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新しい出会い
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継承の手続きと結婚の準備で、皆が仕事に追われていた。使用人たちは邸内を走り回り、厨房では料理の仕込みが続いていた。
そんな喧騒の中、藤千代はレオニドの補佐として慣れない仕事に忙殺された。書類を整理し、家計や税の計算をしつつ、手が空いた時には積極的に雑用も引き受けた。
雇われた当初は、他の使用人たちから反感や嫉妬が滲んだ好奇の目を向けられていた藤千代だったが、人が嫌がる仕事も厭わず、時にはわざと下手なザロヴィア語でおどけて話し、周りに溶け込むように努めた。
それでも、こんな状況でなければまだ不審の目で見られていただろうが、目の回るような忙しさの中では誰であろうが人手は欲しい。
藤千代に向けられる目は温かいものばかりではなかったものの、それでも使用人たちからは受け入れられた。
忙しい日々を過ごしながら、藤千代の胸の奥にはずっと重苦しさが燻っていた。
リュカと話をしたいと思いながらも、お互いに時間がなくて顔を合わせることすらままならない。そもそも何を話せばいいのかも、藤千代の中でまとまっていなかった。
領主となる以上、結婚して世継ぎをもうけるのは義務に近い。それを嫌がるリュカは幼いと思う。
だが、準備が進んでリュカの結婚が現実味を帯びるにつれて、藤千代自身の心も沈んでいった。
祝いの品を帳簿に記していた藤千代は、ふと手を止めた。
──允耀皇子は、もう結婚したのだろうか……
最後に見た、華やかな衣装を着た允耀皇子の姿が蘇る。
その記憶はぼんやりと曖昧になり、思い浮かべてもどこか遠い世界のことのように感じた。そして、允耀の結婚よりも、リュカに伴侶ができることの方が、深い穴へ落ち込むような暗い気持ちに覆われる気がした。
それに気づいた瞬間、藤千代の胸はさらに重く沈んでいった。
「結婚はしたくないと言っているそうだな」
教会での打ち合わせの帰り道、狭い馬車の中で訊かれたリュカは視線を彷徨わせた。
年に一度会うかどうか──閔へ行ってからは音信不通だった──男に対して、父という実感はない。若さに見合わない男の威厳は、母には頼もしく思えるのだろうが、リュカにとっては嫌悪や畏怖に近かった。
「好きな女でもいるのか」
単刀直入に訊かれて、リュカはパッと顔を上げた。その反応に、ミハイルが笑いを漏らす。
「気持ちはわかるが、恋愛と結婚は別だ。落ち着いたら上手くやればいい。妊娠にだけは気をつけろ」
リュカはカッと頭に血が上るが、大きく息を吸って気持ちを落ち着けた。
──お前の身勝手で、俺と母上がどんな思いをしたか……
リュカの容貌は母親譲りだが、表情や仕草は目の前の男をなぞるような錯覚を覚えることがあった。
こんな男の血を引いていることがおぞましくて穢らわしい。
リュカは男から目を背けて、頑なに窓の外をじっと見つめた。
「チヨさん、ちょっと帳面をつけて欲しいんだが」
下働きの男に呼ばれて門前へ向かった藤千代は、見慣れぬ大男の姿にギョッとして思わず足を止めた。
男は大量の薪と毛皮の束を背負い、荷の重さに背負子の軋む音が聞こえそうなほどだった。
藤千代は戸惑いながらも、受け取った品目を帳簿に書き留めた。それが終わると、下男が男へわずかなパンと野菜を渡す。
「……それだけですか?」
受け取った荷の対価としては、あまりにも少なすぎる。
