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愛について
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しおりを挟む「早くそこの床を拭きな!
その後はベッドのシーツを変えて…
本当にノロマな男だなぁ…」
バシバシと音を立ててホコリ取りで頭を叩かれ、シムは大慌てで雑巾を絞った。
「はい!」
この光景はかれこれ数日前から繰り広げられていた。
シムは、セスが行方を眩ました日から、同じくして宮廷から姿を消していた。
訳あって、北通りの名物である娼婦街のとある娼館でタダ働きを強いられていたのだった。
一番シムをこき使っている館の主人は、今日もせっせと至る所の窓や床を磨かせていた。
「シムちゃん~、私のドレスの洗濯もよろしく~。」
「あ、私の部屋のシーツも替えておいてね~。」
すれ違いざまに娼館で働く肌けた服を着た娼婦達がシムの肩に触れながら次々にシムに仕事を押し付けるせいで、シムの一日の仕事はどんどん達成から遠ざかって行く。
その様子を、娼館の主人は溜息を吐きながら見守っていた。
主人と言っても30になったばかりの青年に過ぎない。
垂れ目の程よい色気を漂わせた長身の美しい男だった。
シムがここに来た日は街がとても静かな日だった。
夕方ごろ、シムは血濡れた瀕死の男を支えて裏口の扉をドンドンと叩きまわっていた。
しかし娼館はどこも面倒事は避けたいのか、そのノックに応じるものはいなかったが、その音に起こされたこの娼館の主人だけが戸を開けたのだった。
主人は寝ぼけながら裏口を開き驚愕した。
”すみません、この人を、寝かせるベッドを、貸してもらえないでしょうか…!”
ぼやっとした平凡な見た目に削ぐわない必死な眼差しに主人は勿論驚いた。
そしてこの状況が一体なんなのか皆目見当がつかなかった。
しかし見るからに血濡れた男の方は衰弱しきった姿。
このままこの店の前で死なれる訳にも行かず、咄嗟に中に入れてしまったのだった。
さあこちらへ、と通したがこちらもベッドは大切な商売道具の一つなので一つ使用不可にになるのは損害が出てしまう。
それをどうするつもりなのかと、男を連れて来たシムに問いただしたところ、シムは真っ直ぐな表情でこう答えたのだった。
”俺が、この人のベッド代分、働きます”
「そこ埃取れてない、やり直し。」
シムの頭に雑巾を投げつけては指示する主人。
しかし嫌な顔一つせず、真面目に仕事に励むシムになんだか胸がもやもやとした。
「ご主人、あの…あの人は…今。」
シムは遠慮がちに訪ねて来る。
主人は大体同じ質問を既に言われているので何て事ないという顔で返事をした。
「あぁ、容体は安定してるよ。
まだ目は覚めてないけどね。」
「そうですか…」
夜、北の街は大きく雰囲気を変貌させる。
閑散としていた通りは人で溢れかえるのだった。
客引きをする煌びやかで少し危険な香りのする女、そして女をじろりと見定めては買って行く男達。
シムは外の玄関を箒で掃きながら街の変貌にいつまでも慣れることはなく、戸惑いながら見渡した。
瀕死の男を運河から運んだ時は、驚くほどこの街は人がいなかったが日中に限っての話だったようだ。
男と女は実に不思議だ。
自然に、ごく自然に惹き合う様に出来ている。
男が持っていないものを女が持ち、女が持っていないものを男が持っている、シムはその夜の繁華街を眺めぼんやりとそう考える。
カスパルもこうやって誰かに欲情し、その眼差しを誰かに向ける事があっただろうか。
欲情というのは、一体どの様な気持ちなのだろう。
シムはもう分かる気がした。
カスパルに会う度に勝手に弾け飛んでしまいそうな手のつけられない熱、これがそうなのではないかと。
シムはカスパルの接吻を思い出しそっと指で唇に触れた。
カスパルにまた会えたら、今度は自分が正直に話す番だと決めていた。
あなたを慕っていると。
箒を握り直した時、後ろから誰かに尻を掴まれる感触でシムは飛び上がった。
「ぅわ!?」
シムは驚き振り向くと、コートを羽織った男がシムの顔の直ぐ近くでシムの唇を見つめていた。
「やあ坊や。
君は今夜いくら?」
「いくらとは…、?」
箒を持ちながら呆然と聞き返す。
男はシムよりも背が高く40代は超えてそうな風貌、その余裕な笑みでやれやれとシムの肩を抱いた。
「気持ち良くしてあげようね、…それから値段を決めるといい。さぁ」
そう言って歩き出そうとした男の腕に強張りつつも、なんとか「離してください…!」と慌てて抵抗する。
その時後ろに気配を感じた。
「うちの雑用なので売物じゃないんですよ。
それにこの子ノロマなんで仕事止めないでくださいね。」
主人がシムの頭に手を置きながら男を追い払う。
男も売物ではないと分かるや否や、それなら仕方ないと肩を竦め人の雑踏の中に消えて行った。
シムは安堵し息を吐いて振り返ると、主人の男は怖い顔でシムにげんこつを落とした。
「いっ!」
「本当にノロマ!
