一番美しい星

冲令子

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蘇る旋律

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 藤千代を見つめるリュカの表情は痛ましく、いっそ惨めに思えた。
 リュカに対する同情心はある。しかし、ほんの短い間、少し世話をしてやっただけの異国の男に縋り付くようなリュカを、藤千代は哀れに感じた。

「これまでのご恩情に、心より御礼申し上げます。これ以上お力添えをいただくのはあまりに心苦しく、どうか今後はご自身のことを第一にお考えください」

 藤千代はそう言って頭を下げた。目を伏せ、リュカと視線が交わることはなかった。

 藤千代はみん語の授業の時はいつも、リュカが理解しているかどうか、じっと顔を覗き込んできた。目を合わせて、うまく答えられた時は優しく微笑み、間違った時は少し意地悪そうな目つきで悪戯っぽく笑うのだ。
 リュカは、俯いたまま通り過ぎようとする藤千代の腕を掴んだ。

「自分のことを第一に考えろっていうなら、俺はチヨと話しがしたい」

 藤千代は掴まれた腕を見つめた後、視線を上げた。リュカの刺すような視線に射抜かれて、藤千代は何も言えなかった。






 荷造りが終わった賓館は、がらんとして寒々しかった。
 
「明日の夜明けには出発するんだ」

 人払いをした閑散とした部屋の中、二人きりでぽつんと向かい合って座らされた藤千代は、目の前のリュカへ気まずい視線を向けた。

「さっき言ったこと、本当だよ」

 真正面から見つめてくる視線から逃れられず、藤千代も否応なくリュカに向き合う。

「チヨがやりたいことや行きたい場所があるなら、俺も一緒に連れて行って」

 リュカの言うことがどこまで本気なのか見当がつかず、藤千代は困惑したまま返答に詰まった。

「全部捨ててチヨと一緒に行くなんて、勝手だと思う? でもさ、こんなところに一人放り出されて、今度は戻ってこいだなんて、それこそ勝手じゃないか」

 リュカは嘲るように吐き捨てると、藤千代を見据えた。

「帝位も領地も、俺には関係ない」

 きっぱりと言い放つリュカを、藤千代は子どもだと思った。
 我儘で、世間知らずで、身勝手な子どもの言い分だ。たとえ自由のない生活だとしても、美しい服を着て、贅を凝らした食事を出される恵まれた身分なのに、それと引き換えの責任は負いたくないと言う。

「……ザロヴィアの領地は、すごく寒くて何もない場所なんだ。領主って言ってもみんなと一緒に農作業するような貧しい土地でさ。だから、今の立場を捨てるのなんて、俺にとってはどうってことないよ。……でもチヨは、琶国ではそれなりの身分だったんだろ? 見てたらわかるよ。だから……何もない俺なんか頼りないかもしれないけど……ッ」

 リュカは言葉を詰まらせると、拳で顔を覆った。嗚咽が漏れ、大粒の涙がぼたぼたと膝に染みを作る。唐突に人目も憚らず泣き崩れたリュカを、藤千代は気まずげに呆然と見つめた。

「……久しぶりに母国に戻ることになって、不安になっておられるのですよ。わたしなどいなくても、優秀なお付きの方が大勢いらっしゃいますから──」

 リュカは涙に濡れた顔を上げると、怒りを含んだ目で藤千代を睨んだ。

「俺がチヨを付き人として選んだわけじゃない。チヨに俺を選んでって言ってるんだよ。決めてよ! 俺はなんだってするから……ッ」

 リュカの言い分は、一方的で身勝手だ。藤千代が応える義理もない。そう思うのと同時に、藤千代の胸に畏れにも似た感情が込み上げてくる。
 幼い頃から、藤千代が自ら何かを決断することなどなかった。
 品行方正で、周囲の顔色を窺い、他人の期待に応えることだけが藤千代の行動原理だった。唯一自ら判断した閔への渡航ですら、人質の立場から逃避しただけだ。藤千代は宣教師団に保護を求めたただけで、藤千代自身が閔へ行きたかったわけでも、宣教師団とともにいたいと望んだわけでもない。

 藤千代はおそるおそるリュカへと視線を向けた。
 いくらリュカ自身が藤千代の選択に身を委ねると言ったところで、それが叶うはずもない。
 しかし藤千代は、刃物を喉元に突きつけられたように感じた。
 決断しろ。
 選択しろ。
 意思を持て──

 涙に濡れた碧い瞳が、鈍い輝き孕んで藤千代を見つめる。冬の午後の淡い光が金色の髪に照り返し、藤千代は初めてリュカを見た時の神々しさを思い返した。
 惨めな子どもだと憐れんでいたリュカの存在が揺らぎ、藤千代は圧倒されるような息苦しさを感じた。

 不意に部屋の外から、物哀しい旋律が聞こえてきた。荷造りを済ませてしまって、もう何もすることがない従者たちがささやかな送別会でもしているのだろう。
 途切れがちに聞こえる微かな調べは、出会って間もない頃、リュカが乗馬場で口ずさんでいた唄と同じだった。
 広大な乗馬場で、たった一人の子どもが愛馬を愛しそうに撫でるよるべない姿が、鮮やかに蘇った。

 ──あん時決めたんやなかとか

 藤千代はリュカの目を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。

「わたしの選択に、殿下を巻き込むわけにはまいりません。それでも……」
 
 成し遂げたい目的など何もない。
 明日のことさえ定かではない。
 それでも、あの時リュカの味方であると決めたことこそが今、自分がやるべきことだと思った。

「……明朝の出発となると急なことですので、宣教師団に迷惑をかけてしまいます。レオニド殿も、突然わたしが同行するなどと申し出たらお困りになるでしょう。少しお時間はいただきますが、落ち着いたら必ずお側へ向かいますから」

 ぎこちなく微笑む藤千代へ、リュカは静かに頷いた。承諾したとはいえ、藤千代の表情にはまだ戸惑いがあった。
 泣きじゃくった後の興奮とは裏腹に、リュカの意識の一部は妙に冷静だった。
 藤千代がどうしようが、いざとなれば攫えばいいのだ。
 リュカは、蛮族と呼ばれる自らの血を初めて自覚した。
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