一番美しい星

冲令子

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北へ

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 午後を過ぎた頃、藤千代とリュカは中継地の宿場でレオニドと合流した。
 ザロヴィアまでの行路は整備されていないため、レオニドと数名の従者だけが先行し、荷物を積んだ馬車やその他の使用人たちはかなり遅れてくることになる。
 レオニドは簡素な食堂で一行の食事を手配すると、藤千代と二人だけで奥まった卓に着いた。

「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

 藤千代はレオニドへ深々と頭を下げた。
 レオニドは藤千代の謝罪を受け流すと、卓上に並んだ食事を勧め、自身も匙を手に取った。

「怪我などはございませんか?」
「はい。リュカ殿下はご無事でいらっしゃいます」

 レオニドは検分するように藤千代を眺めた。
 レオニドが来るまでの間に、上着と褲(ズボン)を手に入れて着替えたものの、どこかちぐはぐでいかにも急拵えといった印象だった。なにより顔色と表情が、正常な状態ではないことを物語っていた。

「わたしはこのまま、西へ向かおうと思います。身に余るご厚情を賜りながら、恩義を果たすことができないのは心苦しい限りですが、これ以上ご迷惑をおかけするわけにはまいりませんので……」

 レオニドは味の薄いスープを掬う手を止め、俯く藤千代を見つめた。

「しかし、若様はご納得なさらないでしょう」
「それは……申し訳ないことですが、レオニド殿に説得いただくしか……」

 レオニドは、離れた卓にいるリュカの様子をチラリと確認してから、藤千代へ向き直った。

「ここまでの道中、追っ手の気配はございませんでした。おおよその事情は理解しているつもりですが、先方としてはチヨ殿が宮廷を出た時点で目的は達成しているのでしょう」

 藤千代はリュカへ被害が及ぶ可能性が低いことに安堵しつつ、允耀いんよう皇子との関係を軽薄な噂話として消費されたようで、思わず眉を顰めた。

「私どもは、若様の語学指南役を保護しただけです。その上でみん側が動くのであれば、こちらとしてもそれなりの交渉はしますよ」

 要は、脅し合いの材料として藤千代を利用するつもりなのだ。どこまでいっても人質の駒かと、藤千代は思わず苦笑を漏らした。

「しかし、そうは言ってもやはり足手纏いでしょう」

 レオニドは藤千代をじっと見つめると、おもむろに口を開いた。

「もちろん、若様の安全が第一です。しかし、チヨ殿は若様を支えてくれた恩人でもある。その恩人の危機に手を差し伸べることはおかしなことですか? もっとも、チヨ殿がザロヴィアへ行きたくないと言うなら話は別ですが」

 レオニドの言葉に、藤千代は静かに目を伏せた。
 リュカの力になると決めた先から、負担にしかなっていない。しかし、ここで逃げてしまえば、また同じ後悔を繰り返すだけだ。

「……わかりました」

 藤千代は小さく頷いた。






「立太子の儀式のおかげで、かなり出発が遅れてしまいました。この宿場を出ると今日中に次の町に辿り着くのは難しいですが、先を急ぎたい。行けるところまで進みましょう」

 手早く食事を済ませた一行は、レオニドの指示ですぐさま馬を出した。

「チヨ」

 リュカの呼びかけに藤千代が振り返ると、リュカは愛馬のシミュヨンのほか、もう一頭の馬を引いていた。

「もし乗れるなら、この馬に乗ってみて」

 いくらシミュヨンが名馬と言っても、男二人を乗せて長距離を走れば消耗も激しい。この先の長い旅程を考えれば、藤千代は一人で馬に乗るべきだ。

「大人しくていい馬だよ」

 不安そうな表情で見つめるリュカへ、藤千代は安心させるように笑顔を向けた。藤千代が首を撫でると、栗毛の馬は甘えるように鼻先を寄せた。
 背に跨り、ふくらはぎで腹を挟むと、ゆっくりと歩き出す。リュカの言う通り、気性の穏やかそうな馬だった。
 ザロヴィアの一行は皆、馬を巧みに操りかなりの速さで走る。それに合わせて速度を上げても、藤千代は不思議と恐怖を感じなかった。

