上 下
1 / 4
序幕&第一幕

「おまえはオレのものだ。だから、オレもおまえのものだ。」~龍神少年 参~

しおりを挟む
序幕

 おまえが死んだら、オレは狂う。

翡蓮ひれん、おい、冗談やめろ…。」
 誰の声だよと思う。ひどく遠い。それに、オレの声がこんなに震えるはずがない。
 腕の中の翡蓮は、ぐったりと目を閉じて、金色のまつげ一本すら動かない。
 ふざけんな。目ぇ開けろ。
 おまえの頬は、もっとあたたかいし、おまえの唇はもっと綺麗な桃色だろう!
 こんなのは、まるで。
 よぎった考えに、オレは凍りつく。
 ざっと血の気の引く音が、頭のどこかで聞こえた。
「翡蓮。」
「翡蓮…。」
「翡蓮!」
「翡蓮!!」
 なんで答えない!?
 オレが呼んでるんだ。
 おまえなら、いつだって、何してったって、オレの声に。
 もう、届かない…?
「翡蓮、ふざけんな!!そばにいろって言ったのおまえだろ!!」

第一幕

 龍神国は、七柱の龍神によって創造され、守護されている国である。
 炎と太陽を支配する紅龍。
 光と安らぎを司る橙龍。
 大地に実りを約束する黄龍。
 風を統べ、嵐を起こす翠龍。
 天空と氷雪を操る青龍。
 海と水の象徴である藍龍。
 雷光と雷鳴を呼ぶ紫龍。
 龍神の力を使い、人々は邪悪を打ち払う。
 その技を、神術、それを操る者を神官と呼ぶ。
 神官の中でも、特別に龍の加護を受ける者は、証として瞳にその色彩(いろ)を宿す。

「へえ。久々に大物じゃねーか。」
 にやりと好戦的に笑ったのは、十二、三に見える美貌の少年。
 山の端に沈みつつある夕日の、目を射る朱金の光を受けて、波打つ銀色の髪が眩く輝く。
 燃えるような猩々緋の紅葉より、さらに赤い、真紅の双眸。
 整った容貌だが、浮かべる表情が不敵を通りこして傲慢なせいで、好意より反感を買いそうだ。
緋皇ひおう、おまえ、またそういう不謹慎なことを…。仕事なんだぞ。真面目にやれよ。」
 ため息混じりにたしなめるのは、緋皇とは、対照的な少年だ。
 年の頃や背丈、白い小袖に浅葱色の袴など、共通している点が多い分、逆に差異が際立つ。
 わずかに赤みを帯びた、柔らかな色合いの金色の髪はまっすぐで、さらさらと夕風になびいている。
 瞳は、常緑樹より、なお鮮やかな常盤碧。
 秀麗で涼しげな美貌に、生真面目な表情が浮かんでいる。
 まるで、緋皇と対にするために、造化の神が作り出したような。
「おまえは、ホントいつもかたっ苦しいよな、翡蓮。肩の力抜けよ。そんなんじゃ逆にヘマするぜ?」
 からかうように語尾を上げ、緋皇が笑う。
「おまえは抜きすぎ。」
 翡蓮は憮然と返したが、緊張がほぐれたようで、桃花の唇にかすかな笑みを滲ませる。
 それでも、翠玉の双眸は、油断なく異形の者をとらえていた。
 龍神国にはびこる邪悪。その中でも、最強。妖の頂点に立つ災厄の象徴を。
 十尺近くある巨躯。赤黒い肌に、盛り上がった筋肉。耳まで裂けた口。白目の無い目には理性も無い。こめかみからは、二本の角が伸びる。力任せに丸太のごとき腕を振るえば、巨木がぽっきりと折れた。
 しかし、翡蓮に続いて放たれた声は、やけにのんびりしていた。
「珍しく、緋皇の言う通りかもね~。」
「そうそう。鬼だけど、あれは下位種っぽいし。まあ、なんとかなるでしょ。」
 一瞬、一人が続けて言葉を発したのかと錯覚するほど、よく似た声だった。
 肩につかない長さの、艶やかな漆黒の髪に、蒼天の双眸。鏡に映したようにそっくりだ。おそらく双子だろう。よく見ると、瞳の色合いが異なり、透き通る水色と、深い藍色だ。
「そうだな。」
と、翡蓮は頷き、慣れた様子で指示を出す。
玻璃はり、結界を張ってくれ。瑠璃るりは、結界内を浄化。それで、鬼の力は落ちる。」
 不浄の気の固まりである鬼は、清められた場では本来の力を封じられる。
「「了解!」」
 玻璃と瑠璃が声をそろえる。
「オレと緋皇で攻撃する。オレが合わせるから緋皇は好きに仕掛けろ。」
「ぐずぐずしてたら、オレだけで倒しちまうぜ?」
 挑発的に笑う緋皇。緊張感の欠片もないのが、実に緋皇らしくて、翡蓮はつられたように笑ってしまう。
 すう、と冷え始めた黄昏の空気を吸い込む。
「いくぞ。」

