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承章
承章 第一部 第七節
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「シゾーさん……なに笑ってるの?」
「え?」
その質問こそ面妖だと言わんばかりにぽかんと鼻白んだシゾーの顔かたちは、はっきり言って幼く見えた。
それとてはっきりと、室内に影響されてのことだと分かってもいた。シゾーの向こう側にある壁の低い所に、消しきれなかったらしい落書きが見えている。まるい太陽と三日月の下で、ふにふにの輪郭をしたヒトが、とげとげした悪役―――に違いない、これまたはっきりと―――を、三本足の大きな鳥と組んで、こてんぱんにとっちめていた。
さっきまで間際にエニイージーが陣取っていたドアを抜けて入室した時点で、ここがザーニーイの執務室だと分かりきってはいたが―――以前は、子ども部屋に近かったのではないか。そう思う。シゾーの横で部屋の中ほどに立ち尽くし、キルルは彼から目を逸らしたのを誤魔化すべく、そのまま視線をぐるりと一巡させた。言ってしまえば、飾り気のない……だからこそ、あどけない古傷がなんとはなしに目立つ、そんな部屋だ。壁だけでなく、隣室に通じるドアにも、その両脇をかためる書棚にも、拙い悪戯書き―――か、稚拙な悪戯心が透けてみえる傷跡―――が、ちらほら撒かれている。そして、机。大きな机。部屋の奥の窓の手前、経てきた暦年を物語る天板のてかりの中に散らかった日用品の中で、使い込まれて指なりにすり減ったペン軸が緩やかな流線型を描いている。床の敷物は、窓から差し込む光によって浮かび上がる濃淡だけで磨耗の度合いが知れた……部屋の主はいつも廊下から入室すると、机の正面から左を回りこんで椅子に座っていたらしい。にわかに嗅ぎ取った煙草の刳味ある残り香に、顎の裏から唾が湧いた。動悸が凪いだ。
最もそれこそ、自分がこの部屋に影響されてのことなのは明白だった。机の左脚が踏ん張っている床の上、踏み散らかされた八節モドキの燃えさしが絨毯の毛羽に纏わりついて、陽光の中に奇妙な変色を浮かび上がらせている。それを見た途端、嫌なテンポを取り戻した拍動に横隔膜を突かれて、咽かける。
まさかその咳じみたぐうの音が、遠慮がちな返事の催促かと懸念したわけでもあるまいが。その頃になって、ようやくシゾーが己の口角に指をかけた―――そうすると、否定しえなくなったらしい。はっきりと釣り上げられて肉厚の面影を薄めた下唇が、示指の腹にさすられてぎこちなく痙攣する。そして、
「はは。はッハァ」
歯茎までむき出しにして、シゾーがそう言った。
言ったのだ―――それは、笑い声ではなかった。表情はと言うと、両手の握りこぶしで押さえつけられて隠されている。口の端も手首の影になってしまっては、上がっているのか下がっているのか、キルルの立ち位置からは判断がつかない。
だというのに、言葉はただ、そのひと声で終わってしまった。
ならば、次に始まるのは、なんだ? それが分からないまま、待ち受けるしかない。キルルは、シゾーの真横で立ち尽くしていた……
そして現れたのは、だらりと腕を下げて顕わとなったシゾーの無表情と、それに相応しく情念の無い声音だった。
「いえ。なんだか、改めて、笑えてきましてね」
「あ、らためて?」
そっくり言い返したキルルから眼差しを引き上げて、彼は俯いた。こちらに相槌を打ったのではない……胡乱げに目を留めている床へと、そのまま息を吐く。胸腔にたれこめ、そのままにしておくことができなかった独り言が、その吐息をじくじくと蝕んでいた。
「極悪で滑稽だ。問答無用に不世出の笑い話だ。分かってる。こんなもの、ボタンを掛け間違えた帳尻合わせに、もう一度あえてボタンを掛け間違えるような茶番劇だ。そんなことをしたって、最後には寸足らずのちんちくりんになるって、それすらとっくに分かってるのにね。本当に……本当に、こんなにも、そう思う……のに……」
そこにきて、シゾーの呟きは途絶えた。すべてを吐き出しきったということではあるまい……吐き出すほどに、吐き出しきれたものではないことが露見してしまうから、見限るしかなかった。それだけだ。
そうと察することができたのは、単純に彼との距離が近かったからだ。隣り合うシゾーを、キルルは間際から見上げていた。
正面、机向こうの窓から差す陽光は、熱を感じないまでも、部屋のそこここに残されたちぐはぐな幼気を通せば温みを錯覚できる程度に明るい。その明度を裏切る気鬱を隠そうともせず、シゾーが口を開いた。目鼻によどんだ陰気にこだまして、うつろに声がしみていく……
「キルルさん。僕は今、なんていうか―――相当、血迷ってます。それを、あなたまで忘れないでください」
「言ってる、意味が……」
言い遂げることが出来ず、口ごもる。軽く丸めた指で口許を隠すことで、その不甲斐なさから逃げようとするが、シゾーはそんなキルルの外聞にかかずらったりはしなかった。まくし立てるような勢いで、続けていく。
「あなたが僕に応じるか撥ねつけるか決める時に、僕の自暴自棄に引きずられてもらっては……この上なく、厄介だ。そういう意味です。僕は今からあなたに、とんでもない……本当に、とんでもない話を打ち明けようとしてます。そしてそれを理解してもらった上で、助けて欲しいことがあるから」
「た、助けるって……あたしが、シゾーさんを?」
「はい―――いや」
シゾーが、仕草半ばで首肯を止めた。噛んだ唇を、重い吐息で歯列から圧し出して、それ以上に億劫そうに首を振る―――横へ二回半動き終えて、シゾーはキルルから顔を背けていた。
「いいえ。いいえ。あなたが―――助けるのは、」
せりふに遅れること、三秒。
こちらへ帰ってきたシゾーの横目から、眼差しがキルルに触れる。
「死にかけているザーニーイさんです」
その双眸も、声色も、口走った内容を反故にするように鎮静していた。
その揺るぎない沈着が、こちらの動揺を、物事の理解ごと遠ざける。
どれだけ経ったか。秒数を忘れていた。分数はまだ必要ない。そのくらいの間、キルルは茫然としていた。
「な、に、が―――なんなの?」
とにかく口を開くと、やっとこさ、そんな声になった。
声が響いた胸の奥に、やおら忍び寄っていた不穏な胸騒ぎまで自覚して、なすすべなくキルルは鎖骨の間を掌で押さえ込んだ。攪拌されかかっていた鼓動をそれで宥めるつもりだったというのに、指の皮に浮いていた生温かい汗の感触を布地に押しつぶしてしまって、その実感になおのこと息苦しさが増していく。そのひと欠片でも吐瀉すべく、キルルは喋り続けた。
「なんなの? さっぱり……分からない。分からないわよ。どうしてザーニーイ? 怪我なんてしてないんでしょ? 風邪ひいたの? お腹でも痛いの? ああでも、そんなのゼラさんがお医者さんだしシゾーさんだってそうらしいしあたしな……て……」
もう声が出ない。息が閊えてしまっている。吸い過ぎている。喉元を膨れ上がらせる空気が腫れぼったくて、これっぽっちも先に出ていかない。馬鹿げている。馬鹿げていた! こんなにも満杯の胸の内なのに、空気がない! 陸の上で溺れる。目が―――
「唾を飲みなさい」
一声が、胸倉を打擲した。
そう錯覚するほど、シゾーの言葉は重い。だけでなく、強い。余地無く圧伏され、やっとかっとキルルの喉が嚥下に動いた。
「指を解きなさい」
言われ、いつの間にか胸元で固めていた両手の痛みを、初めて自覚する。皮膚と、皮下のすじと、それを纏った骨と。地味な軋轢を告げてくるそれらを逆順に伝うように自我を伸ばし、力を抜いていく。そうやって無理矢理にでも身体の緊張を解いていけば、白熱しかけていた内面までもが急速に冷めていく。それが分かった。鼓動を聞く。それが速いと……今は理解できる。
「意識なさい。肩を落として、」
従う。
「息を吐きなさい。深く……―――そう―――いい子だ」
吐き出し切る。
だから、吸うことが出来る。
脈は未だに不自然だったが、囚われてしまうほどのそれではない。もたもたと、キルルは丸めかけていた背を伸ばした。いつしか見失っていたシゾーが、正面にいた。いつの間に回り込んだのか……樹脂蜜の宝玉を思わせる色を微動だにさせない瞳は、それこそ億万年も不動の琥珀にそれを問うのと同様に、愚問に答えてくれそうにはなかったが。
ふと、両肩が軽くなる。シゾーの両手が離れたせいだ。よりよくキルルを誘導する為に、添えてくれていたらしい。
言ってくる。
「上出来です。まあ、あんだけ手搏が出来てたんだから、コツは体得してて当然ですけど」
「え? あ……」
「今の手順、お忘れなく。砂育ちの野蛮な呼吸法ですけど、なにより実直で確実だ。僕が話してる間も、動揺しかけたら、すかさずこれを繰り返してください。あなただけは、絶対に冷静でいなければならない―――キルルさん。ア族。ルーゼ家。なにより、後継第二階梯」
そこにきて―――
まずキルルが実感したのは、自分のお粗末さだった。シゾーはまだ、手の内どころか爪の先ほども事態を明かしていない。というのに、臭わされただけで早とちりして、我を失うところだった。
そしてそれ以上に実感せざるを得ないのは、そういったキルルの度量を見極めておいて、なおシゾーが彼女を必要としているという事実への危機感だった。どう見積もっても、ただ事ではない―――死にかけのザーニーイ、その断言からして、ただ事でないことはとうに分かりきっていたとしても。ただ事ではない。
堪え切れず、キルルは口火を切った。
「ザーニーイが、し―――死、にそうって、どういうこと?」
「それを説明するにあたって、あなたが知っておくべきことが、ひとつあります。ザーニーイさんは、―――」
そこで、せりふが絶える。
口ごもったのだ。それが予想外だったということはない。口にしようとしていることの重大性はその態度から慮れることであったし、それよりはるかに率直に、彼の眼窩下を縁取る隈は小休止を欲している。だからこそ、……その眼光は、不意打ちだった。琥珀すら裂く銀の棘のような。
続けられた言葉と、よく似ていた。
「ザーニーイさんは、楽園障害者です」
あぅ―――
と、喉から先に出かけた声を聞く。それを声帯にはめ込み直したのは咄嗟のことだったが、そうしてみると驚くほど、きちんとせりふを成してくれた。
「ありえないわよ」
そう言っている。
だから自分でも、それを受け止める―――少なくとも、耳では。告げていく、口先でも。受け入れる。
それらとどこまでも裏腹に、思い出してしまうザーニーイがいたとしても。
キルルは、吐き捨てた―――続きは、おおよそ、理性的に判断した一般論を。
「だってそうなら、旅団ツェラビゾとか大陸連盟とかが、放っとくわけないじゃない」
「そうですね。手足がおかしいとか知恵が足りないとか、子どもの時から見て分かる楽園障害なら、そうだったでしょうね……ただしあの人の場合、子どもの時には分からなかったんです。分かるはずなかった」
淡々と同意していたシゾーが、そこにきてかぶりを振る。キルルの楽観を、日の中でちらちら煌めく埃ごと振り払うかの様に。
「―――あの人が楽園に持っていかれたのは未来だったから」
意味が分からない。
ただし、意味が無いとも思えない。それを考えるべきだとは分かっていた。まともな思考回路など消し飛ばされてしまった頭でも、それくらいは理解しているつもりだった。
だとしても。純然たる怒りは、自制心など一瞬で漂白した。もう口からこぼれている。止められない。
「未来ってなによ」
キルルの声が低かったのはそこまでだった。突沸した激情に背筋を劈かれるまま、声高に叫ぶ。
「ザーニーイは、今だって生きてるじゃない! 未来を持っていかれた? だったら、あたしの前にいてくれたザーニーイはなんなの! ちゃんと大人になってた!」
キルルと真逆にすっかり白けた様子で、シゾーが幽暗たる表情を深めた。口調や佇まいが明らかに変わったというわけではないが、身じろぎした角度で面差しに影が増したせいか、ひと回りも老けこんだような気がする。
「大人じゃない。子どものまま生きながらえてる。それだけです」
「あなたね―――ちゃんと見なさいよ! ザーニーイのどこが子どもだっていうの!?」
「ここが」
「ズボンがなんなのよ!?」
「言わせる気ですか?」
シゾーが、思いがけない鋭さで会話を切り返してきた―――自分の下腹から股間へと、掌を滑らせて。
キルルは絶句した。
それを、するしかない。キルルでしかない自分は、……女でしかない。のだから。
そんな彼女を眺めやって、飲み込み具合をどの程度と判断したのかは定かでないが、それよりなにより、一瞬で変質した空気の破棄こそを望んだらしい。間髪入れず、シゾーが声を継いだ。つい今さっきの仕草と同じくらいに十二分の曰くを暗喩するうつろな声色が、室内の乾いた涼気に得体の知れない粘度を膿ませていく。
「断っておきますが、言ってしまえばそういうことだってのが、解説するのに手っ取り早いってだけですよ。あいつは、幼生が成長するにつれて経時的に性差を決定付ける、そういったなんらかの因子を楽園に持っていかれたみたいなんです。だから子どものまま育つしかなかった。本当に―――本当に、全てにおいて、ね」
やけくそにせせら笑って、シゾーが言葉尻を震わせた。が、そうしてみて、震えているという事実ばかり赤裸々に思い知ってしまったのか、続く呟きが帯びる嘲りは明らかに自嘲を濃くしていた。
「だから実際の手腕はどうあれ、こんな荒事慣れした連中の中にいては体つきが見劣りします。だからあいつはいつだって厚着だし、フィジカル・コミュニケーションは慇懃に拒絶する。やんごとなきあなた様はご存じないでしょうけどね、いくら真っ赤な布っきれが旗司誓の親玉の目印だからって、引っ張られりゃ絞め殺される襟巻きに作った弩級のアホンダラは、あいつくらいなんですよ―――どれだけ発声訓練しても、喉仏だけは、大きく変わらなかったから。旗司誓において、頭領はその目印を外してはならない……襟巻きにすれば、いつだって外さないでいいから。そうやって汚物みたく全身ぐるぐる巻いて隠して見せも触らせもしない―――くせに、今となっちゃ捨てることもできない。ねえ、ちゃんと見てますか?」
問いかけておいて、シゾーはキルルを振り切るように、唐突に半身を返した。同時に執務机へと踏み込んで、陽だまりを独り占めして動かない机上の縁に腰を落とす。それに続けて、やるせなく下ちる彼の目蓋と―――隠される、両目―――
恐らくシゾーは、記憶の中のザーニーイを見ているのだろうと思えた。
そして、そう思う自分だからこそ、ザーニーイが見ているものを知っていた。
それを知ってしまっていた。どうしようもなかった。翼の頭衣を冠に戴き、王家たる後継第二階梯として王冠城デューバンザンガイツの頂点に次ぐ地位に君臨しながらも、キルルでしかなかったのはまぎれも無く自分だ。
(あなたも、そうだったのね。ずっと。ザーニーイ)
彼を思う。
雷髪燐眼。稲妻の咬み痕。霹靂。双頭三肢の青鴉に、吟遊詩人の詩歌を纏っても、彼は決して届かない。
キルルに言葉は無かった……当然唇も、吐息にこすれた以上には動かない。ゆえに読唇術など成し得たはずも無いのだが、続けてシゾーが口にしたせりふは、まさしくそのことについてだった。
「だからこそご大層に謳われるようになっても、<彼に凝立する聖杯>を旗司誓の筆頭にのし上げても、あいつは満足できないし自意識過剰なままだ。そりゃそうですよ。むしろそんな立場に祭り上げられたら、俺は臆病なんだとか言い逃れるのさえ制限が―――」
そこまできて、口走る愚痴が、あらぬ方に進みかけていることを自覚したのだろう。眉の間を深々とした皺で削り直すことで吐露を代行させ、シゾーがこちらへと顔を上げた。彼は机に尻をひっかけているのだが、猫背で項垂れられるとさすがにこちらより視点が低い。上目づかいの中にキルルの理解の度合いを品定めする気配を燈しながら、語気を沈める。
「キルルさん。ザーニーイさんの楽園障害は、最低でも年に十回前後、ひどい発作を起こします」
「発作?」
「ええ。特にここ一、二年は悪化の一途で―――なかでも一番手がつけられないのが、精神神経症状です。錯乱して譫妄・自閉状態に陥り、我を忘れた逸脱行動を取って、正気に戻った時にはその一切の記憶を無くしています。その前の事件の後遺症か、楽園障害にまつわるコンプレックスが極端化してのことかは分かりませんが、特に自分より大柄な男は絶対に寄せ付けなくて……」
(その前の事件?)