 落馬事故による大怪我のせいで馬への苦手意識があったが、元々乗馬が下手なわけではない。
 小姓は、主君が騎乗する際はすぐ傍らで馬を走らせ、身辺を警護しなければならないので、乗馬の技術だけでいえばむしろ、藤千代はかなりの腕前であった。

 ──馬が怖かとじゃなかったとやね……

 馬が怖かったわけじゃない。
 小姓のくせに馬にも乗れないと──無能と笑われるのが怖かったのだ。そして、そんなことにこだわる自尊心などとうになくしていることにも、失望されたくないと思う相手ももういないことにも、藤千代はようやく気づいた。
 




「チヨ殿がこんなにも野営に慣れているとは、大変助かりました」
「……お役に立てて何よりです」

 二つ建てた幕舎のうち、従者が使う方に入ろうとした藤千代は、レオニドに止められた。

「チヨ殿はこちらの方がよろしいでしょう」
「しかし……」
「チヨはこっちだよ!」

 戸惑う藤千代の手をリュカが引っ張り、幕舎に連れ込んだ。
 少人数での移動のため運べる物資は少なく、補給できる町もこれからどんどんまばらになっていく。燃料はなるべく節約しなければならないので、暗くなれば寝るだけだ。
 リュカは狭い幕舎に入ると、藤千代と話をしようとしばらくは頑張って起きていたが、睡魔に勝てず寝息を立て始めた。
 忙しそうにしていたレオニドも眠り、風の音だけが聞こえるようになっても、藤千代は寝付けなかった。

 そっと起き出して外に出ると、隣の幕舎ではまだ従者たちが起きているらしく、微かに話し声が漏れて聞こえてきた。

「……琶人が…………」
「なんでも……男妾おとこめかけ……」
「……若様は……代わりって…………」

 ぼそぼそと聞こえる会話は俗語らしい知らない単語が多かったが、意味はわかった。
 要は、愛人に捨てられた藤千代がリュカに乗り換えたという噂話だ。
 こういうことがあるから、レオニドは藤千代を従者の幕舎には入れなかったのだろう。

 ──本当んことやけん、なんも言えん……

 藤千代は星も見えない暗闇を、あてもなく歩いた。
 自分だけが陰口を叩かれるのは構わないが、允耀皇子やリュカの名誉を傷つけるような真似はしたくなかった。やはりこのまま、一人で西へと向かうべきではないのか……。

 ピシッと空気が凍りつく気がした。
 緊張感が走った瞬間、後ろから羽交い絞めにされて口を塞がれる。
 振り解こうとしてもびくともしない体に抑え込まれて、藤千代はゾッと血の気が引いた。

「騒ぐな、敵じゃない」

 耳元で呟かれた閔語の低い声に、藤千代はもがこうとしていた手を止めた。

「允耀殿下のご意向で、お前を護衛する」

 藤千代がおずおずと首を巡らせると、男も力を緩めた。

「ザロヴィアまで無事送り届けろとのことだ。万が一、周りの連中が俺に気づいても気にするなと言っておけ」

 呆然として言葉が出ない藤千代に、男はチッと舌打ちをした。

「用がないなら幕舎へ戻れ。うろちょろされると迷惑だ」

 藤千代は我に返ると、改めて男へと向き直ったが、黒装束姿は暗闇に紛れてほとんどわからなかった。

「……お気持ちは大変ありがたいのですが、これ以上殿下のお手を煩わせたくはないのです」

 男はイライラした様子で、再度舌打ちをした。

「俺にはただの任務だ。お前がどう思おうが知ったことじゃない」

 藤千代は口を開いたが何を言っていいかわからず、結局一礼だけして幕舎へと戻った。
 允耀皇子の意向ということは、おそらく個人的な密偵なのだろう。
 ぎゅっと奥歯を噛み締め、漏れそうになる声を殺して寝床に潜り込む。
 毛皮に包まり目を閉じた。
 もうこれ以上邪魔な存在になりたくないという思いに、こんな状況になってもまだ手を差し伸べてくれることが嬉しいという気持ちが絡み合う。
 雑音はもう聞こえなかった。それでも、眠れそうにないのは変わらなかった。







「チヨ、ちゃんと食べてる?」

 夕暮れの中、火を囲みながらリュカが藤千代の名を呼んだ。
 ここ数日、急に冷え込んで天気も崩れがちだった。荒涼とした土地には小さな集落すらほとんどなく、食事も質素な保存食が続いていた。