「四級神術発動、絶界氷壁!」
 玻璃が、空中に図形を描きながら叫ぶ。
 ピキピキピキピキ!
 空気に含まれていた水分が、音をたてて凍てつき、周囲をぐるりと氷の壁で覆う。冷気を帯びた清浄さが、肌を刺す。
 鬼の動きが止まった。
 鬼にとっては、清浄は毒。絶叫が、びりびりと空気を震わせ、木々の枝が激しくざわめく。
「四級神術発動、流雨祓邪!」
 瑠璃が神術を放つ。
 浄化の力を持つ豪雨が降り注ぐ。下位の妖なら、一滴で溶かされる威力だが、さすがは鬼。鋼の肌はしゅうしゅうと白い煙をたててはいても、痛みを感じている様子は無い。それでも、鬼はやみくもに暴れ回るのをやめ、雨を避けて大木の下へ。
「三級神術発動、劫火狂獣!!」
 緋皇の指先が真紅に輝く。描かれた図形から出現したのは、燃え盛る狼。
 咆哮を上げ、鬼に向かって突っ込んでいく。
 鬼は、突然現れた敵を迎え撃つ。
 拳で、炎の狼を殴りつけた。
 炎が四散する。
 鬼の拳は、表面が火傷を負った程度。
 緋皇が
「チッ!」
と舌打つ。
 劫火狂獣の炎が消える前に。
「三級神術発動、無限旋風!!」
 翡蓮がつむじ風を放つ。次々に生み出される小規模の竜巻が鬼を襲う。襲い続ける。
 大型の獣でも、巻き込まれれば一瞬で肉が引きちぎられる威力だが、鬼の強靭な肉体の前には、足止めにしかなっていない。
 しかし、緋皇にはそれで十分。
 翡蓮と、刹那、視線を絡ませ、頷き合う。
 緋皇が飛びだした。
「三級神術発動、炎刀閃光!!」
 緋皇が刀を手にして、鬼に突っ込む。銀髪がざっとなびいた。
 羽根でも生えているかのような身軽さで跳躍する。
 燃え立つ炎をまとった刃を、鬼に向かって振り下ろす!
 ガキッ!!
 鬼が爪で受ける。
 ゴウッ!
 炎が燃え移るが、鬼は火傷の痛みなど感じていないようだった。
 瞳も白目も無い異形の目が、敵をとらえる。
 爪で刀を振り払った。
 緋皇は、自ら後ろに跳んで、鬼の爪で切り裂かれるのを避ける。
 トン、と軽やかに着地し。
「楽しませてくれるじゃねーか。」
 不敵に、唇の片端をつり上げる。
「いや、楽しまなくていいから。」
 隣で冷静につっこんだ翡蓮が
「三級神術発動、玉風乱刃!!」
 疾風の刃を繰り出す。
 鬼が、腕を交差させ、体を庇う。
 腕をわずかに傷つけたが、それだけだ。かすり傷。
「さすがに頑丈だな…。」
 翡蓮が眉をひそめる。
「二級使おうぜ。どーせ、こんな山奥、民家とかねーだろ?」
 翡蓮は、わずかに逡巡する。(緋皇が好き勝手に暴れると、地形が変わりかねない…。)あまり派手なことはしたくないが、それを気にしていたら、鬼を取り逃がすかもしれない。
「…あまり無茶するなよ?」
 緋皇は鼻で笑っただけだった。
「二級神術発動、天裂炎槍!!
 鬼の真下から、炎が噴き出す。
 鬼の全身を包み、激しく燃え盛る業火。しかし。
「緋皇、分散していると効果が弱い。」
 翡蓮が指摘する。緋皇が頷き、炎の範囲を狭めた。鬼の体の中心…腹の辺りにだけ、威力を集中させる。
 鬼が転げまわる。
 焼き切れた。
 上半身と下半身に、鬼の体が断ち切られる。
 緋皇が、炎を消す。
「この程度の鬼なら、楽勝だな。」
 翡蓮は頷かなかった。
 ハッと身構えたのは。
 視界の隅で、何かが光った気がしたから。
 沈みゆく日輪が、今日最後に放つ光。それを反射したのは、唾液に濡れ、ぬらりと不気味に輝く鬼の牙。
「緋皇!!」
 翡蓮が、とっさに緋皇を突き飛ばした。
 翡蓮自身は避けきれなかった。
 両腕を大地に叩き付け、その勢いで突っ込んできた鬼から。
 鬼の最期の力。
 真っ二つにされながらも、上半身だけで飛びかかってきた。
 拳が、翡蓮の脇腹をかすめる。
 その風圧だけで、肉がぱっくりと裂けた。
 熱い、と最初に思った。次に襲う、声にもならない激痛。
「―っ!!」
「翡蓮!!」
 叫んだ緋皇の鮮血の瞳が、憤怒と殺気に燃え上がる。
「二級神術発動、業火炸裂!!」
 ゴウッ!!
 一瞬で燃え広がった爆炎が、周囲の木々も巻き込んで、鬼を炎上させた。
(倒したな…。)
 それを見て気が抜けたのか、翡蓮が崩れ落ちる。白い小袖も浅葱の袴も、赤く濡らして。
「翡蓮!!」
 緋皇がその腕に翡蓮を抱き留めた。
「翡蓮、おい、しっかりしろ!!」
「「翡蓮!!」」
 後ろで双子が、悲鳴のように翡蓮の名を叫ぶ。