ふと、そのことが引っかかった。
(ここ一、二年より前って、)
三年以上前。
その閃きはキルルに更なる追思を迫ったが、それ以上のことを思い出すより早く、シゾーのせりふに追いつかれた。のみならず、追い抜かれた。否応無く意識を轢き潰され、物思いが散ったことさえ忘れてしまう。
「こんな場所です。悔踏区域から来る風は、掠めるだけで消耗する―――発作が始まったのは、日も昇りきっていないような早朝、いつもの朝練を終えた直後でした。あの人は多分、目覚めてから一切なにも口にしちゃいない。昨日だって、夜は戦闘の始末と宴会の仲立ちで、舐める程度のアルコールしか摂取できてない。だってのに、ついさっきまで僕と百万馬力の殺し合いだ」
「こっ―――」
「それが如何なさいましたか?」
ぎょっと息を呑むが、シゾーは心底厭わしげにキルルへと眼差しを巡らせただけだった。その眸底の気配は、状況説明を途切れさせたことを咎める針しか含んでいない。こちらの血の気を引かせた言い回しは、彼にとっては冷や水をひっかけられた程度の威力すらないようだった―――
あるいは。引ける血の気の一滴さえ、もう彼には残されていないのか。悪寒が走る思いつきだったが、拒絶しようにも論拠がない。
声が続いている……
「あんな筋骨たくましいうちの構成員たちだって、ここに突っ立ってるだけでも間食を取らないとやってられないんです。せめて水だけでも今のうちに飲ませておかないと危険なことくらい、医者見習いの僕にだって分かる。そうでなくとも、脱水は錯乱に拍車をかける。そうなれば、それの赴くままひたすら暴れて体力を消耗する。悪循環です。だからこそ、せめて脱水さえどうにかなれば、きっと幻聴や幻視に隙間ができる―――だったら、疲れ切ったあいつはそこに転がり込んでくれるはずですし、そうやって眠らせさえすれば、僕にも手の打ちようはある。でも発作任せの今は、こんな僕じゃ駄目なんです。こんな―――変わり果てた、僕じゃ」
つと、シゾーがどんよりと立ち上がった。腰の左右に、両手を広げてみせる。
その言動に大それた意図があった様には思えないし、あったとしてもそれが意図的なとどめだったとは―――絶対に―――限らないが。それでもそうしてみてシゾーは、己の目線の高さと、伸び切った四肢を思い知ったようだ。伏せていた熟視が、あてどない方向へと、逃げるように浮かんで……その先でまたしても、彼を懐旧へと追い詰める思い出の何かに出くわしたらしい。悼むように目を閉ざす。
とっさにそちらを盗み見たが、その古びた棚に、特筆すべき何かはうかがえなかった―――使い古され、使い古されたなりのくたびれ方をした、ただそれだけの棚だ。そう思えるし、実際自分にはその程度のものだ。だからこそ、そんなものにさえ鬱積したザーニーイとの因縁を思い知るしかないシゾーを目の当たりにして、臓腑がじわりと未知の重さを増した気がした。
シゾーにとって、その重みは錯覚ではなく、かつキルルを超えるものだったに違いない。
だのに、さっと目蓋を開かせるシゾーに、直感する―――だからこそ彼は迷えない。目蓋さえ、悼みまでも、鈍重にかかずらってはいられない。
告げてくる。
「キルルさん、お願いします。ザーニーイさんに、水を飲ませてください」
一拍。
キルルに動揺の色がないことを見て取って、続投した。
「いつもは義父さんが、そういった役割でした。あの人なら、」
瞬間、シゾーの炯眼が濁る。実際にそうだったはずもないが、目縁に砂を噛んだように瞳の光を強張らせて、
「あのフラゾアインなら、どんな発作の真骨頂にでも入り込めた。でも今、あの人はいない。帰りの見通しも立たない。確かに、ザーニーイさんの精神神経症状は次第に発露周期を短くしていくので、最悪となる今日一日を黙殺したのち、正気の時間を見計らって僕が飲み食いさせるという手も、あるにはあるんです。でもそれに賭けるには、今回のあいつのコンディションは分が悪すぎる―――!」
言いながら、シゾーが自分の腹から腰を撫で、そのまま片腕で抱き竦めた。声に出したせいで、ぞっとする痛切がぶり返したとでもいうように、総毛立った身を縮める。すぼまった肩に挟まれた頤から漏れ出るそのせりふは、声帯のみならず、歯の根も、蒼白の頬の肉も震わせていた。
そこまで震えていれば、単に心底怯えているのと同じことだ。
シゾーは打ち明け続ける。
「お願いしますキルルさん。あなた以上に義父さんの背格好に近い人は<彼に凝立する聖杯>にいないし、あいつが必死に隠そうとしてどいつもこいつも見て見ぬふりを決め込んでいる以上、副頭領の口から身内の誰かに事の仔細を明かすわけにはいきません。あの人を隔離してる部屋は、通気口が空いているだけの暗い造りです。あなたはターバンもしてる。口さえ利かなければ、ただでさえ前後を失っているあの人に、義父さんとの見分けなんてつきやしない。とんでもないことを頼んでいるのは承知の上で、それでも頼みます。助けてください……」
シゾーは姿勢を正してからキルルに向かい、はっきりと頭を下げた。彼女の目線の、さらに下まで。
「僕は、ザーニーイさんを叩きのめしました。縛り上げて連れ去り、武装犯罪者用の束縛縫製にぶち込んで、隠し部屋に監禁しました。あと今の僕に出来るのは、これだけなんです。助けてください。助けて、ください―――……」
彼の膝の上で握られた拳、その革手袋が締まって、小さく軋む。叫び声にも聞こえた。ぎゃっ、と。
それに返答したのかもしれない。自分は。
「助ける」
シゾーが顔を上げた。唖然としている。
その時間も惜しいはずだ。
「行きましょう」
「こっちです」
言葉半ばに長躯を撓らせ、彼が跳躍した。本当に飛び上がったわけではないが、それを思わせる勢いで俊敏に踵を返し、壁にあるドアへと飛びつく。廊下に出る方ではない、書棚に囲まれたドアだ。
綺麗だったはずの彫り細工がメッタ刺しされて前衛的装飾と成り果てているその扉を押し開けると、そこには書類の絶壁が待ち受けていた。だけでなく、堆く積まれた箱に、正体不明の歪な影の群れ……ごちゃごちゃに一箇所にまとめられた布らしき物体は、組み合わさってドア以上にエキセントリックな芸術性を発揮している。芸術面を排して見るなら―――床でも掃除しようと濡れ雑巾を持って来ては、使ったり使わなかったりしたまま隅っこに追いやられたなれの果てのような。
シゾーに招き入れられたはいいものの、ゼラの私室をはるかに越える混沌に、キルルは二の足を踏んだ。しかもシゾーが後ろ手にドアを閉めたため室内の光量がしぼられ、なおのことキルルのつま先を挫く―――としても、後ろからかなり無理矢理追い抜かれては、困惑に抱き込まれている暇はない。先ゆくシゾーは積載物のどれにも目もくれないくせに、もれなく器用にかいくぐって―――またしても、辿り着いた壁には、ドア。
それを押し開けると、がらんどうの暗がりが満ちていた。
シゾーについて室内へと踏み込んでみても、それだけだ。広々としているだけの、何もない部屋である。部屋隅に壷のようなものが幾つか寄せてあるものの、いかにも調度品らしくないみすぼらしいシルエットをしている……いや、調度に用いる品どころか、実用するための家具も窓もない。石材がむき出しにされたままの床、天井、壁はこの建築において標準的であるはずだが、この部屋においては明らかに室温を下げる因子となっている気がする。その壁面から無骨に突き出した燭台のいくつかが、部屋の端にある空気穴から忍び込んだ陽光によって、凍死した梢のような孤影をキルルの足元まで伸ばしていた。
と。目前を進んでいたシゾーが、立ち止まった。
そして、意表を突かれて蹈鞴を踏んだキルルの鼻先が肘の上にぶつかりかけたのも意に介さず、身体を捻って掴んだドアのへりを突き飛ばす。当たり前だが、ドアが閉じた。闇と寒気が、どっと室内に濃縮される。
ドアを押しのけた彼の右手は、そのままドアの蝶番へと伸びた。そこから一番近い壁のブロックの継ぎ目に、指先を突き立てる。そのまま、爪が沈む。続いて、指までも。
(圧縮煉瓦を、手で、抉った?)
キルルはあんぐりとしたまま、成り行きを見ているしかなかった。彼が掌大のタイルを壁から引き剥がして、更にそこから連なった壁―――否、壁に偽装されていた盾状の石版を取り外した時も、その奥から現れた大穴に瞠目を掻っ攫われて、言葉も出なかった。
あらわになった壁のそれは、埋め込み式の暖炉を思わせた。ただし、煤煙を潜らせる煙突がないかわりに、枯れ井戸のような穴が床に開いている。暗さのせいか深さのせいか、立ったまま中を覗きこんでも底まで見えない。その壁面には、等間隔の凹面が人造されていた―――用途は見てとれた。梯子。
やっとこさ、キルルは呻いた。
「隠し部屋……」
「階層の数と建物の高さが一致しないのは、こういった金持ちの道楽の賜物です」
「道楽?」
「このドア以外に出入り口は無いと一見して分かる部屋。そのドアの死角―――しかもドアノブが空洞にぶつかった反響から存在が悟られないよう考えつくされた偽装タイルの配置に、仮に隠し部屋の存在が露見したところで、鎧や筋肉で武装しまくった屈強な狩人どもの素通りを許さない周到なせせこましさの寸法。ここまでやっといて、マニアの道楽じゃなけりゃなんだってんです? ここを通る時だけですよ。自分の骨すじが縦にばっか育ったのを感謝するのは」
「……感謝したあとは?」
「あいつを運搬中は肩と胴体の造りがもっと太くなってたらって怨み節になって、運搬し終わる直前にはギックリ腰注意報に掏り替わります」
シゾーは投げやりな蛇足を、それ以上に粗雑な口ぶりで打ち止めにした。手に引っかけていた二枚の石の板を寝かせるために、慎重に床へ片膝をつけながら、キルルへと顔を上向かせてくる。本来なら、この隠し通路の使用者が内側からこの石版を嵌め直し、そのまま隠し部屋へと遁走するのだろう。今は、床に置くしかない。
だからその姿勢になったのは、そういった必然だったのだろうが。それでもシゾーの様子は、王に傅く騎士を思わせた。いや―――宮廷儀礼だとしたら、騎士ごときが、許可無く王を直視するはずがない。ならば、彼はなんなのか……
シゾーが立ち上がったせいで、夢想は掴み取る前に霧散した。今朝は余計な勘の良さでキルル自身にも不明瞭だった内心の浮き沈みまで嗅ぎ取っておきながら、彼はこんな無作法に限って杜撰に見落とすと、途切れさせる事なく解説を口にする。
「キルルさん。この縦穴を降りると、隠し部屋まで通じる横穴があります。僕はもう、この先へ行けません。あの馬鹿たれ、こんな時にまで余計な知恵の回りようで、床に耳をつけて聞いてた物音からこっちを割り出してたことがあって、前にろくでもない事態になりました」
と、前のろくでもない事態とやらを思い出したらしい。シゾーはしぶとく浮かんでくる汗を、これまた執念深く眉根に深まりかけた皺と一緒くたに拭って、
「多分あの人は意味不明の白昼夢をべらべらくっちゃべるでしょうけど、適当にやり過ごして機会を狙ってください。さすがに声までは義父さんと勘違いしてくれないでしょうから、キルルさんはあいつのそれには、ひと言も応えないで」
「ええ、分かってる」
キルルは言うだけでなく、頷いて理解を示した。それに目端の雰囲気で首肯し返すと、シゾーがキルルから離れた部屋の角へと進んで、そこから壷をひとつ取り上げる―――と見えたが、帰ってきた彼が携えていたのは、金属製の水差しだった。一輪の花を活けるには大きすぎ、花束を活けるには小さすぎる……花瓶に例えるなら、それくらいの水差しだ。その光沢は使い込まれた鈍色の臭跡を隠しもしないが、純粋に水差しとしてだけ使われ続けたのなら在り得るはずがない派手な凹凸が、なによりキナ臭い遍歴を耳打ちしてくる。それを受け取ると同時、手の先から顎の裏まで撫で上げてきた冷感に、キルルは舌頭までも凍えた心地がした―――これが、水差しの水に由来した生理的な温感だけならありがたかったのだが。
そんなこちらに感化されたなど、馬鹿げた話だとしても。どこかはっきりと温度を下げた声音で、シゾーが付け加えてきた。
「水です。水差しのぎりぎりまで注いでありますけど、飲ませれるだけで充分ですから」
「ええ、分かってる」
「―――これも分かってると思いますが、」
と、重ねて食い下がる。
「僕があいつに着せた武装犯罪者用の束縛縫製がちゃんと効いてても、あいつがどんだけナンセンスなファンタジーに脳みそから足止めされてても、あなたの義父さんの物真似が徹頭徹尾パーフェクトでも、……部屋の中は決して安全じゃありません。義父さんは前に、やむなく肩を外して取り押さえたことがある。僕だってこれで何日か、高枕しての熟睡はおあずけだ」
直後。シゾーが右手で、自分の服の腹をまくってみせた。異性の思わぬ行動に目を剥くが、この上なく無駄を絞った腹筋の峰々と、その筋群が整然と描く強靭な稜線の中にあって、赤く―――かつどす黒く穿たれた内出血の斑紋を見てしまっては、もう目を背けることは出来ない。
彼は己の臍の右斜め上、大樹の虚の如く闇色がとぐろを巻いた特大級の痣を見下ろして、捨て鉢に独白した。
「あと二横指半真上にずれてくれてたら、肝臓やられて有無も言えずに昏倒できたのにね。まあ枕なんてない床の上だし、それでもあいつの肉布団くらいにはなったかな。相打ちだったら。クソッタレ」
「シゾーさん……」
「僕の腹すじが目に見えて厚かったから、姑息に鳩尾なんて狙わなかったんですよ。あとはここ」
と、シゾーが、額から髪をかき上げた。自分勝手に生い茂る黒髪が後頭へと追いやられ、その左の目尻からこめかみまでを這いずる無残な蚯蚓腫れが明らかとなる。眼球を貫こうとした指をかわし切れず、引っかけられたらしい。
不意に、その生傷の先にある、左耳朶のリングピアスが揺れた―――裂傷にぽつぽつとへばり付いた生乾きの瘡蓋を捻り潰すように、シゾーが破れかぶれといった様子で笑ってみせた余波を食らったせいだった。
「金的だけは、してこなかったかな?」
そうやって、ちっとも笑えないことを言ってのける。上辺だけの笑みに相応しく。
怨めないことだけに、怨めしく思うくらい許されるだろう? 言外にそう囁いたような時間をかけて、シゾーは頭にかけていた手を下ろした。
「キルルさん。持病の発作の真っ只中で覚えがないとはいえ、あなたに何かあったらザーニーイさんは死ぬしかない。前代未聞の不敬者として、断頭台にまっしぐらです。今のあいつはあとしばらくで衰弱死って話ですが、あなたは霹靂の本気にかかったら瞬殺されます。確実に。それじゃ何の意味もない。危険を感じたら、死ぬ気で―――いえ、殺す気で、逃げてください」
「死ぬ気はないわ」
決然と、キルルは告げた。
「でも、殺す気もない」
そして、待つ。
数瞬のうちに、この暗がりの中でも分かるほどに、シゾーははっきりと気色ばんでいた。まさか後継第二階梯その人が、差し引いた発言をするとは思わなかったのだろう……ここまで説明されておいて、なお事態を軽んじているとさえ思えたかもしれない。さっと緞帳が下りたように暗度を深めた顔色が、ふつふつと沸騰しかけた苛立ちで血色を足されて、際どい怒張を見せている。
「なら行かせることはできません」
「あなたたちを見殺しにする気なんて、もっとない」
手にした水差しの重さを感じながら、己の言葉にもそれを感じる。キルルは続けた。
「シゾーさんを人殺しにもしない。ザーニーイを生殺しにもしない。あたしは、いつだってそうできてしまうから、絶対に、そんなことはしない」
これは理屈でない。屁理屈ですらない。
それを聞いた彼はどうするだろう? エニイージーは、ぽかんと前庭に立ち尽くしていた―――
シゾーの精悍な顔かたちを無残に引き攣つらせている逆上は、一向に目減りしそうにない。それをぶちまけるという誘惑をねじ伏せて、目視の中に洞察の念を居座らせた副頭領の力量は、キルル程度の眼識からしても流石だと認めざるをえなかった。水っぽい灯火の様に瞳を曇らせている、その力尽くの思慮の静謐を、単に―――見られているから、ただそれゆえに見返して―――
シゾーが、眼差しを封じる。悪戯に強力を込められた目頭が痙攣していた。
「駄目だ。くそ、畜生、なんで俺は―――」
と歯噛みして、舌打ちを食い殺す。そうしてみて忽然と、痛烈な後悔が骨身に沁みたらしい。眉の尾根をあけすけに慙愧と忸怩で歪めて、愕然とひとりごちる。
「ヘボだ。暴挙だ。無鉄砲だ。すいませんキルルさん、僕は自分で言う以上にヒスに駆られてたみたいです。軽はずみに秘密を共有させて安請け合いを誘導するなんて、軽挙妄動にも程があった。さあ送ります。全部忘れてエニイージーの所まで戻っ―――」
そこで、断言は打ち止めになった。言いながら手をかけたキルルの片肘が頑としてその場から動こうとしなかったことそのものは、彼の想定を外れていたということもないだろうが。
それが生理的な強張りだけでないという直感は、静電気のように相手の芯を貫通したようだった。シゾーが、それこそ雷の先端に指紋を衝かれたようにキルルから指を外して、ただし決して扉の金具には向けないであろう怒罵の渦巻いた恫喝を、こちらへ向けてくる。
「戻るんです」
「戻ることなんてできない」
怯えていい場面だ。
冷静にそう判断できたのは、ふと先程のシゾーを思い出していたからだ。片方の膝を地へ折り、上体を伸ばして上向いた彼を。
自ら望んで、大地に突き立てた旗幟を支える姿だ。そう思える。
それを怯えることはない。キルルは、静かに彼を見返していた。
「旗を司ることを誓う。その意味を―――あなたたちを……あたしすら知らなかったあたしを、取り戻すことは、もうできない」
「―――ここの、けったいな空気に酔ったのは、あなたのせいばかりとは言いがたいですが、」
と、シゾーは譲歩を切った。そして再び舌に乗せる頃、その気配は明確な嚇怒によって、密度を上げていた。
「それでも悪酔い任せの旗司誓かぶれは、有り体に言って虫唾が走る。お辞め願いたい」
「そう思われたところで構わない。確かにあたしは、自分の力の無さを信じて甘やかす方が容易いし、しかもそれをいつだって許される立場にいる。だからこそ、今はそれを拒絶しなきゃならない」
キルルは伝えた。
「もちろん、無駄な無茶は絶対にしないわ。言ったでしょ? 誰も死なせないし殺させない。危ないと思ったら、すぐに逃げ帰ってくる。それで、見計らって、またザーニーイのところへ行く。水を飲ませるまで、絶対に諦めない」
言葉が終わる。言い終えたのだから。それは当たり前だ。
そして当たり前のことを、シゾーこそ見落としている。それが刻一刻とばれていく。一秒が過ぎ、三秒が閉じる。その事実を読む。
「シゾーさん」
「―――はい」
「あたしがこんなことを喋ってる間、あなたはちっとも動かなかったわね」
「……なにを仰りたいんですか?」
「こんなちっぽけなあたしをつまみ出す手口なんて、手練れの旗司誓なら幾らだってあったはずなのにね。隙を突いて引きずり出すなり、丸め込んで宥め賺す甘言を与えるなり。でも、あなたはそのどれもしなかった。どうして? シゾーさん……分からないなんて、言うのは無しよ」
仄暗い部屋。その空気は凍えている。
あるいは、唐突に含まされ、立ち去る気配の無い人ひといきれに竦んでいるのか。
懐に預かった水差しは、それよりも人に馴染んで温まっている。シゾーはどうだろう? 人相に温情はあるか? 試走のそれは?
