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二章
本当の敵
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―――放課後。
今にも雪がちらついてきそうな黒い雲に圧迫感を覚えながら、俺は一人帰路についていた。凍てついた風がマフラーの隙間から流れ込んできて、俺は思わず身を縮める。
家に帰るのは憂鬱だった。誰もいない家に帰ると、否応なく孤独である現実を突き付けられる。自分の生活音以外、何も聞こえない。誰の話し声もしない。薄暗くて空虚な空間がただそこにあるだけ。彼女たちのいないあの家は、一人で住むには広すぎた。
角を曲がる。
小さな路地を左手に過ぎて少し行けば、もうすぐそこが俺の家だ。
気が重くなる。胸が圧し潰されそうだ。
歩くスピードが落ちていく。家が近づくにつれて歩幅が小さくなっていく。だがそれらは無意味な抵抗だ。俺は帰らなければならない。誰もいない、あの家に―――
やがて、小さな路地を左手に通過しようとした時、
「―――ッ⁉」
突然、その路地から黒い影が俺の目の前に飛び出してきた。
慌てて立ち止まる。もう少しで鼻先がその影にぶつかりそうだった。
危ないなと思いながら顔を上げると、すぐそこに男の顔があった。目が合う。ぷんと嫌な臭いが鼻をついた。
男は、灰色に濁った眼で静かに俺を見下ろしていた。背は俺よりも少し高い。
俺は数歩後ずさる。そして次に男の身なりを確認した俺は、思わず目を瞠った。
男は薄汚れてボロボロになった黒い狩衣のようなものを一枚、その身に纏っており、足は何故か裸足だった。肌を突き刺すような風が吹くこの寒い季節に、靴を履いていない。
髪はぼうぼうに伸びた蓬髪であり、あごの周辺には無精髭が無数に生えていた。まだ二十歳前後の顔づくりなのに、その髪と髭には所々白いものが混じっているようだった。
浮浪者だろうか? 明らかに普通の人ではない。
俺は本能的に身の危険を察知し、逃げようと足に力を入れた。
だが、俺が動くよりも前に男が口を開いた。
「時坂優だな」
ガラガラにしわがれた声で、男は何故か俺の名前を口にした。
ビクリと俺は身体を強張らせる。
「お前、なんで俺の名前―――」
だが俺が訊き返すよりも前に、男は俺の右手首を掴むと、左手に続く小さな路地へと俺を引っ張り込んでいった。
「ちょっ! おいっ!」
いきなりのことに俺はバランスを崩しそうになる。
「おいっ! 何なんだよっ!」
俺は叫んだが、男はまるで聞こえていないようにそれを無視した。
俺の手を引っ張り、ずんずんと薄暗い路地の奥へと進んでいく。その力は凄まじく、とても振り解けそうにはなかった。
やがて、少し開けた路地裏に出ると、男はようやく俺の手を離してこちらに向き直った。
ジンジンと痛む手首を摩りながら、俺は男を睨みつける。
「いきなり何なんだっ! どうして俺の名前を知ってるんだよっ⁉」
怒りと恐怖の混じった声で俺は男に怒鳴った。
しかし、男は黙っている。黙ったまま、灰色に濁った瞳でじっと俺を見据えている。何を考えているのか、まるで読めない。
「おい! 聞いてんのかよ!」
恐怖を誤魔化すために、俺は更に声を張り上げた。
その時、
「あの二人は不憫だった」
男が言った。
「……は?」
突然何のことかわからず、俺は眉根を寄せる。
「あの二人? 何の話だ?」
俺が訊き返すと、男は面倒くさそうに顔を歪ませ、頭の後ろをボリボリと掻いた。
「ほら、あの二人だ。名前を、何といったか…………ついこの間までお前と一緒に暮らしてた、あの二人だよ」
「……なに?」
俺の中で、男に対する警戒心が跳ね上がった。
