テューリンゲンの庭師

牧ヤスキ

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愛について

5-14

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不意にユーゴの寝室の扉が開かれ、シムは慌てて扉から遠のいた。
すると手ぶらになった卸屋の男がシムに気がつき顔を近づけた。

「俺達の話、聞いてたのか?」


シムは聞いてたと言わない方がいい気がした為、ブンブンと首を振って見せた。
卸屋の男もそれに安心したのか、乱雑にシムの頭を撫でた。

「じゃあよかった。」

そう言って通り過ぎようと歩き始めた男は何かを思い出した様にもう一度立ち止まりシムを見下ろした。

「あ!ここ数日怪しい黒い男が街中歩き回ってるって聞くからお前も気をつけろよ?
…噂によると……。」


脅かす様に低い声でシムに詰め寄り、シムも不審な黒い男を想像してしまい顔を青ざめる。

「う、噂によると…?」


「物凄い残忍な手口で…若い奴を嬲り殺して回ってるって噂だぜ…。」

恐ろしげな口調にシムは固唾を飲み込んだ。
そんな猟奇的殺人犯が街を本当に彷徨いていたら怖いなんてものではない。

あまり血を見る機会もないシムは、血に濡れたカスパルの傷を思い出してしまいゾッと肝を冷やした。

「嬲り殺して回る…黒い人……。」

すっかり怯えたシムの様子を大変楽しむ様に卸屋の男はニヤニヤと微笑みながら観察していると、後ろから主人ユーゴが卸屋の男の背中を蹴飛ばして退館を促した。


「はいはい、ご苦労さんどうもー。」

ユーゴに阻まれた男は、チッと舌打ちを打ちながら娼館を出て行った。


「何を吹き込まれたか知らないけど変なのに出くわしたら逃げればいいだけの話だからね。
はい、今日のお使い。
また男に絡まれてもいちいち相手にしないで、さっさと帰ってくるんだよ!」

ユーゴは青白くなったシムの肩に手を置き、走り書きのメモを握らせた。

そこにはユーゴの強い癖字で石鹸、パン、油、牛乳、と書かれており、シムは全然仕事をしていなかった事に気付き慌ててメモを握りしめて駆け出した。


「はい!今行って来ます!」











北の街は相変わらず怪しげな活気に包まれ、艶やかな女達が今宵の客と腕を組みながら連れ歩く者達と、シムは何度もすれ違った。
それでも娼館が立ち並ぶ通りの裏路地を細く細く歩いて行くと、その地域の者達御用達の小さな露店街も点在している。

この地区ならではの怪しい薬に、殆ど肌の隠れない様なはしたない下着、終いには男根を模した木彫りまでも販売されていた。

シムは卸市場や小風と歩いた大通りの露店以外は通った事がない為、妙に艶かしい品揃えは何となく気まずく、あまり視界に入れない様に歩いていた。

しかしシムは見た目も身に纏っている洋服も平々凡々の枠から出ない男だからか、このような街をほっつき歩いていても物好きな男から声はかけられこそすれ買われたい女達からは一度も声をかけられた事はなかった。

向こうも長年の勘か何かで、金の匂いがしない事を嗅ぎ取られているのか、逆にシムにとっては安心出来た。


「はいよ、釣り。」

よくお使いに行く露店は日用品なら大概積まれている小さな店で、いつもの様に商品に埋もれかかった机からおつりを握った手が出て来た。
シムは大きな瓶に入った石鹸などを両手に持ち、なんとかお釣りを受け取る。

「…ありがとうございます。」


お礼を告げて来た道を戻るために再び暗い裏路地を歩き続けた。

暗い裏路地は大体にして情事一歩手前の男女がよく佇んでいる。
その通りをシムはいつもおつかいのため、大きい荷物を抱き抱えて通っていた。

あまり見ない様に…見ない様に…


シムはそう心がけ下を向きながら歩き続けていたため、すぐそばに人がいた事に気づかずに進み続けてしまった。

突然シムの頭に思い切り何かが打つかる衝撃で後ろによろけた。

「わぁっ!?」


驚きながらも石鹸の詰まった瓶を割ってはいけないとシムは腕で抱きしめながら足を縺れさせた。
しかし一向に地に腰を打ち付ける衝撃はやって来ず、代わりに背中に暖かい感触がした。