彼は―――
「……分かり切っていることを、僕も確かめてなかった。そう言えば」
と、言葉通り、確認してくる。
「このことは誰にも言わないと、約束してもらえますか?」
「するわ」
「簡単に言うんですね」
ふと彼の瞳をくすませた感情が、愉快なそれでないことは見て取れた。自覚はあったのか、キルルがそれに言及するまでもなく、シゾーが目線を下げて詫びを示す。
「いえ。すいません―――どうにも……悪い、癖で。目くじらが立つんです。口約束に」
不機嫌面からぼそぼそと継ぎ足された補足は、卑屈に鼻で笑う音で閉じられた。
「だからって誓約書を書かれても意味なんて無いのにね。愚かなのは承知してます。気にしないでください」
キルルは、なにも言わなかった。なんだって言えたはずだ。慰めでも。励ましでも。自分が彼に気後れするための言い訳でも。嘘ですら吐ける唇なのだから―――こんな時すら、なんだって。
だからこそ、なにをどう足されたところで足りない。声音でも文字でも欠けている。それで当然なのだからと、そう言う彼にこそ―――
「せめて。これを」
手を伸ばす。そっと、小指で、彼の小指を握った。ゆびきりだった。
引き戻した空手を、水差しに添える。
そして、不意を突かれて獰猛さを取りこぼしたシゾーの形相から、顔を翻す。背筋も。つま先も。
キルルは胸元に水差しを抱え、隠し部屋へ続く下穴へと、身を潜り込ませた。いったん穴の縁に腰を落ち着けて、つま先を下に垂らす。一段目の壁面の凹部を手探り―――足探り?―――で見つけ出して、体重をかけた。真正面のそこは、びくともしない。
つま先はそのまま、背中を下穴の壁に下ろし、足でつっかえ棒にして全身を支えてみた。問題なさそうだ。水差しを臍の上に置いて両手で支え、ずりずりと背で石壁を擦りながら、一段一段を慎重に降っていく。恐らくはシゾーも、キルルの水差しの位置にザーニーイを乗せて、ここを降りたに違いない。うなじに触れる石材の感触は滑らかだった。
(今までどれだけ、こんなことを繰り返してきたの……?)
うそ寒くなった途端、足の裏が床に触れた。予想外に、足音が響く。
(……きっとこれだって、隠し部屋の仕掛けなんだ。太鼓みたいに、一枚板の下に空洞を作って、物音を木霊しやすくして―――)
今度こそ慎重に井戸の底に踵を揃え、とりあえずキルルは水差しを手に上体をほぐした。頭上には、まるで朧月のように薄ぼんやりと、井戸の口が開いている。いたときは暗い部屋だと思えていたが、まだあちらの方が陽光が差していた……
視線を下げて、ぐるりと見回す。壁の一部が、四角く切り取られていた。通路だ。人ひとり……キルルの体格ひとつきりであれば、骨の出っ張った部位をぶつけずとも立位で進んでいけるだろう。なか途中は燈明のひとつも無いが、行きつく先に光が見えた。そこが隠し部屋らしい。
水差しを抱え直して、キルルは通路につま先を進めた。
さっきまでは、ここが枯れ井戸のようだと思えていた。だとしたら、そんなところをくぐっては家屋への侵入を繰り返す蛇や鼠は、こういった気分に毎日耐えているのだろうか? 視界が利かない暗闇の中で、心拍が表皮を突き上げ、血管が引き攣つり、干せ上がる粘膜が癪に障る。一歩、半歩とすり足を繰り返す残響音が、狭い筒の中を舐めまわすように響く―――のみならず、響き渡っている―――気がする。鼓膜から奥を侵し、更なる最奥へと。
そして、それは奥底から反響してくる時には、音ではなくなっていた。
(わたし、一体どこで、ゆびきりなんて約束の仕草、覚えたんだっけ?)
余計なことを考えている。分かってはいるのだけれど。
(前に、誰と、どうしてゆびきりしたんだろ?)
がり、と小さな塊を踏みつぶした。
そうなってしまえば、もう軽石のひと粒だったのか蜥蜴の頭蓋骨だったのかも分からい。立ちすくんでしまっていた。粉から足をどけて、その先に靴底を下ろす。
そして、通路は行き詰った。突き当たり、隠し部屋への出入り口が、向かって右手側にぽっかりと開いている。それはドアも無く、狭く、静まり返っており、通路よりも薄明るいというのに不吉さを感じ―――だというのに、こうして開かれてしまった空間だった。あたかも、棺桶の上蓋が外れたかのような。
(だとしたら、あたしは棺桶の中の死人だってわけ?)
それは。あるいは、彼が。
連想にひやりとして、キルルは通路のその場で身体を止めた。上ずっていた呼吸を肺臓の深くまで沈めて、半分だけ目を閉じる。
(水を飲ませる、ザーニーイにこの水を飲ませる、ひと口でいいから飲ませる……)
唱えるごとに縒り上がっていく緊張の糸を、自覚することで解きほぐしていく。キルルは半眼を撤回した。すべては、数秒前と変わっていない。隠し通路に立つ自分。後ろには、シゾーを置いてきた。
そして、先には、彼がいる。
水差しから湿り気を嗅いで、キルルは細心の注意を払いながら、室内に歩を差し込んだ。
入ってみると、その部屋の印象は、棺桶とは違っていた。独房。
あるいは究極の反省室か。まあそれだってきっと、独房には違いなかろう。
奥に細長い長方形の小部屋だ。一番奥に、部屋の端に嵌め込まれるようにして、寝床がひとつ。壁と天井の鎹沿いに、空気穴が点々と切り取られている。本当に、光源はそこだけだった。だというのに、ベッドの上で光るものが見えた。陽光を受け、赤味を纏った金髪―――
出そうになった声は、息を呑んだせいで消えた。
ばらけた髪から垣間見えたザーニーイは、どう考えても死相をしていた。こちらに向けて横倒しになっている輪郭、その上には奇妙な蝶のように、血が固まった片耳が留まっている。絞扼を暗示する手形の鬱血と、それを引き剥がそうと掻き毟られ、無残なかぎ裂きを残す肌が、首筋に続く。その皮膚の色はと言うと、半開きの目蓋から覗く白目よりも色が失い。乱暴なことになったのか、切れて腫れあがった唇だけでなく、鼻の下のくぼみにも乾いた血がこびり付いている。そんなにしてまでも、着せなければならなかったのか? 両手を互い違いの肘で固定する、真っ黒い拘束衣を?
黒い蓑虫のような彼は、粗末な寝台の上で、微動だにしなかった。そもそも、動く余力がないのだろう。ならば満足に呼吸する余力は? 心臓が動く力は?
不用意に踏み出した一歩が、致命的な靴音を立てた。
刹那。ザーニーイの目が開く。そして、あらんかぎり見開かれる。
咆哮がした。それが続いた。ありえないことに、彼の喉から。
人語を砕く空気の振動の尋常のなさに、怖気が全身を削り取る。彼がそれを自慢の美声と言ってふざけていたのは、つい昨夜のことだったのではなかったか? それを思い出して、あまりの酸鼻さに涙が戦慄く。
ザーニーイが動いた。キルルを殺そうとしたのだろう。本来なら、それこそ霹靂に撃たれたように一撃で、自分は死んでいたに違いない。が、彼が拘束衣によって両膝同士まで戒られていたため、そうはならなかった。立て膝をもつれさせて、寝台から転げ落ちる。おざなりに当てがわれていたぼろぼろの一枚布を巻き込んで、かなり派手に粉塵が舞いあがった。その一枚布が腹掛けなのかシーツなのか、粉塵の正体が蚤なのか砂なのかも分からない。
(こんなひどい状態なのに、こんな場所に放っておかれて、まともなお布団のひとつもないの……?)
信じられなかった。反射的に、五指が限界まで力む。これ以上引き攣ることが出来ない顔面の分も。
その指先から、抱えていた水差しが滑った。
(っ駄目―――!)
もう遅い。床にひっくり返った水差しが、金属音を室内に一閃させて転がる。
横転して止まった注ぎ口から、一気に水が溢れだした。このままでは、注ぎ口のくびれのあたりに、ほんの茶碗ひとすくいほどしか残らない。
(拾わないと。早く拾わないと)
しかし動けない。動けば彼も動くだろう。今以上に。今以上の殺意でもって。
なぜならばザーニーイは、這いつくばったまま、絶えずこちらを睨みつけていたのだから。
迅雷の碧眼に射抜かれて、キルルはぴくりとも動けなかった。
動けない。動けなかった。その翡翠の蒼を燃え上げる、天をも衝かん激情が、掛け値なしに美しい!
―――それが度し難い現実逃避だと警告してくる生存本能くらい、キルルとて持ち合わせている。倒錯を許すな。倒錯を許した危機から直視を外すな。汗が湧く。唾液が粘る。それに貼りつかれた舌はべたりと動かず、だったらそこから繋がる喉も、喉の奥から連動する五臓六腑までも動かない。手順を忘れていた。飲み込む。拳を緩ませる。それを意識する。肩を―――
無言の空間に、ザーニーイの狂気だけが満ちていく。時間を失っていた。とにかく、水差しが吐けるだけの水をぶちまけ終えて、沈黙を取り戻すくらいの時間だった。
「ぅ……ェ、いァ……?」
彼がこちらへと、そんな声を嗄らした。
(呼びかけた)
そう判断する。のだが、ほとんど喘鳴にかき消されてしまっていた上、やっとこさ聞こえたそれでさえ、ゼラともシゾーとも食い違う。わけが分からなかった。こんな時に対処してきたのがあの義父子だからこそ、シゾーは自分に頼らざるを得なかったのではなかったか?
(それともシゾーさんが言ってた通り、うわ言らしく、あたしを妄想の誰かと勘違いしてる?)
ならばその人のふりをすべきだろうが―――う・え・い・あ―――どこから吟味したところで、旗司誓に来てからは初耳の名前だ。エイア―――ウェイア? ……
「―――ぇ……ゼ、ラァあアアアアァ!!」
絶叫が、キルルの思考を破った。
「殺してやる!! 殺してやるぞ!! 俺がザーニーイだ―――俺に出来ねえことなんざ何もねぇんだ!! とうさんが<彼に凝立する聖杯>のシザジアフとして契り、吟遊詩人が霹靂とまで言わしめる俺が―――もう二度と失敗なんかしやしねぇ!! 糞女郎が、今度こそ絶対に殺……し―――」
忽然と、息吹が途絶えた。
その時危ぶんだのは、ザーニーイが自分の発奮に付いていけずに気絶したという可能性だった。人は、外傷に因らずとも気絶すると聞いたことがある……
違った。
激しい呼吸が、言葉をことごとく磨耗させていただけだ。喘ぎの中に、擦り切れた吼え声が散らかされていた。
「そしたらそうしてまた俺だけが終わらない」
それは、砂を巻き上げた風が立てる擦過の音に似ていた。砂は消せない。風も消せない。痛みを撒く鋭い存在であると知りながら、耐えるしかない―――
「終わらない終わらないんだずっときっといつだって終わらないのは俺だけでしかいられないんだから、俺だけ……な、んで―――デデじぃ、とうさ……ィぞー、シヴツェイアあアあのせいで―――みんな……イるのに、俺はイるくせしてよぉ―――」
聳動は続く―――正気を圧搾するような反吐が。ザーニーイは半分だけ踏みつけられた芋虫のように地べたで悶え苦しみながら、体液代わりに狂奔を撒き散らしていた。
(デデじぃ―――デデジー? デデ爺? シヴツェイア? にしても、ゼラさんを殺すって―――て言うか、く……クソメロウって、一体どういうこと?)
品のない罵声に心中でつっかえながら、それでも疑問に思考が釣られてしまう。それを自覚する。
(駄目。なに引きずられかけてるの。ただの空想なんだから、なんでもありなだけよ。それこそ、ゼラさんへの日ごろの欲求不満が、最悪まで煮詰まっただけ。それだけ)
いうなれば、彼の執務室に残されていた、あの悪戯書きと同じだ。あの戯画に傑出した勧善懲悪のように、夢幻の中でこそ成立した極端だ。夢幻―――
(だからこそ、あたしがしっかり現実を見ないと駄目)
ザーニーイ。
殺傷力では歯が立たない。殺気ですら太刀打ちできない。
だからこそ、これを、そんな次元の話にしてはならない。
キルルは、そっと歯を食いしばった。細心の注意を払いながら、床から水差しを拾い上げる。軽い―――重さも、ちゃぽんとしか聞こえやしない水音も。
ひと粒ふた粒と水差しから伝い落ちた水滴の波紋をどこまでも広げてくれる水溜りの大きさに、さすがに後悔を覚える。だが、取り返しがつかないことを嘆いてみじめになるのは後でも出来る。今は、成すべきことがある。
転がったままのザーニーイは、今はこちらを見ない。
今更ながら、吸いこんだ空気に汚臭を―――少なくとも、鼻をつままねばならない程のそれは―――感じないことに気づいて、キルルは迂遠な戦慄を覚えた。排泄するほど物を摂取していない。嘔吐する体力もない。それを察するしかない。
(水を、飲ませる)
一歩。更に半歩。粗末なだけの古びた寝台、その手前に転がる青年へと、にじり寄る。メートル手前―――センチ手前―――
仰向けのザーニーイは、苦鳴と妄想を口から出し入れするついでのように、ばらばらに吸って吐いてを繰り返していた。異常な呼吸に身体が追いつかず、こまごまと嘔吐いている。最低限、鼻孔からの呼吸を取り戻すことが出来なければ、液体を飲み下すなど到底不可能だろう……今のままでは、口からの吸気に巻き込まれ、むせ返るのがオチだ。
(口、閉じさせないと)
ならば、顎を引かせる必要がある。
それ以外思いつかず、キルルはザーニーイの枕元に座り込んだ。頭頂の真上の床に膝をついて、水差しをわきに置く。彼のターバンと頭帯は、しっかり巻かれて外れていない。掴みどころとしては充分だ。
床と彼の頭の間に膝小僧を差し込もうと、キルルはザーニーイのうなじに両手をかけた。不意に指の腹にからみついてきた彼の汗と熱と、思いがけない髪のやわらかな感触に息を呑む。繰り言に没頭しているザーニーイは、キルルに視線を振りさえしなかったが。
どうにか躄って膝枕を整え、キルルは呑んでいた息と底力を絞り出した。強引にでも呼吸を鼻に切り替えたおかげか、ザーニーイは多少落ち着いたように思える。暴れまわったせいで精魂使い果たし、もう魘されるくらいしか不可能なのかもしれないが。
(急いで、急いで、急いで急いで急いで……)
服のわき腹で両手をこすっておざなりの清潔を取り戻すと、キルルは水差しを持った。その注ぎ口を、直接ザーニーイの口許に傾けて―――
それを引っ込める。キルルは自分の丸めた右手に、水差しから、水を汲んだ。
ザーニーイの唇に、小指の付け根から、小さな水面をあてがう。
飲まないかもしれない。そのことばかり考えていた。だからこそ、乾ききってささくれた彼の口の皮がキルルの掌に噛み付いた時、腹の底から動揺した。
右手の小指の付け根に、啄ばまれる痛みがある。歯で。歯茎で。舌で。唇で。痛みではない感覚が、右手の小指の付け根以外で疼く。
眩暈がした。
それを直視せずに済ますには、ザーニーイを注視せずにおれない今の状況はありがたかった。どうなる? ―――彼は、これから。
口づける先から貪る水が無くなると、彼は首を振ってキルルの手を払った。そして呻いた。さも気にくわなさげに。
「……このくそジャリ、いい加減にしろよ……こんな介抱まで、いちいち勘定すっこたねぇだろ。借りだ貸したと、ちびが一丁前にバタバタ邪魔くせぇ……」
ふとキルルは、ザーニーイの眼差しに気付いた。彼の薄目は、あけすけにキルルの服の模様を伝っている。その胡散臭そうな感情は、これ以上なく露骨で、言ってみれば……年端も行かない子どもの、衒いないそれだった。
同じく少年のシゾーがこの服の中にいると彼が思い込んでいることに、キルルが気づいたのはその時だった。まだザーニーイは、ストレートな悪罵を続けている。
「ああ? お前を俺が助けるのに理由がいるのか? なあおじさん、こいつどうかしてるって。なあ。ねえ聞いてるネ・エ?」
と。
出し抜けに後頭部をはたかれ、キルルはうなじを折らざるをえなかった。
誰が叩いてきたのか、振り返りたい―――のだが、頭が、土下座を強制するようにぐっと押さえつけられては、動かない!