まさか、こいつが言っているのは―――
「お前は覚えているだろう。まだいなくなって半年しか経っていない。忘れられるわけがないよな?」
やけにねっとりとした口調で男が言った。
俺は、口の中にあった僅かな唾を呑み込む。
まさか―――
「……もしかして、初音とみらい、のことか……?」
恐る恐る、俺は彼女たちの名前を口にした。その瞬間、男がパチンと右手の指を鳴らした。
「そうだそうだ。確かそんな名前だった」
くっくっくっと男が喉の奥で嗤う。
「いや、すっきりした。思い出させてくれて感謝する」
男は左側の口角だけを上げて、いやらしい笑みを作った。
得体のしれない恐怖が足元から這い上がってくるのを感じた。
「……なんで、お前があいつらのことを知ってんだよ?」
「あ?」
「あの二人とどういう関係だ。答えろ!」
俺は語気を荒げた。
心臓がバクバクと脈打っている。自分の吐く息で、目の前に白い靄がかかっていくのがわかった。
普通ならば、まずは彼女たちの知り合いかと考える所だろう。
しかし、目の前のこの男は違う。はっきりとした理由はないがとにかく違う。本能で違うとわかる。
ただの知り合いなどではない。
そう思わせる何かが、この男にはあった。
「お前誰だ? どうしてあの二人のことを知っている?」
警戒心を最大にしながら俺は男に訊ねた。
「あいつらとどういう関係だ。言え!」
「…………」
だが男は黙っている。息を荒くして追及してくる俺のことを、男は冷めた目でじっと見降ろしている。
「答えろよっ!」
俺が声を張り上げると、男はまた面倒くさそうに後頭部をボリボリと掻いてから、
「……何故って、俺があの二人に教えたからだよ」
爪の間に挟まったフケをほじくりながら男が言った。
「……教えた? 何のことだ?」
「それはお前もよく知っているはずだ」
「だから何のことだよ!」
俺が苛立ちを露にすると、
「呪術だ」
目だけを俺に向けて、さらりと男が言った。
その瞬間、ゴウッと強風が吹き荒れ、俺と男の間に落ちていた数枚の落ち葉が宙高く舞い上がった。男の狩衣の裾がバタバタとはためく。その様子が、俺の目にはまるでスローモーションのように映った。
「……呪術、だと?」
舞い上がった落ち葉の一つが地面に落ちる頃、俺はようやく口を開いた。
聞いたことのある単語だった。しかし二度と耳にしたくない単語だった。
「そうだ。俺があの二人に教えた」
何でもないことのように男が答える。
思考が上手く働かない。男の言葉が頭に入ってこない。こいつは一体、何を言っているんだ?
「まあ教えたと言っても、短髪の方には撫物を与えてやっただけだがな」
混乱する俺を差し置いて、男は話を続ける。
「見たことあるだろ? あのキーホルダだ。今お前のポケットの中に入っているはずだ」
男が俺の右ポケットを指しながら言った。
確かにそこには、みらいが鞄に付けていたあのキーホルダが入っていた。
「だが怨む気持ちが足りなかったんだろうな。最後まであいつには迷いがあった。だから死んだんだ。不完全な自分の呪いにやられた」
頭がぼぅとする。熱に浮かされて空中をふわふわと漂っているような気分だ。
「だが、もう一人の方には目をかけてやった。なにせ俺の霊力を分けてやったんだからな」
「…………は?」
「何を驚いている? お前も見ただろう。あいつが使っていたあの力を。人を怨む気持ちだけで、あんな力が自然に使えるようになると思うか?」
「…………」
「俺が手助けしてやったんだ。まあ、最後は呆気なかったがな。しかし俺としては実に満足のいく結果だった。二人とも呪いで死んでくれた」
男の言葉が頭の中をぐるぐると回る。
呪術? 教えた? 霊力を与えた?
