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二章

六年越しの再会

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「……さよ」
 掠れた声で、俺は彼女の名前を呟いた。
「大丈夫ですか」
 俺の方は振り返らずに、彼女が言った。
「……ああ……」
 小さく答えて、俺は起き上がる。
 身体のあちこちが悲鳴を上げていたが、俺は塀に身体を預けながらなんとか立ち上がった。ぶつけた背骨がバキバキと嫌な音を立てた。
「どうして、ここに……」
 俺が訊ねると、
「なんとなく……嫌な気配を感じましたので」
 と彼女は言った。やはり俺の方は見てくれなかった。さよは数メートル先に立つ男から片時も視線を外さなかった。
 その時になって、俺は彼女の小さな肩が小刻みに震えていることに気が付いた。
「久しいな、さよ」
 低くしわがれた声で男が言った。
 えっ、と俺は男を見る。
 何故こいつが、彼女の名前を知っているのか―――?
 しかしそんな俺の疑問は、次の彼女の言葉で驚愕へと変わった。
「こんなところで何をしているんですか、兄さん」
「……兄さん⁉」
 今度は目を剥いて彼女を見る。
 ようやくさよが、ちらりと俺の方を見た。
「……彼は、私の兄です」
 はっきりとした口調でそう言った。
「前に話しましたよね。私には兄がいたと」
「あ、ああ……」
 確かにそんなことを言っていたなと、俺は半年前の彼女の話を思い出す。
 自分には兄がいたのだが、数年前に家出してしまった―――
 彼女と一緒に母校である中学校へ赴いた帰り、夏の星々が輝く夜空の下で、確かに彼女はそう言っていた。
 まさか、その兄がこの男なのか―――
 俺は再び男に視線を戻した。
「今まで何をしていたんですか、兄さん」
 あくまで落ち着いた様子だったが、そう言う彼女の声は震えていた。
「…………」
 男は黙っている。黙ったまま、片側の口角だけを上げて、薄気味悪く嗤っている。
「何をしていたのかと訊いているんです。私はずっと、兄さんを探していたんですよ」
 さよが少し口調を荒くした。
 しかし、それでも男は黙っている。黙ったまま黄色い歯を覗かせている。
 鉛のような静寂が、路地裏に広がった。
 陽は山の向こうに消え、空は群青色に染まっていく。ここは左右を家に挟まれているため、陽が山に隠れてしまうと一段と暗くなる。もうすぐそこにいる男の顔も、はっきりと視認できないほどになっていた。
 ヒュウ……。
 冷たい風が吹く。
 灰色の地面の上で、枯れた葉がカサカサと音を立てた。
 ……静寂は長く続いた。
 しかし、先に口を開いたのは、男の方だった。
「俺を探すために、お前はそこの男を利用したのか?」
「……はっ?」
 いきなりの脈絡が見えない男の言葉に、俺の方が思わず声を上げた。
 すると、その反応を予想していたと言わんばかりに、男がにやりと嗤った。
「やはりな。こいつからは何も聞いていないのか」
「……どういう意味だ?」
「まあ言えるわけがないよな。お前は、その男の大切な奴らを見殺しにしたんだから」
 俺の言葉は無視し、男は冷たくさよを睨んだ。彼女の肩がピクリと動いたのがわかった。
「……見殺し……?」
 意味がわからず、俺は眉をひそめた。
 漠然とした嫌な予感が、隙間風のようになって俺の胸をざわつかせてくる。
 男は言葉を続けた。
「そいつはな、途中から全部気付いていたんだよ。事件の裏に俺がいることも、お前の幼馴染が死んでいることも、妹が生きていることも、その妹が事件の犯人であることも―――」
「…………」
 彼女は口を挟まない。
「だがそいつは、そのことをお前には言わなかった。何故だかわかるか?」
 男が俺に問うてきた。
 俺は何も答えられない。後ろ姿の彼女に視線が釘付けになったまま、口を開くことができなかった。
「全ては俺の尻尾を掴むためだよ。事件の黒幕である俺を見つけ出すために、そいつはわざとあの二人を野放しにしたんだ。彼女たちを見張っていれば、いずれ俺が接触してくるとでも踏んでいたんだろう」
 くくくっ、と男が低く嗤った。