未知の展開に発狂しかける。わめき散らせば、それは多少は発散できるのか―――わめく? ワメクのを散らすには、どうすればいいのだったっけ?
そこにきてやっと――― 一瞬だったとしても、やっとだ―――脳が、状況を理解した。人肌の臭気さえ嗅ぎ取れるような指呼の間でザーニーイと顔を突き合わせながら、両肘の拘束が解けた彼の両手が天井に向けて突き上げられているのを理解していた。その掌が、キルルの後ろ首を鷲掴みにして、こうして間際まで引き寄せていることも理解してしまった!
これで完璧に、命の補償は失われた。彼はキルルの頸椎を折ることができる―――扼殺できるし、気道も打てる。総毛立ったのはそのせいだと思いたかったが、背筋は悪寒とは裏腹の熱を感じていた。
「ゼぇラあ」
ザーニーイが、そう呟いた。その言い様と同様、辟易と倦厭を垂れ流した目が、キルルのターバンを伝っていく。
「やめてくれってば。俺のお古を着るのは。目に入るたびに、いらねーこと思い出すじゃねぇかよ……」
その呼びかけが、ゼラ・イェスカザ当人へのものか、ゼラ―――“影”の意から転じて、今では切っても切れない腐れ縁や表裏にある利害関係の暗示に用いられる―――とあてこすっている別人へのものなのかは、判断がつかなかった。別人? 何と呼ばれていた? デデジー。あるいはシヴツェ―――
「キルル」
己のそれが奪った名前を、キルルは忘れた。
彼を見詰めるしかない。こうなっては。
「思い出した。キルルが、これ巻いてたな。はは。お揃いか? ―――そいつはまた、冗談じゃない……」
と、そこでザーニーイは、それらしい強面を気取ろうとしたのだろう。小慣れたように皮肉に笑んで、笑い飛ばすべく軽口に化かした―――というのに。
それを、無表情へと瓦解させた。呟く。
「違う。インチキして、冗談にして、やり過ごせなかったんだ。あいつには……とうさんがいないから……せめて俺だけでも―――」
呟く。それを続ける。
止めることはできない。
「あの時、廊下で。あいつ。母親が死んで―――かなしがってた」
阻むことはできない。
「親が死んだことじゃあない。親が死んでも全然かなしくない自分がいるそらぞらしさが、ひたすらにかなしい」
せめて逃げたい。
それは焦燥だった。キルルは、まばたきを重ねるごとに強靭さが剥げていく彼の瞳が、いっそ涙で翳ってくれたらと願うほど、それが募るのを感じていた。そうであってくれたなら、彼から目を逸らせたはずだ。なんなら顔を逸らし、半狂乱の病人を憐れむことができたはずだ。
もう、そのどれもが手遅れだ。
その時には、それを知っていた。
「かなしいことを、誰も気付かせてくれやしねぇから、自分でも気付いちゃいねぇみてぇだった。キルル。キルル、そんくらいでやめとけよ―――もういいんだよ……あいつらが見てるお前なんて、お前だから託されたものじゃないんだから」
ザーニーイが、声をくぐもらせた。枯れ果てた咽喉がこすれ、はじけた浅い咳が彼を揺さぶる……
まるでそれは、しゃくりあげて泣いているかのようだ。そう思えたのは、己の中に、その衝動が潮騒のように触れてきたからなのか? ―――
「ドミノ倒しの解読は、さぞ楽しいかい? 第三者。 ―――親が死んだらかなしい子どもしかいない世界は、正しければ認められ、悪ければ罰せられて、善人こそが報われるんだろう。だから、だからこそ……」
と―――
次第に彼のせりふが途切れがちとなり、ぶつ切りにされたひと言でさえ聞き取れないほど解れていく。理由は明らかだった。眠気に毒されているのだ―――ぽた、と彼の手が床まで落ちた。細かな幾らかの何かが舞いあがった。どうでもいい。
上肢に続くように、キルルの腿の上にある身体から、活動に足る緊張が抜け落ちていく。天井際の明り取りから眼差しを逃がすように、とろんと横滑りした瞳を、目蓋が塞いだ。睫毛の重みにさえ耐えかねたような、ぐったりと弛緩した薄皮に、青い血管が透けている。
言い残し、彼は眠った。
「そこじゃなくて……ここにいるしかない、俺たちは……―――」
そして、静かになった。
とても静かになった。部屋も、部屋にそう思う自分自身の中にも静寂を嗅ぐ。風を感じた……明り取りと、己の気管から。頬の産毛に触れた埃が、それに煽られて痒い。それ以上に、熱気が動悸している皮下が痒い。引っ掻いても舐めてもやすりで削っても終ることの無い心臓の鼓動は、いつだって膚一枚ほど内側から、表層へとノックし続けていたはずなのに。
とっと、とっと、と果てしなく終わらない。たとえばそれが雛鳥ならば、覆いの殻を破る時まで。とっと、っとっと―――
(―――ここにいるしかない、あたしたちは……)
キルルは、音なく囁いた。
(あたしは、後継第二階梯ってだけじゃない。あなたも、旗司誓ってだけじゃない。だからきっとあたしはキルルってだけじゃなくて、あなたもザーニーイってだけじゃないんでしょう……だから、あたしが箱庭育ちの後継第二階梯でも、あなたが捨て子の旗司誓でも、―――もう関係ない)
昨日までの自分には戻れない。あの夜、彼とふたり中庭で笑い合う中で、箱庭育ちの後継第二階梯が覚えた捨て子の旗司誓への距離感と憐憫を、もうこれから取り戻すなんて出来やしない。
(あたし―――あたしは、……あたしだから、)
いつしかそれは、零れ落ちていた。
「ここにいる、あなたを、」
ひどい熱に、涙が溶け出す。
ぽたりと、温い水まじりの言葉が、彼の顔に落ちる。
「あなただからって、ひとりにしたくないよ―――」
ひと雫はザーニーイの頬ではじけ、目頭へと滑った。彼はむずがるように、顔を傾けた。彼の目尻から、涙がこぼれた。
□ ■ □ ■ □ ■ □
不愉快でない耳鳴り。ある種の陶然として、それを感じる。
シゾーの足元、這い上がり終えた床の上にへたり込んで。立ち上がることを試みようとも思えず、とにかくキルルは報告した。
「―――ひとくち水を飲んだら、気を失くしたわ」
最後まで聞かないうちに、シゾーが動いた。キルルと入れ違いに、枯れ井戸じみた縦穴に飛び込む……というのは表現でなく、文字通り、設えられた梯子穴に手足をかけることもせず、ぱっと奈落へ滑空した。その勢いを膝で殺しつつ底にて屈身し、クラウチングスタートするように踏み切って、隠し部屋へと続く横穴に滑り込んでいく―――物音の変化が聞き取れたことで、彼の一連の動作は空想できた。とどのつまり、変化しなければ意に介さないほどの小さな音だったということになるのだが……
キルルは呆として、彼を見送った。いや、現実、シゾーの身のこなしは野生に長けた獣さながらで、視界に捉えていられたのは一秒か二秒くらいだ。見送ったとは言い難いだろうが。
ただそれでも、シゾーの存在が視野からも聴覚からも消えうせると、まるで彼が靴裏に敷いた砂利と一緒くたに外野へと蹴り出された心地がした。緊張が切れた。体重が重い。床にへたったまま、すぐ背中の石壁に、ずるりと凭れかかる。ひんやりしていた。またしても、己の体温を自覚する。
(あの部屋を見て、シゾーさん……どう思うかな……)
だるさの中、暗がりの部屋で、ぼんやりと思い描く。水がぶちまけられた独房に転がったザーニーイを見て、彼はどう感じ何があったと推測するのか?
まず思ったのは、彼はそれを真っ先に切り捨てるだろうということだ。現実を現実的に判断して、すべきことを行動する。つまりは、ザーニーイをざっと診察してとりあえずの安否を確認できたなら、きっちりと拘束衣を整え直す。あとはキルルが拾ってくるのを忘れた水差しを指先に引っ掛け、隠し通路のどこかにでも片づけて―――
「ありがとうございました。ありがとう―――」
物思いは、静かな謝礼に押し流された。
何のことはない。いつの間にやら、隠し部屋から戻ってきたシゾーが、キルルの前で膝をついていた。頭を下げているので、彼の顔つきは分からない。それでも、言葉より盛大に吐き出された呼気が、ありありと彼の安堵を代弁しているように思えた。顔つき―――
(あたし今、どんな顔になってるのかな?)
そして次に逢う時、ザーニーイはどのような顔をしているのか?
(それで、それから―――あたし、どうなっちゃうんだろう?)
それが分からない。顔だけの話ではない……前後不覚の彼に接して、脱した今でさえこの体たらくなのに、また面と向かい合う時など想像だにできない。シゾーは、ザーニーイは今日のことを覚えていないようなことを言っていた。だとしたら彼は、昨日と同じように、あっけらかんとしたフレンドリーさで話かけてくるかもしれないのだが、その可能性に思考が触れるだけで、息が上がってくる。いけない。まだ身体が興奮を引きずっている。唾を飲み込まないと……口の中は干からびていた。ならばせめて、肩を意識しながら、息を―――
吸った空気の中に感じた人の気配に、はっとする。
いつしかキルルは地べたで縮こまり、己の胴を抱きしめていた―――その様子を、シゾーがじっと覗き込んできている。こちらのつま先から十五センチくらい手前で膝を石畳についたまま、動かない。細めもしていない目角からこちらを窺っている彼は、キルルを不審がるでも、心配するでもない―――そういった何らかの情動をすべきか判断するために観察している。そんな目だ。
キルルは顔を上げた。そのまま彼の視線を迂回する動線で、立ち上がる。
手持ち無沙汰に、尻から太腿の裏までを軽くはたいた。汚れを払えているか確認すべく手先に目を配っていたので、こちらに続いて直立したシゾーとは目が合わないままだ。そうだ……こうして身繕いするのも、それなりに身繕いできているか見て確かめるのも、不自然ではないはずだ。軽率な打算だったが、当てずっぽうではない―――はぐらかすための、のらりくらりとした合いの手も。
「あの。ぼーっとしてたわ。ごめんなさい。それで。え? あ? なんだっけ?」
「あの」
おずおずと、シゾーが続けた―――
「キルルさん。僕、本当に、その……すみませんでした。ずっと」
「え?」
素っ頓狂に驚いて、思わず動作を立ち消えにしてしまう。
意表を突かれたはずみで立ちんぼしたまま彼を見やると、シゾーは僅かながら項垂れて、顔の前に髪を落としていた。
「出逢えてすぐ、変な連中との戦闘なんて、危ない目に巻き込んで。今朝だって不機嫌だったし、挙句エニイージーとの揉め事でも、とばっちりを……本当に、ごめんなさい。許してもらえないですか?」
「そんな……許すも何も、シゾーさんは悪くないでしょ?」
キルルが囁くと、シゾーはぴくりと肩すじを跳ねさせた―――鍛え抜かれた旗司誓の強肩は、ただそれだけしか身じろぎしなかったのだが。肩の細いシーちゃん……ゼラがそう言っていたことを思い出す。
思わずキルルは、彼の左の肩に右手を触れさせていた。嫌がるかと思ったが、反応はない。
そのまま、彼の腕の付け根あたりを、そっと撫で下ろす。そうだ。約束に指切りしたように、慰めが言葉では足りないこともある―――
「なんでもかんでもシゾーさんのせいじゃないわよ。仮にシゾーさんのせいだったとしても、誰にだって、そんな巡り合わせくらいあることだし。なにより、あたしは全然なんとも思ってないから」
「―――キルルさん」
シゾーが、ゆるゆると頭を擡げた。神妙だった輪郭を、今は疲れたような微苦笑で綻ばせて、少し膝を曲げるようにして腰を落とす。それだけで、随分と威圧感が薄れた。だけでなく実際にシゾーは、上から目線で粋がっていたのを観念したかのように、あどけなく潤んだ瞳をキルルに向けている。
「キルルさんは、本当にすごい人ですね」
「そんな……」
「本当に、そう思うんです」
畳み掛かけるように、彼の早口は止まらない。熱意を帯びて強い。賛嘆を抑えた目の色が、朝露のように控え目に眩しい。
「あなたが王家になるまでの経緯は、少しだけど噂で知ってます。もっときっと色々あったでしょうに、それでも笑って。そうやって明るくて。すごく―――すごいなぁ、って。とても尊敬します。……でも、」
言いながらシゾーは、己の肩線上に留まったキルルの掌へと、右の手を差し向けた。キルルのそれを退ける気だろう。察して、指を離す―――
その寸でのところで、押しとどめられる。のみならず、押し返された。そうしたシゾーは、キルルの手を、自分のそれで包み込むようにして、
「それだけじゃ、済まなかったりしてね?」
「シゾーさん?」
疑問符への返事のように、握り込む力が強められた。途端、
「! った……」
忘れていた痛みに右手の小指の付け根を突かれ、思わず痙攣した指が、シゾーの肩を引っ掻いてしまう―――のだが、彼は手を離してくれなかった。ただ、キルルの手をそろそろと目の前に運んできて、視診する。
それから、シゾーが小さく血の滲んだ噛み傷を見つけたのと、キルルが悲鳴を漏らしてしまったのは、おおよそ同じ頃合いだった。
「この怪我は?」
「そうよ、怪我―――!」
口に出すと、独房の風景が、切迫感もろとも脳裏に再燃する。
背骨を裏から焼き切ろうとするかのような禍々しい強迫観念を訴えるべく、キルルはシゾーへと一歩踏み込んだ。まるで胸倉に掴みかかるような構図だが、片手は当のシゾーに取られたままだし、もう片手は心臓を宥めるように己の胸元を押さえている。だからということはなかろうが、シゾーはキルルにひるむことはなかった。感情任せの威勢を、じっと冷静に待ち受けている。
「ザーニーイ、ベッドから転げ落ちたから、もしかしたらどこか打ち付けてるかも……シゾーさん、さっき見に行って、どんな様子だった!? 今のうちに、あの腫れた顔も拭いて、冷やしてあげなきゃ―――!」
「あいつじゃない。あなたの、この怪我は?」
と―――
少しずつ、シゾーの口調は変化した。速さが落ち、キルルの手指を手繰る動きさえ緩慢になる。手の甲からすくい上げるように右手を支えられていたはずなのに、いつしか彼の指の腹は、キルルの掌の丘陵を辿っていた……さするように、それが確かなものか探るように。触れ合ったシゾーの指なし手袋は、人肌に熱らされて乾いている―――彼の生肌の指も、キルルのそれより。恐らくは。
彼の眼光も、移り変わっている気がした……卸したての剃刀が帯びる新雪の白さから、雪解けの甘い水が春日を吸ったような、まろみある色へ。さっきまでの心地を引きずっているからそう思えるだけかもしれないが、それでも目線に射竦られてしまっては、身動きが取れない。
「あいつじゃない」
シゾーが繰り返す。言葉だけでなく、握られた手に、またしても力が込められた。握り潰そうとしての万力ではない……としても、キルルの小指近くに残された傷は、疼いた。
それが狙いだったのか、見越したようなタイミングで、囁いてくる。
「痛む?」
「あ……」
「指が? それとも―――そっちの奥?」
と、彼が見たのは、キルルの、もう片手だった。ずっと、襟の辺りにまとめたままでいた掌。その下には、自分の服も肉も骨も確かにあるはずなのに、そんなことなどとは全く無関係に、胸襟まで見透かされた気がした。
思わず、後ずさってしまう。のだが、半歩も退けない。踵から背中から、壁に突き当たる。裏切られた思いで、キルルは遮二無二、背後を振り返った。やはり壁―――
「僕には、そんな顔しか、してくれないんですね」
声がしたからでなく、声を含ふくんだ息を耳朶まわりに感じたことに、はっと振り向き直す。ふたりの間合いは、会話するだけには不必要なまでに埋まっていた。
「僕には―――」
(ちょっ―――)
声にならず、キルルは硬直した。シゾーはもう言葉無く、目と鼻の先で―――正真正銘、目と鼻の先で、こちらを見つめてきている。さっきまでは素直なだけに思えた双眸が、今は何かを隠して清らかに慎ましかった。待っている顔だと……そう思える。
その瞳が、閉ざされた。
そして目蓋が半分だけ開かれた時、それは浮ついた眼差しと、うわ言じみた謝罪を伴っていた。半睡するような―――半睡を、言い訳にするような。
「ごめん、なさい。つい―――」
そして、なにもかもが、そこまでだった。シゾーは姿態を元通りに伸ばすと、バックステップでキルルから離れた。自然に、手も放れた。
まるで自然な動作で、彼が隠し廊下の出入り口に石版を偽装し直すのを、見ているしかない。
「エニイージーのところまで、送ります」
ついていくしかない。そう言われたら。
物置倉庫―――執務室―――廊下。覚束無い足が、何度か、そこここに引っかかる。転びはしなかったし、身体のどこも痛めなかった。ただ、これはそんな話では無いことも分かりきっていた。先を歩くシゾーは、本当にただそれだけだ……ぎくしゃくするでもなく、普通に歩いていく。