それはつまり……
頭の中で小さな点と点が繋がっていく。
こいつのせいで……
ぼんやりとしていた予感が急速に形を持ち始める。
この男のせいで、あいつらは死んだのか……?
「ようやく理解できたようだな」
俺の表情が変わったのを読み取ったのか、男が満足そうに頷いた。
「お前のせいで……あいつらは死んだのか?」
そう呟く俺の声は震えていた。目の前で赤い光が点滅している。怒りと憎しみで気がおかしくなりそうだった。
「俺のせい? いやいや勘違いをするなよ。俺はただ手段を与えてやっただけだ。別に怨めとも殺せとも唆していない」
「ふざけるなっ! お前がそんなものを教えなきゃ、あいつらは死なずに済んだんだ!」
目の前のこの男が、何者なのかはわからない。何が目的なのかもわからない。ただ彼女たちがあんな最期を迎えることになったのは、確かにこの男が原因で間違いないようだった。
「お前のせいで、あいつらはあんなことになったんだぞっ⁉」
「それは結果論だ。手段が異なるだけで、あの二人は同じことをしていたかもしれない。その結果、さらに凄惨な最期が待っていたかもしれない。二人が死んだのを俺の責任にするのはやめてもらいたい」
男は腰に手を当て、ため息交じりにそう言った。
人を馬鹿にしたようなその仕草は、今の俺の理性を飛ばすのに十分な効力を発揮した。
「――――――ッ!」
男に向かって俺は大きく跳躍し、拳を高く振り上げる。
「お前のせいで―――!」
背骨が折れるくらいに上体を後ろに反らし、
「お前のせいでっ! あいつらは死んだんだろうがぁ!」
戻る勢いを乗せて、俺は男の顔面めがけて拳を振り下ろした。
しかし、
パチンッ―――!
男が右手の指を鳴らした瞬間、俺の身体は空中でピタリと静止した。
「――――――ッ⁉」
身体が全く動かない。まるで空間ごとそこに縫い付けられているようだ。
俺の拳は、男の頬に触れる直前で止まっていた。
訳がわからず俺は唖然とする。自分に何が起こっているのか、まるで理解ができなかった。
しかしそんな俺を無視して、男は半歩左に移動し俺の拳の軌道から外れると、極めてゆっくりとした動作で拳を握り、それを容赦なく俺のみぞおちに叩き込んできた。
「ぐっ……!」
身体がくの字に間がり、目の前が暗くなる。
途端、俺を拘束していた謎の力が消失した。叩き込まれた拳の勢いで、俺の身体は数メートル後方に飛んだ。
背中から地面に落下する。
「がっ……はっ……!」
身体の前後から与えられた衝撃に、俺は息ができなかった。視界がぐらぐらと揺れ、逆流してきた胃液が喉の奥を焼く。
今のは、一体……⁉
考えようとしたが、無理だった。息をすることに集中していないと、本当に窒息してしまいそうだった。
「げほっ、ごほっ、げほっ……!」
激しくせき込むと、喉の奥から吐瀉物が吹きあがり、俺の顔に降り注いだ。
つんとした匂いが鼻を刺す。
「まったく汚いな」
不快感を露にした声が降ってきた。目だけを動かすと、男がこちらに近づいてくるのがわかった。
男は俺の顔のすぐ横で膝を折ると、ぬっと俺の目を覗き込んできた。
「どうだ、今の気分は? 痛いか? 苦しいか? 悔しいか? 俺を殺したいか?」
男が俺に問うてくる。
俺はパクパクと口を動かしたが、それは声にならなかった。
「うん? どうした? 何を言ってるのかわからないぞ?」
そう言うと男は、俺の首を右手で掴み、そのまま腕の力だけで俺の身体を持ち上げ始めた。
背中が離れ、身体が地面と垂直になっていく。あっという間につま先が浮き、俺の身体は宙に持ち上げられた。
「ぐっ……」
全体重が顎下にかかり、俺は苦悶の声を漏らす。頸動脈が圧迫されて、頭に血が溜まっていくのがわかった。
「どうだ? これで話せるか?」
いやらしい笑みを口元に含ませながら男が言った。汚い黄色い歯が覗いていた。
