手に入らないモノと満たされる愛

小池 月

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温かい人

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小掠家
 次に目覚めたら、見慣れない部屋だった。頭がすっきりしている。大きな窓からの景色で、二階だとわかる。まだ日が高い。
「おはよう。寝ている間に吸入薬もやったよ。気分どう?」
隆介先輩がいる。小掠先生のご自宅に移ったのか。
「すごくスッキリしています。ありがとうございます」
挨拶をする。部屋をぐるりと見る。
「ここは、俺の部屋。しばらくここで一緒に過ごすよ。客間でもいいけれど、発作起きた時にすぐ対応できた方がいい。斗真は我慢しちゃいそうだから。一緒でもいい?」
一人じゃなくて、一緒に居てくれるの? 心がホワっと温かくなる。同時に、緊張もする。ほとんど知らない人と一緒。
「はい。あの、邪魔ではないですか? 迷惑、かけてしまうかもしれません」
「いいんだよ。むしろ、俺が一緒に居たい」
どうゆう意味だろう。よくわからないけれど、先輩の温かい気持ちはありがたい。今の僕には、この人しかすがるものはない。
「うちの中を案内するよ。起きられるかな?」
発作は今までにないくらい急速におさまっている。
「はい。ありがとうございます」
先輩の部屋から案内された。十畳以上の部屋。僕が寝ていたベッド。床にシングルの折り畳みマットレスと布団。
「あの、僕がベッド使ってしまってすみません。僕、布団使わせてもらいます」
「ああ。いいんだよ。床のホコリも全部ハウスキーパーさんにとってもらったけど、高い位置に寝たほうがいい。ホコリは下に溜まるから。マットレスも客間のものと交換してあるよ。クリーナーかけておいたからハウスダストの心配はないよ。俺が下に寝るから、ね」
すごく優遇されている。どうしてだろう。今日会ったばかりの人なのに。先輩をじっと見て、「わかりました。ありがとうございます」と答える。

 部屋には、作り付けのデスクと壁収納。洋服類は全てクロークの中。僕の制服もかけてあった。超薄型小型テレビにゲームが少し。ローテーブルに二人かけのローソファー。贅沢な部屋に驚く。部屋の外は、廊下をはさんで向かいに客間。客間と階段を挟んでお姉さんの部屋。
びっくりしたのは、階段の正面にオープンスペース。キッチンがあり、ミニダイニングになっている。オープンスペースの奥にトイレと洗面。ついでにトイレを借りた。洗面所の奥にはシャワーブース。これが二階すべて。一階に降りると、広いダイニングキチンにトイレお風呂。和室に収納部屋。一階奥に院長先生と奥さんの副院長先生の私室。窓の外を見て、小児科医院の真横なのだと分かった。
一階キッチンでは、家政婦さんが家事をしている。ぺこりと頭を下げると、ニッコリお辞儀をしてくれた。家の案内も終わり、二階に戻る。二階オープンダイニングスペースで先輩がお茶を用意してくれる。サンドイッチやスープも出してくれる。手作りっぽい。向かい合って先輩が座る。
「あの、隆介先輩、学校はどうしたんですか?」
「三年になると、二学期から登校は週一日だけ。私立高校のいいところだね」
「えっと。僕がいたら勉強出来ないと思いますけど……」
「大丈夫。適度にやるよ。成績悪くないし。それより、斗真と過ごせて嬉しいんだ」
「先輩は、僕とどこかで会っていますか?」
「うん。うち、両親ともに働いていたから、小さいころ時々病院のキッズスペースに居たよ。病院には体調悪い子がいるから、どうしても寂しいときにだけ。そこで、何回か斗真と会ってる。喘息、苦しいよね。青白い斗真を助けたいっていつも思っていた。小学校や中学でも、心配していた。でも、どうやって声をかけていいかも分からなくて。ずっと、ずっと見ていたんだ。同じ高校で見かけた時には、飛び上がるほど嬉しかった」
知らなかった。会ったことさえ覚えていない。
「すみません。覚えていなくて」
「うん。当然だよ。小さいころの話だし、斗真は日々必死に生きていたから」
頭をふわりと撫でられる。驚いて、顔が熱くなる。
「俺が医者を目指すきっかけになったのは、斗真だよ。ほら、食べられたら食べて」
点滴で入れた補液はほぼ水分だけだ。お腹が空いていたから、嬉しい。
「いただきます。先輩が作ったんですか?」
厚焼き玉子がサンドしてある。バターの風味と甘みが口に広がる。温かいスープは、ジャガイモやキャベツ、枝豆も入ったミネストローネだ。柔らかい野菜が身体に染みこむ。
「そう。料理は趣味。うち、誰も料理できなくて家政婦さん任せなんだよ。両親に何かしてあげたくてやり始めたら、はまってさ」
先輩を見上げる。優しい顔。僕は、親に家族に何かしてあげようなんて考えたこともなかった。何かがモヤッとする。その何かをサンドイッチと共に飲み込む。
「すごく、美味しいです」
「口にあったなら良かった」
輝く笑顔の先輩を見て、心にチクリと何かが刺さる。先輩は、僕と違って恵まれた人なのだと思った。
 軽食をいただいたあと、そのまま部屋に戻る。まだ午後三時。発作を起こしたこともあり、数日は安静。家の中なら自由にしていいけれど、食事トイレ風呂以外はできるだけ部屋に居ること、と指示される。入院の時も同じように言われるから慣れている。
「少し話そうか。俺は斗真を知っているけれど、斗真は知りたいでしょ?」
先輩を見て、コクリと頷く。
「急に、うちに連れてきてごめんね。俺は、苦しむ斗真に背を向ける斗真の家族が不思議だった。それに必死に耐えている斗真が、真っすぐでスゴイと思っていた。でも、見守ることしかできなかった。今朝見かけたのは偶然。発作起こしている斗真を、平然と見捨てる弟君の姿に怒りを覚えた。偶然って重なるんだね。総合病院が満床なのも偶然。俺、斗真を甘やかしたいんだ。斗真の笑顔、見たいんだ。それだけ」
なぜだろう。優しい言葉を、嬉しいと心から喜べない。先輩を見つめて、何も返事ができない。
僕は、可哀そうな生き物に見えたのかな。僕は、恵んでもらうような、貧しい存在なのか。心が沈み込む。家族から捨てられた自分と、豪邸で微笑んでいる恵まれた先輩を比べてしまったからだろう。心に苦いものが広がるような、ざわつきを胸に押し込んだ。こんなこと、考えていたらダメだ。先輩とは、線を引こう。僕とは住む世界の違う人間なのだと。先輩は貴族で、僕は乞食。そう思ったら、少し気持ちが落ち着いた。先輩は、きっと困っている人間を助けて優越感に浸りたいんだ。正面の優しい笑顔も嘘っぽく見えてしまう。
「ご迷惑をかけますが、お世話になります」
下を向いて頭を下げた。惨めさに、そっと唇をかんだ。

