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成長、彼の情
3-16
しおりを挟むカスパルの熱く大きな掌はシムをとても安堵させ、そして胸を苦しくさせた。
シムは思わず口元を柔らかくしながら目を閉じる。
カスパルもシムに触れて、心が暖まる思いだった。
可能ならばこの時間が永遠に続くようにと願うばかりだが、残念ながら時間は止まってはくれない。
一度シムの頬を撫でてからそっと手を離した。
自身の頬から暖かく力強い掌が離れていく感覚で、シムは漸く目を開ける。
辺りを見渡せば図書室の窓はもうすっかり漆黒で、シムの閲覧許可の限界時間が迫ってきていることをその色で暗黙に伝えた。
「そろそろ帰った方がいいな。」
遅くなるから、と付け足してカスパルはテーブルに寄りかかりながら笑いかけた。
シムはこのカスパルとの時間が終わってしまう寂しさを瞳の中に映して、残念そうにそっと目の前のシムが広げた本達を集め始めた。
「本当ですね、もう退出、しないと。」
シムはいつもこの別れまでの時間が悲しく、悲しいと思ってしまう自分の強欲さにも腹立ち、こんな気持ちになるのも嫌だと思った。
カスパルも手伝うようにシムの横で、本達を閉じて積み上げる。
何も言わなくとも寂しそうなシムの顔を時々ちらりと見ながら、その大小様々な本達をあるべき本棚へと入れていった。
時に上に位置する棚にも背のあるカスパルには軽い作業だったが、シムはそうもいかない位置の物もあったようで、踏み台を探すために辺りを見渡していた。
カスパルは近付いて、シムが両手に持つ本を取り上げる。
「手伝うよ。」
そう言って片手で高い棚に図鑑を入れ込んだ。
シムは感謝を述べようと振り返るも、カスパルの身体が密着するほど近くにあったことに驚き、思わず硬直する。
そんなカスパルは太陽のような笑顔で、若干の甘さを含ませて微笑んだ。
「シム、また会いたい。」
会えれば嬉しい、会えれば運が良いだなんて思っていた方が気が楽ではあるが、カスパルが言うそれは言葉の約束になる。
シムは噛みしめるように、嬉しそうに何度も頷いた。
「四日後の夜、またここで会おう。」
言葉とは不思議だ。
カスパルが優しく微笑んでそう言ってくれれば、これから数分後に訪れる別れさえも寂しかったことを忘れ、あっという間に四日後が楽しみで仕方なくなってしまうのだから。
「よ、四日後、はい…四日後!」
翌日カスパルは再び仕事部屋で、今度は引っ掻き回された書類をセスと共に整理し直すという、やり甲斐のない不毛な作業をしていた。
ラッセルは昨日とは違う装飾の煌びやかなローブを着て煙管を自分の口髭にあてるように弄ぶ。
「ラザフォード、結果としては証拠は出なかった。
上手く隠す才能はあったようだな。」
ない物は、ない。出てくるはずもない。
ただ、偽造しなかっただけましだなと心の中だけで溜息をつき、結果報告を伝えるラッセルをカスパルは目線だけ一度寄越す。
とてもまともに会話をしようとは思えないからである。
決して良好とは口が滑っても言えない二人に挟まれて、セスはなるべく言動も行動も最低限の振る舞いでいようと心に誓って徹していた。
「今後の君の任務についてだがね。」
ひくりと眉を上げて、訝しげにカスパルは顔を上げた。
自分の現在持っている仕事は定例会議の際の護衛編成だけで、司令塔での通常業務以外特別な何かは仰せつかっていない。
しかし今は宮廷内も国内もざわざわと慌ただしい雰囲気が充満しており、急用だろうかと察した。
「まず、定例会議の護衛編成だね。
もう終わってるかな?」
「いえ、7割というところです。
国王陛下のご予定がまだ固まっていないそうなのでそれ次第になるかと。」
ラッセルは今の質問がさして重要でなかったのか興味の無い声で「そうか。」とだけ返す。
「その他にはテューリンゲン家の侍女だが、国王陛下の御子を身籠っている折、護衛軍預かりから国王陛下の私軍預かりに変え、寝室も後宮に移動させることに決まった。その準備だけ護衛軍が手伝うこと。そして…」
そうさらりと告げられた言葉に、カスパルは咄嗟に手を突き出して待ったと制した。
「彼女はまだ目覚めてないのですよ。眠っている間に周りが勝手に決めるのは如何なものかと思いますが。
そもそも今は絶対安静では…。」
即座に反対の意を唱えると、それにラッセルは機嫌を損ねるなにかがあったか、もしくは全て気に入らなかったのか歪んだ顔を更に歪める。
「あの娘はもう国王陛下の物であるぞ。全ての決定権は国王陛下にあるのは当たり前だろう。」
カスパルはその非道な言い草に額に青筋を浮かばせる。
彼女は物ではない!