無理に決まっている。こんな状態で声を出せるわけがない。それは男もわかっているだろう。
俺は抵抗を試みたが無駄だった。先ほどのダメージがまだ残っているのか、指先を少し動かすので精一杯だった。
ならせめてと、俺は目を動かし、男に射殺すような視線を向ける。それが今の俺にできる唯一の抵抗だった。
……だが、それもやがて叶わなくなる。
血の循環が悪くなったことで、意識が遠退いていく。
目の前に白い靄がかかり、視界が狭まっていく。
くそっ……。
胸中で毒づく。
せめて一発だけでもこの男をぶん殴ってやりたかった。しかし、どうやらそれも叶わないらしい。ゆっくりと、死が近づいてくるのがわかる。
彼女たちの仇に首を絞められて、俺は死ぬ。
まだ罪は償えていないが、惨めな最期としては、まあ悪くないかもしれないと思った。
しかし、細い糸で繋がれた意識が完全に途切れてしまう、その寸前、
「飛べ!」
凛とした声が俺の鼓膜を震わせた。
途端、俺の身体は何か大きな力に跳ね飛ばされて宙を舞う。
ゴロゴロとアスファルトの地面を転がり、俺はコンクリート塀に背中を打ち付けた。
「ぐっ……げほっ、がはっ……」
今日二度目の衝撃に咳き込むと、今度は口の中に血の味が広がった。
喉元を摩りながら顔を上げると、すぐ目の前に誰かが立っているのがわかった。俺に背中を向けている。
目を凝らし、その人物に焦点を合わせる。
狭まっていた視界が徐々に開け始め、霞んでいた世界が輪郭を取り戻していく。
女の子だ。制服を着ており、頭には白いリボンを付けている。
そのリボンに俺は見覚えがあった。彼女は―――
今にも雪がちらついてきそうな黒い雲に圧迫感を覚えながら、俺は一人帰路についていた。凍てついた風がマフラーの隙間から流れ込んできて、俺は思わず身を縮める。
家に帰るのは憂鬱だった。誰もいない家に帰ると、否応なく孤独である現実を突き付けられる。自分の生活音以外、何も聞こえない。誰の話し声もしない。薄暗くて空虚な空間がただそこにあるだけ。彼女たちのいないあの家は、一人で住むには広すぎた。
角を曲がる。
小さな路地を左手に過ぎて少し行けば、もうすぐそこが俺の家だ。
気が重くなる。胸が圧し潰されそうだ。
歩くスピードが落ちていく。家が近づくにつれて歩幅が小さくなっていく。だがそれらは無意味な抵抗だ。俺は帰らなければならない。誰もいない、あの家に―――
やがて、小さな路地を左手に通過しようとした時、
「―――ッ⁉」
突然、その路地から黒い影が俺の目の前に飛び出してきた。
慌てて立ち止まる。もう少しで鼻先がその影にぶつかりそうだった。
危ないなと思いながら顔を上げると、すぐそこに男の顔があった。目が合う。ぷんと嫌な臭いが鼻をついた。
男は、灰色に濁った眼で静かに俺を見下ろしていた。背は俺よりも少し高い。
俺は数歩後ずさる。そして次に男の身なりを確認した俺は、思わず目を瞠った。
男は薄汚れてボロボロになった黒い狩衣のようなものを一枚、その身に纏っており、足は何故か裸足だった。肌を突き刺すような風が吹くこの寒い季節に、靴を履いていない。
髪はぼうぼうに伸びた蓬髪であり、あごの周辺には無精髭が無数に生えていた。まだ二十歳前後の顔づくりなのに、その髪と髭には所々白いものが混じっているようだった。
浮浪者だろうか? 明らかに普通の人ではない。
俺は本能的に身の危険を察知し、逃げようと足に力を入れた。
だが、俺が動くよりも前に男が口を開いた。
「時坂優だな」
ガラガラにしわがれた声で、男は何故か俺の名前を口にした。
ビクリと俺は身体を強張らせる。
「お前、なんで俺の名前―――」
だが俺が訊き返すよりも前に、男は俺の右手首を掴むと、左手に続く小さな路地へと俺を引っ張り込んでいった。
「ちょっ! おいっ!」