キルルはただ漠然と―――ぶら下げられた彼の手、そこにある小指と指きりしたことを思い出していた。今はザーニーイから傷を残された、ここにある右手の小指で。
「え?」
その質問こそ面妖だと言わんばかりにぽかんと鼻白んだシゾーの顔かたちは、はっきり言って幼く見えた。
それとてはっきりと、室内に影響されてのことだと分かってもいた。シゾーの向こう側にある壁の低い所に、消しきれなかったらしい落書きが見えている。まるい太陽と三日月の下で、ふにふにの輪郭をしたヒトが、とげとげした悪役―――に違いない、これまたはっきりと―――を、三本足の大きな鳥と組んで、こてんぱんにとっちめていた。
さっきまで間際にエニイージーが陣取っていたドアを抜けて入室した時点で、ここがザーニーイの執務室だと分かりきってはいたが―――以前は、子ども部屋に近かったのではないか。そう思う。シゾーの横で部屋の中ほどに立ち尽くし、キルルは彼から目を逸らしたのを誤魔化すべく、そのまま視線をぐるりと一巡させた。言ってしまえば、飾り気のない……だからこそ、あどけない古傷がなんとはなしに目立つ、そんな部屋だ。壁だけでなく、隣室に通じるドアにも、その両脇をかためる書棚にも、拙い悪戯書き―――か、稚拙な悪戯心が透けてみえる傷跡―――が、ちらほら撒かれている。そして、机。大きな机。部屋の奥の窓の手前、経てきた暦年を物語る天板のてかりの中に散らかった日用品の中で、使い込まれて指なりにすり減ったペン軸が緩やかな流線型を描いている。床の敷物は、窓から差し込む光によって浮かび上がる濃淡だけで磨耗の度合いが知れた……部屋の主はいつも廊下から入室すると、机の正面から左を回りこんで椅子に座っていたらしい。にわかに嗅ぎ取った煙草の刳味ある残り香に、顎の裏から唾が湧いた。動悸が凪いだ。
最もそれこそ、自分がこの部屋に影響されてのことなのは明白だった。机の左脚が踏ん張っている床の上、踏み散らかされた八節モドキの燃えさしが絨毯の毛羽に纏わりついて、陽光の中に奇妙な変色を浮かび上がらせている。それを見た途端、嫌なテンポを取り戻した拍動に横隔膜を突かれて、咽かける。
まさかその咳じみたぐうの音が、遠慮がちな返事の催促かと懸念したわけでもあるまいが。その頃になって、ようやくシゾーが己の口角に指をかけた―――そうすると、否定しえなくなったらしい。はっきりと釣り上げられて肉厚の面影を薄めた下唇が、示指の腹にさすられてぎこちなく痙攣する。そして、
「はは。はッハァ」
歯茎までむき出しにして、シゾーがそう言った。
言ったのだ―――それは、笑い声ではなかった。表情はと言うと、両手の握りこぶしで押さえつけられて隠されている。口の端も手首の影になってしまっては、上がっているのか下がっているのか、キルルの立ち位置からは判断がつかない。
だというのに、言葉はただ、そのひと声で終わってしまった。
ならば、次に始まるのは、なんだ? それが分からないまま、待ち受けるしかない。キルルは、シゾーの真横で立ち尽くしていた……
そして現れたのは、だらりと腕を下げて顕わとなったシゾーの無表情と、それに相応しく情念の無い声音だった。
「いえ。なんだか、改めて、笑えてきましてね」
「あ、らためて?」
そっくり言い返したキルルから眼差しを引き上げて、彼は俯いた。こちらに相槌を打ったのではない……胡乱げに目を留めている床へと、そのまま息を吐く。胸腔にたれこめ、そのままにしておくことができなかった独り言が、その吐息をじくじくと蝕んでいた。
「極悪で滑稽だ。問答無用に不世出の笑い話だ。分かってる。こんなもの、ボタンを掛け間違えた帳尻合わせに、もう一度あえてボタンを掛け間違えるような茶番劇だ。そんなことをしたって、最後には寸足らずのちんちくりんになるって、それすらとっくに分かってるのにね。本当に……本当に、こんなにも、そう思う……のに……」
そこにきて、シゾーの呟きは途絶えた。すべてを吐き出しきったということではあるまい……吐き出すほどに、吐き出しきれたものではないことが露見してしまうから、見限るしかなかった。それだけだ。
そうと察することができたのは、単純に彼との距離が近かったからだ。隣り合うシゾーを、キルルは間際から見上げていた。
正面、机向こうの窓から差す陽光は、熱を感じないまでも、部屋のそこここに残されたちぐはぐな幼気を通せば温みを錯覚できる程度に明るい。その明度を裏切る気鬱を隠そうともせず、シゾーが口を開いた。目鼻によどんだ陰気にこだまして、うつろに声がしみていく……
「キルルさん。僕は今、なんていうか―――相当、血迷ってます。それを、あなたまで忘れないでください」
「言ってる、意味が……」
言い遂げることが出来ず、口ごもる。軽く丸めた指で口許を隠すことで、その不甲斐なさから逃げようとするが、シゾーはそんなキルルの外聞にかかずらったりはしなかった。まくし立てるような勢いで、続けていく。
「あなたが僕に応じるか撥ねつけるか決める時に、僕の自暴自棄に引きずられてもらっては……この上なく、厄介だ。そういう意味です。僕は今からあなたに、とんでもない……本当に、とんでもない話を打ち明けようとしてます。そしてそれを理解してもらった上で、助けて欲しいことがあるから」
「た、助けるって……あたしが、シゾーさんを?」
「はい―――いや」
シゾーが、仕草半ばで首肯を止めた。噛んだ唇を、重い吐息で歯列から圧し出して、それ以上に億劫そうに首を振る―――横へ二回半動き終えて、シゾーはキルルから顔を背けていた。
「いいえ。いいえ。あなたが―――助けるのは、」
せりふに遅れること、三秒。
こちらへ帰ってきたシゾーの横目から、眼差しがキルルに触れる。
「死にかけているザーニーイさんです」
その双眸も、声色も、口走った内容を反故にするように鎮静していた。
その揺るぎない沈着が、こちらの動揺を、物事の理解ごと遠ざける。
どれだけ経ったか。秒数を忘れていた。分数はまだ必要ない。そのくらいの間、キルルは茫然としていた。
「な、に、が―――なんなの?」
とにかく口を開くと、やっとこさ、そんな声になった。
声が響いた胸の奥に、やおら忍び寄っていた不穏な胸騒ぎまで自覚して、なすすべなくキルルは鎖骨の間を掌で押さえ込んだ。攪拌されかかっていた鼓動をそれで宥めるつもりだったというのに、指の皮に浮いていた生温かい汗の感触を布地に押しつぶしてしまって、その実感になおのこと息苦しさが増していく。そのひと欠片でも吐瀉すべく、キルルは喋り続けた。
「なんなの? さっぱり……分からない。分からないわよ。どうしてザーニーイ? 怪我なんてしてないんでしょ? 風邪ひいたの? お腹でも痛いの? ああでも、そんなのゼラさんがお医者さんだしシゾーさんだってそうらしいしあたしな……て……」
もう声が出ない。息が閊えてしまっている。吸い過ぎている。喉元を膨れ上がらせる空気が腫れぼったくて、これっぽっちも先に出ていかない。馬鹿げている。馬鹿げていた! こんなにも満杯の胸の内なのに、空気がない! 陸の上で溺れる。目が―――
「唾を飲みなさい」
一声が、胸倉を打擲した。
そう錯覚するほど、シゾーの言葉は重い。だけでなく、強い。余地無く圧伏され、やっとかっとキルルの喉が嚥下に動いた。
「指を解きなさい」
言われ、いつの間にか胸元で固めていた両手の痛みを、初めて自覚する。皮膚と、皮下のすじと、それを纏った骨と。地味な軋轢を告げてくるそれらを逆順に伝うように自我を伸ばし、力を抜いていく。そうやって無理矢理にでも身体の緊張を解いていけば、白熱しかけていた内面までもが急速に冷めていく。それが分かった。鼓動を聞く。それが速いと……今は理解できる。
「意識なさい。肩を落として、」
従う。
「息を吐きなさい。深く……―――そう―――いい子だ」
吐き出し切る。
だから、吸うことが出来る。
脈は未だに不自然だったが、囚われてしまうほどのそれではない。もたもたと、キルルは丸めかけていた背を伸ばした。いつしか見失っていたシゾーが、正面にいた。いつの間に回り込んだのか……樹脂蜜の宝玉を思わせる色を微動だにさせない瞳は、それこそ億万年も不動の琥珀にそれを問うのと同様に、愚問に答えてくれそうにはなかったが。
ふと、両肩が軽くなる。シゾーの両手が離れたせいだ。よりよくキルルを誘導する為に、添えてくれていたらしい。
言ってくる。
「上出来です。まあ、あんだけ手搏が出来てたんだから、コツは体得してて当然ですけど」
「え? あ……」
「今の手順、お忘れなく。砂育ちの野蛮な呼吸法ですけど、なにより実直で確実だ。僕が話してる間も、動揺しかけたら、すかさずこれを繰り返してください。あなただけは、絶対に冷静でいなければならない―――キルルさん。ア族。ルーゼ家。なにより、後継第二階梯」
そこにきて―――
まずキルルが実感したのは、自分のお粗末さだった。シゾーはまだ、手の内どころか爪の先ほども事態を明かしていない。というのに、臭わされただけで早とちりして、我を失うところだった。
そしてそれ以上に実感せざるを得ないのは、そういったキルルの度量を見極めておいて、なおシゾーが彼女を必要としているという事実への危機感だった。どう見積もっても、ただ事ではない―――死にかけのザーニーイ、その断言からして、ただ事でないことはとうに分かりきっていたとしても。ただ事ではない。
堪え切れず、キルルは口火を切った。
「ザーニーイが、し―――死、にそうって、どういうこと?」
「それを説明するにあたって、あなたが知っておくべきことが、ひとつあります。ザーニーイさんは、―――」
そこで、せりふが絶える。
口ごもったのだ。それが予想外だったということはない。口にしようとしていることの重大性はその態度から慮れることであったし、それよりはるかに率直に、彼の眼窩下を縁取る隈は小休止を欲している。だからこそ、……その眼光は、不意打ちだった。琥珀すら裂く銀の棘のような。
続けられた言葉と、よく似ていた。
「ザーニーイさんは、楽園障害者です」
あぅ―――
と、喉から先に出かけた声を聞く。それを声帯にはめ込み直したのは咄嗟のことだったが、そうしてみると驚くほど、きちんとせりふを成してくれた。
「ありえないわよ」
そう言っている。
だから自分でも、それを受け止める―――少なくとも、耳では。告げていく、口先でも。受け入れる。
それらとどこまでも裏腹に、思い出してしまうザーニーイがいたとしても。
キルルは、吐き捨てた―――続きは、おおよそ、理性的に判断した一般論を。
「だってそうなら、旅団ツェラビゾとか大陸連盟とかが、放っとくわけないじゃない」
「そうですね。手足がおかしいとか知恵が足りないとか、子どもの時から見て分かる楽園障害なら、そうだったでしょうね……ただしあの人の場合、子どもの時には分からなかったんです。分かるはずなかった」
淡々と同意していたシゾーが、そこにきてかぶりを振る。キルルの楽観を、日の中でちらちら煌めく埃ごと振り払うかの様に。
「―――あの人が楽園に持っていかれたのは未来だったから」
意味が分からない。
ただし、意味が無いとも思えない。それを考えるべきだとは分かっていた。まともな思考回路など消し飛ばされてしまった頭でも、それくらいは理解しているつもりだった。
だとしても。純然たる怒りは、自制心など一瞬で漂白した。もう口からこぼれている。止められない。
「未来ってなによ」
キルルの声が低かったのはそこまでだった。突沸した激情に背筋を劈かれるまま、声高に叫ぶ。
「ザーニーイは、今だって生きてるじゃない! 未来を持っていかれた? だったら、あたしの前にいてくれたザーニーイはなんなの! ちゃんと大人になってた!」
キルルと真逆にすっかり白けた様子で、シゾーが幽暗たる表情を深めた。口調や佇まいが明らかに変わったというわけではないが、身じろぎした角度で面差しに影が増したせいか、ひと回りも老けこんだような気がする。
「大人じゃない。子どものまま生きながらえてる。それだけです」
「あなたね―――ちゃんと見なさいよ! ザーニーイのどこが子どもだっていうの!?」
「ここが」
「ズボンがなんなのよ!?」
「言わせる気ですか?」
シゾーが、思いがけない鋭さで会話を切り返してきた―――自分の下腹から股間へと、掌を滑らせて。
キルルは絶句した。
それを、するしかない。キルルでしかない自分は、……女でしかない。のだから。
そんな彼女を眺めやって、飲み込み具合をどの程度と判断したのかは定かでないが、それよりなにより、一瞬で変質した空気の破棄こそを望んだらしい。間髪入れず、シゾーが声を継いだ。つい今さっきの仕草と同じくらいに十二分の曰くを暗喩するうつろな声色が、室内の乾いた涼気に得体の知れない粘度を膿ませていく。
「断っておきますが、言ってしまえばそういうことだってのが、解説するのに手っ取り早いってだけですよ。あいつは、幼生が成長するにつれて経時的に性差を決定付ける、そういったなんらかの因子を楽園に持っていかれたみたいなんです。だから子どものまま育つしかなかった。本当に―――本当に、全てにおいて、ね」
やけくそにせせら笑って、シゾーが言葉尻を震わせた。が、そうしてみて、震えているという事実ばかり赤裸々に思い知ってしまったのか、続く呟きが帯びる嘲りは明らかに自嘲を濃くしていた。
「だから実際の手腕はどうあれ、こんな荒事慣れした連中の中にいては体つきが見劣りします。だからあいつはいつだって厚着だし、フィジカル・コミュニケーションは慇懃に拒絶する。やんごとなきあなた様はご存じないでしょうけどね、いくら真っ赤な布っきれが旗司誓の親玉の目印だからって、引っ張られりゃ絞め殺される襟巻きに作った弩級のアホンダラは、あいつくらいなんですよ―――どれだけ発声訓練しても、喉仏だけは、大きく変わらなかったから。旗司誓において、頭領はその目印を外してはならない……襟巻きにすれば、いつだって外さないでいいから。そうやって汚物みたく全身ぐるぐる巻いて隠して見せも触らせもしない―――くせに、今となっちゃ捨てることもできない。ねえ、ちゃんと見てますか?」
問いかけておいて、シゾーはキルルを振り切るように、唐突に半身を返した。同時に執務机へと踏み込んで、陽だまりを独り占めして動かない机上の縁に腰を落とす。それに続けて、やるせなく下ちる彼の目蓋と―――隠される、両目―――
恐らくシゾーは、記憶の中のザーニーイを見ているのだろうと思えた。
そして、そう思う自分だからこそ、ザーニーイが見ているものを知っていた。
それを知ってしまっていた。どうしようもなかった。翼の頭衣を冠に戴き、王家たる後継第二階梯として王冠城デューバンザンガイツの頂点に次ぐ地位に君臨しながらも、キルルでしかなかったのはまぎれも無く自分だ。
(あなたも、そうだったのね。ずっと。ザーニーイ)
彼を思う。
雷髪燐眼。稲妻の咬み痕。霹靂。双頭三肢の青鴉に、吟遊詩人の詩歌を纏っても、彼は決して届かない。
キルルに言葉は無かった……当然唇も、吐息にこすれた以上には動かない。ゆえに読唇術など成し得たはずも無いのだが、続けてシゾーが口にしたせりふは、まさしくそのことについてだった。
「だからこそご大層に謳われるようになっても、<彼に凝立する聖杯>を旗司誓の筆頭にのし上げても、あいつは満足できないし自意識過剰なままだ。そりゃそうですよ。むしろそんな立場に祭り上げられたら、俺は臆病なんだとか言い逃れるのさえ制限が―――」
そこまできて、口走る愚痴が、あらぬ方に進みかけていることを自覚したのだろう。眉の間を深々とした皺で削り直すことで吐露を代行させ、シゾーがこちらへと顔を上げた。彼は机に尻をひっかけているのだが、猫背で項垂れられるとさすがにこちらより視点が低い。上目づかいの中にキルルの理解の度合いを品定めする気配を燈しながら、語気を沈める。
「キルルさん。ザーニーイさんの楽園障害は、最低でも年に十回前後、ひどい発作を起こします」
「発作?」
「ええ。特にここ一、二年は悪化の一途で―――なかでも一番手がつけられないのが、精神神経症状です。錯乱して譫妄・自閉状態に陥り、我を忘れた逸脱行動を取って、正気に戻った時にはその一切の記憶を無くしています。その前の事件の後遺症か、楽園障害にまつわるコンプレックスが極端化してのことかは分かりませんが、特に自分より大柄な男は絶対に寄せ付けなくて……」
(その前の事件?)