そう怒鳴ってやろうかと口を開くところまで開いて、悔しそうに唇を噛んだ。
無理矢理だろうに、強制的に孕まされていたのかもしれないのに、まだ幼い少女にとってそれはあまりにも理不尽だと憤怒で視界が真っ赤になりそうだった。
「そもそも…どうしてラザフォードがそのように息巻くのかね。」
少し意外そうに目を開いてカスパルを見るが、途中であぁ、勝手に何かを推理したのか言葉を続けた。
「おやおや君….いかんよ?
テューリンゲンはもう陛下の物だ。
惚れてもどうにもならない。」
カスパルは頭を抱えながら項垂れる。
どうしてそうなるのだと反論を考えるも、言い返せば言い返すだけ信憑性を無くし、自分だけが虚しくなることもわかっていた。
「……そうではありません。私はただ」
それだけを捻り出すのに一苦労だったが、またしてもラッセルの中でこの話題は一段落着いてしまったようで、再び「それと…」と口を開く。
カスパルは全く一段落着いていないどころか、陛下とその周りの選択の異様なまでの速さや、不気味な隠密行動が気になって仕方がない。
「それと、宮廷付きの神父ベイジルのことだがね。
改宗に伴ってあの者を解雇する次第になった。
護衛軍が荷造りを手伝い祖国に送り返すように。」
「ベイジル神父が、解雇ですか?」
またしても聞き捨てならない言葉に先程よりもさらに真剣な眼差しでラッセルに問いた。
やはり改宗することは決定事項になってしまったのか。
そもそも、それまで信じて国を上げて信仰してきた宗派をそう易々と覆す行為自体が、ルージッドの血が流れるカスパルにとっては到底理解し難い行動である。
「……。」
カスパルは頭の中でシムの朗らかな顔を思い出していた。
せっかく教会の庭が順調に進んでいそうなのに、神父とも分かり合えていそうなのに、これはシムにとっても大きな波となるだろう。
なるべく穏やかに草木に囲まれていて欲しいというカスパルの願いは、所詮上の決定にはとても無力なのだろうか。
「神父は改宗したくないと頑ななので苦肉の索だ。
頭の硬い老害だよ全く。」
自分も十分歳を召していることは棚に上げてベイジルをなじるラッセルをカスパルは些か強く睨み付ける。
セスも書類を箱やら棚やらに戻しながら、明確な殺気を放つカスパルを青ざめながら遠目から見ていた。
「…では、あの教会はどうなるのです。
無宗教の教会にでもなさるなんて言いますまい。」
今度こそ国民が黙っていないですよ、と付け加えてカスパルは反論を口にする。
「それは君が知る範囲ではないではないか。
君は神父か何かか?」
途中から喉の奥で笑いながらカスパルに明らかな冷やかしの言葉を述べる。
カスパルの殺気がさらに増す瞬間、セスは咄嗟に持っていた書類を乱雑にテーブルに置いた。
その音にカスパルも強く睨みつけていた目を一度無表情に変え、セスの方へと目を向ける。
「神父様の!!神父様の……荷造りは、おれ、私が致します…!」
なるべくこの場だけでも穏便に努めようとするセスの必死さがカスパルにもひしひしと伝わり、気を使わせている事実にうんざりしながら一度息を吐いた。
「良い部下を持っているな。
これくらい献身的に国の為に働いてもらわねばな。」
褒めるラッセルに、セスは嬉しくなさそうに青ざめていた。
確かに解雇された元従業員の荷造り手伝い等護衛軍の一番下っ端で十分だし、恐らくラッセルも下っ端にさせるつもりで頼んでいるのだろう。
しかしこれまでベイジルは神の名の下、教会を介して宮廷を守ってきた人物に他ならないのだ。
「いや、私が手伝うよ。
ありがとうセス。」
セスは一度隊長直々に手伝われるのかと驚くも、ありがとうと言われ反論をする訳にはいかないので、力無さげに「は、はい…!」とだけ口にした。
「以上がラザフォードの任務だ。
君、今は何時かね?」
セスにいきなり向き直り、セスは飛び上がりながらも胸元から、錆びた安い懐中時計を慌てて取り出した。
「はっ!只今、14時20分でごさいます!」
ラッセルは最初から一度も書類には触れていなかったが、身なりを整えるようなふりをし出して、大袈裟にいけないいけない、と慌てて見せた。