いきなりのことに俺はバランスを崩しそうになる。
「おいっ! 何なんだよっ!」
俺は叫んだが、男はまるで聞こえていないようにそれを無視した。
俺の手を引っ張り、ずんずんと薄暗い路地の奥へと進んでいく。その力は凄まじく、とても振り解けそうにはなかった。
やがて、少し開けた路地裏に出ると、男はようやく俺の手を離してこちらに向き直った。
ジンジンと痛む手首を摩りながら、俺は男を睨みつける。
「いきなり何なんだっ! どうして俺の名前を知ってるんだよっ⁉」
怒りと恐怖の混じった声で俺は男に怒鳴った。
しかし、男は黙っている。黙ったまま、灰色に濁った瞳でじっと俺を見据えている。何を考えているのか、まるで読めない。
「おい! 聞いてんのかよ!」
恐怖を誤魔化すために、俺は更に声を張り上げた。
その時、
「あの二人は不憫だった」
男が言った。
「……は?」
突然何のことかわからず、俺は眉根を寄せる。
「あの二人? 何の話だ?」
俺が訊き返すと、男は面倒くさそうに顔を歪ませ、頭の後ろをボリボリと掻いた。
「ほら、あの二人だ。名前を、何といったか…………ついこの間までお前と一緒に暮らしてた、あの二人だよ」
「……なに?」
俺の中で、男に対する警戒心が跳ね上がった。
まさか、こいつが言っているのは―――
「お前は覚えているだろう。まだいなくなって半年しか経っていない。忘れられるわけがないよな?」
やけにねっとりとした口調で男が言った。
俺は、口の中にあった僅かな唾を呑み込む。
まさか―――
「……もしかして、初音とみらい、のことか……?」
恐る恐る、俺は彼女たちの名前を口にした。その瞬間、男がパチンと右手の指を鳴らした。
「そうだそうだ。確かそんな名前だった」
くっくっくっと男が喉の奥で嗤う。
「いや、すっきりした。思い出させてくれて感謝する」
男は左側の口角だけを上げて、いやらしい笑みを作った。
得体のしれない恐怖が足元から這い上がってくるのを感じた。
「……なんで、お前があいつらのことを知ってんだよ?」
「あ?」
「あの二人とどういう関係だ。答えろ!」
俺は語気を荒げた。
心臓がバクバクと脈打っている。自分の吐く息で、目の前に白い靄がかかっていくのがわかった。
普通ならば、まずは彼女たちの知り合いかと考える所だろう。
しかし、目の前のこの男は違う。はっきりとした理由はないがとにかく違う。本能で違うとわかる。
ただの知り合いなどではない。
そう思わせる何かが、この男にはあった。
「お前誰だ? どうしてあの二人のことを知っている?」
警戒心を最大にしながら俺は男に訊ねた。
「あいつらとどういう関係だ。言え!」
「…………」
だが男は黙っている。息を荒くして追及してくる俺のことを、男は冷めた目でじっと見降ろしている。
「答えろよっ!」
俺が声を張り上げると、男はまた面倒くさそうに後頭部をボリボリと掻いてから、
「……何故って、俺があの二人に教えたからだよ」
爪の間に挟まったフケをほじくりながら男が言った。
「……教えた? 何のことだ?」
「それはお前もよく知っているはずだ」
「だから何のことだよ!」
俺が苛立ちを露にすると、
「呪術だ」
目だけを俺に向けて、さらりと男が言った。
その瞬間、ゴウッと強風が吹き荒れ、俺と男の間に落ちていた数枚の落ち葉が宙高く舞い上がった。男の狩衣の裾がバタバタとはためく。その様子が、俺の目にはまるでスローモーションのように映った。
「……呪術、だと?」
舞い上がった落ち葉の一つが地面に落ちる頃、俺はようやく口を開いた。
聞いたことのある単語だった。しかし二度と耳にしたくない単語だった。
「そうだ。俺があの二人に教えた」
何でもないことのように男が答える。
思考が上手く働かない。男の言葉が頭に入ってこない。こいつは一体、何を言っているんだ?