「…鬼は調伏しました。できれば生け捕り、無理でも、体の一部は持ち帰るように、とのことでしたが、それは不可能となってしまいました。申し訳ありません。報告は以上です。」
「了解しました。それで、あなたの怪我の具合は。」
「かすめた程度なので、動けます。帰還に問題はありません。」
「あなたは、すぐに無理をするから、その言葉を鵜呑みにできません。動いても支障がなくなるまで、帰還を遅らせなさい。二、三日はそこに待機です。」 
 小さな水晶玉に映る琥珀こはくから、気遣わしげな眼差しを向けられ、翡蓮は頭を下げた。美女と見まごうほど清楚でたおやかな美貌の琥珀は、「あの見た目ですっげー怖いのって詐欺。」と神官候補生たちから怖れられているが、厳しい言動の奥には、本当の慈愛と慈悲がある。
「ありがとうございます、琥珀教官。本当に大丈夫ですから。」
 と、翡蓮は通信を終えた。
 琥珀の姿と声を届けていた水晶玉は、無色透明な、ただの水晶玉にもどる。
「龍眼出してるっつーことは、おまえ報告したな?後でオレがやるつっただろーが。」
 部屋に入ってきた緋皇が、水晶玉を見て、不機嫌な顔になった。
 一見、ただの小さな水晶玉だが、神術を使える者どうしなら、互いの姿と声を届ける通信器具になる。対で作られていて、片方が、現在、神殿にいる琥珀のもとにあるのだ。「龍の眼と耳」もしくは単に「龍眼」と呼ばれており、遠方の任務に派遣される神官や神官候補生に支給される。
 今回、神殿から遠く離れた村を鬼が襲ったと、救援の要請があり、翡蓮たちの小隊が派遣された。鬼の外見から、下位種とわかっており、候補生とはいえ、抜きんでた実力をもつ緋皇と翡蓮なら十分倒せると判断されたが、無傷では済まなかった。
 夕方から神殿に向かうと、夜通し歩くことになってしまうので、今夜は宿に泊まり、明日の朝出立する予定だ。(琥珀教官は心配してくださったけど、帰還に支障が出るほどの怪我でもないし。)と翡蓮は考えている。
 翡蓮は軽く肩をすくめた。
「おまえに報告やらせると、絶対琥珀教官に失礼なこと言うだろ。」
「信用ねーな…。」
 緋皇が、綺麗な顔をおもいきりしかめたので、翡蓮は思わず笑ってしまい、傷に響いて
「つっ…。」
と、小さく声を上げた。
「おい、翡蓮!」
 緋皇が血相を変えてそばに寄ったので、翡蓮は
「大丈夫だ。」
と、笑みを浮かべ、近くに来た緋皇の頭を見て、笑みを苦笑に変えた。荷物から手ぬぐいを取り出す。風呂から上がった緋皇の銀髪からは、水滴がぽたぽたと、うなじにこぼれている。優しく拭いてやりながら、幼い子に対するように言い聞かせる。
「緋皇、おまえ、ちゃんと髪拭けよ。風邪ひくぞ。」
 季節は晩秋を過ぎ、初冬に差し掛かろうとしている。朝晩の冷え込みが厳しくなり、木々の紅葉が鮮やかだ。
「怪我人のくせに、人の世話焼いてんじゃねーよ。」
 緋皇は、翡蓮の手を払いのけはしなかったが、礼も言わずにぶすっと返す。翡蓮は気にしない。
「だったら、自分でちゃんと拭けよ。おまえって、時々、ちっちゃい子みたいだよなあ…うん、こんなもんかな。」
 水気が取れたので、翡蓮はちょっと名残惜しい気分で、緋皇の髪から手を引く。緋皇の銀髪は、ふわふわの猫っ毛で、翡蓮のまっすぐでさらさらの金髪とは手触りが全く違うので、面白いのだ。
 翡蓮は、濡れた手ぬぐいを、部屋用の小さな物干しに引っかけながら言う。
「玻璃と瑠璃、遅いな。温泉温泉ってはしゃいでたから、のぼせてないといいけど。」
「おまえって、いっつも人の心配ばっかだよな。ガキじゃねーんだからほっとけよ。」
 緋皇は面白くなさそうな顔で返す。
「?緋皇、機嫌悪くないか?おまえも、大浴場に行きたかったなら、行けばよかったのに。」
 翡蓮はきょとんと首をかしげる。
 神殿が用意してくれたのは、老舗の温泉宿で、源泉かけ流しの大浴場がある。
 翡蓮は、傷が開くと出血するので、油紙を巻いて部屋の風呂で済ませた。少し残念だったが、部屋の風呂も同じ湯を引いているので、まあいいかとも思う。神殿ではいつも大浴場なので、大きい風呂が珍しいということもない。