ふと、そのことが引っかかった。
(ここ一、二年より前って、)
三年以上前。
その閃きはキルルに更なる追思を迫ったが、それ以上のことを思い出すより早く、シゾーのせりふに追いつかれた。のみならず、追い抜かれた。否応無く意識を轢き潰され、物思いが散ったことさえ忘れてしまう。
「こんな場所です。悔踏区域から来る風は、掠めるだけで消耗する―――発作が始まったのは、日も昇りきっていないような早朝、いつもの朝練を終えた直後でした。あの人は多分、目覚めてから一切なにも口にしちゃいない。昨日だって、夜は戦闘の始末と宴会の仲立ちで、舐める程度のアルコールしか摂取できてない。だってのに、ついさっきまで僕と百万馬力の殺し合いだ」
「こっ―――」
「それが如何なさいましたか?」
ぎょっと息を呑むが、シゾーは心底厭わしげにキルルへと眼差しを巡らせただけだった。その眸底の気配は、状況説明を途切れさせたことを咎める針しか含んでいない。こちらの血の気を引かせた言い回しは、彼にとっては冷や水をひっかけられた程度の威力すらないようだった―――
あるいは。引ける血の気の一滴さえ、もう彼には残されていないのか。悪寒が走る思いつきだったが、拒絶しようにも論拠がない。
声が続いている……
「あんな筋骨たくましいうちの構成員たちだって、ここに突っ立ってるだけでも間食を取らないとやってられないんです。せめて水だけでも今のうちに飲ませておかないと危険なことくらい、医者見習いの僕にだって分かる。そうでなくとも、脱水は錯乱に拍車をかける。そうなれば、それの赴くままひたすら暴れて体力を消耗する。悪循環です。だからこそ、せめて脱水さえどうにかなれば、きっと幻聴や幻視に隙間ができる―――だったら、疲れ切ったあいつはそこに転がり込んでくれるはずですし、そうやって眠らせさえすれば、僕にも手の打ちようはある。でも発作任せの今は、こんな僕じゃ駄目なんです。こんな―――変わり果てた、僕じゃ」
つと、シゾーがどんよりと立ち上がった。腰の左右に、両手を広げてみせる。
その言動に大それた意図があった様には思えないし、あったとしてもそれが意図的なとどめだったとは―――絶対に―――限らないが。それでもそうしてみてシゾーは、己の目線の高さと、伸び切った四肢を思い知ったようだ。伏せていた熟視が、あてどない方向へと、逃げるように浮かんで……その先でまたしても、彼を懐旧へと追い詰める思い出の何かに出くわしたらしい。悼むように目を閉ざす。
とっさにそちらを盗み見たが、その古びた棚に、特筆すべき何かはうかがえなかった―――使い古され、使い古されたなりのくたびれ方をした、ただそれだけの棚だ。そう思えるし、実際自分にはその程度のものだ。だからこそ、そんなものにさえ鬱積したザーニーイとの因縁を思い知るしかないシゾーを目の当たりにして、臓腑がじわりと未知の重さを増した気がした。
シゾーにとって、その重みは錯覚ではなく、かつキルルを超えるものだったに違いない。
だのに、さっと目蓋を開かせるシゾーに、直感する―――だからこそ彼は迷えない。目蓋さえ、悼みまでも、鈍重にかかずらってはいられない。
告げてくる。
「キルルさん、お願いします。ザーニーイさんに、水を飲ませてください」
一拍。
キルルに動揺の色がないことを見て取って、続投した。
「いつもは義父さんが、そういった役割でした。あの人なら、」
瞬間、シゾーの炯眼が濁る。実際にそうだったはずもないが、目縁に砂を噛んだように瞳の光を強張らせて、
「あのフラゾアインなら、どんな発作の真骨頂にでも入り込めた。でも今、あの人はいない。帰りの見通しも立たない。確かに、ザーニーイさんの精神神経症状は次第に発露周期を短くしていくので、最悪となる今日一日を黙殺したのち、正気の時間を見計らって僕が飲み食いさせるという手も、あるにはあるんです。でもそれに賭けるには、今回のあいつのコンディションは分が悪すぎる―――!」
言いながら、シゾーが自分の腹から腰を撫で、そのまま片腕で抱き竦めた。声に出したせいで、ぞっとする痛切がぶり返したとでもいうように、総毛立った身を縮める。すぼまった肩に挟まれた頤から漏れ出るそのせりふは、声帯のみならず、歯の根も、蒼白の頬の肉も震わせていた。
そこまで震えていれば、単に心底怯えているのと同じことだ。
シゾーは打ち明け続ける。
「お願いしますキルルさん。あなた以上に義父さんの背格好に近い人は<彼に凝立する聖杯>にいないし、あいつが必死に隠そうとしてどいつもこいつも見て見ぬふりを決め込んでいる以上、副頭領の口から身内の誰かに事の仔細を明かすわけにはいきません。あの人を隔離してる部屋は、通気口が空いているだけの暗い造りです。あなたはターバンもしてる。口さえ利かなければ、ただでさえ前後を失っているあの人に、義父さんとの見分けなんてつきやしない。とんでもないことを頼んでいるのは承知の上で、それでも頼みます。助けてください……」
シゾーは姿勢を正してからキルルに向かい、はっきりと頭を下げた。彼女の目線の、さらに下まで。
「僕は、ザーニーイさんを叩きのめしました。縛り上げて連れ去り、武装犯罪者用の束縛縫製にぶち込んで、隠し部屋に監禁しました。あと今の僕に出来るのは、これだけなんです。助けてください。助けて、ください―――……」
彼の膝の上で握られた拳、その革手袋が締まって、小さく軋む。叫び声にも聞こえた。ぎゃっ、と。
それに返答したのかもしれない。自分は。
「助ける」
シゾーが顔を上げた。唖然としている。
その時間も惜しいはずだ。
「行きましょう」
「こっちです」
言葉半ばに長躯を撓らせ、彼が跳躍した。本当に飛び上がったわけではないが、それを思わせる勢いで俊敏に踵を返し、壁にあるドアへと飛びつく。廊下に出る方ではない、書棚に囲まれたドアだ。
綺麗だったはずの彫り細工がメッタ刺しされて前衛的装飾と成り果てているその扉を押し開けると、そこには書類の絶壁が待ち受けていた。だけでなく、堆く積まれた箱に、正体不明の歪な影の群れ……ごちゃごちゃに一箇所にまとめられた布らしき物体は、組み合わさってドア以上にエキセントリックな芸術性を発揮している。芸術面を排して見るなら―――床でも掃除しようと濡れ雑巾を持って来ては、使ったり使わなかったりしたまま隅っこに追いやられたなれの果てのような。
シゾーに招き入れられたはいいものの、ゼラの私室をはるかに越える混沌に、キルルは二の足を踏んだ。しかもシゾーが後ろ手にドアを閉めたため室内の光量がしぼられ、なおのことキルルのつま先を挫く―――としても、後ろからかなり無理矢理追い抜かれては、困惑に抱き込まれている暇はない。先ゆくシゾーは積載物のどれにも目もくれないくせに、もれなく器用にかいくぐって―――またしても、辿り着いた壁には、ドア。
それを押し開けると、がらんどうの暗がりが満ちていた。
シゾーについて室内へと踏み込んでみても、それだけだ。広々としているだけの、何もない部屋である。部屋隅に壷のようなものが幾つか寄せてあるものの、いかにも調度品らしくないみすぼらしいシルエットをしている……いや、調度に用いる品どころか、実用するための家具も窓もない。石材がむき出しにされたままの床、天井、壁はこの建築において標準的であるはずだが、この部屋においては明らかに室温を下げる因子となっている気がする。その壁面から無骨に突き出した燭台のいくつかが、部屋の端にある空気穴から忍び込んだ陽光によって、凍死した梢のような孤影をキルルの足元まで伸ばしていた。
と。目前を進んでいたシゾーが、立ち止まった。
そして、意表を突かれて蹈鞴を踏んだキルルの鼻先が肘の上にぶつかりかけたのも意に介さず、身体を捻って掴んだドアのへりを突き飛ばす。当たり前だが、ドアが閉じた。闇と寒気が、どっと室内に濃縮される。
ドアを押しのけた彼の右手は、そのままドアの蝶番へと伸びた。そこから一番近い壁のブロックの継ぎ目に、指先を突き立てる。そのまま、爪が沈む。続いて、指までも。
(圧縮煉瓦を、手で、抉った?)
キルルはあんぐりとしたまま、成り行きを見ているしかなかった。彼が掌大のタイルを壁から引き剥がして、更にそこから連なった壁―――否、壁に偽装されていた盾状の石版を取り外した時も、その奥から現れた大穴に瞠目を掻っ攫われて、言葉も出なかった。
あらわになった壁のそれは、埋め込み式の暖炉を思わせた。ただし、煤煙を潜らせる煙突がないかわりに、枯れ井戸のような穴が床に開いている。暗さのせいか深さのせいか、立ったまま中を覗きこんでも底まで見えない。その壁面には、等間隔の凹面が人造されていた―――用途は見てとれた。梯子。
やっとこさ、キルルは呻いた。
「隠し部屋……」
「階層の数と建物の高さが一致しないのは、こういった金持ちの道楽の賜物です」
「道楽?」
「このドア以外に出入り口は無いと一見して分かる部屋。そのドアの死角―――しかもドアノブが空洞にぶつかった反響から存在が悟られないよう考えつくされた偽装タイルの配置に、仮に隠し部屋の存在が露見したところで、鎧や筋肉で武装しまくった屈強な狩人どもの素通りを許さない周到なせせこましさの寸法。ここまでやっといて、マニアの道楽じゃなけりゃなんだってんです? ここを通る時だけですよ。自分の骨すじが縦にばっか育ったのを感謝するのは」
「……感謝したあとは?」
「あいつを運搬中は肩と胴体の造りがもっと太くなってたらって怨み節になって、運搬し終わる直前にはギックリ腰注意報に掏り替わります」
シゾーは投げやりな蛇足を、それ以上に粗雑な口ぶりで打ち止めにした。手に引っかけていた二枚の石の板を寝かせるために、慎重に床へ片膝をつけながら、キルルへと顔を上向かせてくる。本来なら、この隠し通路の使用者が内側からこの石版を嵌め直し、そのまま隠し部屋へと遁走するのだろう。今は、床に置くしかない。
だからその姿勢になったのは、そういった必然だったのだろうが。それでもシゾーの様子は、王に傅く騎士を思わせた。いや―――宮廷儀礼だとしたら、騎士ごときが、許可無く王を直視するはずがない。ならば、彼はなんなのか……
シゾーが立ち上がったせいで、夢想は掴み取る前に霧散した。今朝は余計な勘の良さでキルル自身にも不明瞭だった内心の浮き沈みまで嗅ぎ取っておきながら、彼はこんな無作法に限って杜撰に見落とすと、途切れさせる事なく解説を口にする。
「キルルさん。この縦穴を降りると、隠し部屋まで通じる横穴があります。僕はもう、この先へ行けません。あの馬鹿たれ、こんな時にまで余計な知恵の回りようで、床に耳をつけて聞いてた物音からこっちを割り出してたことがあって、前にろくでもない事態になりました」
と、前のろくでもない事態とやらを思い出したらしい。シゾーはしぶとく浮かんでくる汗を、これまた執念深く眉根に深まりかけた皺と一緒くたに拭って、
「多分あの人は意味不明の白昼夢をべらべらくっちゃべるでしょうけど、適当にやり過ごして機会を狙ってください。さすがに声までは義父さんと勘違いしてくれないでしょうから、キルルさんはあいつのそれには、ひと言も応えないで」
「ええ、分かってる」
キルルは言うだけでなく、頷いて理解を示した。それに目端の雰囲気で首肯し返すと、シゾーがキルルから離れた部屋の角へと進んで、そこから壷をひとつ取り上げる―――と見えたが、帰ってきた彼が携えていたのは、金属製の水差しだった。一輪の花を活けるには大きすぎ、花束を活けるには小さすぎる……花瓶に例えるなら、それくらいの水差しだ。その光沢は使い込まれた鈍色の臭跡を隠しもしないが、純粋に水差しとしてだけ使われ続けたのなら在り得るはずがない派手な凹凸が、なによりキナ臭い遍歴を耳打ちしてくる。それを受け取ると同時、手の先から顎の裏まで撫で上げてきた冷感に、キルルは舌頭までも凍えた心地がした―――これが、水差しの水に由来した生理的な温感だけならありがたかったのだが。
そんなこちらに感化されたなど、馬鹿げた話だとしても。どこかはっきりと温度を下げた声音で、シゾーが付け加えてきた。
「水です。水差しのぎりぎりまで注いでありますけど、飲ませれるだけで充分ですから」
「ええ、分かってる」
「―――これも分かってると思いますが、」
と、重ねて食い下がる。
「僕があいつに着せた武装犯罪者用の束縛縫製がちゃんと効いてても、あいつがどんだけナンセンスなファンタジーに脳みそから足止めされてても、あなたの義父さんの物真似が徹頭徹尾パーフェクトでも、……部屋の中は決して安全じゃありません。義父さんは前に、やむなく肩を外して取り押さえたことがある。僕だってこれで何日か、高枕しての熟睡はおあずけだ」
直後。シゾーが右手で、自分の服の腹をまくってみせた。異性の思わぬ行動に目を剥くが、この上なく無駄を絞った腹筋の峰々と、その筋群が整然と描く強靭な稜線の中にあって、赤く―――かつどす黒く穿たれた内出血の斑紋を見てしまっては、もう目を背けることは出来ない。
彼は己の臍の右斜め上、大樹の虚の如く闇色がとぐろを巻いた特大級の痣を見下ろして、捨て鉢に独白した。
「あと二横指半真上にずれてくれてたら、肝臓やられて有無も言えずに昏倒できたのにね。まあ枕なんてない床の上だし、それでもあいつの肉布団くらいにはなったかな。相打ちだったら。クソッタレ」
「シゾーさん……」
「僕の腹すじが目に見えて厚かったから、姑息に鳩尾なんて狙わなかったんですよ。あとはここ」
と、シゾーが、額から髪をかき上げた。自分勝手に生い茂る黒髪が後頭へと追いやられ、その左の目尻からこめかみまでを這いずる無残な蚯蚓腫れが明らかとなる。眼球を貫こうとした指をかわし切れず、引っかけられたらしい。
不意に、その生傷の先にある、左耳朶のリングピアスが揺れた―――裂傷にぽつぽつとへばり付いた生乾きの瘡蓋を捻り潰すように、シゾーが破れかぶれといった様子で笑ってみせた余波を食らったせいだった。
「金的だけは、してこなかったかな?」
そうやって、ちっとも笑えないことを言ってのける。上辺だけの笑みに相応しく。
怨めないことだけに、怨めしく思うくらい許されるだろう? 言外にそう囁いたような時間をかけて、シゾーは頭にかけていた手を下ろした。
「キルルさん。持病の発作の真っ只中で覚えがないとはいえ、あなたに何かあったらザーニーイさんは死ぬしかない。前代未聞の不敬者として、断頭台にまっしぐらです。今のあいつはあとしばらくで衰弱死って話ですが、あなたは霹靂の本気にかかったら瞬殺されます。確実に。それじゃ何の意味もない。危険を感じたら、死ぬ気で―――いえ、殺す気で、逃げてください」
「死ぬ気はないわ」
決然と、キルルは告げた。
「でも、殺す気もない」
そして、待つ。
数瞬のうちに、この暗がりの中でも分かるほどに、シゾーははっきりと気色ばんでいた。まさか後継第二階梯その人が、差し引いた発言をするとは思わなかったのだろう……ここまで説明されておいて、なお事態を軽んじているとさえ思えたかもしれない。さっと緞帳が下りたように暗度を深めた顔色が、ふつふつと沸騰しかけた苛立ちで血色を足されて、際どい怒張を見せている。
「なら行かせることはできません」
「あなたたちを見殺しにする気なんて、もっとない」
手にした水差しの重さを感じながら、己の言葉にもそれを感じる。キルルは続けた。
「シゾーさんを人殺しにもしない。ザーニーイを生殺しにもしない。あたしは、いつだってそうできてしまうから、絶対に、そんなことはしない」
これは理屈でない。屁理屈ですらない。
それを聞いた彼はどうするだろう? エニイージーは、ぽかんと前庭に立ち尽くしていた―――
シゾーの精悍な顔かたちを無残に引き攣つらせている逆上は、一向に目減りしそうにない。それをぶちまけるという誘惑をねじ伏せて、目視の中に洞察の念を居座らせた副頭領の力量は、キルル程度の眼識からしても流石だと認めざるをえなかった。水っぽい灯火の様に瞳を曇らせている、その力尽くの思慮の静謐を、単に―――見られているから、ただそれゆえに見返して―――
シゾーが、眼差しを封じる。悪戯に強力を込められた目頭が痙攣していた。
「駄目だ。くそ、畜生、なんで俺は―――」
と歯噛みして、舌打ちを食い殺す。そうしてみて忽然と、痛烈な後悔が骨身に沁みたらしい。眉の尾根をあけすけに慙愧と忸怩で歪めて、愕然とひとりごちる。
「ヘボだ。暴挙だ。無鉄砲だ。すいませんキルルさん、僕は自分で言う以上にヒスに駆られてたみたいです。軽はずみに秘密を共有させて安請け合いを誘導するなんて、軽挙妄動にも程があった。さあ送ります。全部忘れてエニイージーの所まで戻っ―――」
そこで、断言は打ち止めになった。言いながら手をかけたキルルの片肘が頑としてその場から動こうとしなかったことそのものは、彼の想定を外れていたということもないだろうが。
それが生理的な強張りだけでないという直感は、静電気のように相手の芯を貫通したようだった。シゾーが、それこそ雷の先端に指紋を衝かれたようにキルルから指を外して、ただし決して扉の金具には向けないであろう怒罵の渦巻いた恫喝を、こちらへ向けてくる。
「戻るんです」
「戻ることなんてできない」
怯えていい場面だ。
冷静にそう判断できたのは、ふと先程のシゾーを思い出していたからだ。片方の膝を地へ折り、上体を伸ばして上向いた彼を。
自ら望んで、大地に突き立てた旗幟を支える姿だ。そう思える。
それを怯えることはない。キルルは、静かに彼を見返していた。
「旗を司ることを誓う。その意味を―――あなたたちを……あたしすら知らなかったあたしを、取り戻すことは、もうできない」
「―――ここの、けったいな空気に酔ったのは、あなたのせいばかりとは言いがたいですが、」
と、シゾーは譲歩を切った。そして再び舌に乗せる頃、その気配は明確な嚇怒によって、密度を上げていた。
「それでも悪酔い任せの旗司誓かぶれは、有り体に言って虫唾が走る。お辞め願いたい」
「そう思われたところで構わない。確かにあたしは、自分の力の無さを信じて甘やかす方が容易いし、しかもそれをいつだって許される立場にいる。だからこそ、今はそれを拒絶しなきゃならない」
キルルは伝えた。
「もちろん、無駄な無茶は絶対にしないわ。言ったでしょ? 誰も死なせないし殺させない。危ないと思ったら、すぐに逃げ帰ってくる。それで、見計らって、またザーニーイのところへ行く。水を飲ませるまで、絶対に諦めない」
言葉が終わる。言い終えたのだから。それは当たり前だ。
そして当たり前のことを、シゾーこそ見落としている。それが刻一刻とばれていく。一秒が過ぎ、三秒が閉じる。その事実を読む。
「シゾーさん」
「―――はい」
「あたしがこんなことを喋ってる間、あなたはちっとも動かなかったわね」
「……なにを仰りたいんですか?」
「こんなちっぽけなあたしをつまみ出す手口なんて、手練れの旗司誓なら幾らだってあったはずなのにね。隙を突いて引きずり出すなり、丸め込んで宥め賺す甘言を与えるなり。でも、あなたはそのどれもしなかった。どうして? シゾーさん……分からないなんて、言うのは無しよ」
仄暗い部屋。その空気は凍えている。
あるいは、唐突に含まされ、立ち去る気配の無い人ひといきれに竦んでいるのか。
懐に預かった水差しは、それよりも人に馴染んで温まっている。シゾーはどうだろう? 人相に温情はあるか? 試走のそれは?