「お屋敷の裏に森があるだろう? こいつはそこに住んでるんだが、あそこは旦那様の土地だから、これは賃料だ。今回は結婚式のために普段より多めに薪を持って来てもらったから、パンはその分の報酬だよ」
藤千代と下男が話をし出すと、男はそそくさと逃げるように帰ってしまった。
「そんなに広い土地を借りているのですか?」
藤千代が尋ねると、下男は嘲るように笑った。
「いいや、あんな大男じゃ体がつっかえるようなケチな掘立て小屋だよ。あいつは西からの移民なんだ。もう十年近く前になるか、戦から逃れてきて、元々は結構な人数がいたんだが、あいつ以外は全員、流行病で死んじまったよ。まあ正直なところ、これは取りすぎだな。でもあいつは言葉がわからないもんで、おとなしく納めてくれてるってわけだ」
藤千代は思わず眉を顰めるが、その場では何も言わずに黙って屋敷へ戻った。
梟の鳴き声や風が木を揺らす音が、暗闇に不気味に響く。湿った土の匂いの中、藤千代は月光の微かな明かりを頼りに獣道を進んだ。
森の奥に佇む小屋は、確かに吹けば飛ぶようなあばら屋だった。小屋の横にある猫の額ほどの貧相な畑を見ながら、朽ち果てそうな扉を叩く。
警戒する気配の後、細く扉が開かれた。隙間から覗く顔を見上げて、藤千代はにっこりと微笑んだ。
「昼間に会っただろう? 覚えていないか?」
言葉が通じないと言っていた通り、男は困惑した表情で藤千代を見つめるばかりだった。
中に入れてくれと身振りで伝えると、おずおずと扉が開かれる。
中は薄暗く、必要最低限の家具が備わっているだけの殺風景な部屋だった。
藤千代は持って来た籠を机の上に置くと、男へ向き直った。
「これはお前が受け取るべき報酬だ。ここ最近のものだけだが、帳簿を調べてちゃんと許可も取ってきた」
男に藤千代の言葉が理解できるはずもなく、ただただ不安げな表情を浮かべるだけだった。
男は一般的なザロヴィア人よりさらに背が高く、肩や胸板もがっしりと厚みがある。森であったら獣と見間違えそうだった。
しかし、明るい茶色の髪と同じ色の垂れ気味の瞳は、穏やかで寡黙な男の性質を表しているように思えた。
藤千代は籠の中から焼き菓子を取り出し、男の手に乗せた。
「今ちょうど、新しい領主様の結婚準備をしていて、一つ拝借してきた」
体をこわばらせたまま受け取ろうとしない男の口に、藤千代が直接菓子を押し込む。男は眉を下げながら、仕方なくごくんと飲み込んだ。明らかに藤千代より年上に見えるが、されるがままになっている様子は幼子のようだった。
藤千代は男の喉仏が動くのを満足げに見つめながら口を開いた。
「……見ての通り、わたしも異国から来たんだ。ザロヴィア語はまだ苦手だから、一緒に学ばないか?」
言葉がわからない男は黙って見下ろすだけだが、藤千代は構わず自分を指さして言った。
「藤千代だ。チヨ」
藤千代が名乗っているのを理解した男が、躊躇いがちに口を開いた。
「……エルンスト……エル」
初めて聞く男の声は、この森に似つかわしい低く落ち着いた声だった。藤千代は男の名を帳簿で把握していたが、自分の言いたいことが伝わったことがわかって、ホッと微笑んだ。
「明日もまた来る。あした、また、くる」
身振り手振りでそう伝えると、藤千代は夜の森を帰っていった。
藤千代が翌日訪ねると、テーブルには素朴な木のコップに入った薬草茶が置かれていた。余裕のない生活だろうに、藤千代のために用意してくれていたのかと思うと、心の奥がほのかに温かくなる。
小屋の中は質素で、薪の匂いに満ちていた。
エルンストは、無理やり押しかけて来た藤千代に何も言わず、ザロヴィア語の説明に耳を傾けた。
「エルはどれくらいザロヴィア語を話せる? しっている、ことばは?」
