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旅立ちはいつも突然
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「随分と遅かったじゃないか」
宿舎へ戻り巡察師長に声を掛けられた藤千代は、曖昧に微笑むとすぐに自室へと籠った。
リュカを追ってザロヴィアへ行くことについて相談しなければならないのだが、どう切り出していいのかわからなかった。
──そもそも、ほんなこてこれでよかとじゃろうか……
薄暗い部屋で一人になると、胸に浮かぶのは允耀皇子のことだった。
きっともう、会うことは叶わないだろう。
せめて手紙くらいなら、巡察師長を通して渡せるだろうか……。
読んでもらえる当てもないまま、藤千代は允耀皇子に向けて手紙を綴った。
安物の竹紙はざらつき、一文字書くごとに筆先が引っかかった。それはまるで、整理のつかない藤千代の気持ちそのものだった。
何度も筆を止めながら書いた文字は、ところどころに零れた雫で淡く滲んだ。
──こがんよそわしか(汚い)もんは渡せん……
躊躇いながら、それでも藤千代は文末に皇子から貰った名前を書き入れた。鬱々としたまま筆を置き、寝台に横になる。
目を閉じると、冕服の允耀皇子が思い浮かんだ。玉飾りの奥の視線は凛然と前を見つめ、決して藤千代と交わることはなかった。
允耀皇子自身は藤千代を呼び寄せると言うものの、それが叶うかどうかはわからない。
たとえ叶ったとしても立太子までの紆余曲折を考えれば、断るべきだろう。結婚前から愛人がいて、しかもその相手は貴人でもない異国の男で、さらにその男を私欲で東宮に呼び寄せるなどすれば、また後継争いの火種になりかねない。
皇子の未来を曇らせるようなことはしたくなかった。
しかし、だからといって皇子の元から去るべきなのかどうかも、藤千代には判断がつかなかった。
宣教師団が次の布教地へ行く折には、藤千代も宮廷を出なければならない。だが、たとえ皇子の側にいることができないとしても、閔に残るべきじゃないのか……。
決断を先送りにしていたツケが今頃になって回ってきたのだと、藤千代は目をきつく瞑って大きく息を吐いた。
いつの間にか眠っていた藤千代は、微かな違和感に目を覚ました。
宣教師たちが団体で暮らす宿舎には、常に誰かしらの気配がある。しかし、すでに夜半を過ぎているとはいえ、その夜はあまりにも静か過ぎた。
身じろぎせずに気配を窺い、枕元の短刀へと静かに手を伸ばす。
窓の外に二人、扉の向こうに二人……
──また見捨てられたとやな……
皇太子となった允耀皇子にとって──少なくとも皇子の周囲にとっては──、自分が邪魔な存在だということはわかっていたが、まさか命を狙われる程とは思ってもみなかった。
藤千代は冷静に逃亡の算段をつけ始めた自分に気づき、自嘲するような苦笑を浮かべた。こんな状況になってもまだ、死にたくないという執着があることが可笑しかった。
藤千代は物音を立てずに寝台から滑り降りると、次の瞬間、窓の外に飛び出した。
陰に隠れていた廠衛の頬に、素早く裏拳を打ち当てる。骨が砕ける感触はあったが、さすがは皇族の隠密だけあって、その程度では怯まなかった。
まともにやり合っても勝ち目はない。
藤千代は暗闇に紛れながら、夜明け前の凍てつく風を切り裂くように裸足で駆け出した。
肺に冷たい空気が張り付き、息が苦しい。
もうどうなってもいいという気持ちが込み上げてくるのに、脚は止まらなかった。
「チヨ!」
澄んだ冷たい空気に、透明感のある少年の声が響く。
背後から近づく蹄の音に振り返る間もなく、藤千代は腕を掴まれて馬の背に引き上げられた。
夜明けと共にザロヴィアへ出発する予定のリュカは、厩舎から愛馬のシミュヨンを引き取った帰りに、藤千代の元へ立ち寄った。
藤千代は──少なくとも今日、リュカと共には──ザロヴィアへ行くつもりはないはずだ。それならば、強引にでも連れ去るつもりだった。