彼は―――
「……分かり切っていることを、僕も確かめてなかった。そう言えば」
と、言葉通り、確認してくる。
「このことは誰にも言わないと、約束してもらえますか?」
「するわ」
「簡単に言うんですね」
ふと彼の瞳をくすませた感情が、愉快なそれでないことは見て取れた。自覚はあったのか、キルルがそれに言及するまでもなく、シゾーが目線を下げて詫びを示す。
「いえ。すいません―――どうにも……悪い、癖で。目くじらが立つんです。口約束に」
不機嫌面からぼそぼそと継ぎ足された補足は、卑屈に鼻で笑う音で閉じられた。
「だからって誓約書を書かれても意味なんて無いのにね。愚かなのは承知してます。気にしないでください」
キルルは、なにも言わなかった。なんだって言えたはずだ。慰めでも。励ましでも。自分が彼に気後れするための言い訳でも。嘘ですら吐ける唇なのだから―――こんな時すら、なんだって。
だからこそ、なにをどう足されたところで足りない。声音でも文字でも欠けている。それで当然なのだからと、そう言う彼にこそ―――
「せめて。これを」
手を伸ばす。そっと、小指で、彼の小指を握った。ゆびきりだった。
引き戻した空手を、水差しに添える。
そして、不意を突かれて獰猛さを取りこぼしたシゾーの形相から、顔を翻す。背筋も。つま先も。
キルルは胸元に水差しを抱え、隠し部屋へ続く下穴へと、身を潜り込ませた。いったん穴の縁に腰を落ち着けて、つま先を下に垂らす。一段目の壁面の凹部を手探り―――足探り?―――で見つけ出して、体重をかけた。真正面のそこは、びくともしない。
つま先はそのまま、背中を下穴の壁に下ろし、足でつっかえ棒にして全身を支えてみた。問題なさそうだ。水差しを臍の上に置いて両手で支え、ずりずりと背で石壁を擦りながら、一段一段を慎重に降っていく。恐らくはシゾーも、キルルの水差しの位置にザーニーイを乗せて、ここを降りたに違いない。うなじに触れる石材の感触は滑らかだった。
(今までどれだけ、こんなことを繰り返してきたの……?)
うそ寒くなった途端、足の裏が床に触れた。予想外に、足音が響く。
(……きっとこれだって、隠し部屋の仕掛けなんだ。太鼓みたいに、一枚板の下に空洞を作って、物音を木霊しやすくして―――)
今度こそ慎重に井戸の底に踵を揃え、とりあえずキルルは水差しを手に上体をほぐした。頭上には、まるで朧月のように薄ぼんやりと、井戸の口が開いている。いたときは暗い部屋だと思えていたが、まだあちらの方が陽光が差していた……
視線を下げて、ぐるりと見回す。壁の一部が、四角く切り取られていた。通路だ。人ひとり……キルルの体格ひとつきりであれば、骨の出っ張った部位をぶつけずとも立位で進んでいけるだろう。なか途中は燈明のひとつも無いが、行きつく先に光が見えた。そこが隠し部屋らしい。
水差しを抱え直して、キルルは通路につま先を進めた。
さっきまでは、ここが枯れ井戸のようだと思えていた。だとしたら、そんなところをくぐっては家屋への侵入を繰り返す蛇や鼠は、こういった気分に毎日耐えているのだろうか? 視界が利かない暗闇の中で、心拍が表皮を突き上げ、血管が引き攣つり、干せ上がる粘膜が癪に障る。一歩、半歩とすり足を繰り返す残響音が、狭い筒の中を舐めまわすように響く―――のみならず、響き渡っている―――気がする。鼓膜から奥を侵し、更なる最奥へと。
そして、それは奥底から反響してくる時には、音ではなくなっていた。
(わたし、一体どこで、ゆびきりなんて約束の仕草、覚えたんだっけ?)
余計なことを考えている。分かってはいるのだけれど。
(前に、誰と、どうしてゆびきりしたんだろ?)
がり、と小さな塊を踏みつぶした。
そうなってしまえば、もう軽石のひと粒だったのか蜥蜴の頭蓋骨だったのかも分からい。立ちすくんでしまっていた。粉から足をどけて、その先に靴底を下ろす。
そして、通路は行き詰った。突き当たり、隠し部屋への出入り口が、向かって右手側にぽっかりと開いている。それはドアも無く、狭く、静まり返っており、通路よりも薄明るいというのに不吉さを感じ―――だというのに、こうして開かれてしまった空間だった。あたかも、棺桶の上蓋が外れたかのような。
(だとしたら、あたしは棺桶の中の死人だってわけ?)
それは。あるいは、彼が。
連想にひやりとして、キルルは通路のその場で身体を止めた。上ずっていた呼吸を肺臓の深くまで沈めて、半分だけ目を閉じる。
(水を飲ませる、ザーニーイにこの水を飲ませる、ひと口でいいから飲ませる……)
唱えるごとに縒り上がっていく緊張の糸を、自覚することで解きほぐしていく。キルルは半眼を撤回した。すべては、数秒前と変わっていない。隠し通路に立つ自分。後ろには、シゾーを置いてきた。
そして、先には、彼がいる。
水差しから湿り気を嗅いで、キルルは細心の注意を払いながら、室内に歩を差し込んだ。
入ってみると、その部屋の印象は、棺桶とは違っていた。独房。
あるいは究極の反省室か。まあそれだってきっと、独房には違いなかろう。
奥に細長い長方形の小部屋だ。一番奥に、部屋の端に嵌め込まれるようにして、寝床がひとつ。壁と天井の鎹沿いに、空気穴が点々と切り取られている。本当に、光源はそこだけだった。だというのに、ベッドの上で光るものが見えた。陽光を受け、赤味を纏った金髪―――
出そうになった声は、息を呑んだせいで消えた。
ばらけた髪から垣間見えたザーニーイは、どう考えても死相をしていた。こちらに向けて横倒しになっている輪郭、その上には奇妙な蝶のように、血が固まった片耳が留まっている。絞扼を暗示する手形の鬱血と、それを引き剥がそうと掻き毟られ、無残なかぎ裂きを残す肌が、首筋に続く。その皮膚の色はと言うと、半開きの目蓋から覗く白目よりも色が失い。乱暴なことになったのか、切れて腫れあがった唇だけでなく、鼻の下のくぼみにも乾いた血がこびり付いている。そんなにしてまでも、着せなければならなかったのか? 両手を互い違いの肘で固定する、真っ黒い拘束衣を?
黒い蓑虫のような彼は、粗末な寝台の上で、微動だにしなかった。そもそも、動く余力がないのだろう。ならば満足に呼吸する余力は? 心臓が動く力は?
不用意に踏み出した一歩が、致命的な靴音を立てた。
刹那。ザーニーイの目が開く。そして、あらんかぎり見開かれる。
咆哮がした。それが続いた。ありえないことに、彼の喉から。
人語を砕く空気の振動の尋常のなさに、怖気が全身を削り取る。彼がそれを自慢の美声と言ってふざけていたのは、つい昨夜のことだったのではなかったか? それを思い出して、あまりの酸鼻さに涙が戦慄く。
ザーニーイが動いた。キルルを殺そうとしたのだろう。本来なら、それこそ霹靂に撃たれたように一撃で、自分は死んでいたに違いない。が、彼が拘束衣によって両膝同士まで戒られていたため、そうはならなかった。立て膝をもつれさせて、寝台から転げ落ちる。おざなりに当てがわれていたぼろぼろの一枚布を巻き込んで、かなり派手に粉塵が舞いあがった。その一枚布が腹掛けなのかシーツなのか、粉塵の正体が蚤なのか砂なのかも分からない。
(こんなひどい状態なのに、こんな場所に放っておかれて、まともなお布団のひとつもないの……?)
信じられなかった。反射的に、五指が限界まで力む。これ以上引き攣ることが出来ない顔面の分も。
その指先から、抱えていた水差しが滑った。
(っ駄目―――!)
もう遅い。床にひっくり返った水差しが、金属音を室内に一閃させて転がる。
横転して止まった注ぎ口から、一気に水が溢れだした。このままでは、注ぎ口のくびれのあたりに、ほんの茶碗ひとすくいほどしか残らない。
(拾わないと。早く拾わないと)
しかし動けない。動けば彼も動くだろう。今以上に。今以上の殺意でもって。
なぜならばザーニーイは、這いつくばったまま、絶えずこちらを睨みつけていたのだから。
迅雷の碧眼に射抜かれて、キルルはぴくりとも動けなかった。
動けない。動けなかった。その翡翠の蒼を燃え上げる、天をも衝かん激情が、掛け値なしに美しい!
―――それが度し難い現実逃避だと警告してくる生存本能くらい、キルルとて持ち合わせている。倒錯を許すな。倒錯を許した危機から直視を外すな。汗が湧く。唾液が粘る。それに貼りつかれた舌はべたりと動かず、だったらそこから繋がる喉も、喉の奥から連動する五臓六腑までも動かない。手順を忘れていた。飲み込む。拳を緩ませる。それを意識する。肩を―――
無言の空間に、ザーニーイの狂気だけが満ちていく。時間を失っていた。とにかく、水差しが吐けるだけの水をぶちまけ終えて、沈黙を取り戻すくらいの時間だった。
「ぅ……ェ、いァ……?」
彼がこちらへと、そんな声を嗄らした。
(呼びかけた)
そう判断する。のだが、ほとんど喘鳴にかき消されてしまっていた上、やっとこさ聞こえたそれでさえ、ゼラともシゾーとも食い違う。わけが分からなかった。こんな時に対処してきたのがあの義父子だからこそ、シゾーは自分に頼らざるを得なかったのではなかったか?
(それともシゾーさんが言ってた通り、うわ言らしく、あたしを妄想の誰かと勘違いしてる?)
ならばその人のふりをすべきだろうが―――う・え・い・あ―――どこから吟味したところで、旗司誓に来てからは初耳の名前だ。エイア―――ウェイア? ……
「―――ぇ……ゼ、ラァあアアアアァ!!」
絶叫が、キルルの思考を破った。
「殺してやる!! 殺してやるぞ!! 俺がザーニーイだ―――俺に出来ねえことなんざ何もねぇんだ!! とうさんが<彼に凝立する聖杯>のシザジアフとして契り、吟遊詩人が霹靂とまで言わしめる俺が―――もう二度と失敗なんかしやしねぇ!! 糞女郎が、今度こそ絶対に殺……し―――」
忽然と、息吹が途絶えた。
その時危ぶんだのは、ザーニーイが自分の発奮に付いていけずに気絶したという可能性だった。人は、外傷に因らずとも気絶すると聞いたことがある……
違った。
激しい呼吸が、言葉をことごとく磨耗させていただけだ。喘ぎの中に、擦り切れた吼え声が散らかされていた。
「そしたらそうしてまた俺だけが終わらない」
それは、砂を巻き上げた風が立てる擦過の音に似ていた。砂は消せない。風も消せない。痛みを撒く鋭い存在であると知りながら、耐えるしかない―――
「終わらない終わらないんだずっときっといつだって終わらないのは俺だけでしかいられないんだから、俺だけ……な、んで―――デデじぃ、とうさ……ィぞー、シヴツェイアあアあのせいで―――みんな……イるのに、俺はイるくせしてよぉ―――」
聳動は続く―――正気を圧搾するような反吐が。ザーニーイは半分だけ踏みつけられた芋虫のように地べたで悶え苦しみながら、体液代わりに狂奔を撒き散らしていた。
(デデじぃ―――デデジー? デデ爺? シヴツェイア? にしても、ゼラさんを殺すって―――て言うか、く……クソメロウって、一体どういうこと?)
品のない罵声に心中でつっかえながら、それでも疑問に思考が釣られてしまう。それを自覚する。
(駄目。なに引きずられかけてるの。ただの空想なんだから、なんでもありなだけよ。それこそ、ゼラさんへの日ごろの欲求不満が、最悪まで煮詰まっただけ。それだけ)
いうなれば、彼の執務室に残されていた、あの悪戯書きと同じだ。あの戯画に傑出した勧善懲悪のように、夢幻の中でこそ成立した極端だ。夢幻―――
(だからこそ、あたしがしっかり現実を見ないと駄目)
ザーニーイ。
殺傷力では歯が立たない。殺気ですら太刀打ちできない。
だからこそ、これを、そんな次元の話にしてはならない。
キルルは、そっと歯を食いしばった。細心の注意を払いながら、床から水差しを拾い上げる。軽い―――重さも、ちゃぽんとしか聞こえやしない水音も。
ひと粒ふた粒と水差しから伝い落ちた水滴の波紋をどこまでも広げてくれる水溜りの大きさに、さすがに後悔を覚える。だが、取り返しがつかないことを嘆いてみじめになるのは後でも出来る。今は、成すべきことがある。
転がったままのザーニーイは、今はこちらを見ない。
今更ながら、吸いこんだ空気に汚臭を―――少なくとも、鼻をつままねばならない程のそれは―――感じないことに気づいて、キルルは迂遠な戦慄を覚えた。排泄するほど物を摂取していない。嘔吐する体力もない。それを察するしかない。
(水を、飲ませる)
一歩。更に半歩。粗末なだけの古びた寝台、その手前に転がる青年へと、にじり寄る。メートル手前―――センチ手前―――
仰向けのザーニーイは、苦鳴と妄想を口から出し入れするついでのように、ばらばらに吸って吐いてを繰り返していた。異常な呼吸に身体が追いつかず、こまごまと嘔吐いている。最低限、鼻孔からの呼吸を取り戻すことが出来なければ、液体を飲み下すなど到底不可能だろう……今のままでは、口からの吸気に巻き込まれ、むせ返るのがオチだ。
(口、閉じさせないと)
ならば、顎を引かせる必要がある。
それ以外思いつかず、キルルはザーニーイの枕元に座り込んだ。頭頂の真上の床に膝をついて、水差しをわきに置く。彼のターバンと頭帯は、しっかり巻かれて外れていない。掴みどころとしては充分だ。
床と彼の頭の間に膝小僧を差し込もうと、キルルはザーニーイのうなじに両手をかけた。不意に指の腹にからみついてきた彼の汗と熱と、思いがけない髪のやわらかな感触に息を呑む。繰り言に没頭しているザーニーイは、キルルに視線を振りさえしなかったが。
どうにか躄って膝枕を整え、キルルは呑んでいた息と底力を絞り出した。強引にでも呼吸を鼻に切り替えたおかげか、ザーニーイは多少落ち着いたように思える。暴れまわったせいで精魂使い果たし、もう魘されるくらいしか不可能なのかもしれないが。
(急いで、急いで、急いで急いで急いで……)
服のわき腹で両手をこすっておざなりの清潔を取り戻すと、キルルは水差しを持った。その注ぎ口を、直接ザーニーイの口許に傾けて―――
それを引っ込める。キルルは自分の丸めた右手に、水差しから、水を汲んだ。
ザーニーイの唇に、小指の付け根から、小さな水面をあてがう。
飲まないかもしれない。そのことばかり考えていた。だからこそ、乾ききってささくれた彼の口の皮がキルルの掌に噛み付いた時、腹の底から動揺した。
右手の小指の付け根に、啄ばまれる痛みがある。歯で。歯茎で。舌で。唇で。痛みではない感覚が、右手の小指の付け根以外で疼く。
眩暈がした。
それを直視せずに済ますには、ザーニーイを注視せずにおれない今の状況はありがたかった。どうなる? ―――彼は、これから。
口づける先から貪る水が無くなると、彼は首を振ってキルルの手を払った。そして呻いた。さも気にくわなさげに。
「……このくそジャリ、いい加減にしろよ……こんな介抱まで、いちいち勘定すっこたねぇだろ。借りだ貸したと、ちびが一丁前にバタバタ邪魔くせぇ……」
ふとキルルは、ザーニーイの眼差しに気付いた。彼の薄目は、あけすけにキルルの服の模様を伝っている。その胡散臭そうな感情は、これ以上なく露骨で、言ってみれば……年端も行かない子どもの、衒いないそれだった。
同じく少年のシゾーがこの服の中にいると彼が思い込んでいることに、キルルが気づいたのはその時だった。まだザーニーイは、ストレートな悪罵を続けている。
「ああ? お前を俺が助けるのに理由がいるのか? なあおじさん、こいつどうかしてるって。なあ。ねえ聞いてるネ・エ?」
と。
出し抜けに後頭部をはたかれ、キルルはうなじを折らざるをえなかった。
誰が叩いてきたのか、振り返りたい―――のだが、頭が、土下座を強制するようにぐっと押さえつけられては、動かない!