「まあ教えたと言っても、短髪の方には撫物を与えてやっただけだがな」
混乱する俺を差し置いて、男は話を続ける。
「見たことあるだろ? あのキーホルダだ。今お前のポケットの中に入っているはずだ」
男が俺の右ポケットを指しながら言った。
確かにそこには、みらいが鞄に付けていたあのキーホルダが入っていた。
「だが怨む気持ちが足りなかったんだろうな。最後まであいつには迷いがあった。だから死んだんだ。不完全な自分の呪いにやられた」
頭がぼぅとする。熱に浮かされて空中をふわふわと漂っているような気分だ。
「だが、もう一人の方には目をかけてやった。なにせ俺の霊力を分けてやったんだからな」
「…………は?」
「何を驚いている? お前も見ただろう。あいつが使っていたあの力を。人を怨む気持ちだけで、あんな力が自然に使えるようになると思うか?」
「…………」
「俺が手助けしてやったんだ。まあ、最後は呆気なかったがな。しかし俺としては実に満足のいく結果だった。二人とも呪いで死んでくれた」
男の言葉が頭の中をぐるぐると回る。
呪術? 教えた? 霊力を与えた?
それはつまり……
頭の中で小さな点と点が繋がっていく。
こいつのせいで……
ぼんやりとしていた予感が急速に形を持ち始める。
この男のせいで、あいつらは死んだのか……?
「ようやく理解できたようだな」
俺の表情が変わったのを読み取ったのか、男が満足そうに頷いた。
「お前のせいで……あいつらは死んだのか?」
そう呟く俺の声は震えていた。目の前で赤い光が点滅している。怒りと憎しみで気がおかしくなりそうだった。
「俺のせい? いやいや勘違いをするなよ。俺はただ手段を与えてやっただけだ。別に怨めとも殺せとも唆していない」
「ふざけるなっ! お前がそんなものを教えなきゃ、あいつらは死なずに済んだんだ!」
目の前のこの男が、何者なのかはわからない。何が目的なのかもわからない。ただ彼女たちがあんな最期を迎えることになったのは、確かにこの男が原因で間違いないようだった。
「お前のせいで、あいつらはあんなことになったんだぞっ⁉」
「それは結果論だ。手段が異なるだけで、あの二人は同じことをしていたかもしれない。その結果、さらに凄惨な最期が待っていたかもしれない。二人が死んだのを俺の責任にするのはやめてもらいたい」
男は腰に手を当て、ため息交じりにそう言った。
人を馬鹿にしたようなその仕草は、今の俺の理性を飛ばすのに十分な効力を発揮した。
「――――――ッ!」
男に向かって俺は大きく跳躍し、拳を高く振り上げる。
「お前のせいで―――!」
背骨が折れるくらいに上体を後ろに反らし、
「お前のせいでっ! あいつらは死んだんだろうがぁ!」
戻る勢いを乗せて、俺は男の顔面めがけて拳を振り下ろした。
しかし、
パチンッ―――!