藤千代がゆっくりと尋ねると、エルンストはしばらく考える素振りをしてから口を開いた。
「クソ野郎」
藤千代は呆気に取られた後、アハハッと大声で笑った。こんなに屈託なく笑ったのは、久しぶりのことだった。
「その言葉さえ知ってたらやっていけるな」
初対面の印象ではおとなしく気弱に思えたエルンストだったが、ずっとたった一人で暮らしているというだけあって、芯の強さを感じさせた。
言葉の通じないエルンストとの交流は、不思議と苦にならなかった。見知らぬ土地で暮らす者同士、二人はあっという間に打ち解け合った。
意味がわからないはずの話を我慢強くじっと聞き、慎重に表現を選んで気持ちを伝えるエルンストの姿に、藤千代は不思議な安らぎを覚えた。
幼い時分に親元を離れた藤千代に、父の記憶はほとんどない。人質として仕えた主君からは性的な目を向けられ、助けてもらった宣教師団の巡察師長には、最後は裏切られた。
年上の男とまともな関係を築いたことのない藤千代はエルンストに対して、兄とはこういうものなのかもしれないと思った。
自分の意思でザロヴィアに来たとはいえ、奇異の目で見られ、ひそひそと噂をされれば、知らぬ間に心が擦り減っていく気がした。
そして、リュカの結婚の日が近づくにつれて、どうしようもない焦燥感で胸が塗り潰されていく。
鬱屈した思いから逃れるように、藤千代は忙しさの合間を縫ってエルンストの元を訪れた。互いの故郷の言葉と片言のザロヴィア語で他愛もないことを話している時だけは、邸内の喧騒もリュカの結婚も考えずに済んだ。
「帰りとうなか……」
琶国の言葉は通じないはずだが、机に突っ伏す藤千代を慰めるように、エルンストはその頭を撫でた。
だが時間は容赦なく過ぎ、結婚の日はすぐそこまで迫ってきていた。
藤千代は帳簿を記帳し、預かる役目として小さいながらも個室を与えられていた。
夜半過ぎにエルンストの元から戻った藤千代は、深いため息をついてベッドの縁に腰を下ろした。明日の結婚のことを考えるとわけもなく気が滅入るが、一人の時間があることだけが救いだった。
しかし、その束の間の休息はドアをノックする音で断ち切られた。
重い足を引きずって扉を開けた藤千代は、目の前に立つ人物を見て思わず後ずさりした。
「リュカ様……まだお休みになられていなかったのですか」
リュカは皮肉めいた笑いを浮かべると、部屋に入って後ろ手にドアを閉めた。
「眠れるわけないよ」
リュカは、さっきまで藤千代が腰掛けていたベッドに座ると、目の前の男を見上げた。
「チヨ……俺、明日結婚するんだよ」
掠れた声に、藤千代の胸がざわめく。
「……何か言ってよ」
リュカの顔に、よく似たプラスコヴィアの面影が重なった。無垢な少女のような母親と対照的に、まだ少年のはずのリュカの方がよほど大人びて見えた。
リュカが子どもでいられた時代などなかったのだ。
エルンストと出会い、無条件に甘えられる安らぎを知った藤千代に、リュカの苦しみが胸に迫った。
リュカは愛を渇望している。
リュカと似た境遇を過ごした藤千代こそが、それを差し出せるはずだった。
藤千代にとって、リュカはかつての自分を見ているようで、とても惨めで、不意にどうしようもない愛おしさが溢れ出た。
──結婚せんで……
あれだけリュカに諭したのに、みっともなく縋りつきそうになる。
「……せめて、前みたいに『お前』って呼んでよ」
リュカに言われて、藤千代はハッと我に返った。
呼べるわけがない。
あの頃とは状況も立場も、何もかも変わってしまったのだ。
藤千代は息を吸って呼吸を整えると、おめでとうございます、と小さく呟いた。