 緋皇は、翡蓮が風呂に入っている間、「何かあったら呼べよ。」と部屋にいて、翡蓮の後、部屋の風呂に入り、出てきたところである。
「風呂なんかどーでもいいっつーの。」
と、緋皇は投げ遣りに答え、
「薬もう一回塗って、包帯変えるぞ。」
と、荷物を開ける。緋皇が薬と包帯を畳に置き、翡蓮の正面に座った。
「自分でやれるか。」
「オレがやるつってんだから、やらせろ。」
 緋皇が苛立っているので、翡蓮は素直に小袖を脱ぐ。緋皇は基本的に怒りっぽいが、今は何に対して腹を立てているのか、翡蓮にもわからない。
 小袖から両腕を抜いて、諸肌脱ぎになる。あらわになった翡蓮の上半身の白い肌を見て、緋皇は思い出したように呟いた。するすると包帯をほどきながら。
「おまえって、生傷が絶えねーよな。」
 妖刀に切り裂かれた刀傷も、鏡の妖に神術をはね返されてできた傷も、今はもう綺麗に治って痕も残っていないが。神官は神術を使うことで自然の気を取り込むので、そのたびに肉体が活性化する。傷の治りが早いのも、成人後の神官が若い肉体を保てるのも、それが理由だ。
「オレのせいで。」
 ぼそっとつけ加えた緋皇に、翡蓮はハッとする。
「そんなこと気にしなくて…って、痛い痛い痛い!!」
 思い切り乱暴に薬を傷口に塗りこまれ、翡蓮は涙目になって悲鳴を上げた。
「緋皇、痛いって!もうちょっと優しくして。」
「痛くしてやってんだよ。」
 緋皇の声は、地獄の底から響いてくるように低かった。
(緋皇…?)
 翡蓮は、痛みも忘れて息を呑む。
「おまえが、怪我すんの嫌になるようにな!」
(あ…。)
 真紅の双眸に燃え上がる激情。
 そこがどこに向かっているのかようやく理解し、翡蓮は慌てた。
「緋皇、こんなの、たいしたことないから。本当に大丈夫だから、おまえが気にすることなんてないから。神官の仕事に怪我はつきものだし。」
「オレは嫌なんだよ!」
 緋皇が、感情を叩きつける。
「わかってんだよ。おまえはオレを庇ったんだから、本当は礼も言わなくちゃいけねーし、謝らなきゃいけねーんだろ。だけど、腹立つんだよ。オレが悪いってわかってるけど、おまえが平気で自分を犠牲にするところ、すげえ腹立つんだよ!!」
「緋皇…。」
 緋皇は、翡蓮の視線を避けるように俯くと、後は黙々と包帯を巻く。翡蓮からは、固く引き結ばれた珊瑚色の唇だけが見えた。
 翡蓮が必死で言葉を探しているうちに、緋皇は包帯を巻き終わってしまい、きゅっと結んだ。腕を持ち上げられて袖を通され、着物も戻される。
 されるがままになりながら、翡蓮は焦って、まだ考えがまとまらないまま、話し出してしまう。
「えっと、ごめん、あの。」
「なんでおまえが謝るんだよ。」
 緋皇ににらみつけられて、翡蓮は微苦笑する。
「あのさ、こんなこと言うと、おまえはよけい怒るかもしれないけど…オレは、おまえがそうやって心配してくれるの、ちょっとうれしい。あ、もちろん悪いなっていう気持ちもあるんだけど。」
「…何言ってんだおまえ。」
 緋皇が、赤い目を剣呑にすがめる。
「だって、ちょっと前まで、オレが怪我しても、おまえは心配してくれなかっただろ。だから、うれしい。」
「あのな…。」
 緋皇はぎりっと奥歯をかみしめ…怒鳴りつけたいのを呑みこんだ。
 嵐のように立ち上がる。
「え、緋皇?」
「頭、冷やしてくる。」
 扉をパンと開け放った緋皇に、
「え、ちょっと待。」
 翡蓮が伸ばした手は空を切る。
 同時に
「ただいま、翡蓮、緋皇。お風呂、神殿のより広かったよ。楽しかった!!」
「露天風呂もあったよ~。あ、ごめん翡蓮。でも、お湯は部屋のも同じだよね。」
 と、瑠璃と玻璃が賑やかに帰って来た。
「「どうかした?」」
 さすが双子。全く同じ言葉が重なった。
 緋皇は無言で駆け去り、追いかけようとした翡蓮は、傷に響いてうめき、
「翡蓮、だいじょうぶ?」
「急に動いちゃ駄目だってば!」
と、双子に止められる。

