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第35話 学んだ言葉は
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「旦那様、お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ」
いつものように玄関前で侍従長のモーリスと侍女長のローザが出迎えてくれる。
「ああ。ただいま」
今朝はクリスタルに会えないまま早く家を出ることになった。今朝目覚めて昨夜のことをどう思っただろうか。驚いていたし、拒絶はされなかったが、不快感を抱かれなかっただろうか。どんな顔をして会えばいいのか。
そんなことを考えながら軽く挨拶して足を進めようとしたが、モーリスが私に近付き、口早に言った。
「旦那様、お入りになる前にお耳に入れたいことが」
部屋に戻ってからでもいいだろうにと思ったが、ローザの他に人がいないのに旦那様と呼ぶモーリスが珍しかったので、私は急いていた気持ちを抑えて足を止めた。
「ああ。何だ?」
「実はクリスタル様が階段から足を踏み外されてお怪我されたのです」
「――何だと!?」
我ながら取り乱してしまったと思う。屋敷に入る前に伝えようとしたモーリスは正解だったようだ。私は息を一つ吐く。
「それで彼女は」
「幸いお怪我は軽傷だったのですが、足を痛められましたので本日のお出迎えは、わたくしの判断でお控えいただきました」
「そうか。分かった。ではとにかく彼女の部屋に向かう」
「承知いたしました」
モーリスは、私が平静を取り戻したところを確認して扉を開放した。
玄関に足を踏み入れると、いつものごとく侍従や侍女らに出迎えられる中、当然ながら片言の、けれど涼やかなクリスタルのお帰りなさいという言葉は聞こえてこなかった。いつもの定位置に彼女の姿もない。
モーリスから事前に知らされていても、苦い気持ちになる。
私は足早に彼女の部屋と向かった。
ノックをしてすぐクリスタルの専属侍女、マノンによって扉が開放された。
椅子に座っていたクリスタルは慌てて立ち上がろうとするが、私は大股で近づいて彼女を止める。
「いい。立つな。座っていろ」
「申シ訳ありまセん。レイヴァンさマ、お帰りナサまセ」
「……ありがとう。今帰った」
夜、人知れず静かに花開くような彼女の微笑が見られて、私もほっと表情が緩む。
「クリスタル、怪我の具合はどうだ?」
「大丈夫デす」
「そう、か?」
マノンが私の言葉を通訳したが、答えたのはクリスタル自身だった。そこではっと気付かされる。
これまで何気なく彼女のサンティルノ語を受け取ってきたが、彼女は自分が日常的によく使う言葉から覚えたかったはずだ。つまり大丈夫という言葉は、彼女がよく使う言葉、使いたい言葉ということだ。
クリスタルは無理な要求はしたことがないと侍女長が言っていた。彼女は何度この言葉を使ってきたのだろうか。何度自分の要求を吞み込んできたのだろうか。
「レイヴァンさマ?」
「あ、いや。何でもない。――それでマノン、医者は何と?」
具体的なことを聞こうと私はマノンに視線を移して尋ねた。
「はい。踏み外された階段の場所が踊り場近くだったようで、足首を少し捻られましたが、腕と脇腹の打撲くらいで済んだようです。幸いにも頭を打たれたりはされなかったようで、ご気分の悪さなどもないようです」
「そうか。良かった」
確かに彼女の右腕と右足には痛々しく包帯が巻かれているのが見える。脇腹も打撲があるということだが、服の下にも巻かれているのだろうか。
「ところでどういう状況だったか、分かるか?」
「はい。クリスタル様は今朝、いつも私がご用意しているお水がないことに気付かれて、片付けのために退室した私を追ってお部屋を出られたそうです。そのまま階段までやって来て、下りようとして足を踏み外されたようで」
クリスタルに視線を流すと、彼女は顔を強張らせて目を半ば伏せていた。迷惑をかけたと思っているのだろうか。
私が彼女の肩に手をやると、視線を上げてほんの少しだけ微笑した。
「誠に申し訳ございません。私がお水のご用意をきちんとできていなかったばかりに。私の不手際が原因でございます」
「いや。仕方がないことだ。誰にだって時には手落ちがある。それに誰にも予期できぬ事故だったのだから。気にするな」
