

 と、再び、ザーニーイ。

「あなたがシッズァああああああああ!?」

 すっかり混乱した頭には、とてもではないが考えをおさめておけず、キルルは体までねじりながら甲高かんだかくなっていく声でわめいた。

「どゆこと!? おかしくない変じゃない!? 確かにそれが男の子の愛称って予想はしてたわよシジーとかシッズィとかじゃないんだから! 男だったらそりゃめっこめこに育つわよ! けど、だってシーちゃんシッズァって響き可愛すぎじゃない! この服その響きに似合いすぎじゃない! ギャップなんてギャグやスパイスと同じでかせ過ぎてもプロ失格すぎじゃない! あたしなんて五、六年したら十代終わっちゃうのに、まだまだ色んなパーツ切なすぎじゃないーーー!!」

 顔をつき合わせてからこんな様子しか見せていないせいか、シゾーは渋面じゅうめんにどことなく失望をよぎらせて、肩を落とした。とうに辟易へきえきしているその垂れ目がキルルからひるがえって、しかし含む気配はそのままザーニーイへと向けられる。

「……僕、そんなけてますか?」

「お前というよか、お前にかかるトッピングの問題だろ」

「トッピングって」

「具体的に言うと、やたら若作りであっさりした顔立ちのちっちゃい黒ロン毛(象牙ぞうげ肌)が親父で、むやみやたら成長した濃い顔の縦に細長いタレ目(色黒)が子どもっつう展開だ」

「うあもれなく全部」

 と無感動になげいて、シゾーがはたと気付いたように続けた。

「しかもなんか誤魔化ごまかされそうですけど、それって僕が老けてるってこと否定してませんよね?」

「キルルー? 十五離れてりゃ養子取れんだから、別になにも不思議じゃねぇんだぞー? 人より縦に伸び気味なだけで、こわかねぇぞー? その服で分かるだろうが、こう見えてもこいつ、昔は俺より小さかったんだぞー? ほれあいつおびえてっだろが。しゃがめシゾーしゃがめ」

「ああはいもう分かりました。分かりましたから襟足えりあしを引っ張らないでください」

 ふと―――

 そのやり取りにきょとんとして、キルルは改めて二人を見やった。その時二人の顔を同時に視界に入れることができたのは、ザーニーイがシゾーの頭髪をつかんで、彼をかがませようと引きり下ろしている最中だったからだが。ザーニーイは手ひどく相手の毛を鷲掴わしづかみにして自分の胸倉まで引きずりおろしているのだが、対するシゾーはあきらめ慣れているらしく、抵抗もせずげんなり中腰になっている。

 それは直感に過ぎなかったが、こうやって見てみるとやはり、思い違いでもないらしい。二人に、どちらともなく問いかける。

「仲、いいのね?」

「ん? そりゃまあな。俺とシゾーは幼馴染おさななじみなんだよ。俺が十歳位ん時に、おじさんが急に養子にしたっつってこいつを連れてきてから、すっとくさえんでな」

「わー。相手が孤児とはいえ、拉致らち行為を『養子にした』とか表現するなんて、さすがフラゾアイン。珍妙なセンスを人生余すところなく発揮しやがってますね素晴らしい」

 シゾーが動ける範囲で顔をザーニーイからそらしつつ、ぶつぶつと毒つく。いや、ただよった陰気から察するに、養父にのろいの一つでもかけたのかもしれないが。

 とりあえずザーニーイは、それを鼻先で笑うことにしたらしい。まぶた半端はんぱに引きおろした碧眼へきがんを横目にして、

「そんなまんざらでもなさそうだったくせして、今更なにを偉そうに文句垂れてやがる。逆恨さかうらみにも程があるぜ。お前は昔っから、うらみつらみが大袈裟おおげさすぎなんだっつーの」

「どんな特殊なフィルターごしに観察したら、僕らの義親子おやこ関係にそんな評価が下せるんですか。一度頭蓋骨ずがいこつかち割って眼球ごと脳を調べてもらってください。かち割るとこまで手伝います。フルパワーで」