「緋皇が頭冷やしてくるって言うなら、時間をあげる方がいいよ。」
「距離が必要な時ってあるよ。」
 玻璃と瑠璃に左右から言われ、翡蓮は緋皇を追うのを思いとどまる。
 同い年だが、翡蓮や緋皇より一つ二つ幼く見える容姿で、ふだんの言動もそれに合わせたかのように無邪気な二人だが、時折大人びた忠告をすることがある。今がそうだった。
 ため息をついて座りこんでしまった翡蓮に、瑠璃が、凪いだ海のような穏やかな声で言う。
「だいじょうぶだよ。緋皇は自分でもどってくるって。」
 玻璃が、静かに降り積もる雪を思わせる声で言う。
「自覚ないと思うけど、翡蓮、緋皇にはちょっと過保護。」
「え。」
と、顔を上げた翡蓮に、双子は、瓜二つの顔を見合わせて、鈴を転がすように軽やかに笑う。
「緋皇だって、ちゃんとわかってるよ。」
「翡蓮は、ど~んと構えてればいいの。」
「…うん。」
と、答えたものの。
 結局、翡蓮は、緋皇を探しに部屋を出てしまった。瑠璃と玻璃は、二度目は止めずに、苦笑しながら見送ってくれた。
(だって、心配で他のこと手につかないし。)
 ここの温泉には、薬効もあり、長く逗留する客もいて、小規模だが書庫がある。そこから借りてきた本を試しに開いてみたのだが、同じ頁を何度も読んでいて、内容がさっぱり頭に入ってこなかった。本が好きな翡蓮だが、緋皇に何かあった時は、そうなってしまう。
(緋皇のことだから、また木に登ってるのかなあ。風呂上りに外出たら、体冷えるぞ。)
 考え事をしながら、宿の中を歩いていたせいで。
 前から歩いてきた客とぶつかりそうになってしまった。
「あ、すみません!」
 持ち前の反射神経で衝突は避けられたが、お互い急に止まったので、相手は手にしていた荷物を取り落してしまった。
 ドサドサドサと、廊下に散らばった冊子や巻物を、翡蓮は相手と一緒に慌てて拾い集める。書庫から借りてきた物らしい。傷んでいないといいけれど、と翡蓮は心配しつつ相手に手渡す。
「こちらこそ、すみません。ありがとう。」
 ゆったりと優美に微笑んだのは、二十歳ほどの若者だった。
 まともに顔を見て、翡蓮はちょっと目を見張る。
 絶世の美貌だった。
 琥珀の、たおやかで清楚で、けれどその奥に硬質さを秘めた美貌とも、<龍王>紫天の、美丈夫と称するのがふさわしい、迫力のある美貌とも違う。老若男女を問わず虜にする、優艶さ。たとえるなら、傾国の美女か。
 上質の絹でできた狩衣をまとっていてさえ、男装の美姫に見える。唇の紅さは、朱でも刷いているかのよう。声を聞かなければ、きっと性別を間違えた。
 翡蓮はちょっと気後れして視線を反らし、そのせいで、離れたところに、巻物が一本転がっているのに気づいて、そちらへ向かった。
 落ちた衝撃で開いてしまったらしく、精緻な筆遣いで描かれている絵が見える。絵巻物のようだ。
(大蛇…頭が八つ?)
 描かれているのは、八つの頭と尾をもつ蛇だった。人の姿は豆粒ほどなので、信じられないくらい巨大な蛇だとわかる。
「神官候補生だから、やはり妖に興味がありますか?」
 そばに来た若者が、にこやかに問いかける。白の小袖に浅葱の袴という神官候補生のお仕着せの上に、金髪に緑の目なので、素性はすぐに伝わる。
「はい。こんな妖は初めて見ました。まだ修行中なので、全ての妖は知らなくて。なんという妖ですか?」
 翡蓮が首肯して問いかえすと、若者も頷き返す。
八岐大蛇やまたのおろちです。その目は鬼灯のごとく、一つの体に頭が八つ、尾が八つ、体に生えるは、苔、檜、杉。その長さは八つの谷、八つの山に渡る。腹は一面が血にまみれ、爛れている…。この辺りの村にのみ伝承が残っているそうですから、知らなくても不思議はありませんよ。ただ、これは妖というより、邪神ではないかと。」
「邪神…堕ちたる神、ですか?」
「ええ。零落し、龍神の眷属から外れた、哀れな神。興味があるなら、ちょっとそこでお話しましょうか?」
 若者が眼を細めてにこりと笑う。同性でもどきりとするような魅惑的な笑みだが、それよりも、翡蓮は、零落した神、という言葉が引っかかった。あまり聞いたことのない言葉だった。本が好きなだけあって、翡蓮は知識欲が豊富だ。
 緋皇は気がかりだが、ほんの数分、話を聞くぐらいなら、と思い
「はい。お願いします。」
と返した。