早くこっちに来い!」
頭を抑えるシムの腕を取り無理やり娼館の1階にある書斎にシムを捻じ込んだ。
「お前は本当にノロマだね!
今まで良く無事に生きて来れたものだ。」
呆れた様にそう言い放ち、面倒臭そうにソファに腰をかけた。
「ご主人、すみません。
有難う、ございます…」
頭を掻きながら守って貰った礼を告げるシムに、主人は煙たそうに話を続けた。
「お前はもう20かそこらだろう?
性行為くらいした事あるだろうに、さっきの態度は一体なんだ?子供みたいな……ってお前」
主人の男は立ち上がりシムに詰め寄った。
「お前もしかして…した事ないのか?」
シムにとっては脈略のない質問に驚愕しつつも、恐る恐る口を開いた。
「はい。
あ…ありません…」
まだこの汚れきった街に初めても終えていない青年がいたなんて、と主人は軽くショックを覚えシムを見降ろした。
一体この街でどうしたらそんなに何も通らずに生きて来られると言うのだろう、そう言えば主人はシムの来歴も伺えていない事に気づく。
「シム、お前ここに来る前は何してたって言ったっけ?」
「庭師を、しています。」
「どこで?
どこで庭師してるんだよ。」
その言葉にシムは口を噤んだ。
以前レインに宮廷で働いている事を他言したら街の人に殺されるぞと忠告されていたからだった。
「すみません…、言えません。」
しかし主人はその言葉に苛立ったのかさらにシムに詰め寄った。
「俺に何か隠したって無駄。
俺はあの瀕死の男を匿ってあげてる恩があることを忘れるなよ?
それにお前の事を外部に漏らしたりする暇なんてないんだ。
で?どこで庭師をしているんだ?」
シムは考えた。
口こそ乱暴で、今までの人生であまり出会った事のない種類の人間ではあるが、シムはこの男を悪い人だとは思っていなかった。
誰かも分からないシムと瀕死の男を匿ってくれた、それだけで信用に長ける人なのだと。
シムは口を開いた。
「宮廷で…庭師をしています。
知り合いが、帽子を被って、走っていなくなったので、…探しに街に、出たんです。
そしたらあの人が、川から流れて来るのを、見かけて、助けを求めました。」
帽子…
主人はシムの言葉を静かに聞いた。
確かに宮廷で勤めているならばそれは秘密にしている方が懸命だろう。
しかし気になったのはその帽子の知り合いだった。
「ねえ、その帽子って…」
主人は帽子の特徴を問うた。
こんな生地でこんな色、深く被っていなかったか?と。
するとシムは不思議そうな目をし、何度か頷いて見せた。
そうです、その通りですと。
主人はみるみる険しい表情になった。
娼館なんて商売をしていれば嫌でも街中の噂話は耳に入って来る。
「その帽子の人って、その人ってさ…」
イリスって奴なんじゃないの…
そう言葉にしようとした時、突然書斎の扉からノックの音が鳴り、その扉の向こう側から男の声が発せられた。
「こんばんはー、花の配達でーす。」
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