「ンだとコラ。だったらお前、毎日毎日おじさんにさじめし食わせられてたのはなんだったんだよ。おじさんその練習台に、逃げ回る俺にひたすら自分の匙から飯を突っ込もうとしてきやがったんだぞ。朝昼晩、顔面ニタつかせて『はいあーんしてくれないと鼻から噴飯ふんぱんですよー❤』と匙イン鼻孔びこうだぞ。まごうことなく幼少期の黒歴史だコノヤロー」

「あらゆる仕返しをしようとするたびに匙も持てないほどボコボコに返り討ちにされた挙句その当人にそーやって全快まで介抱されてたっていう僕の黒歴史だって幼少期にしっかりインプットされてるんだから、あんたとは五十歩百歩でしょーが。それにですね、ややこしいんですけど、とにかく僕への義父とうさんの扱いを考えれば、これは断じて大袈裟な逆恨みじゃないです」

「大袈裟な逆恨みじゃありですぅぅぅ。お前が昔から大袈裟な逆恨みをしないタチなら、ガキの時分に、安らかに寝てる人様めがけてバケツいっぱいの便所蛆べんじょうじをぶっかけたりしねえだろうしぃぃぃ?」

「おやぁ~。あんたが糞蠅ふんばえのサナギを僕の寝床のシーツ下におにぎりみたくみっちり敷き詰め、僕が何も知らずに寝転んで虫汁むしじるまみれになったのを笑い転げたことの返礼が、そぉぉんなにお口に合いませんでしたかぁぁぁぁ?」

「そりゃ便所蛆は食用じゃねぇからなあぁぁ。人間のお口にゃ珍味にしてもキツ過ぎるってもんだぜぇぇ? あー、あのしぶみと苦味を、十年越しででもてめぇに味あわせてやりたくなってきたなぁ~。安心しろよ~。鼻の穴経由で口底くちぞこまでねじ込んでやっから、鼻血で味は多少マイルドになって、麦茶に砂糖を入れるお子ちゃま味覚のその舌にも優し気でちゅからねぇぇぇ坊やあぁぁぁぁあ?」

「はっはっはっはっはぁー」

「はははははは」

 二人して競うように機械的な笑い声を反響させ、ほがらかと限りなく対極の位置へと場を暗転させていく。キルルは背中にじっとり張り付く居心地の悪さに、どうにかして間を取り持ちにかかるべきか、かなり引き腰になりながら考えていた。

 刹那せつな。その空気を、一陣いちじんの音が貫いた。

 いや、その響鳴があまりに痛烈つうれつだったため、一陣で終わると思い違いをしていただけだ。実際は、今この時もその金属音は継続して一定のリズムで鳴り響いている。人を切迫させることを意図した、半鐘はんしょうの音だった。動揺に振り回されて出所を探すが、それにたどり着くのを待たず、鐘の音はあっという間に何倍にもふくれていく……警鐘を広げるために、残りの物見塔も呼応して巧打しはじめたらしい。

「な、なんなのこれ!?」

「敵襲の合図だ」

「てっ……!?」

 あっさりザーニーイが口にした単語にキルルがぎょっとしきる間もなく、シゾーがぽろっとこぼした。

「ああ、やっぱり?」

「―――あん?」

 聞き逃さず、ザーニーイの目がわる。さっきから体勢を変えていないので、間近にある幼馴染みのその変化をシゾーが見こぼしたということもなかろうが、シゾーはひとり言ごとのようなとりとめのなさで、ぼそぼそ言うだけだった。

「いえ、屋上から見ていて、何だかそれっぽいなーとは思ったんですが、いまいち確信が掴めなくて。それで、相談しようと思ってあんたを探してたんでした。そういや」

 瞬間。ひたいに血管を浮かび上がらせたザーニーイのツッコミ(こぶし)が、シゾーの脳天を張り倒した。
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