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第一章 宴のあと
10.鏡
しおりを挟む管絃は、宜陽殿の西の庇にて行われるとのことだった。関白の賜っている直廬の反対側、ということになる。
日が傾いてすっかりあたりが暗くなったが、御所内は、松明を灯した衛士たちが庭を巡回しているのが見える。彼は寝ずの番で、警護に当たっているのだった。御所とはいえ、盗みに入る不埒なものたちもいるので、帝のお住まい近くのこのあたりは、特に、衛士の数も多いようだった。
途中で何人もの女房や舎人たちとすれ違う。
三位以上の公卿の子息は、二十一歳になると舎人として出仕することになる。他には、五位以上のものの子息達の中で、容姿と能力に優れたものたちが舎人として働く。雑用のような事をこなしている方々も、実家に戻れば公卿の家の子息や姫君ということになるので、主上のおわす近くのこのあたりでは、振る舞いも洗練されている。
そんな中、関白のお供とは言え、公卿たちと管絃に参加するというのが、信じられない。しかも、主上まで出御されるというのだから、緊張して、訳が分からなくなってくる。指先が、冷たくなっていくような感じがしていた。
「おや、緊張しているのかい」
楽しそうに関白が聞く。
「当たり前です……こんなところで、廊下を歩いているだけでも頭がおかしくなりそうですから」
「これからは、お前もここに来ることが多くなるだろうから、慣れなさい」
慣れろ、と言われても限度があるだろう、と真雪は思う。
摂関家の長子として産まれてきた関白であれば、こんな場所は、それこそ、童の頃から来ているだろうが、真雪は、こういう機会でもなければ、一生、来ることが叶わない場所だ。
「おや、不服そうだ」
「だって、殿下は……、幼い時分より、こういう所に出入りしていらしたでしょうけれど」
「まあ……そうだな。皇太后様がまだ、中宮であらせられたころに、童殿上していたから、大分、幼い頃からここに出入りしていたものだよ。鏡を持ち出して、当時の典侍にそれはもう酷く怒られて、丸三日、塗籠に閉じ込められたこともあったよ」
子供らしくて可愛らしいではないか、と思った真雪だったが、関白の言う『鏡』の正体に気付いてしまった。
「で、殿下……もしや、殿下が持ち出した鏡とは……内侍所の……」
声がうわずってしまうが、仕方がないだろう。
内侍所にある鏡といえば、『三種の神器』の一つ、『八咫鏡』であろう。それを、持ち出そうとする、わんぱくぶりには今真雪が聞いても血の気が引く。
「そうなのだ。私も、何も知らぬ年端もいかぬ子供だったが……さすがに、鬼の剣幕で怒られて、それで大いに反省した。安達ヶ原に出る鬼女のような形相で怒られたのだぞ」
「仕方がないと思います……」
「そうか?」
まるで無自覚な関白を見て、真雪は、これはさぞ、近辺の方は頭が痛くなったことだろうと思う。だが、相手は、イタズラ好きのわんぱく小僧であっても、中宮とは血のつながりがあり、また、関白の息子ということで、何も文句は言えなかったに違いない。典侍が激怒したというのだから、それほどのことなのだ。
「鏡は、特別に大切なものでしょうから……、鏡がおわすところが、賢所となって、高御座におわす為には、鏡こそが重視されるのでしょうから」
そこまで言って、不意に真雪は思った。
もし、不届き者が鏡を奪うようなことがあれば……。
それが、愛宕の方に渡れば、あちらが皇位の正統を主張するということになるかもしれない。
「……関白殿下」
「ん?」
「……念のため、衛士の数を増やされた方がよろしかろうかと……」
「それは、問題なかろう。それに、あまり多く衛士が居ても、鬱陶しいだろうし」
「けれど、内裏まで賊が入るということではありませんか……もし、鏡が奪われでもしたら大変です」
「まあ、鏡を直接奪うような、気の短いことはなさるまい。愛宕の方も、その辺りのことは、心得ておいでだと思うよ」
暢気な事ではないか、と真雪は少し歯がゆい心地になった。
今、鏡は内侍所にある。つまり、そこで寝泊まりするのは、内侍と呼ばれる女官たちだ。女性しかいない建屋である。それを思えば、不安になる。
「愛宕の方も、ご自身の評判というのがあるから、滅多なことはなさらないよ……でなければ、力尽くで高御座に上った、血なまぐさくて乱暴な方ということになろうからね」
ならば、なぜ、愛宕の方の愛妾が子を産むというときに、わざわざ大きな宴をするなどと考えて居るのだろうか。
愛宕の方が、もし高御座に上る意思がなかったとしたら、主上が、わざわざ誰の味方であるか確かめさせるような真似をしているうちに、愛宕の方も、行動に出ざるを得なくなるのではないだろうか。
―――ああそうか。
やっと、真雪は納得出来た。もし、愛宕の方が、たち上がって高御座を目指したら、その瞬間に、主上は愛宕の方を、朝敵として討つつもりなのだ。そうやって、やっと、主上という方は、枕を高くして眠ることが出来るのだろう。関白も、その気持ちに近いのかもしれない。どちらにしても、身分の高い方達は、真雪の考えも及ばないようなことを思案しながら生きているということだけは、垣間見ることが出来た。
そして、その道が苦渋に満ちたものであるならば、真雪は、少しでも、関白の側で、彼を支えたいという思いでいた。
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