「はい……。ありがたきお言葉にございます。今後はこのようなことが起こりませんよう、行動させていただきます」
私は身を小さくしているマノンに頼むと頷くとまたクリスタルに声をかける。
「クリスタル、食事は取れそうか?」
「はい。大丈夫デす」
「分かった。ではここで待っていてくれ。すぐに着替えて戻って来る」
きょとんとした表情で頷く彼女を後に私はひとまず部屋を出ると、廊下でモーリスとローザが待っていた。
「その後、クリスタル様のご様子はいかがでしょうか」
「ああ。問題なさそうだ」
「さようでございますか。それは良かったです」
モーリスもローザもほっとしたようだ。
「食事もできるらしい。用意してくれ」
「はい。そちらはご準備してございます」
即座に答えたローザに続いてモーリスが尋ねてくる。
「旦那様はお着替えなさいますか?」
「ああ。着替えたら彼女の部屋に戻る」
「お部屋に夕食のご用意を?」
ローザは部屋に料理を運び入れることを考えたのだろう。
「いや。私が彼女を食堂に連れて行く」
「かしこまりました」
「さようでございましたか、さようでございましたか」
ローザは静々と承ったのに、モーリスと言えば一度でいいのに、二度も笑顔で返事を繰り返した。気まずさからモーリスに白い目を向けるが、彼は平然としている。
「……とにかく着替えに部屋へ戻る」
「はい。承知いたしました」
そして着替えが終わり、クリスタルの部屋に戻って彼女を抱き上げたわけだが。
「恥ずかしいです。下ろしてくださいませ。自分で歩けますと」
マノンがご丁寧に通訳してくれた。
「だろうな。訳されなくても抵抗している様子と口調で何となくわかった」
私は目線が近くなったクリスタルを見つめると彼女は顔を赤らめる。そんな彼女から視線を外したくないのもあって、彼女に直接伝えるように目線を合わせたまま言った。
「主人の命令だ。私の言うことを聞くように――と伝えてくれ」
「かしこまりました」
マノンが彼女に伝えたところ、顔の赤みは引かなかったが、諦めたようにおとなしくなった。
「いい子だ。じゃあ、行こう」
彼女に言葉は分からなかったはずだが、私の唇から笑みがこぼれていたのもあって、何となく子供扱いされたのに気付いたのか、少しだけ膨れっ面をしたような気がした。
「お帰りなさいませ」
いつものように玄関前で侍従長のモーリスと侍女長のローザが出迎えてくれる。
「ああ。ただいま」
今朝はクリスタルに会えないまま早く家を出ることになった。今朝目覚めて昨夜のことをどう思っただろうか。驚いていたし、拒絶はされなかったが、不快感を抱かれなかっただろうか。どんな顔をして会えばいいのか。
そんなことを考えながら軽く挨拶して足を進めようとしたが、モーリスが私に近付き、口早に言った。
「旦那様、お入りになる前にお耳に入れたいことが」
部屋に戻ってからでもいいだろうにと思ったが、ローザの他に人がいないのに旦那様と呼ぶモーリスが珍しかったので、私は急いていた気持ちを抑えて足を止めた。
「ああ。何だ?」
「実はクリスタル様が階段から足を踏み外されてお怪我されたのです」
「――何だと!?」
我ながら取り乱してしまったと思う。屋敷に入る前に伝えようとしたモーリスは正解だったようだ。私は息を一つ吐く。
「それで彼女は」
「幸いお怪我は軽傷だったのですが、足を痛められましたので本日のお出迎えは、わたくしの判断でお控えいただきました」
「そうか。分かった。ではとにかく彼女の部屋に向かう」
「承知いたしました」
モーリスは、私が平静を取り戻したところを確認して扉を開放した。
玄関に足を踏み入れると、いつものごとく侍従や侍女らに出迎えられる中、当然ながら片言の、けれど涼やかなクリスタルのお帰りなさいという言葉は聞こえてこなかった。いつもの定位置に彼女の姿もない。
モーリスから事前に知らされていても、苦い気持ちになる。
私は足早に彼女の部屋と向かった。
ノックをしてすぐクリスタルの専属侍女、マノンによって扉が開放された。
椅子に座っていたクリスタルは慌てて立ち上がろうとするが、私は大股で近づいて彼女を止める。
「いい。立つな。座っていろ」
「申シ訳ありまセん。レイヴァンさマ、お帰りナサまセ」
「……ありがとう。今帰った」
夜、人知れず静かに花開くような彼女の微笑が見られて、私もほっと表情が緩む。