手綱を操るリュカは後ろを振り返りながら、シミュヨンの速度を上げた。
血の気を失った藤千代は、寒空の下で滴るほどの汗をかいていた。薄い夜着が乱れて裸足の足は血まみれになっている。
「……このまま、宮廷の外まで行くよ」
リュカは、はるか後ろへと引き離されてしまった従者へ向かって『先に行く!』と声を上げると、通行門を目指した。
馬の速度はそのままに、守衛へ向かって腰牌(通行証)を投げ渡す。
「ザロヴィア国皇子、ドゥレン・サイハンデル・リュカである! 門を開けよ!」
威厳のある声に、守衛が慌てて開門した。
細く開いた隙間をすり抜けるように、しなやかな馬体が走り抜ける。
高い城壁に閉ざされていた外の景色が、パッと目の前に開けた。
昼間は物資を運ぶ荷車や役人が行き交う門前も、まだひっそり息をひそめながら夜明けを待ち構えていた。静まり返る門外に蹄の音を響かせながら、リュカと藤千代は街道へと向かった。
新しい光が雲の切れ間から差し込み、辺りを白く照らし始めた。濃紺の空が鮮やかな青色へと変わってから、リュカはようやく速度を落とした。
前に跨る藤千代は何も言わず、青白い表情で馬の揺れに体を預けていた。
しっかりとした骨格にしなやかな筋肉が乗った体は、発育途上のリュカよりもよほど精悍で逞しいはずなのに、その背中は酷く小さく見えた。
「チヨ……」
藤千代を支えるように後ろから抱き寄せたリュカは、その冷え切った肌に触れた途端、どうしようもないくらいの息苦しさを覚えた。
──チヨを守ってあげたい……
無理矢理にでも攫って自分のものにしたいという衝動と同時に、これ以上ないくらい大事にしたいという思いも込み上げてくる。
リュカは、いつか見た夢のことを思い出した。
裸のような薄着で馬に乗り、汗まみれなのは夢の中と同じだ。それなのに、それ以外のことが何もかも違う。
夢の中のように、屈託なく笑って欲しい。その笑顔を、リュカだけに向けて欲しい。
夢で見た藤千代の姿が、目の前の藤千代に重なって歪んだ。
宿舎へ戻り巡察師長に声を掛けられた藤千代は、曖昧に微笑むとすぐに自室へと籠った。
リュカを追ってザロヴィアへ行くことについて相談しなければならないのだが、どう切り出していいのかわからなかった。
──そもそも、ほんなこてこれでよかとじゃろうか……
薄暗い部屋で一人になると、胸に浮かぶのは允耀皇子のことだった。
きっともう、会うことは叶わないだろう。
せめて手紙くらいなら、巡察師長を通して渡せるだろうか……。
読んでもらえる当てもないまま、藤千代は允耀皇子に向けて手紙を綴った。
安物の竹紙はざらつき、一文字書くごとに筆先が引っかかった。それはまるで、整理のつかない藤千代の気持ちそのものだった。
何度も筆を止めながら書いた文字は、ところどころに零れた雫で淡く滲んだ。
──こがんよそわしか(汚い)もんは渡せん……
躊躇いながら、それでも藤千代は文末に皇子から貰った名前を書き入れた。鬱々としたまま筆を置き、寝台に横になる。
目を閉じると、冕服の允耀皇子が思い浮かんだ。玉飾りの奥の視線は凛然と前を見つめ、決して藤千代と交わることはなかった。
允耀皇子自身は藤千代を呼び寄せると言うものの、それが叶うかどうかはわからない。
たとえ叶ったとしても立太子までの紆余曲折を考えれば、断るべきだろう。結婚前から愛人がいて、しかもその相手は貴人でもない異国の男で、さらにその男を私欲で東宮に呼び寄せるなどすれば、また後継争いの火種になりかねない。
皇子の未来を曇らせるようなことはしたくなかった。
しかし、だからといって皇子の元から去るべきなのかどうかも、藤千代には判断がつかなかった。
宣教師団が次の布教地へ行く折には、藤千代も宮廷を出なければならない。だが、たとえ皇子の側にいることができないとしても、閔に残るべきじゃないのか……。
決断を先送りにしていたツケが今頃になって回ってきたのだと、藤千代は目をきつく瞑って大きく息を吐いた。