リュカはしばらく黙っていたが、自嘲するような引き攣った笑いを浮かべると、扉を乱暴に閉めて部屋を出た。
そして翌日、華やかな式が幕を開けた。
そんな喧騒の中、藤千代はレオニドの補佐として慣れない仕事に忙殺された。書類を整理し、家計や税の計算をしつつ、手が空いた時には積極的に雑用も引き受けた。
雇われた当初は、他の使用人たちから反感や嫉妬が滲んだ好奇の目を向けられていた藤千代だったが、人が嫌がる仕事も厭わず、時にはわざと下手なザロヴィア語でおどけて話し、周りに溶け込むように努めた。
それでも、こんな状況でなければまだ不審の目で見られていただろうが、目の回るような忙しさの中では誰であろうが人手は欲しい。
藤千代に向けられる目は温かいものばかりではなかったものの、それでも使用人たちからは受け入れられた。
忙しい日々を過ごしながら、藤千代の胸の奥にはずっと重苦しさが燻っていた。
リュカと話をしたいと思いながらも、お互いに時間がなくて顔を合わせることすらままならない。そもそも何を話せばいいのかも、藤千代の中でまとまっていなかった。
領主となる以上、結婚して世継ぎをもうけるのは義務に近い。それを嫌がるリュカは幼いと思う。
だが、準備が進んでリュカの結婚が現実味を帯びるにつれて、藤千代自身の心も沈んでいった。
祝いの品を帳簿に記していた藤千代は、ふと手を止めた。
──允耀皇子は、もう結婚したのだろうか……
最後に見た、華やかな衣装を着た允耀皇子の姿が蘇る。
その記憶はぼんやりと曖昧になり、思い浮かべてもどこか遠い世界のことのように感じた。そして、允耀の結婚よりも、リュカに伴侶ができることの方が、深い穴へ落ち込むような暗い気持ちに覆われる気がした。
それに気づいた瞬間、藤千代の胸はさらに重く沈んでいった。
「結婚はしたくないと言っているそうだな」
教会での打ち合わせの帰り道、狭い馬車の中で訊かれたリュカは視線を彷徨わせた。
年に一度会うかどうか──閔へ行ってからは音信不通だった──男に対して、父という実感はない。若さに見合わない男の威厳は、母には頼もしく思えるのだろうが、リュカにとっては嫌悪や畏怖に近かった。
「好きな女でもいるのか」
単刀直入に訊かれて、リュカはパッと顔を上げた。その反応に、ミハイルが笑いを漏らす。
「気持ちはわかるが、恋愛と結婚は別だ。落ち着いたら上手くやればいい。妊娠にだけは気をつけろ」
リュカはカッと頭に血が上るが、大きく息を吸って気持ちを落ち着けた。
──お前の身勝手で、俺と母上がどんな思いをしたか……
リュカの容貌は母親譲りだが、表情や仕草は目の前の男をなぞるような錯覚を覚えることがあった。
こんな男の血を引いていることがおぞましくて穢らわしい。
リュカは男から目を背けて、頑なに窓の外をじっと見つめた。
「チヨさん、ちょっと帳面をつけて欲しいんだが」
下働きの男に呼ばれて門前へ向かった藤千代は、見慣れぬ大男の姿にギョッとして思わず足を止めた。
男は大量の薪と毛皮の束を背負い、荷の重さに背負子の軋む音が聞こえそうなほどだった。
藤千代は戸惑いながらも、受け取った品目を帳簿に書き留めた。それが終わると、下男が男へわずかなパンと野菜を渡す。
「……それだけですか?」
受け取った荷の対価としては、あまりにも少なすぎる。
「お屋敷の裏に森があるだろう? こいつはそこに住んでるんだが、あそこは旦那様の土地だから、これは賃料だ。今回は結婚式のために普段より多めに薪を持って来てもらったから、パンはその分の報酬だよ」
藤千代と下男が話をし出すと、男はそそくさと逃げるように帰ってしまった。
「そんなに広い土地を借りているのですか?」