 龍神国は、七柱の龍神が創造し、守護する国。
 龍神は、世界を作った後、様々な神を作り、国土を豊かにしたと伝えられている。
 そのため、この国には、八百万の神が宿るのだと。
 全ての神は、属性ごとにいずれかの龍神の眷属にふりわけられている。たとえば、竈の神は、炎と太陽を支配する紅龍の眷属であり、鳥や虫を守護する神は、風に属するので翠龍の眷属になる。
「しかし、神は敬われないと聖性を失ってしまうのですよ。これは私の自説ですが…ああ、私は趣味で学者の真似事をしていまして…妖というのは、全て、そうして堕ちた神々の成れの果てではないかと考えています。」
と、若者は言った。
 初めて聞く説だった。翡蓮は目を瞠る。
「なぜ、敬われなくなってしまったのでしょうか?」
 若者は、出来の良い教え子を見るように目を細めた。書物を紐解くのを好む者として、同志を見つけて喜んでいるのだろうか。
「理由は様々ですね。この八岐大蛇は、もともとは水神です。百年ほど前、この辺りの村の井戸が枯れ、一人の娘が、その身を自ら差し出したそうです。八岐大蛇は、娘の願いを叶え、井戸の水を満たしましたが、人の肉の味を覚えて狂い、それが堕ちる原因になったと。娘の志は尊いものでしたが…。おや?」
と、若者が意外そうに、そして面白そうに翡蓮を眺めた。
「納得できない顔をなさっていますね?」
「え、いえ、自分を犠牲にしなくても済む方法はなかったのかなと思ってしまって。」
「神官候補生さまなら、この娘に共感しそうだと思っていたのですが。わが身を犠牲にして皆を救うのは、高潔な志では?」
 漆黒の双眸に、つ、と流し見られ、翡蓮はきっぱりと言った。
「オレが犠牲になると、怒るやつがいるんです。」
 その翠玉の瞳は、澄み切って、一点の曇りもない。折れない、大樹の強さ。
「だから、自分を犠牲にするのは、本当に最後の手段にしないといけないと思っています。」

