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エリザベスの訪問
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しおりを挟むアベルのおかげで殆ど綺麗になった手の傷を改めて見て息を止める。
小さく丸い傷口はそこだけ皮膚が破れてしまったようだった。また、酷い痣のようでもあり損傷具合から痕が残りそうなものだった。
アベルは自分の袖を軽く噛んで破り丁寧に手に巻き、腰にぶら下げていたアベルの商売道具である馬引き用の黒革の手袋を被せた。
「この傷のことはお前が離したくないなら俺も黙っておく。
俺達だけの秘密だ。」
手袋のされた手を見つめる。
アベルの心温まる手土産のように思えた。
この傷がある限り、それを見る限りアベルを思い出せる。兄の様な存在のアベルを。
シムは大切そうに手袋を撫でた。
「ありがとう……アベルさん」
アベルは真剣な顔のままシムをしっかりと見据える。
「いいかシム、俺はお前が何処にいたってお前を子分のように…いや、弟のように思ってるんだからな。
辛くなったらここに帰って来い。
俺がお前を連れて逃げ出す事だって、朝飯前なんだからな。」
それはアベルの誇張した話だと分かる。
しかしシムはそれを聞いて笑いながら頼もしい、と寂しげに微笑んだ。
シムはこんなに自分の心配をしてくれる人がいることが嬉しくて堪らなかった。
離れることもたまらなく寂しかった。
アベルと目を合わせ続けていたら大粒の涙を流してしまいそうだ、とシムはベッドのシーツの皺を必死に掴んだ。
「ありがとう」
シムはもう一度大切に噛みしめる様に、心からの礼を伝えた。
結局その日、シムは自分の部屋から出ることはなく眠りについた。
大切そうに手袋をさすりながら横になるシムを、こアベルもまた大切そうに無骨な手で頭を撫でた。
そして少しして部屋を静かに後にしたのだった。
次第に日も落ち、その傾く日を気にしながらも皆が帰還の支度を急いだ。
夕日で鮮やかに染まる赤い空を背に、道を確保し警備するための先発隊をカスパルは腰に手を当てながら見送る。
「すまないな。先をよろしく頼む。」
先発隊として行く従者と子息を連れたカスパルの部下数名は敬礼し馬に跨る。
「何かあればすぐ飛ばします。」
部下は木で出来た鳥かごをぽんと軽く叩いた。
承知した。カスパルが言うのと同時に馬達は蹄で強く大地を蹴り上げ走り出した。
カスパルは赤々とした夕日と小さくなる先発隊の背を見つめ、心の何処かでシムを思い浮かべていた。
きっとシムは今日は一緒には行かないだろう、そんな予感があった。
もうすぐレグランド国王は緊迫してきつつある近隣諸国との対談とは名ばかりの探り合いをしに行く。
カスパルも帰還後その護衛をしに共に行かなければならないことが決まっていた。
シムが宮廷に来たとしても当分話すことが出来ないという事であった。
ジェーンとは違い、王妃もカスパルも側に居てやれない下位のシムのことを思うと罪悪感が胸を埋め尽くす。
そこまで考えて軽く溜息をついて首を横に振った。
今は仕事中だというのに、雑念がやけに多い。カスパルは咳払いをしてなるべく考えないように努めた。
自分もそろそろ荷を積み始めなければならない、カスパルは自分の愛馬を迎えに、歩き始める。
夕日も紫がかり、これから本当の闇が訪れようとしていた。
カスパルの愛馬は闇に良く似た綺麗な黒色をしている。
名をカイと名付けており、カイは父から贈られた友だった。
カイは元々東洋にいる種の馬らしいと父に聞かされている。
軍師学校に通っていた時に出来た友人から教えてもらった、非常の事態に気を引き締めるという意味の”戒”という漢字をそのまま馬の名前につけたのであった。
カイはとても優秀であり、通った道は忘れずに、常にカスパルの指示に従う利口な馬であり、実際にカイのおかげで山での遭難を防げた経験や、敵から見つからずに拠点に突入出来たこともあり、カスパルを大いに助けていた。
馬小屋の古めかしい扉を激しい音を出して開けると屋敷付きの馬はまた別の小屋なのであろう、中には後半隊の馬と王妃の馬車用の馬とカイ以外の馬はいなかった。
その中でもカイは薄暗い小屋の中で綺麗な黒色は同化し、目の美しい輝き以外でカイの気配を感じられなかった。
「カイ、元気か。」
近寄りカイの頬を撫でる。
カイも自分の主を分かっている様に静かにカスパルを見つめている。
さあ、行こう。とカイの手綱を固定していた柱から取り外し出口の方へ引っ張る。
しかしカイは動こうとせず、カスパルを見つめるばかりだった。
カスパルはもう一度引っ張りやはり動かないことを目で確認すると近寄ってカイをもう一度撫でる。
「どうしたカイ、具合が悪いのか。」
変な虫でも入ったのだろうか、怪我をしているのか、カスパルは毛並みや目元を確認するが異常は特に見当たらない。
ふいにカイはカスパルから下へ視線を移した。
まだ草を食べ足りないのかと、カスパルも釣られて下を見やると、とても小さく黄色いものが薄暗い小屋の中で見て取れた。
それはカイの右の前脚に引っかかるように巻かれている。
これが付いてたから動かなかったのか、と本当は固定されていない馬の前にしゃがむ事はいつ蹴り上げられて顔を無くしてもおかしくない行動だが、カイを信じているカスパルは躊躇なくしゃがみこむ。
「………ロニーの花……」
カイの前脚にはロニーの小さな花冠が通されていた。
カイはこれが取れてしまう事を恐れ動くのを躊躇ったのだ。
この様に花を届けるだろう人物は一人しか思い浮かばない。
嬉しさと愛しさで自然と口角が上がる。
シムはカイと触れ合ったのか、
この花を、この私に渡すために。
健闘を祈ると、私に挨拶を残すために。
きっとシムもカイの前でこうやってしゃがみ込みくくりつけたのだろうが、よく平気だったものだと思う。
さすがシムだな…
このカイも心を許すというのか、純粋な裏表の無い男は、動物にさえ許されるというのだろうか。つくづく不思議な男だ。
「ありがとうな、カイ」
仏頂面だった主の柔らかい表情にカイは撫でろと言っているのかも付けろと言っているのかもわからないようにカスパルの腹部に鼻を当てた。
カスパルはここ数日使っていない、左に固定されている愛剣の持ち手にそっとロニーの花冠を通す。
「どうだ、似合っているだろう。」
そう胸を張って何処か自慢げに言うカスパルにカイは撫でられた。
カスパルが引く手綱の方向へ、今度こそすんなりと歩き始める。
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