藤千代が尋ねると、下男は嘲るように笑った。
「いいや、あんな大男じゃ体がつっかえるようなケチな掘立て小屋だよ。あいつは西からの移民なんだ。もう十年近く前になるか、戦から逃れてきて、元々は結構な人数がいたんだが、あいつ以外は全員、流行病で死んじまったよ。まあ正直なところ、これは取りすぎだな。でもあいつは言葉がわからないもんで、おとなしく納めてくれてるってわけだ」
藤千代は思わず眉を顰めるが、その場では何も言わずに黙って屋敷へ戻った。
梟の鳴き声や風が木を揺らす音が、暗闇に不気味に響く。湿った土の匂いの中、藤千代は月光の微かな明かりを頼りに獣道を進んだ。
森の奥に佇む小屋は、確かに吹けば飛ぶようなあばら屋だった。小屋の横にある猫の額ほどの貧相な畑を見ながら、朽ち果てそうな扉を叩く。
警戒する気配の後、細く扉が開かれた。隙間から覗く顔を見上げて、藤千代はにっこりと微笑んだ。
「昼間に会っただろう? 覚えていないか?」
言葉が通じないと言っていた通り、男は困惑した表情で藤千代を見つめるばかりだった。
中に入れてくれと身振りで伝えると、おずおずと扉が開かれる。
中は薄暗く、必要最低限の家具が備わっているだけの殺風景な部屋だった。
藤千代は持って来た籠を机の上に置くと、男へ向き直った。
「これはお前が受け取るべき報酬だ。ここ最近のものだけだが、帳簿を調べてちゃんと許可も取ってきた」
男に藤千代の言葉が理解できるはずもなく、ただただ不安げな表情を浮かべるだけだった。
男は一般的なザロヴィア人よりさらに背が高く、肩や胸板もがっしりと厚みがある。森であったら獣と見間違えそうだった。
しかし、明るい茶色の髪と同じ色の垂れ気味の瞳は、穏やかで寡黙な男の性質を表しているように思えた。
藤千代は籠の中から焼き菓子を取り出し、男の手に乗せた。
「今ちょうど、新しい領主様の結婚準備をしていて、一つ拝借してきた」
体をこわばらせたまま受け取ろうとしない男の口に、藤千代が直接菓子を押し込む。男は眉を下げながら、仕方なくごくんと飲み込んだ。明らかに藤千代より年上に見えるが、されるがままになっている様子は幼子のようだった。
藤千代は男の喉仏が動くのを満足げに見つめながら口を開いた。
「……見ての通り、わたしも異国から来たんだ。ザロヴィア語はまだ苦手だから、一緒に学ばないか?」
言葉がわからない男は黙って見下ろすだけだが、藤千代は構わず自分を指さして言った。
「藤千代だ。チヨ」
藤千代が名乗っているのを理解した男が、躊躇いがちに口を開いた。
「……エルンスト……エル」
初めて聞く男の声は、この森に似つかわしい低く落ち着いた声だった。藤千代は男の名を帳簿で把握していたが、自分の言いたいことが伝わったことがわかって、ホッと微笑んだ。
「明日もまた来る。あした、また、くる」
身振り手振りでそう伝えると、藤千代は夜の森を帰っていった。
藤千代が翌日訪ねると、テーブルには素朴な木のコップに入った薬草茶が置かれていた。余裕のない生活だろうに、藤千代のために用意してくれていたのかと思うと、心の奥がほのかに温かくなる。
小屋の中は質素で、薪の匂いに満ちていた。
エルンストは、無理やり押しかけて来た藤千代に何も言わず、ザロヴィア語の説明に耳を傾けた。
「エルはどれくらいザロヴィア語を話せる? しっている、ことばは?」
藤千代がゆっくりと尋ねると、エルンストはしばらく考える素振りをしてから口を開いた。
「クソ野郎」
藤千代は呆気に取られた後、アハハッと大声で笑った。こんなに屈託なく笑ったのは、久しぶりのことだった。
「その言葉さえ知ってたらやっていけるな」