いつの間にか眠っていた藤千代は、微かな違和感に目を覚ました。
宣教師たちが団体で暮らす宿舎には、常に誰かしらの気配がある。しかし、すでに夜半を過ぎているとはいえ、その夜はあまりにも静か過ぎた。
身じろぎせずに気配を窺い、枕元の短刀へと静かに手を伸ばす。
窓の外に二人、扉の向こうに二人……
──また見捨てられたとやな……
皇太子となった允耀皇子にとって──少なくとも皇子の周囲にとっては──、自分が邪魔な存在だということはわかっていたが、まさか命を狙われる程とは思ってもみなかった。
藤千代は冷静に逃亡の算段をつけ始めた自分に気づき、自嘲するような苦笑を浮かべた。こんな状況になってもまだ、死にたくないという執着があることが可笑しかった。
藤千代は物音を立てずに寝台から滑り降りると、次の瞬間、窓の外に飛び出した。
陰に隠れていた廠衛の頬に、素早く裏拳を打ち当てる。骨が砕ける感触はあったが、さすがは皇族の隠密だけあって、その程度では怯まなかった。
まともにやり合っても勝ち目はない。
藤千代は暗闇に紛れながら、夜明け前の凍てつく風を切り裂くように裸足で駆け出した。
肺に冷たい空気が張り付き、息が苦しい。
もうどうなってもいいという気持ちが込み上げてくるのに、脚は止まらなかった。
「チヨ!」
澄んだ冷たい空気に、透明感のある少年の声が響く。
背後から近づく蹄の音に振り返る間もなく、藤千代は腕を掴まれて馬の背に引き上げられた。
夜明けと共にザロヴィアへ出発する予定のリュカは、厩舎から愛馬のシミュヨンを引き取った帰りに、藤千代の元へ立ち寄った。
藤千代は──少なくとも今日、リュカと共には──ザロヴィアへ行くつもりはないはずだ。それならば、強引にでも連れ去るつもりだった。
手綱を操るリュカは後ろを振り返りながら、シミュヨンの速度を上げた。
血の気を失った藤千代は、寒空の下で滴るほどの汗をかいていた。薄い夜着が乱れて裸足の足は血まみれになっている。
「……このまま、宮廷の外まで行くよ」
リュカは、はるか後ろへと引き離されてしまった従者へ向かって『先に行く!』と声を上げると、通行門を目指した。
馬の速度はそのままに、守衛へ向かって腰牌(通行証)を投げ渡す。
「ザロヴィア国皇子、ドゥレン・サイハンデル・リュカである! 門を開けよ!」
威厳のある声に、守衛が慌てて開門した。
細く開いた隙間をすり抜けるように、しなやかな馬体が走り抜ける。
高い城壁に閉ざされていた外の景色が、パッと目の前に開けた。
昼間は物資を運ぶ荷車や役人が行き交う門前も、まだひっそり息をひそめながら夜明けを待ち構えていた。静まり返る門外に蹄の音を響かせながら、リュカと藤千代は街道へと向かった。
新しい光が雲の切れ間から差し込み、辺りを白く照らし始めた。濃紺の空が鮮やかな青色へと変わってから、リュカはようやく速度を落とした。
前に跨る藤千代は何も言わず、青白い表情で馬の揺れに体を預けていた。
しっかりとした骨格にしなやかな筋肉が乗った体は、発育途上のリュカよりもよほど精悍で逞しいはずなのに、その背中は酷く小さく見えた。
「チヨ……」
藤千代を支えるように後ろから抱き寄せたリュカは、その冷え切った肌に触れた途端、どうしようもないくらいの息苦しさを覚えた。
──チヨを守ってあげたい……
無理矢理にでも攫って自分のものにしたいという衝動と同時に、これ以上ないくらい大事にしたいという思いも込み上げてくる。
リュカは、いつか見た夢のことを思い出した。
裸のような薄着で馬に乗り、汗まみれなのは夢の中と同じだ。それなのに、それ以外のことが何もかも違う。
夢の中のように、屈託なく笑って欲しい。その笑顔を、リュカだけに向けて欲しい。
夢で見た藤千代の姿が、目の前の藤千代に重なって歪んだ。
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