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本編
これが胃袋を掴むってやつか。私の作る唐揚げって結構すごいな。
しおりを挟むじゃあさ、の意味がわからない。
私は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして波良さんを見上げた。
波良さんは爽やかな笑みで私に笑いかけてくる。
え、なに本気なの? それともからかってるの?
「あやめちゃんのこと良いなって思ってたんだ俺。あやめちゃん料理上手だし、家庭的な女の子好きなんだよね」
「…波良さん私の料理食べたことありましたっけ?」
「和真が持ってきてた弁当貰ったんだ。なかなかアイツ分けてくれなかったけど食べて納得したよ。あやめちゃんの作った料理美味しいから独り占めしたくなる気持ちがわかるなって」
なるほど。あの唐揚げを食べたのかな。
しかし和真はあの量を独り占めしようとしてたのか。いやしんぼめ。太るぞいい加減。
…私の唐揚げには男を引き寄せるなにかがあるのだろうか。
いや、違う。
これが胃袋を掴むってことなのか?
「あやめちゃん結構危なっかしいし、放っておけないんだよね。この間の露出狂だって目の前にしてあやめちゃん固まってたし…俺が居なかったらどうなってたかと思うと心配でさ。俺、あやめちゃんを守れるくらいには腕には自信があるよ?」
「波良さん…」
「俺、あやめちゃんのこと大切にするよ?」
波良さんの真剣な眼差しにドキッとして私は目を大きく見開いた。
おいおい恥ずかしげもなく堂々と乙女がときめくセリフを言ってくれるではないか。ちょっとキュンとしたぞ。
だけどこれは決して浮気ではない、不可抗力だ。
私はこういった事に免疫がないんだよ。
…好意を持ってくれるのは嬉しい。今まで男の人に好意を向けられたことはなかったので、もしも好きな人が居なければ二つ返事でOKしてたと思う。
だけど、今はそんな気分になれない。何が悲しくて好きな人の前で別の男にお付き合いを申し込まれなきゃならないんだろうか。
「…すいません。私、波良さんのことよく知りませんし、そういう対象で見たことないんで」
「付き合ったらわかるじゃん」
「そういう問題じゃなくて…本当にすいません」
付き合えば情は湧くだろう。だけど今は本当に無理だ。
例え叶わない恋だとしても私の心には橘先輩が存在している。恋するまではこんな風になるとは思っていなかったけど、好きな人の事が心の大部分を占めているのだ。波良さんと付き合ったとしても気持ちはそう簡単に切り替わらない。
それに先輩の代わりとして波良さんと付き合うなんて器用な真似、私には出来ない。波良さんにも失礼だと思うし。
私が頭を下げてお断りすると、波良さんは「仕方ないね」とあっさり引き下がる。
随分あっさりだなおい。真面目に返事して損した気分になったぞ。
だけど波良さんは私の手を掴み、なにかのメモを渡した。
二つ折りのそのメモを開くとそこにはメッセージアプリのIDが記入されていた。
私がキョトンとして波良さんを見上げると彼はやっぱり爽やかに笑っている。
「でもいつでも声かけて? これ、俺の連絡先ね。連絡待ってるから」
「えっ」
「じゃあねー」
爽やかに去っていくフツメン。
フツメンのくせにっていうのは偏見かもしれないが、初対面の見知らぬ人(橘先輩)がいる前で交際申し込むってあの人中々メンタル強いな。
しかもこのメモいつから用意してたの?
私はじっとそのメモを見つめていたが、側に橘先輩がいるのを思い出してハッとする。
なんてことだ。待たせたままだった。
「あっ! すいません先輩、またせ…て」
先輩に謝罪しようと慌てて顔を上げた私だったが、先輩が立ち去っていく波良さんに向かって鋭い視線を送っていたのにギクッとする。
軽々しく声を掛けられない先輩の雰囲気に私はフリーズした。
なに? 波良さんの軟派な感じが気に入らないとか?
悪い人じゃないんですよ。いやそんなに彼の人となり知らないけども。
「せ、せんぱい? あの決して悪い人じゃないんですよ。多分無理強いはしないと思うし」
「田端」
先輩の視線を受けて私は背筋を伸ばした。何だこの緊張感は。
先輩は何だか苛立たしげな様子で私を見てくる。何かの感情を抑えるかのように低い声を絞り出してきた。
「…交際を断った相手に連絡するのは相手を期待させるだけと思うが」
「えっと…だけど…」
「…ならあいつと付き合うのか?」
重々しい問いかけに私は萎縮していた。
えぇぇ、なんで先輩こんな不機嫌になったの? さっきまで普通だったよね?? 待たされたのがそんなにイライラした?
「つ、付き合わないですけど」
「…けど?」
「波良さんは…和真の兄弟子なんですよ…和真のこと可愛がってくれてて……和真が何かに熱中したことは初めてなんです。私のせいで和真の好きな空手を奪うことになったら嫌なんですもん…」
怖いよ~…
先輩と帰れてハッピーだったのになんで私、尋問受けてるの?
先輩と一緒にいられるのはこれが最後かもしれないのにこんな最後やだよ…
思わず涙目になりそうである。
私の怯えた様子に気がついたのか、先輩は少々バツの悪い表情をして一瞬目を逸らしたが、再度私の目を見た。
今度はいつもの冷静な表情の先輩に戻ったので私はホッとする。
「…武道をやっている者は、己の思い通りにならないからと言って立場の弱いものに力を振りかざすことはあってはならないと習っているはずだ」
「…そう、ですかね」
「武道は体だけでなく心を鍛えるものだ。自分自身の弱い心に打ち勝つ術を身につける。彼に武道の心得が備わっているのであれば田端の弟に圧力をかけるなんて真似をすることはないだろう」
橘先輩の言うことは説得力がある。空手も剣道もその辺の心得は同じような気がしなくもない…素人だからよくわからないけど。
「うーん…そうですよね。そうかも知れません。それに中途半端な態度も良くないですよね。連絡取ったら拗れるかもしれないし」
「…そうと決まったらほら」
「?」
そう言って私に向かって右手を差し出してくる橘先輩。
私は反射的に左手をぽん、と乗っけた。
すると先輩は呆れた目で私を見てきた。
え、違うの?
「…違う。お前は犬か」
「だって先輩が手を出してくるから!」
「それだ。もう要らないだろう」
「あ」
先輩は空いた左手で私の手にある波良さんから渡されたメモを取り上げてぐしゃりと握りつぶすと自分の制服のポケットに収めてしまった。
「…先輩?」
「…ほら、帰るぞ」
その乱暴な行動に呆然とする私の手を橘先輩が握ると引っ張って歩き出した。私は足がもつれそうになりながら先輩についていく。
彼を見上げてみるとやっぱりムッスリした顔をしていた。口がへの字になってるよ。
「先輩? なんか怒ってませんか? 待たせてしまったのは申し訳ないと思ってるんですよ?」
「うるさい」
「!?」
うちに帰り着くまで先輩はなぜか不機嫌だった。だけど私の家の前につくと私の頭をワシャワシャ撫でてきた。
思う存分撫でて満足したのか「じゃあな」と呟いて先輩は帰ってしまった。
…見事な犬撫でであった。お陰で私の髪はボッサボサである。
…あれ? 私、橘先輩にも犬認定されてる?
二月の最終日の今日。
先輩が卒業するまであと四日。
私はこのまま後輩から犬扱いに格下げされてしまうのだろうか?
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