テューリンゲンの庭師

牧ヤスキ

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無力の力

4-16

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「おえぇっ……げほっげほっ」

男はなんとか水場付近まで辿り着くことが出来たが、やはり吐き気には勝てず水場付近の茂みで嘔吐してしまった。

その辛そうな表情に、シムは人に見られない様に盾になって立ちながら背中を摩り続けた。

シムは背中を摩りながら、この男が護衛軍である事の核心を得ていた。
近くで見れば見る程、鑑賞や刺繍の量はあれどカスパルの着る軍服の装飾と同じだった。
この男は間違いなくカスパルの近くにある人物であった。

彼ならカスパルの安否を知っているのだろうか。
シムよりもずっと長い時間をカスパルと過ごしているのだろう。
蚊帳の外のシムはこうして男の着る軍服を見ながら想像するしか術はない。


男は震えと吐き気で、先程まで川にでも入っていたのかと思う程に冷たい。
熱はなさそうだ、精神的なものなのだろうか、それともここ連日続いている暴動による過労だろうか、背中を摩りながらシムは付き添い続けた。


男の痙攣していた胃腸も大分治り、背中から感じる温かい手のおかげで落ち着いてきたのか、息をまだ荒くしたままシムに少しだけ視線を投げた。


「はぁ、はぁ…。
すみません…こんな…」


その掠れた低い声は若く、もしかしたらレインと同じ程の年なのかもしれないとシムは思った。

「いいえ、全然。
楽に、なりましたか?」


シムの吃る言葉に男は小さく頷き姿勢を正す。
姿勢を正すとやはりシムより若干背は高く、そして若いながらに逞しい雰囲気のある顔立ちだった。
しかし嘔吐したばかりの顔色はやはり蒼白で、シムは心配そうに覗き込み、居ても立っても居られない気持ちになる。


「水を、汲んで来るので、そこで、待っていてください。」

シムは急いで水場に行き先程と同じ様に水を汲み始める。

その姿を眺めながら、男はその場に座り込み自身の身体を強く抱き締めて何かに耐える様に震えていた。


水を桶に入れて来たシムは男の前に水を置く。
男は一言礼を言って水を手で掬い上げ口元を洗った。


黙って洗う男を見て幾分回復して来ている事を確認し、シムは再度水を汲みに行き茂みに嘔吐した吐瀉物に水を掛け処理を始めた。


男も口を洗い終わると再び立ち上がりシムの横にやって来る。

「すみません、助かりました…」

申し訳なさそうな頭を下げる男にシムは慌てて水桶を下に置き頭を上げさせた。

「い、いえ、そんな。
少しでも、楽になって、良かったです。
…護衛軍の、方ですよね。
あまり、無理しないで、くださいね。」


男は護衛軍の軍服を着ておきながら、護衛軍という言葉に酷く過敏に反応し、怯えきった表情を見せた。

しかしその顔は直ぐに下を向けられる。
シムはその怯えた一瞬の表情が強く心に残った。

「おいセス!
何処にいるのかと思えば……」


突然二人の背後から声が掛かり、シムは身構える。

後ろを向くと同じ護衛軍の軍服を着た濃い顔立ちの男が不審げにシムを見ていた。


「セス、そいつは?
ここで何してたんだ?」

セス、と呼ばれた男はシムを一度見て庇う様に前に立ち、目の前の男に「先輩…」と声を掛ける。

「ちょっと気分が悪くなって…吐いちゃって。
この人が介抱してくれたんです。」


男はセスを見つめ口を閉ざした。

何かを考えている様に複雑な表情をしたが、息を一つ吐いた後セスに向かって男の側に来る様に手招きをする。


「…早く行くぞ。」


セスにそれだけ言った後、元来た道を戻ろうと踵を返した。
庭師含め、貴族付きの従者以外は軍人の方が上位の為、勿論シムには礼は言わずセスを回収すると直ぐに歩き始めた。

(…まだ顔が青白いのに仕事、大変だな…)

シムは去ろうとするセスを不憫に思いながらも、目上のため頭を下げる。


シムが頭を上げると、先輩の男を追うセスがシムに向かって振り向き、一度頭を軽く下げたのだった。
















「セス、最近どうしちまったんだよ…。
モールが死んだのも悲しいけどよ、お前がそんなに思い詰めなくてもいいんじゃないのか?」

セスを回収した護衛軍の先輩であるダーキンは、若干動揺した様にセスに振り返り言葉を掛けた。

その言葉を無表情でセスは受け止める。
しかしセスの耳には入って来ていない様な表情だ。

反応を示さないセスに痺れを切らしたのか、ダーキンは頭を掻きながらも言葉を続ける。

「元気もねぇし。
ずっと青白いし。
今は護衛軍も頑張る時なんだから、そんなんじゃ困るぞ…。
隊長も目覚めたらしいし、もうその態度やめとけよ?セス」


隊長…

その言葉を聞いた瞬間、セスは目を見開き身体の真から凍りつく。



セスはモールから帽子を受け取ったその日からろくに眠れていない。
昼はバレるのでは無いか、カスパルが起きるのでは無いかと緊張し、夜は宮廷を抜け出し国に牙を向けるべく自分とは思えない様な事を誰かも知らない者達と議論をする毎日を過ごしていた。

セスはモールの意思を継ぎカスパルを守ると誓った自分と、護衛軍とカスパルに顔向できないような反逆を行う自分で、早くも心が悲鳴を上げ、遂に今日吐き気と震えが止まらなくなるまでに至ってしまった。

セスには今味方がいない。
唯一、全てを知るイリスだったモールもセスを見送った後、息を引き取った。

モールは死に際、自身の血で床に"イリスが犯人だ"と乱れた文字で書いて亡くなっていた。

モールに押し付けられた、イリスというセスの今のもう一つの名前は、奇しくもモールのせいで反政府の先導者に加えて、モールを殺した犯人にも仕立て上げられる形となってしまった。

セスはもう逃げる道もない。
この反乱を完遂させるか、カスパルや護衛軍を道連れに処刑されるか、秘密を一人抱えたまま自害するかしか道は残されていなかった。



セスは自分の脇腹を手で触れる。

先程介抱してくれた男の体温はとても暖かく、背中を摩り続けてくれたあの時久しぶりにちゃんと息が吸えた気がした。

平凡な顔立ちに際立つところはない。
鍛えられてもいない様な細い身体つきの男の表情はまるで月の様に優しく自分を心配してくれている様子だった。

その心配そうな目をセスに向けてくれた事だけで、セスは疲弊を重ねていた心が久しぶりに温まる。

あの人はどの様な仕事に就いているのだろうか。
名前を聞けば良かった。


カスパルが大切だった筈のセスは、今はカスパルよりも先程の背中に触れる手の暖かさばかりを思い出した。
むしろ目覚めてしまったカスパルと会うのは今は恐ろしくて堪らなかった。


「もういい加減気持ち切り替えろよ。
とりあえず俺達も見回り組に合流するぞ。」


押し黙るセスに、やり辛そうに前を歩くダーキンはそれだけ言って前を向いた。
セスも青白い顔のまま、静かにダーキンに着いて行く。


「はい。」










 
 
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