「寒いし、疲れてるだろう?」

 心配そうに顔を覗き込むリュカへ、藤千代は笑顔を向けた。

「これくらい平気ですよ。閔に渡るときの船旅の方がよっぽど大変でした」
「その時の話、また聞かせてよ」

 リュカも笑顔を浮かべるが、その顔はすぐに曇った。

「……勝手に連れてきて、チヨは怒ってる?」

 揺れる炎に照らされて、リュカの顔に陰がちらつく。
 旅立つ前は無理やりにでも攫えばいいと思っていたリュカだが、暗く沈む藤千代の表情を見るたびに心が痛んだ。
 あの時の状況を考えれば、間違ったことはしていないはずだと思いながらも、これが藤千代にとって良かったのかと心が揺らぐ。
 ぼんやりと俯いていた藤千代は、リュカへと視線を向けた。炎が白い肌を赤く染めて、陰影を強調する。

「……まさか」

 藤千代はぽつりと言葉を漏らした。

「助けていただいたのに、怒るわけがありません。殿下には心から感謝しています」

 リュカはそう……と呟いて、舐めるように焚き木を這う火を見つめた。
 藤千代の言葉が本心かどうかはわからない。でも今は、それに縋るしかない。

 閔の宮廷で、リュカはザロヴィアの皇子として暮らしていたが、田舎貴族の娘だった母を孕ませた相手が皇帝──当時の皇太子──というだけで、皇子として育てられたわけではない。
 だから、藤千代が『殿下』と呼ぶのは自分のことではないような気がして、胸の奥がもやもやした。
 とはいえ、『若様』と呼ばれるのも気恥ずかしく、リュカは呼び方について口にするのはやめた。

「なんだか、狩りで俺が遭難した時みたいだね」

 リュカの言葉に、藤千代は雨の山でリュカを探したことを思い出した。あの時も、焚き火を囲んで夜を明かしたのだった。
 それほど日は経っていないはずなのに、ずいぶん昔のことのように思える。

「チヨが助けられたと思ってくれるなら、俺はあの時の恩を返せたのかな」

 淡々と話すリュカの横顔は炎の揺れでうつろい、どんな表情をしているのかよくわからなかった。

「……恩を返していただきたいだなんて、思ったこともございません」

 藤千代が戸惑いながら言葉を返すと、リュカはようやく藤千代の方へと向き直った。

「俺もだよ。助けたいから助けた。それだけ」

 リュカはそう言うと、穏やかに微笑んだ。くっきりと浮かんだ陰影のせいか、その表情はいつもより大人びて見えた。






 草木の揺れる微かな物音に、藤千代はハッと飛び起きた。
 寝る前の会話のせいか、寝込みを襲われた時の記憶が蘇り、ドッと汗が吹き出した。

「……チヨ?」

 隣で眠っていたリュカが身じろぎして、体を起こした。

「起こしてしまい、申し訳ございません」
「眠れないの?」

 リュカは藤千代の手を取ると、えっと声を上げた。

「冷え切ってるじゃないか。これじゃ眠れないよ」

 リュカは自分の上に掛かっている毛皮をめくり、藤千代を引き入れた。

「こっちにおいでよ」

 リュカに他意はないことはわかっているものの、同衾することはさすがに躊躇われた。
 リュカが藤千代に好意を抱いていることはわかっている。
 この年頃特有の、年上の同性に対する憧れを恋愛感情と同一視してしまう思いは、小姓時代にも向けられたことがあった。
 大抵は一過性のもので、女を抱けば何事もなかったかのように忘れてしまうのだが、中には男との行為に嵌まってしまう者もいた。
 すぐそばにレオニドも寝ているとはいえ、万が一過ちがあってはならない。

 戸惑う藤千代の表情で、リュカも言葉の意味を理解したのか、あっ……と握っていた手を離した。

「……隙間がないように、毛皮だけ並べておくよ。俺は寒いのは平気だから、これも使っていいよ」

 自分の毛皮を譲ろうとするリュカを押し留め、藤千代は再び横になった。重ねられた毛皮から、リュカの体温がほのかに伝わってくる。
 飛び起きた時の動悸は、人肌の温もりによってゆっくりと落ち着いていった。
 藤千代の呼吸が深く、緩やかになるのを見届けながら、リュカはそっと手を伸ばして藤千代の指先に触れた。
 熱が戻った指先にはとくとくと脈が響き、リュカの手にも伝わってきた。

