鬼の花嫁は役行者に隷属契約されました~

藤森瑠璃香

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第三十三話:雪待つ山茶花(さざんか)、小さな手のぬくもり

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 月下に繰り広げられた野犬の妖(あやかし)の群れとの死闘は、夜明けを待たずして決着がついた。役小角(えんのおづぬ)様の的確な呪術と、義王(ぎおう)の鬼神の如き圧倒的な力が完璧に連携し、洞穴に潜んでいた妖犬たちは、リーダー格の角持つ巨大な個体も含め、一匹残らず討ち滅ぼされたのだ。その様は、まさに一方的な蹂躏(じゅうりん)と言ってよかった。

 夜明けと共に、役小角様と義王は、討伐した妖犬の亡骸(なきがら)――特にそのおぞましい姿が際立つリーダー格のもの――を村へと運び込み、集まってきた猟師たちや村長の前に無言で突き出した。陽の光に晒された妖犬の亡骸は、昨夜の凶暴さが嘘のように、ただの大きな獣の死体でしかなかったが、その異様な風貌と、洞穴から共に持ち帰った食料の残骸は、何よりも雄弁に事の真相を物語っていた。
「霧隠(きりがくれ)の里の食料を荒らしていたのは、この野犬の妖どもだ。狐たちの仕業ではない」
 役小角様が、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで断言する。
 猟師たちは最初、半信半疑といった顔で妖犬の亡骸を遠巻きに眺めていたが、盗まれた食料が隠されていたという洞穴の場所や、そこに残されていた夥(おびただ)しい獣の骨といった具体的な証拠を役小角様が淡々と示すと、次第に言葉を失っていく。彼らの顔には、驚きと、そして僅かな困惑の色が浮かんでいた。
 しかし、長年信じ込んできた「妖狐への憎しみ」は、そう簡単には消えないらしい。彼らは役小角様の力と、その背後に控える義王のただならぬ威圧感に押されて表面上は納得したものの、小夜や狐たちに対して心から謝罪するような言葉は、誰の口からも聞かれなかった。
「…そうか、狐じゃなかったのか…まあ、どっちにしろ化け物は化け物だ…山には余計なモンが多すぎるだ…」
 そんな心ない呟きが、誰とはなしに漏れ聞こえてくる。朱音は、村人たちのその変わらぬ態度に胸の奥がちくりと痛んだが、それでも、狐たちの疑いが(少なくとも表向きには)晴れたことに、心の底から安堵していた。

 朱音は、その足で真っ直ぐに小夜の元へと駆けつけた。森の入り口で不安そうに待っていた小夜は、朱音の姿を見つけると、その大きな黒い瞳を期待と不安で揺らしながら駆け寄ってくる。
「朱音姉ちゃん…! キツネたちは…?」
「大丈夫ですよ、小夜ちゃん」朱音は優しく微笑みかけ、彼女の小さな手を握った。「村を荒らしていたのは、悪い野犬の妖たちでした。役小角様と義王様が、みんな退治してくださいましたから、もう狐さんたちが疑われることはありません」
 その言葉を聞いた瞬間、小夜の瞳から、堪えていた涙がぽろぽろと溢れ出した。
「ほんまに…? ほんまに、よかった……キツネたちは…悪うないって…分かってもらえたんじゃな……ありがとう…ありがとう、朱音姉ちゃん…!」
 小夜は、しゃくりあげながら朱音に抱きつき、その小さな肩は喜びと安堵で震えていた。朱音もまた、小夜を優しく抱きしめ、「良かった…本当に良かったです、小夜ちゃん」と、心から彼女の喜びを分かち合う。二人の間には、言葉では言い表せない、確かな友情と姉妹のような温かい絆が生まれていた。

 それから数日、一行は霧隠の里に滞在することになった。役小角様は、討伐した妖犬の残党がいないか山を改めて調査し、また、村の周囲に簡単な結界を張って、当面の安全を確保してくれた。その間、朱音は小夜と多くの時間を過ごした。
 一緒に森を散策し、小夜が知っている秘密の小道を教えてもらったり、木の実や食べられる草の名前を教わったりした。小夜は、朱音の赤い瞳や、時折無意識に触れてしまう額の角の気配にも、全く臆することなく、むしろ親近感を覚えてくれているようだった。彼女は朱音にすっかり懐き、以前の怯えたような表情はどこへやら、子供らしい明るい笑顔をたくさん見せてくれるようになった。時には、朱音の髪を拙い手つきで結おうとしたり、森で摘んだ小さな野の花を「朱音姉ちゃんに、あげるんじゃ」と照れくさそうに差し出してくれたりもした。その一つ一つが、朱音の心を温かく満たしていく。
 義王もまた、時折、小夜が一人で薪を拾っていると、どこからともなく現れては、あっという間に山のような薪を割り、無言で小屋の前に積み上げて去っていくのだった。小夜は、最初こそその強面と巨体に怯えていたが、彼の不器用な優しさに気づき、今では遠くからでも義王の姿を見つけると、小さく手を振るようになっていた。

 旅立ちの日が近づいた、あるよく晴れた日の午後。
「朱音姉ちゃん、朱音姉ちゃん!」小夜が、いつになく興奮した様子で朱音の手を引いた。「とっておきの場所へ、案内しちゃる!きっと、姉ちゃんも気に入ると思うんじゃ!」
 朱音はにっこりと頷き、小夜に手を引かれるまま、山の少し奥まった場所へと向かった。義王も、心配してか、あるいは役小角様に言われたのか、少し離れた場所からこっそりと二人の後をついてきている。

 小夜が朱音を案内したのは、陽だまりになった小さな谷間だった。周囲の木々はすっかり葉を落とし、冬枯れの寂しい景色が広がっている中で、その一角だけが、まるで時を忘れたかのように、鮮やかな色彩に満ちていたのだ。
 そこには、初冬の厳しい寒さにも負けず、数本の山茶花(さざんか)の木々が、まるで燃えるような真紅の花を、枝いっぱいに咲き誇らせていた。雪を待つ静かな山間にあって、その紅一点の鮮やかさは息をのむほど美しく、見る者の心を奪う。清冽な山の空気の中に、山茶花の清らかでほのかな甘い香りが漂っていた。

「わぁ……!」

 朱音は、その予期せぬ美しい光景に、思わず感嘆の声を上げた。
 寒風に誇らしげに揺れる真紅の花びら。澄み切った青空との鮮やかな対比。そして、隣で「どうじゃ!きれいやろ?」と、自分のことのように胸を張って微笑む、小夜の屈託のない笑顔。
 朱音の心は、純粋な感動と、そして言葉では言い表せないほどの温かい幸福感で、いっぱいに満たされた。彼女の赤い瞳が、山茶花の鮮やかな赤と共鳴するように、きらきらと嬉しそうに輝いていた。この美しい光景と、小夜の笑顔は、きっとこれからの厳しい旅路の中で、朱音の心を照らす温かい灯火の一つになるだろう。
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