「その結果はどうだ? 俺を捕まえるどころか、彼女たちも救えなかった。何も成し遂げられなかった。無駄死だ。これが見殺しではなく何だというのか?」
 男の言葉一つ一つが、耳の奥でこだまのようになって反響する。かつての彼女の言動一つ一つが、走馬灯のようになって俺の頭の中を駆け巡ってくる。
 だが、
 ―――馬鹿馬鹿しい。
「でたらめを言うな! さよがそんなことをするわけがないだろ!」
 俺は声を荒げた。
「でたらめ? 何の根拠があってそう言い切れる?」
「……さよは、何度も俺を護ってくれた。絶望しそうになっていた俺に、優しく救いの手を差し伸べてくれた。そんな奴が、俺やあいつらを利用するはずないだろ!」
「なるほど。随分な妄信じゃないか。よほどその愚妹のことを信用していると見える」
「……お前よりは、よっぽど信頼が置ける」
「それは違いない」
 かかかっと、男は声を上げて笑った。
「だがな、お前はそいつのことをどれだけ知っている?」
 すっと笑いを引っ込めて、男が俺を冷たく見据えた。
「……なに?」
「そいつの家族構成は?」
「…………」
「趣味は? 好きな食べ物は? 嫌いな教科は? 休みの日には何をして過ごしている?」
「…………」
「何も知らないだろ。ろくに知りもしない奴のことを、何故そこまで無条件に信頼することができる?」
 男の双眸が、薄闇の中でゆらりと傾いだ。
「お前は騙されている。無意識のうちに、そいつの術中に嵌っている」
「…………」
「目を覚ませ。そいつはお前が思うような善良な人間ではない。他人のことを気に掛けられるような、でかい器など持ち合わせてはいない。いつも自分が最優先。とんだ自己中野郎なんだよ」
 男は憎々し気にそう言うと、ぎょろりと大きな目玉を動かしてさよを睨みつけた。小さな背中がビクリと震える。
 しかし彼女は相変わらず沈黙を貫いている。それが腹立たしくて、俺は彼女に訴えかけた。
「さよ! なんで黙ってんだよ! 何とか言ってやれよ!」
 否定してほしかった。いつものように済ました顔で、一言、違います、と男の妄言をばっさり切り捨ててほしかった。
 だが、彼女は何も答えてくれない。貝みたいに口を閉ざしたまま、俺に背を向けている。
 ギリリ、と奥歯が軋む音が、骨を震わせて脳にまで伝わってきた。
「聞いてんのかよっ! さよっ!」
 しびれを切らして、俺は彼女の肩に手を伸ばした。
 その時、
「……本当のことですよ」
 抑揚を感じさせない小さな声で、彼女がそう言った。それは絹糸のように細く、今にも消えてしまいそうな声だったが、俺の耳には深々と突き刺さってきた。
 彼女の肩に触れる寸前で、ビタリと俺の手が空中に縫い付けられる。
 一瞬、俺は彼女の言葉の意味がわからず呆然とした。しかし、すぐにその真意を理解し、深い谷に突き落とされたような絶望に襲われた。
 冷たい汗が、背筋を流れた。
「さよ……?」
 膝が震える。脈が速くなっていくのがわかる。
 胸が苦しい。喉の奥が痛い。
 肺に大量の石でも詰まっているみたいに、上手く息をすることができない。目の前の景色が霞み、陽炎のようにぐらぐらと揺れている。
 すぐそこにいる彼女が、とても遠い存在のように感じた。
「ほらな、俺の言った通りだったろ?」
 嘲笑うような口調で、男が口を挟んできた。
 揺らぐ世界の中で俺は男を睨む。視線に殺意を込める。だが深まった闇のせいで、男の顔がどこにあるのかはもうわからなかった。
「そう怖い顔をするな。俺はただ真実を教えてやっただけだ」
 対して男からは、俺のことがはっきりと見えているようだった。
「それに俺は、お前と争うために姿を現したわけじゃないんだ」
「……なに?」
「俺はな、お前に協力を仰ぎに来たんだよ」
「……協力だと?」
 言葉の意味がわからず、俺は眉根を寄せた。
 もう混乱に次ぐ混乱だ。誰を信用して良いのかもわからない。初音とみらいが死ぬ原因を作り出したこの男が、一体俺に何の協力をしろというのか。
 男がにやりと嗤う様子が、闇の向こうから気配で伝わってきた。
「俺はな、ある儀式を完成させたいんだよ」
「……儀式?」
「ああ―――」
 男がゆっくりと息を吸い込む様子が伝わってくる。
「人を生き返らせる儀式だ」
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