 月が明るい。
 真円を描き、皓々と輝いて地上を照らす。
 ふわり、と風が頬を撫でる。
 知っている。清涼で清々しくて、けれどけして冷たくはない、かすかに甘く香る。
(翡蓮の。)
 目を開けた緋皇の前にいたのは、風の翼を背中に広げて微笑む翡蓮。
「見-つけた!」
 宿の庭。朱色の実が鈴なりになった柿の木に登っていた緋皇は、のぞきこんできた翡蓮から、ぷいと目をそらす。柿の木は折れやすいはずだが、緋皇の体重なら平気らしい。
「…動き回るな。傷、開くぞ。」
「おまえが帰って来ないからだろ。」
 翡蓮は手を伸ばして、緋皇の頬に触れた。
「せっかく風呂に入ったのに、こんなに冷えちゃったじゃないか。頭も冷えただろ。部屋にもどるぞ。」
「…。」
 緋皇は、まっすぐに翡蓮を見た。
 翡蓮は、どきりと息を詰めた。
 紅玉の視線に絡め取られて、身動きひとつできなくなる。
 呪縛されたように、魅入られたように。
「翡蓮。」
 緋皇が、自分の頬に触れている翡蓮の手、その手首をつかんだ。
「オレは、もっと強くなる。」
(おまえが、オレを庇う必要なんてなくなるように。)
「…うん。オレも。」
(おまえの心ごと、守れるように。)
 少年たちの誓を、冴え冴えと白い、秋の満月だけが見ていた。
 否。
 月光さえ届かない、深い闇に潜んだ異形もまた。

 くすくすと、夜闇に響く笑い声。聞く者はいない。
「紅の御子がご執心なの、納得できるなあ。あんなにまっすぐで純粋で、それでいてしなやかに強い魂は、人には稀有だ。」
 翡蓮の芯は、固く強い。そして、しなやかだ。大樹の揺るぎなさ。それでいて伸び行く若木の柔軟さ。
 いばらが、ふ、と血をすすったように赤い唇に、笑みを滲ませる。見る者がいたら、一瞬で魂を奪われそうな妖艶さを香らせ。
「堕としてみたいね。」
しおりを挟む

処理中です...