シムは慌てて目の前を見ると漆黒のマントを深々と被った男が自分の背中を片手で支えていた。

「…あ、黒い…人……」

シムは目を見開いて、目前の闇の様な色のマントを被った男を凝視した。

これは卸屋の男が言っていた、嬲り殺して回る黒い人ではないのだろうか。


先程しっかり想像して恐怖してしまったその想像上の男と目の前の男はまさに合致し、シムは冷や汗をたらりと流した。


「…、すみませ……」

何とか謝罪を絞り出すも恐怖は拭えず、静かな怯えがシムを包んだ。

「……。」
黒い男は支えてた背中をパッと話し、不審な程に何も言わず逆の方へと歩き始めてしまった。



シムは男が離れた事ではぁ…と大きく息を吐いた。
「まさかな。
まさか殺人鬼じゃないよな……」

冷や汗を肩で拭い自分に言い聞かせる様に呟く。
早く帰らないと怒られてしまうシムは気を取り直して娼館に帰ろうとした時、再び目の前に人がいる事に気がついた。


今度は不用意に打つかる失態を回避すべくその目の前の人を避けようとしたが、それはその人によって阻まれてしまった。

視線を上げるとしっかりとシムを見ている、無精髭を生やしただらし無い格好の男が立っていた。


「なぁ、ちょっと金貸してくれよぉ…。
さっき女に全部使って困ってんだよ。
その手に持ってるもんでもいいや、売るから。
な…?」

酒も大量に飲んでいるのか、強い酒の匂いさえした。
シムはその強い臭いに顔を歪めながらも首を大きく振った。


「…すみません。
俺のじゃないので、あげることが出来ません。」

ごめんなさい…と再び謝罪を口にしながら今度こそ目の前の男を避けようとした瞬間、シムの腰に衝撃が走った。

目の前の男はだらしなく地べたに跪きシムの腰に抱きついて来たのだ。


「お願いだよぉ!!
お前に慈悲の心ってのはないのかよぉ!」


大声で叫びながら涙さえ流す男は最早ただの酔っ払いで、シムも酒に飲まれている人間を遇らった経験はないのでここまで理性が飛んでいる姿に薄ら怖ささえ感じた。

「だ、だからこれは俺のじゃなくて…!」

必死に理解して貰おうと言葉を重ねるも、意思疎通が図れる訳もなく、シムはぎゅうぎゅうと強く腰に腕を巻かれ、ほとほと困り果てた。


しかし突然、シムにしがみ付いていた酔っ払いはシムの視界から消えた。


「慈悲を恵んでくれよォ…!」

後ろから声がしたかと思えば、酔っ払いの男は先程去って行った筈の漆黒のマントの男にずるずると引き剥がされていた。

もしかしてこの男を今夜殺す事にしたのだろうか。

シムは青ざめて、慌てて声を荒げた。

「あの!こ、こ殺さないで…!」


見当違いなシムの言葉に、黒いマントの男は一瞬に振り向きかけた。
しかし、再び酔っ払いを引き摺って逆の方角へ歩き始めた。






シムは黒いマントの男と酔っ払いが見えなくなるまでぼんやりと見つめた後も青ざめた顔は青ざめたままだった。
殺さないでくださいなんて、ただのここら辺に住んでる人だったら何て失礼な言い草だろう。

思えば自分が転ばない様支えてくれ、終いには自分から酔っ払いを引き剥がしてくれた恩人だ。
その男にかける言葉にしてはあまりに無礼だったと、大いに後悔した。



「……あぁ、謝りたい。」





シムは結局青ざめたまま娼館に戻った。
その顔色に主人ユーゴは首を傾げた。

「どうしてそんな懺悔中みたいな顔してるんだよ?」
「いや…なんでもないです。」

シムはあまりに自分の非礼を恥じ、主人ユーゴにさえも語る事を躊躇したまま仕事に戻った。


翌日以降、街で黒いマントの殺人鬼が街を歩き回っているらしいと言う怪談話の様な噂は、とんと聞かなくなったと言う。










 
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