 一番嫌なのは、親切を素直に受け止められない、歪んだ僕の心だ。

 一週間は、この恵まれた人に、自分の本心が知られることが嫌で、言われたことに頷き迷惑をかけないことだけを心掛けて過ごした。午前起床後の超音波吸入。午前中の診察の終わる時間に小児科に向かい、点滴。三日で薬剤の投与濃度を下げることが出来た。小さな発作もなく、順調な経過だ。午後二時には先輩の自宅の方に戻り、遅い昼食。毎食先輩が作るのは大変だから、朝昼は家政婦さんが僕の分も用意してくれる。それを先輩と食べる。時々先輩が一品作ってくれて、全てにおいて完璧な人なのだと感じた。僕に優しく話しかけて、何でも優先してくれる。笑顔で感謝を伝えて、会話にも笑顔で応えているけれど、心がモヤつく。裕福な先輩と乞食の僕、そんなイメージが頭に浮かぶ。先輩が悪いんじゃない。ただの僕の嫉妬だ。
 ゲームもテレビも見る気にならず、ただ布団の中で過ごす。邪魔にならないように、出来るだけ静かに。一緒に勉強する? テレビ見ようか? と誘われれば、横に並んで同じことをする。
 ここ数日、先輩が部屋を離れる時間に、ほっと息をつく。今日もこの時間に、我慢していた涙が流れる。惨めで消え入りたくなる衝動を、ぐっと飲み込んだ。ドロリとした気持ちが、涙になって頬を伝う。