男が右手の指を鳴らした瞬間、俺の身体は空中でピタリと静止した。
「――――――ッ⁉」
身体が全く動かない。まるで空間ごとそこに縫い付けられているようだ。
俺の拳は、男の頬に触れる直前で止まっていた。
訳がわからず俺は唖然とする。自分に何が起こっているのか、まるで理解ができなかった。
しかしそんな俺を無視して、男は半歩左に移動し俺の拳の軌道から外れると、極めてゆっくりとした動作で拳を握り、それを容赦なく俺のみぞおちに叩き込んできた。
「ぐっ……!」
身体がくの字に間がり、目の前が暗くなる。
途端、俺を拘束していた謎の力が消失した。叩き込まれた拳の勢いで、俺の身体は数メートル後方に飛んだ。
背中から地面に落下する。
「がっ……はっ……!」
身体の前後から与えられた衝撃に、俺は息ができなかった。視界がぐらぐらと揺れ、逆流してきた胃液が喉の奥を焼く。
今のは、一体……⁉
考えようとしたが、無理だった。息をすることに集中していないと、本当に窒息してしまいそうだった。
「げほっ、ごほっ、げほっ……!」
激しくせき込むと、喉の奥から吐瀉物が吹きあがり、俺の顔に降り注いだ。
つんとした匂いが鼻を刺す。
「まったく汚いな」
不快感を露にした声が降ってきた。目だけを動かすと、男がこちらに近づいてくるのがわかった。
男は俺の顔のすぐ横で膝を折ると、ぬっと俺の目を覗き込んできた。
「どうだ、今の気分は? 痛いか? 苦しいか? 悔しいか? 俺を殺したいか?」
男が俺に問うてくる。
俺はパクパクと口を動かしたが、それは声にならなかった。
「うん? どうした? 何を言ってるのかわからないぞ?」
そう言うと男は、俺の首を右手で掴み、そのまま腕の力だけで俺の身体を持ち上げ始めた。
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「ぐっ……」
全体重が顎下にかかり、俺は苦悶の声を漏らす。頸動脈が圧迫されて、頭に血が溜まっていくのがわかった。
「どうだ? これで話せるか?」
いやらしい笑みを口元に含ませながら男が言った。汚い黄色い歯が覗いていた。
無理に決まっている。こんな状態で声を出せるわけがない。それは男もわかっているだろう。
俺は抵抗を試みたが無駄だった。先ほどのダメージがまだ残っているのか、指先を少し動かすので精一杯だった。
ならせめてと、俺は目を動かし、男に射殺すような視線を向ける。それが今の俺にできる唯一の抵抗だった。
……だが、それもやがて叶わなくなる。
血の循環が悪くなったことで、意識が遠退いていく。
目の前に白い靄がかかり、視界が狭まっていく。
くそっ……。
胸中で毒づく。
せめて一発だけでもこの男をぶん殴ってやりたかった。しかし、どうやらそれも叶わないらしい。ゆっくりと、死が近づいてくるのがわかる。
彼女たちの仇に首を絞められて、俺は死ぬ。
まだ罪は償えていないが、惨めな最期としては、まあ悪くないかもしれないと思った。
しかし、細い糸で繋がれた意識が完全に途切れてしまう、その寸前、
「飛べ!」
凛とした声が俺の鼓膜を震わせた。
途端、俺の身体は何か大きな力に跳ね飛ばされて宙を舞う。
ゴロゴロとアスファルトの地面を転がり、俺はコンクリート塀に背中を打ち付けた。
「ぐっ……げほっ、がはっ……」
今日二度目の衝撃に咳き込むと、今度は口の中に血の味が広がった。
喉元を摩りながら顔を上げると、すぐ目の前に誰かが立っているのがわかった。俺に背中を向けている。
目を凝らし、その人物に焦点を合わせる。
狭まっていた視界が徐々に開け始め、霞んでいた世界が輪郭を取り戻していく。
女の子だ。制服を着ており、頭には白いリボンを付けている。
そのリボンに俺は見覚えがあった。彼女は―――
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