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第一章 宴のあと
08.意のままには
しおりを挟む午も過ぎて、出仕していたものたちも帰宅しはじめたころなので、門の前は、牛車で混み合っていると言うことはなかった。
宮中までは、関白邸の牛車で向かうが、御所内まで乗り付けることは出来ない。御所まで牛車を乗り付ける為には、特別な許しが必要であった。
したがって、建礼門の外にて牛車を降り、門番に理由を伝えて立ち入るしかなかった。廊下を歩くことが出来るのも、一定の身分以上となるため、庭のほうを歩いて行くことになる。
門番はすでに心得ていたらしく、見知った関白邸の牛車を見て、
「殿下の家のものか。話は聞いているから、殿下の直廬へ向かいなさい。宜陽殿の東の庇に有るはずだよ」
とすぐに通してくれた。礼を言って、御所内に入った真雪は、圧倒されて、足が竦んだ。
大きな壁に囲まれた中に建物があるのはわかったが、あまりにも大きすぎて視界に入りきらない。見上げねばならぬほどの高い塀を、乗り越えるのは難しいだろう。よく、この塀を乗り越えて入る賊がいるものだと、真雪は感心してしまう。
通路も、大路ほどの幅があって、そこには日も傾き始めたというのに、人々が数多、立ち働いている。関白邸も使用人が多いと思ったが、いま、通路に出ているものたちだけでも、関白邸の数倍は居るだろう。
文官もいれば、武官もいる。真雪たちのような使用人たちも、数多混じっているので、真雪一人が使いに訪れても、誰も気にするものはいないようだった。
ともかく、真雪は宜陽殿を目指す。
関白家のものたちから、宜陽殿の場所は聞いていた。建礼門を入ってからもう一つ内側にある門、承明門を抜けて、壁伝いに外を行く。そうすると、殿舎が現れる。その二つ目の殿舎が、宜陽殿ということだった。東庇の階の下から呼びかければ、直廬に仕えるものが気付くはずだということだ。
真雪は緊張しながら、二つ目の門もくぐり抜け、そして、壁伝いに向かう。角を曲がって、ほどなく殿舎が現れた。どのような殿舎であるのか、想像も付かなかった。二つ目の殿舎は、広々とした殿舎であった。檜皮葺の屋根を備えた殿舎で、真雪がいる東側には、庇だけでなく孫庇まで備えられている。
簀子(ろうか)を、女房達が歩いているが、皆、何かを手にしている。荷物を置くための場所が、この殿舎にあるようだった。
「そなた、ここへ何用じゃ?」
女房に姿を見られて、真雪は慌てた。
「わ、私は……、関白殿下の家の者で、届けものがありまして、参りました。殿下の直廬はいずこにありましょうか」
「見ない顔だと思ったら、殿下の所の方だったの」
女は納得したように独り言ちてから「殿下の直廬なら、この一間先の庇のところですよ。ちょっとお待ちになって」
女は、しゅるしゅると衣擦れの音を立てながら、来た道を引き返し、一間先の庇の所へ向かった。簀子で一度座ってから「殿下」と声を掛ける。御簾で隔てられた内側から、「何用です」と女房の声が聞こえる。聞いたこともない声だったので、直廬で仕える女房なのだろう。
「お邸から、お使いの方がいらしておりますが」
「あら、それはわざわざ教えて下さってありがとう」
「いえ、それではわたくしはこの辺で」
名も名乗らずに、そのままたち上がって去って行く。真雪は、小さく礼をしたが、特に気にした様子もなかった。
ほどなく御簾を掲げて、中から関白が姿を現した。
「殿下」
関白の顔を見るなり、真雪は不覚にも、ほっと安堵してしまった。ここへ来る間、まるで知らない場所にいきなり心構えもないままに来たものだから、心細かったのだろう。
「よう来た。その階から上がっておいで」
「けれど、私は……官位が……」
「構わぬよ」
関白が、良い、と言えば、おそらくそれは良いと言うことになるのだろう。それを薄々感じながら、真雪は靴を脱いで階を上がる。存外、角度がきつい階であった。関白邸よりも、廊下が高いのだろう。緊張しながら、廊下に足を付ける。畏れ多い気持ちで、背筋に震えが走った。
「どうした」
「……このような所に、上がって良いものかと……」
「ああ、良いのだ。存外、色々な身分のものがここへ上がるのだぞ」
関白は上機嫌に笑っているが、どこまで本当のことか、よく解らない。
「殿下……」
「まあ、早く中へお入り」
招かれて入った直廬は、存外広かった。そして、数多の書物が山と積まれ、床にまで溢れているし、文机の周りには書き損じた紙が苛立たしそうに丸めて、あちこちに散らばっていた。
宮中に賜った部屋、ということで、もっと優雅な場所かと思ったが、ここは主に執務をする為の場所であるのは、察せられた。
いつの間にか、仕えていた女房は、外へ出ていた。広い直廬に、二人きりになった。
「どうした?」
「いえ、存外、広々としているものだとおもいまして……」
「ああ、ここに人を招いて、話し合いなどをすることもあるのだ。とくに難しい事案の場合は、陣座へ出す前に、大分、話し合っておくものだ」
事前に、十全に周囲に根回しをすると言うことが必要なのだろう。
「ここで、諸卿が集まるのですね」
真雪には想像できないが、公卿が数多集うのだ。そして、政を進めるために、数多の話し合いを持つ……。
「そうだな。時間ばかり掛かるが、こうした根回しも必要なのでな。関白と言っても、何もかも、簡単に意のままになるわけではないのだよ」
「そうなのですね……、私は、てっきり、万機において、殿下の思い通りにことが動いていくのだとばかり……」
はは、と関白が笑う。
「篳篥を出してごらん」
真雪は関白邸から持ってきた篳篥を取りだして、関白に手渡す。関白は、篳篥をまじまじと見つめながら、小さく呟く。
「……私は、篳篥は得意ではなくてね。だが、今日は、私は琵琶を弾くことは出来なくてね。無様な姿をさらして皆から笑われるのだろうよ。
こうした、ささやかな管絃でさえ、意のままにはならぬ……」
常の、関白とは違った姿だ―――と、真雪は、思っていた。関白から、目をそらすことが出来なくなっていた。
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