初対面の印象ではおとなしく気弱に思えたエルンストだったが、ずっとたった一人で暮らしているというだけあって、芯の強さを感じさせた。
言葉の通じないエルンストとの交流は、不思議と苦にならなかった。見知らぬ土地で暮らす者同士、二人はあっという間に打ち解け合った。
意味がわからないはずの話を我慢強くじっと聞き、慎重に表現を選んで気持ちを伝えるエルンストの姿に、藤千代は不思議な安らぎを覚えた。
幼い時分に親元を離れた藤千代に、父の記憶はほとんどない。人質として仕えた主君からは性的な目を向けられ、助けてもらった宣教師団の巡察師長には、最後は裏切られた。
年上の男とまともな関係を築いたことのない藤千代はエルンストに対して、兄とはこういうものなのかもしれないと思った。
自分の意思でザロヴィアに来たとはいえ、奇異の目で見られ、ひそひそと噂をされれば、知らぬ間に心が擦り減っていく気がした。
そして、リュカの結婚の日が近づくにつれて、どうしようもない焦燥感で胸が塗り潰されていく。
鬱屈した思いから逃れるように、藤千代は忙しさの合間を縫ってエルンストの元を訪れた。互いの故郷の言葉と片言のザロヴィア語で他愛もないことを話している時だけは、邸内の喧騒もリュカの結婚も考えずに済んだ。
「帰りとうなか……」
琶国の言葉は通じないはずだが、机に突っ伏す藤千代を慰めるように、エルンストはその頭を撫でた。
だが時間は容赦なく過ぎ、結婚の日はすぐそこまで迫ってきていた。
藤千代は帳簿を記帳し、預かる役目として小さいながらも個室を与えられていた。
夜半過ぎにエルンストの元から戻った藤千代は、深いため息をついてベッドの縁に腰を下ろした。明日の結婚のことを考えるとわけもなく気が滅入るが、一人の時間があることだけが救いだった。
しかし、その束の間の休息はドアをノックする音で断ち切られた。
重い足を引きずって扉を開けた藤千代は、目の前に立つ人物を見て思わず後ずさりした。
「リュカ様……まだお休みになられていなかったのですか」
リュカは皮肉めいた笑いを浮かべると、部屋に入って後ろ手にドアを閉めた。
「眠れるわけないよ」
リュカは、さっきまで藤千代が腰掛けていたベッドに座ると、目の前の男を見上げた。
「チヨ……俺、明日結婚するんだよ」
掠れた声に、藤千代の胸がざわめく。
「……何か言ってよ」
リュカの顔に、よく似たプラスコヴィアの面影が重なった。無垢な少女のような母親と対照的に、まだ少年のはずのリュカの方がよほど大人びて見えた。
リュカが子どもでいられた時代などなかったのだ。
エルンストと出会い、無条件に甘えられる安らぎを知った藤千代に、リュカの苦しみが胸に迫った。
リュカは愛を渇望している。
リュカと似た境遇を過ごした藤千代こそが、それを差し出せるはずだった。
藤千代にとって、リュカはかつての自分を見ているようで、とても惨めで、不意にどうしようもない愛おしさが溢れ出た。
──結婚せんで……
あれだけリュカに諭したのに、みっともなく縋りつきそうになる。
「……せめて、前みたいに『お前』って呼んでよ」
リュカに言われて、藤千代はハッと我に返った。
呼べるわけがない。
あの頃とは状況も立場も、何もかも変わってしまったのだ。
藤千代は息を吸って呼吸を整えると、おめでとうございます、と小さく呟いた。
リュカはしばらく黙っていたが、自嘲するような引き攣った笑いを浮かべると、扉を乱暴に閉めて部屋を出た。
そして翌日、華やかな式が幕を開けた。
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