未知の展開に発狂しかける。わめき散らせば、それは多少は発散できるのか―――わめく? ワメクのを散らすには、どうすればいいのだったっけ?
そこにきてやっと――― 一瞬だったとしても、やっとだ―――脳が、状況を理解した。人肌の臭気さえ嗅ぎ取れるような指呼の間でザーニーイと顔を突き合わせながら、両肘の拘束が解けた彼の両手が天井に向けて突き上げられているのを理解していた。その掌が、キルルの後ろ首を鷲掴みにして、こうして間際まで引き寄せていることも理解してしまった!
これで完璧に、命の補償は失われた。彼はキルルの頸椎を折ることができる―――扼殺できるし、気道も打てる。総毛立ったのはそのせいだと思いたかったが、背筋は悪寒とは裏腹の熱を感じていた。
「ゼぇラあ」
ザーニーイが、そう呟いた。その言い様と同様、辟易と倦厭を垂れ流した目が、キルルのターバンを伝っていく。
「やめてくれってば。俺のお古を着るのは。目に入るたびに、いらねーこと思い出すじゃねぇかよ……」
その呼びかけが、ゼラ・イェスカザ当人へのものか、ゼラ―――“影”の意から転じて、今では切っても切れない腐れ縁や表裏にある利害関係の暗示に用いられる―――とあてこすっている別人へのものなのかは、判断がつかなかった。別人? 何と呼ばれていた? デデジー。あるいはシヴツェ―――
「キルル」
己のそれが奪った名前を、キルルは忘れた。
彼を見詰めるしかない。こうなっては。
「思い出した。キルルが、これ巻いてたな。はは。お揃いか? ―――そいつはまた、冗談じゃない……」
と、そこでザーニーイは、それらしい強面を気取ろうとしたのだろう。小慣れたように皮肉に笑んで、笑い飛ばすべく軽口に化かした―――というのに。
それを、無表情へと瓦解させた。呟く。
「違う。インチキして、冗談にして、やり過ごせなかったんだ。あいつには……とうさんがいないから……せめて俺だけでも―――」
呟く。それを続ける。
止めることはできない。
「あの時、廊下で。あいつ。母親が死んで―――かなしがってた」
阻むことはできない。
「親が死んだことじゃあない。親が死んでも全然かなしくない自分がいるそらぞらしさが、ひたすらにかなしい」
せめて逃げたい。
それは焦燥だった。キルルは、まばたきを重ねるごとに強靭さが剥げていく彼の瞳が、いっそ涙で翳ってくれたらと願うほど、それが募るのを感じていた。そうであってくれたなら、彼から目を逸らせたはずだ。なんなら顔を逸らし、半狂乱の病人を憐れむことができたはずだ。
もう、そのどれもが手遅れだ。
その時には、それを知っていた。
「かなしいことを、誰も気付かせてくれやしねぇから、自分でも気付いちゃいねぇみてぇだった。キルル。キルル、そんくらいでやめとけよ―――もういいんだよ……あいつらが見てるお前なんて、お前だから託されたものじゃないんだから」
ザーニーイが、声をくぐもらせた。枯れ果てた咽喉がこすれ、はじけた浅い咳が彼を揺さぶる……
まるでそれは、しゃくりあげて泣いているかのようだ。そう思えたのは、己の中に、その衝動が潮騒のように触れてきたからなのか? ―――
「ドミノ倒しの解読は、さぞ楽しいかい? 第三者。 ―――親が死んだらかなしい子どもしかいない世界は、正しければ認められ、悪ければ罰せられて、善人こそが報われるんだろう。だから、だからこそ……」
と―――
次第に彼のせりふが途切れがちとなり、ぶつ切りにされたひと言でさえ聞き取れないほど解れていく。理由は明らかだった。眠気に毒されているのだ―――ぽた、と彼の手が床まで落ちた。細かな幾らかの何かが舞いあがった。どうでもいい。
上肢に続くように、キルルの腿の上にある身体から、活動に足る緊張が抜け落ちていく。天井際の明り取りから眼差しを逃がすように、とろんと横滑りした瞳を、目蓋が塞いだ。睫毛の重みにさえ耐えかねたような、ぐったりと弛緩した薄皮に、青い血管が透けている。
言い残し、彼は眠った。
「そこじゃなくて……ここにいるしかない、俺たちは……―――」
そして、静かになった。
とても静かになった。部屋も、部屋にそう思う自分自身の中にも静寂を嗅ぐ。風を感じた……明り取りと、己の気管から。頬の産毛に触れた埃が、それに煽られて痒い。それ以上に、熱気が動悸している皮下が痒い。引っ掻いても舐めてもやすりで削っても終ることの無い心臓の鼓動は、いつだって膚一枚ほど内側から、表層へとノックし続けていたはずなのに。
とっと、とっと、と果てしなく終わらない。たとえばそれが雛鳥ならば、覆いの殻を破る時まで。とっと、っとっと―――
(―――ここにいるしかない、あたしたちは……)
キルルは、音なく囁いた。
(あたしは、後継第二階梯ってだけじゃない。あなたも、旗司誓ってだけじゃない。だからきっとあたしはキルルってだけじゃなくて、あなたもザーニーイってだけじゃないんでしょう……だから、あたしが箱庭育ちの後継第二階梯でも、あなたが捨て子の旗司誓でも、―――もう関係ない)
昨日までの自分には戻れない。あの夜、彼とふたり中庭で笑い合う中で、箱庭育ちの後継第二階梯が覚えた捨て子の旗司誓への距離感と憐憫を、もうこれから取り戻すなんて出来やしない。
(あたし―――あたしは、……あたしだから、)
いつしかそれは、零れ落ちていた。
「ここにいる、あなたを、」
ひどい熱に、涙が溶け出す。
ぽたりと、温い水まじりの言葉が、彼の顔に落ちる。
「あなただからって、ひとりにしたくないよ―――」
ひと雫はザーニーイの頬ではじけ、目頭へと滑った。彼はむずがるように、顔を傾けた。彼の目尻から、涙がこぼれた。
□ ■ □ ■ □ ■ □
不愉快でない耳鳴り。ある種の陶然として、それを感じる。
シゾーの足元、這い上がり終えた床の上にへたり込んで。立ち上がることを試みようとも思えず、とにかくキルルは報告した。
「―――ひとくち水を飲んだら、気を失くしたわ」
最後まで聞かないうちに、シゾーが動いた。キルルと入れ違いに、枯れ井戸じみた縦穴に飛び込む……というのは表現でなく、文字通り、設えられた梯子穴に手足をかけることもせず、ぱっと奈落へ滑空した。その勢いを膝で殺しつつ底にて屈身し、クラウチングスタートするように踏み切って、隠し部屋へと続く横穴に滑り込んでいく―――物音の変化が聞き取れたことで、彼の一連の動作は空想できた。とどのつまり、変化しなければ意に介さないほどの小さな音だったということになるのだが……
キルルは呆として、彼を見送った。いや、現実、シゾーの身のこなしは野生に長けた獣さながらで、視界に捉えていられたのは一秒か二秒くらいだ。見送ったとは言い難いだろうが。
ただそれでも、シゾーの存在が視野からも聴覚からも消えうせると、まるで彼が靴裏に敷いた砂利と一緒くたに外野へと蹴り出された心地がした。緊張が切れた。体重が重い。床にへたったまま、すぐ背中の石壁に、ずるりと凭れかかる。ひんやりしていた。またしても、己の体温を自覚する。
(あの部屋を見て、シゾーさん……どう思うかな……)
だるさの中、暗がりの部屋で、ぼんやりと思い描く。水がぶちまけられた独房に転がったザーニーイを見て、彼はどう感じ何があったと推測するのか?
まず思ったのは、彼はそれを真っ先に切り捨てるだろうということだ。現実を現実的に判断して、すべきことを行動する。つまりは、ザーニーイをざっと診察してとりあえずの安否を確認できたなら、きっちりと拘束衣を整え直す。あとはキルルが拾ってくるのを忘れた水差しを指先に引っ掛け、隠し通路のどこかにでも片づけて―――
「ありがとうございました。ありがとう―――」
物思いは、静かな謝礼に押し流された。
何のことはない。いつの間にやら、隠し部屋から戻ってきたシゾーが、キルルの前で膝をついていた。頭を下げているので、彼の顔つきは分からない。それでも、言葉より盛大に吐き出された呼気が、ありありと彼の安堵を代弁しているように思えた。顔つき―――
(あたし今、どんな顔になってるのかな?)
そして次に逢う時、ザーニーイはどのような顔をしているのか?
(それで、それから―――あたし、どうなっちゃうんだろう?)
それが分からない。顔だけの話ではない……前後不覚の彼に接して、脱した今でさえこの体たらくなのに、また面と向かい合う時など想像だにできない。シゾーは、ザーニーイは今日のことを覚えていないようなことを言っていた。だとしたら彼は、昨日と同じように、あっけらかんとしたフレンドリーさで話かけてくるかもしれないのだが、その可能性に思考が触れるだけで、息が上がってくる。いけない。まだ身体が興奮を引きずっている。唾を飲み込まないと……口の中は干からびていた。ならばせめて、肩を意識しながら、息を―――
吸った空気の中に感じた人の気配に、はっとする。
いつしかキルルは地べたで縮こまり、己の胴を抱きしめていた―――その様子を、シゾーがじっと覗き込んできている。こちらのつま先から十五センチくらい手前で膝を石畳についたまま、動かない。細めもしていない目角からこちらを窺っている彼は、キルルを不審がるでも、心配するでもない―――そういった何らかの情動をすべきか判断するために観察している。そんな目だ。
キルルは顔を上げた。そのまま彼の視線を迂回する動線で、立ち上がる。
手持ち無沙汰に、尻から太腿の裏までを軽くはたいた。汚れを払えているか確認すべく手先に目を配っていたので、こちらに続いて直立したシゾーとは目が合わないままだ。そうだ……こうして身繕いするのも、それなりに身繕いできているか見て確かめるのも、不自然ではないはずだ。軽率な打算だったが、当てずっぽうではない―――はぐらかすための、のらりくらりとした合いの手も。
「あの。ぼーっとしてたわ。ごめんなさい。それで。え? あ? なんだっけ?」
「あの」
おずおずと、シゾーが続けた―――
「キルルさん。僕、本当に、その……すみませんでした。ずっと」
「え?」
素っ頓狂に驚いて、思わず動作を立ち消えにしてしまう。
意表を突かれたはずみで立ちんぼしたまま彼を見やると、シゾーは僅かながら項垂れて、顔の前に髪を落としていた。
「出逢えてすぐ、変な連中との戦闘なんて、危ない目に巻き込んで。今朝だって不機嫌だったし、挙句エニイージーとの揉め事でも、とばっちりを……本当に、ごめんなさい。許してもらえないですか?」
「そんな……許すも何も、シゾーさんは悪くないでしょ?」
キルルが囁くと、シゾーはぴくりと肩すじを跳ねさせた―――鍛え抜かれた旗司誓の強肩は、ただそれだけしか身じろぎしなかったのだが。肩の細いシーちゃん……ゼラがそう言っていたことを思い出す。
思わずキルルは、彼の左の肩に右手を触れさせていた。嫌がるかと思ったが、反応はない。
そのまま、彼の腕の付け根あたりを、そっと撫で下ろす。そうだ。約束に指切りしたように、慰めが言葉では足りないこともある―――
「なんでもかんでもシゾーさんのせいじゃないわよ。仮にシゾーさんのせいだったとしても、誰にだって、そんな巡り合わせくらいあることだし。なにより、あたしは全然なんとも思ってないから」
「―――キルルさん」
シゾーが、ゆるゆると頭を擡げた。神妙だった輪郭を、今は疲れたような微苦笑で綻ばせて、少し膝を曲げるようにして腰を落とす。それだけで、随分と威圧感が薄れた。だけでなく実際にシゾーは、上から目線で粋がっていたのを観念したかのように、あどけなく潤んだ瞳をキルルに向けている。
「キルルさんは、本当にすごい人ですね」
「そんな……」
「本当に、そう思うんです」
畳み掛かけるように、彼の早口は止まらない。熱意を帯びて強い。賛嘆を抑えた目の色が、朝露のように控え目に眩しい。
「あなたが王家になるまでの経緯は、少しだけど噂で知ってます。もっときっと色々あったでしょうに、それでも笑って。そうやって明るくて。すごく―――すごいなぁ、って。とても尊敬します。……でも、」
言いながらシゾーは、己の肩線上に留まったキルルの掌へと、右の手を差し向けた。キルルのそれを退ける気だろう。察して、指を離す―――
その寸でのところで、押しとどめられる。のみならず、押し返された。そうしたシゾーは、キルルの手を、自分のそれで包み込むようにして、
「それだけじゃ、済まなかったりしてね?」
「シゾーさん?」
疑問符への返事のように、握り込む力が強められた。途端、
「! った……」
忘れていた痛みに右手の小指の付け根を突かれ、思わず痙攣した指が、シゾーの肩を引っ掻いてしまう―――のだが、彼は手を離してくれなかった。ただ、キルルの手をそろそろと目の前に運んできて、視診する。
それから、シゾーが小さく血の滲んだ噛み傷を見つけたのと、キルルが悲鳴を漏らしてしまったのは、おおよそ同じ頃合いだった。
「この怪我は?」
「そうよ、怪我―――!」
口に出すと、独房の風景が、切迫感もろとも脳裏に再燃する。
背骨を裏から焼き切ろうとするかのような禍々しい強迫観念を訴えるべく、キルルはシゾーへと一歩踏み込んだ。まるで胸倉に掴みかかるような構図だが、片手は当のシゾーに取られたままだし、もう片手は心臓を宥めるように己の胸元を押さえている。だからということはなかろうが、シゾーはキルルにひるむことはなかった。感情任せの威勢を、じっと冷静に待ち受けている。
「ザーニーイ、ベッドから転げ落ちたから、もしかしたらどこか打ち付けてるかも……シゾーさん、さっき見に行って、どんな様子だった!? 今のうちに、あの腫れた顔も拭いて、冷やしてあげなきゃ―――!」
「あいつじゃない。あなたの、この怪我は?」
と―――
少しずつ、シゾーの口調は変化した。速さが落ち、キルルの手指を手繰る動きさえ緩慢になる。手の甲からすくい上げるように右手を支えられていたはずなのに、いつしか彼の指の腹は、キルルの掌の丘陵を辿っていた……さするように、それが確かなものか探るように。触れ合ったシゾーの指なし手袋は、人肌に熱らされて乾いている―――彼の生肌の指も、キルルのそれより。恐らくは。
彼の眼光も、移り変わっている気がした……卸したての剃刀が帯びる新雪の白さから、雪解けの甘い水が春日を吸ったような、まろみある色へ。さっきまでの心地を引きずっているからそう思えるだけかもしれないが、それでも目線に射竦られてしまっては、身動きが取れない。
「あいつじゃない」
シゾーが繰り返す。言葉だけでなく、握られた手に、またしても力が込められた。握り潰そうとしての万力ではない……としても、キルルの小指近くに残された傷は、疼いた。
それが狙いだったのか、見越したようなタイミングで、囁いてくる。
「痛む?」
「あ……」
「指が? それとも―――そっちの奥?」
と、彼が見たのは、キルルの、もう片手だった。ずっと、襟の辺りにまとめたままでいた掌。その下には、自分の服も肉も骨も確かにあるはずなのに、そんなことなどとは全く無関係に、胸襟まで見透かされた気がした。
思わず、後ずさってしまう。のだが、半歩も退けない。踵から背中から、壁に突き当たる。裏切られた思いで、キルルは遮二無二、背後を振り返った。やはり壁―――
「僕には、そんな顔しか、してくれないんですね」
声がしたからでなく、声を含ふくんだ息を耳朶まわりに感じたことに、はっと振り向き直す。ふたりの間合いは、会話するだけには不必要なまでに埋まっていた。
「僕には―――」
(ちょっ―――)
声にならず、キルルは硬直した。シゾーはもう言葉無く、目と鼻の先で―――正真正銘、目と鼻の先で、こちらを見つめてきている。さっきまでは素直なだけに思えた双眸が、今は何かを隠して清らかに慎ましかった。待っている顔だと……そう思える。
その瞳が、閉ざされた。
そして目蓋が半分だけ開かれた時、それは浮ついた眼差しと、うわ言じみた謝罪を伴っていた。半睡するような―――半睡を、言い訳にするような。
「ごめん、なさい。つい―――」
そして、なにもかもが、そこまでだった。シゾーは姿態を元通りに伸ばすと、バックステップでキルルから離れた。自然に、手も放れた。
まるで自然な動作で、彼が隠し廊下の出入り口に石版を偽装し直すのを、見ているしかない。
「エニイージーのところまで、送ります」
ついていくしかない。そう言われたら。
物置倉庫―――執務室―――廊下。覚束無い足が、何度か、そこここに引っかかる。転びはしなかったし、身体のどこも痛めなかった。ただ、これはそんな話では無いことも分かりきっていた。先を歩くシゾーは、本当にただそれだけだ……ぎくしゃくするでもなく、普通に歩いていく。
キルルはただ漠然と―――ぶら下げられた彼の手、そこにある小指と指きりしたことを思い出していた。今はザーニーイから傷を残された、ここにある右手の小指で。
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