カスパルは書類を再び持って整理をしながら演技じみたラッセルに視線だけ向ける。
「これから他国民の審問が入っているのでね。
こんなところで暇をつぶしているどころではなかったよ。
ああ忙しい忙しい。」
まだ他所であの不毛な尋問をやっていたのか、馬鹿馬鹿しいとカスパルは肩を竦める。
ラッセルは扉に向かって歩いていた足を一度立ち止まらせて再びカスパルを見た。
「君の審問だが、また行うことになった。
今度は君の学生時代のことを詳しく聞く場になると思いたまえ。」
再びカスパルへの審問が開かれる。
もう再三審問は受けてきたが。
そしてとうとうルージッドにいた軍事学校時代の事まで根掘り葉掘り聞かれることに、カスパルはもう呆れの感情しか湧いて来ず、承知しました、と感情のない声で答えた。
しかしセスはカスパルへの今一度の審問に驚く。
更にすんなりと了承するカスパルを信じられないというような目で見つめた。
「それではその時にまた会うとしよう。
引き続きあまり目立つことをしないよう。」
それだけを言い残して、今度こそラッセルはカスパルの仕事部屋から退出する。
ラッセル家という名はレグランドの古参貴族の名の一つであり、レグランドの貴族派の頂点とも言ってもいい。
彼の権力も絶大、そして愚行も陛下が正義と言うならば正義なのだと言う国王心酔の持主である。
そんなラッセルが、他国から来たにも関わらず伯爵という爵位を授けられ、ずかずかと宮廷に支えるカスパルという位置は気に食わない塊なのだろう。
必要以上の邪険な態度に、カスパルは一度溜息を吐いて特に言葉を発さず書類の分類を続けた。
しかしセスは先程快く了承したカスパルになんとも言えない気持ちになり、セスは再び自身の持っていた書類を置く。
「た、…隊長はそれでいいんですか…!」
急に声を掛けられたカスパルは驚きながらセスを見下ろす。
上から見るセスはまだまだあどけなさの残る、15らしい少年の顔だった。
セスはこんなことを、上司に物申すことは無礼に値すると痛く分かっている上で、どうしても黙ってはいられなかった。
「あの方は!隊長を、大変侮辱していると思います…!!
それなのにまた審問だなんて、受ける義務なんて無いのに…!」
セスはもちろんのこと、護衛軍の軍人達はみなカスパルを信頼している。
そんなセス達の信頼する上司が、その上にいる上司への不当な扱いで理不尽に踊らされるのは、不愉快以外の何物でもない。
「お前…」
カスパルは目を見開きそんな事を心で思っていたのかと驚きながらも、カスパルを前にして緊張してしまうこの少年は今きっと勇気を振り絞ってカスパルに物申しているのだろうということも感じた。
カスパルは何でもないように微笑んでみせ、セスを安心させるように、今まで怖かった顔を丸くしようと心がける。
「いつまでも付き合ってやるつもりだから、いいんだ。
どうせスパイなんてくだらない事はしてないんだから、叩かれても出ないものは出ないしな。」
それはそうですが、とセスは息巻くもセスが何か言ったところで現状が変わりやしない事も十分承知している。
そこがとても歯痒いが、セス達のこのやり切れない気持ちをカスパルに伝えたかった。
「戦争が起きたら、隊長は祖国と戦わなければならなくなる…。
その前に亡命するべきです、そうじゃないと俺達は耐えられません。」
真剣な眼差しでなにやら不穏な事を口にし出したセスに、カスパルは少し危険の色を感じ取るように慌てて片手を振って戯けてみせた。
「そんな事は口にするもんじゃない。
それに軍人になった時から覚悟の上だ。
だから大丈夫だ、な?」
第一自分一人だけが逃げて護衛軍を見捨てることなんか出来ない。
そっちの方がカスパルにとっては耐えられないのだから。
大丈夫だと言われてもセスの真剣な眼差しはちっとも緩まず、空気も張り詰めたままだ。
しかしセスはそれ以上何かを言うことはなく、静かにその目を湛えたまま書類に手を伸ばし始めた。
「…。」
カスパルはそんなセスを気遣うように覗き見て、自身も書類の整理を再開させた。
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