「クリスタル、怪我の具合はどうだ?」
「大丈夫デす」
「そう、か?」
マノンが私の言葉を通訳したが、答えたのはクリスタル自身だった。そこではっと気付かされる。
これまで何気なく彼女のサンティルノ語を受け取ってきたが、彼女は自分が日常的によく使う言葉から覚えたかったはずだ。つまり大丈夫という言葉は、彼女がよく使う言葉、使いたい言葉ということだ。
クリスタルは無理な要求はしたことがないと侍女長が言っていた。彼女は何度この言葉を使ってきたのだろうか。何度自分の要求を吞み込んできたのだろうか。
「レイヴァンさマ?」
「あ、いや。何でもない。――それでマノン、医者は何と?」
具体的なことを聞こうと私はマノンに視線を移して尋ねた。
「はい。踏み外された階段の場所が踊り場近くだったようで、足首を少し捻られましたが、腕と脇腹の打撲くらいで済んだようです。幸いにも頭を打たれたりはされなかったようで、ご気分の悪さなどもないようです」
「そうか。良かった」
確かに彼女の右腕と右足には痛々しく包帯が巻かれているのが見える。脇腹も打撲があるということだが、服の下にも巻かれているのだろうか。
「ところでどういう状況だったか、分かるか?」
「はい。クリスタル様は今朝、いつも私がご用意しているお水がないことに気付かれて、片付けのために退室した私を追ってお部屋を出られたそうです。そのまま階段までやって来て、下りようとして足を踏み外されたようで」
クリスタルに視線を流すと、彼女は顔を強張らせて目を半ば伏せていた。迷惑をかけたと思っているのだろうか。
私が彼女の肩に手をやると、視線を上げてほんの少しだけ微笑した。
「誠に申し訳ございません。私がお水のご用意をきちんとできていなかったばかりに。私の不手際が原因でございます」
「いや。仕方がないことだ。誰にだって時には手落ちがある。それに誰にも予期できぬ事故だったのだから。気にするな」
「はい……。ありがたきお言葉にございます。今後はこのようなことが起こりませんよう、行動させていただきます」
私は身を小さくしているマノンに頼むと頷くとまたクリスタルに声をかける。
「クリスタル、食事は取れそうか?」
「はい。大丈夫デす」
「分かった。ではここで待っていてくれ。すぐに着替えて戻って来る」
きょとんとした表情で頷く彼女を後に私はひとまず部屋を出ると、廊下でモーリスとローザが待っていた。
「その後、クリスタル様のご様子はいかがでしょうか」
「ああ。問題なさそうだ」
「さようでございますか。それは良かったです」
モーリスもローザもほっとしたようだ。
「食事もできるらしい。用意してくれ」
「はい。そちらはご準備してございます」
即座に答えたローザに続いてモーリスが尋ねてくる。
「旦那様はお着替えなさいますか?」
「ああ。着替えたら彼女の部屋に戻る」
「お部屋に夕食のご用意を?」
ローザは部屋に料理を運び入れることを考えたのだろう。
「いや。私が彼女を食堂に連れて行く」
「かしこまりました」
「さようでございましたか、さようでございましたか」
ローザは静々と承ったのに、モーリスと言えば一度でいいのに、二度も笑顔で返事を繰り返した。気まずさからモーリスに白い目を向けるが、彼は平然としている。
「……とにかく着替えに部屋へ戻る」
「はい。承知いたしました」
そして着替えが終わり、クリスタルの部屋に戻って彼女を抱き上げたわけだが。
「恥ずかしいです。下ろしてくださいませ。自分で歩けますと」
マノンがご丁寧に通訳してくれた。
「だろうな。訳されなくても抵抗している様子と口調で何となくわかった」
私は目線が近くなったクリスタルを見つめると彼女は顔を赤らめる。そんな彼女から視線を外したくないのもあって、彼女に直接伝えるように目線を合わせたまま言った。
「主人の命令だ。私の言うことを聞くように――と伝えてくれ」
「かしこまりました」
マノンが彼女に伝えたところ、顔の赤みは引かなかったが、諦めたようにおとなしくなった。
「いい子だ。じゃあ、行こう」
彼女に言葉は分からなかったはずだが、私の唇から笑みがこぼれていたのもあって、何となく子供扱いされたのに気付いたのか、少しだけ膨れっ面をしたような気がした。
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