 コンコン、とノック。はっと顔を上げると同時に、買い物に出かけた先輩が「忘れ物」と戻ってきた。目が合う。見られたくない姿を見られてしまった。心臓がバクバク鳴り出す。僕を見て、驚いた顔の先輩。言い訳を、しなくては。何か、気の利いた言葉を。話そうとしたけれど、震える口から言葉は出なかった。先輩を見たまま、喉の奥から、ヒューっと高い笛のような音が漏れる。久しぶりに感じる喉の締め付けられる感覚。
「落ち着いて。大丈夫。ゆっくり息をしよう。」
持っていた荷物を放り出し、僕を正面から抱き留める先輩。どうしよう、汚い心を知られてしまったかもしれない。どんどん苦しさが増してくる。冷汗が流れて、息を吐いているのか吸っているのか、訳が分からなくなる。薬、緊急の気管支拡張薬、手が自然と吸入薬を探す。すぐに僕の手に、しっくりとくる薬が握らされる。吸入器を口にくわえ、震える手でツープッシュ。その間も、優しい声と背中をさする大きな手。薬剤の血中濃度が安定していたこともあり、一回の吸入で呼吸が楽になってくる。頭がぼーっとしながら、抱きしめる温かい腕と厚い胸板に自分の鼓動が溶け込むような安心感を覚えていた。
薄っすらと感じていた真実。先輩は僕の考えるような優越感に浸りたいだけの人じゃない。それは、僕の嫉妬心からの偶像だ。この人は、本当に芯から温かい人だ。
 そっとベッドに横倒されて、「大丈夫?」と聞かれる。申し訳なさと、情けない気持ちで頷くことしかできない。布団に入り、顔を隠す。僕には逃げ場所がベッドの中しかない。
 「斗真、聞いて」
優しい声。心がぎゅっと締め付けられる。
「俺は、斗真を守りたい。傍で支えたい。だから、話してくれないかな? 何に不安になっているのかな?」
ゆっくりとした声。布団の上から、僕の背中をゆっくり撫でる大きな手。僕は、その声を頭の中で何度も繰り返した。信じて、いいのかな。呼吸は落ち着いている。
「僕は、惨めな自分が嫌です。自分の汚い心が、辛い」
「そう。どんなことで、自分が惨めだって思うのかな? ゆっくりでいいよ。言ってみて」
布団の中から顔を出せずに、応える。
「先輩が、恵まれているから。僕が何もない、家族にも捨てられる存在だから。……比べてしまって、惨めになります」
「そう。じゃ、心が汚くて辛いっていうのは? 大丈夫。どんな斗真も受け止めるから、話してみて」
背中の大きな手が、優しくて言葉が嘘じゃないと訴えてくる。目から涙がこぼれる。
「……先輩が、優越感に浸りたい偽善者だっていう嫌な考えをする僕の心。優しい完璧な先輩が羨ましくて、心の中で貶めている汚い僕の心。それが、一番嫌だ」
背中を撫でる手が、こんな僕は嫌いだ、と離れていくかもしれない。もう、色々と気持ちが抑えられない。先輩の手は、僕の背中を静かに、優しくなで続けてくれた。
「斗真は、優しいね」
ゆっくりとした一言。こんな嫌な事を言った僕が、優しい? 意味が分からなくて涙が止まる。相変わらず背中を撫でる優しい手。布団の中に閉じこもった僕と先輩を、温かい体温で繋いでいる。
「俺は、もっと罵倒されるかと覚悟していた。場合によっては、殴られてもいいと思っていたよ」
僕が先輩を罵倒する? ありえない言葉に驚いて、布団から顔を出して、先輩を見る。
「僕、そんなことしません」
「うん。そうだよね。やっと巣から出てきたね」
にっこり笑う先輩は、天使みたいに見えた。
「俺は、斗真の家族が嫌なんだ。喘息の治療が必要な斗真を一人にする。そういう家族をハイリスク家庭と呼ぶんだ。虐待になるか、グレーラインにいる家庭の事。ハイリスク家庭で家族の愛に乏しく育った子は、なぜか親にすがる。そこから抜け出すことに自分の価値が失われるような恐怖を覚えるんだ。俺は、もしかしたら家族から斗真を引き離した悪者と、敵視されているのも覚悟していた」
呆然と先輩を見る。優しい中に、こんな考えを持っていたのか。
「急に言われて分からないと思うけれど。斗真が俺を表面上受け入れたようにして、心で拒否していたのも知っているよ。大丈夫。家族から離れることになって、誰もが不安を抱くものだよ。それが、今の斗真の不安の根本だよ、きっと。今の状況になれば、どんな人でも否定的な感情が芽生えるんだ。それでいいんだ。攻撃的な感情を持たないなんて、斗真は優しいんだよ」
ニッコリ笑って、僕の頭を撫でる。優しい手だ。
「僕の心が、見えているみたいです」
「あはは。斗真の笑顔が、心のついてきていない笑顔だったからね」
ほっぺたを大きな両手で包まれる。
「いつか、俺に本当の笑顔を見せて」
そっと額にキスをされる。驚いて、頬が熱を持つ。間近に先輩の顔。急に心臓がドキドキし始める。
「少し休もう。添い寝、しようか?」
その言葉に、からかわれているのだと思った。僕の気持ちを軽くしようとしてくれているのか。先輩の優しさだ。
「……じゃぁ、おねがいします」
イタズラ返しのつもりで口にした。僕を見て、驚いた顔の先輩。掛け布団を持ち上げて、ベッドに入ってくる。呆然とする僕を、胸の中に包み込むようにして、「お休み」と声が頭に降りかかる。
抱きしめられて、逞しい腕の中。今更、冗談でした、とも言えない。先輩の、唾液を飲み込む音さえ大きく聞こえる。胸がバクバク鳴って眠れない、そう思っていたのに、優しい心音に包み込まれて厚い胸に溶け込むように眠っていた。