 暗闇の中で目を凝らし、藤千代の寝顔を見つめる。
 閉じた瞼に遮られて、視線が合うことはない。
 この目で見て欲しい。自分だけを見つめて欲しい……。
 リュカが心の中で請い願っていると、不意にその目が薄らと開いた。

「……殿下は…………温かいですね」

 藤千代は悪戯っぽく微笑むと、ゆっくりと顔を寄せた。冷たい鼻先が触れたと思った次の瞬間には、かさついた唇が重なっていた。

 一瞬の戸惑いの後、全身の血が逆流するように燃え盛った。
 藤千代はかくんと頭を垂らすと、再び眠りに落ちる。
 リュカはもたれかかる藤千代の体を支えながら、固まったまま動けなかった。心臓が破裂しそうなくらいどきどきと音を立てる。
 どれくらい時間が経ったのか、藤千代が寝返りを打ったのに合わせて、リュカはそっと寝床から離れた。寒空に駆け出して、愛馬シミュヨンのもとへと向かう。
 シミュヨンは眠っていたが、リュカの足音を聞いてすぐにピンと耳を立てた。

「ごめん! ちょっと起きて!」

 シミュヨンは小さくいななくと、おとなしく立ち上がってリュカを乗せた。
 東の空が白み始めたばかりの、まだ星が瞬く中、リュカは夜着のままシミュヨンに乗って、荒涼とした大地を闇雲に駆けた。

 ──接吻! 接吻した!!

 大声で叫びたい気分だった。
 世界中のみんなに、藤千代と接吻したのだと言ってまわりたい。
 もちろん、藤千代が『殿下』と呼んだのは允耀皇子のことであり、リュカへくちづけしたのは、ただ単に寝ぼけて間違ってしまっただけだ。
 普段のリュカであれば、藤千代はそんなことをしないとわかったはずだが、この時は有頂天になっていて、そこまで頭が回らなかったのである。
 リュカは日が昇るまで、全速力であたりを駆け回った。






 領地の山並みが遠くに見え始めた頃、藤千代は夜半の森で隠密と再び顔を合わせた。

「ここまでだ」

 相変わらず闇夜にぼやけるように、男の姿は判然としなかった。

「こんな遠くまで、ありがとうございました」

 廟衛が追ってくることはないと言っても、長旅では盗賊や野生動物などの危険がある。男の気配を感じることはなかったが、ここまで何事もなく辿り着けたのは、明らかにこの男のおかげだろう。
 允耀皇子への感謝が込み上げるのと同時に、別れの言葉すら伝えられなかった罪悪感で押しつぶされそうになる。
 藤千代が頭を下げても男は返事をすることもなく、懐から小さな包みを取り出した。

「殿下から預かったものだ」

 包みを開くと、精巧な印章が現れた。
 公的な印ではないが、明らかに允耀皇子の証だということがわかる私印である。
 藤千代はしばらくじっと印章を見つめ、無意識のうちに一歩後ずさった。

「……これをいただくわけにはまいりません」

 男はあからさまに顔を顰めると、チッと舌打ちした。

「受け取れ。俺が怒られる」

 藤千代は再度印章へ視線を落とした。
 允耀皇子としては、藤千代が困った時の助けになるようにと託してくれたのだろう。
 どんな困難に遭ったとしても、藤千代がこれを使うつもりは決してない。しかし、允耀皇子の思い出になるようなものを、藤千代は何も持っていないのだ。
 せめて思い出の品として受け取ってしまえば──そんな思いが揺らぐが、藤千代はやはり首を振った。

「申し訳ございませんが、わたしには受け取る資格がないのです」

 ここまで見守って手を差し伸べてくれた。
 でも、もうこれからは允耀皇子の庇護から這い出さなければならない。
 男はしばらく藤千代をじっと見つめていたが、黙って印章を懐に戻した。

「……まあいい。あんたと出会ってから、殿下は随分落ち着いたからな。殺されることはないだろう」

 そう言うと、黒衣は知らぬ間に闇に紛れてしまった。







 ザロヴィアの風が強く吹きつけた。
 遠くに見えていた山々が、見る間に迫ってくる。
 目的の場所は、すぐそこまで迫っていた。
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