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フィリオ=ルクレインは、証言台の上で拳を握っていた。
手のひらに爪が食い込むほどの力。それでも手を震わせたくなくて、言葉が途切れぬように、ただ必死に自分の正義を支えていた。
「アズナ=グランフォード様は、常に“優しさ”という名の立場で、私たちを見下しておられるのです」
講堂が静まり返る。
「彼女の微笑は、人を癒すものではありません。“逆らってはいけない”という空気を作り、判断力を鈍らせ、思考を曇らせる。それはまるで……まるで精神的な圧力のようなものです!」
断罪席に座るアズナは、変わらず穏やかだった。微笑んだまま、まるで証言を“味わって”いるかのような落ち着きで、まっすぐにフィリオを見つめていた。
フィリオの視線が、彼女の手元にふと動く。
アズナは、膝の上に乗せていた巾着袋から小さな瓶を取り出した。細く彫刻が施されたガラスの香水瓶。透明なその液体は、光にきらめいていた。
何をする気なのか――そう思うより早く、アズナはその蓋をそっと開けた。
空気が、変わった。
ほのかに甘く、やさしい花の香り。けれど、それは単なる匂いではなかった。
鼻腔を通り越し、胸の奥にまで届くような温かさが、会場全体にゆっくりと満ちていく。
「あれは……何の香り?」
「香塔の香と違う……柔らかいのに、深くて……安心する……」
ざわめきが起きたのは、誰もが同じ感覚を共有していたからだった。
フィリオは、言葉を失いかけていた。
訴えの続きを、口にできない。さっきまで燃えていた怒りの芯が、ふと、霧の中に置き去りにされたような感覚に襲われる。
――違う、私は、彼女を告発するためにここに立っている。なのに、なぜ――
「この香り……なぜだろう……懐かしい……」
何かを思い出しそうになる。まだ知らぬはずの感情が、記憶を偽って押し寄せる。
証言台の上で揺らぎ始めたフィリオの表情を、アズナはただ見守っていた。
何も語らず、ただ香りだけを場に放ち、誰の否定も、誰の肯定もせずに、静かに。
「続けてくださいませ。あなたのお話、最後までお聞きしたいのですわ」
その声は優しかった。
怒りを冷まそうとするのでも、恐怖を与えるのでもない。ただ静かに、フィリオの訴えを“受け容れる準備ができている”という態度だった。
だがその“受け容れる”という姿勢こそが、フィリオを最も困惑させる。
なぜなら、自分の訴えが“誰かに届いてしまう”と思ったことなど、一度もなかったから。
フィリオは震える手で台本を握りしめ、視線を落とした。
自分が信じていた正しさは、今――香の海に沈もうとしていた。
手のひらに爪が食い込むほどの力。それでも手を震わせたくなくて、言葉が途切れぬように、ただ必死に自分の正義を支えていた。
「アズナ=グランフォード様は、常に“優しさ”という名の立場で、私たちを見下しておられるのです」
講堂が静まり返る。
「彼女の微笑は、人を癒すものではありません。“逆らってはいけない”という空気を作り、判断力を鈍らせ、思考を曇らせる。それはまるで……まるで精神的な圧力のようなものです!」
断罪席に座るアズナは、変わらず穏やかだった。微笑んだまま、まるで証言を“味わって”いるかのような落ち着きで、まっすぐにフィリオを見つめていた。
フィリオの視線が、彼女の手元にふと動く。
アズナは、膝の上に乗せていた巾着袋から小さな瓶を取り出した。細く彫刻が施されたガラスの香水瓶。透明なその液体は、光にきらめいていた。
何をする気なのか――そう思うより早く、アズナはその蓋をそっと開けた。
空気が、変わった。
ほのかに甘く、やさしい花の香り。けれど、それは単なる匂いではなかった。
鼻腔を通り越し、胸の奥にまで届くような温かさが、会場全体にゆっくりと満ちていく。
「あれは……何の香り?」
「香塔の香と違う……柔らかいのに、深くて……安心する……」
ざわめきが起きたのは、誰もが同じ感覚を共有していたからだった。
フィリオは、言葉を失いかけていた。
訴えの続きを、口にできない。さっきまで燃えていた怒りの芯が、ふと、霧の中に置き去りにされたような感覚に襲われる。
――違う、私は、彼女を告発するためにここに立っている。なのに、なぜ――
「この香り……なぜだろう……懐かしい……」
何かを思い出しそうになる。まだ知らぬはずの感情が、記憶を偽って押し寄せる。
証言台の上で揺らぎ始めたフィリオの表情を、アズナはただ見守っていた。
何も語らず、ただ香りだけを場に放ち、誰の否定も、誰の肯定もせずに、静かに。
「続けてくださいませ。あなたのお話、最後までお聞きしたいのですわ」
その声は優しかった。
怒りを冷まそうとするのでも、恐怖を与えるのでもない。ただ静かに、フィリオの訴えを“受け容れる準備ができている”という態度だった。
だがその“受け容れる”という姿勢こそが、フィリオを最も困惑させる。
なぜなら、自分の訴えが“誰かに届いてしまう”と思ったことなど、一度もなかったから。
フィリオは震える手で台本を握りしめ、視線を落とした。
自分が信じていた正しさは、今――香の海に沈もうとしていた。
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