 温かかった。人の肌に包み込まれる幸福感。安心する。離れたくなくて、必死に捕まえる。僕から離れていかないで。掴んでおかないと、僕は一人になってしまう。身体を小さくしてぬくもりの中に潜り込む。
どこかから「可愛い」と言葉が響く。僕を包む温かい存在が「好きだ」と言葉を漏らす。そうなんだ。「僕も好きだよ。あたたかいね」と返事をする。この温かさは、心がホカホカして大好きだ。包み込まれて、心がくすぐったい。幸せな夢だ。ふと、しがみついていた大好きなものが離れてしまい、一瞬の寂しさ。どこにもいかないでよ。手で探る。すぐに手に絡みつく大きな厚い手。あ、いたいた。離れたらダメだよ。大きな手を握ると、僕の手をぎゅっと包み込みながら、僕の唇に温かいものが触れる。一度触れて離れようとするから、唇で追いかけてしゃぶりついた。離れないでよ。「好きだ」また、聞こえる声。さっきも聞いたよ。唇で温かさを味わいながら、ふふっと笑いが漏れてしまう。気持ちがいい。口の中をヌルヌル温かいものがはい回る。おかしくて、ハムハム食んでみたり、それに吸い付いたりして遊んだ。このぐにゅぐにゅしたモノは、歯の付け根や上あごの柔らかい部分をゾワリと撫でる。めちゃくちゃ気持ちいい。腰が揺れる。熱が下腹部に溜まる。夢中で大きな存在に腰をすりつけた。「かわいい」「すきだ」と口の中に言葉が落ちてくる。もったいないな。全部食べちゃおう。言葉を食べるなんて、面白い夢だ。僕は腰を揺らしながら、面白い食べ物をハフハフと存分に味わった。

 「おはよう」
目が覚めたら、先輩に密着していて、びっくりした。変な時間に寝てしまって、もう夜だ。
「……おはよう、ございます」
なんで、僕と同じベッドにいるんだろう。腕枕。それに、僕抱きしめられている。先輩、でっかいな。身体の厚みや腕の筋肉をぼーっと見つめる。僕を見つめている先輩。こんなに近くの目線にドキドキする。そっと僕の額にキスをする。びっくりして、顔が急に熱を持つ。驚いて見つめていると
「覚えていない?」
問いかけられる。
「何を、ですか?」
途端に残念そうな顔をする先輩。そうか、僕、添い寝を頼んだんだった。冗談のつもりだったけれど。
「すみません。あの、とても気持ちよかったです。」
添い寝も大変だったろう。感謝を伝える。途端に満面の笑みになる先輩。
「いいよ。また、いつでもしよう。俺も気持ち良かったし」
そうなのか。無理強いになってなくて良かった。コクリと頷き、ほっとしていると、先輩が覆いかぶさるように上に陣取る。見上げると唇にキス。直ぐに口の中に入り込む先輩の、舌。「ムゥ~」と喉の奥で僕の声がこもる。唾液が、口に溜まる。たまらず飲み込む。飲み込むときの僕の舌の圧を先輩が楽しそうに味わっている。ナニコレ? 生暖かい二人の唾液を、何度か飲み込む。そのたび、先輩の舌をリアルに感じる。あ、コレ、知っている。夢の中の気持ちいいやつ。ぼーっとしてくる。
「斗真。可愛い」
この声も知っている。顔を離して、僕の頬を撫でる手。温かい体温が気持ち良くて、頬をすり寄せる。厚みがあって、大きい手。ぞくぞくする。
「斗真。好きだ」
はっきり聞こえた。先輩を見上げながら、無意識のうちに、コクリと頷いていた。触れるだけのキス。チュッと音を立てて先輩の唇が離れていく様子を、じっと見つめていた。先輩の唇から目線が外せなかった。ヌラリと光る赤い唇。僕の喉がゴクリ、と鳴った。
「止まらなくなっちゃうね」
そっと耳元でささやかれる。低い声の響きに耳がゾワリとする。僕は、どうしてしまったのか。軽い混乱を覚えたまま、いつものように吸入薬をした。
この日から、先輩との距離が近くなった。そして、日に何度も繰り返す濃厚なキスに心臓がドキドキしっぱなし。これまで悩んでいた先輩への嫉妬や諸々のドロっとした気持ちがすっかり消え去っていた。
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