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Episode① 産業保健ってなあに

第3章|駆け出しの産業保健師 足立里菜 <5>×××の繁華街にある私の部屋

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<5>
 引っ越してきたこの部屋、駅に近いのは悪くないけど、誤算があった。ネットで物件を探して、昼に内見してすぐ契約してしまったんだけど、入居初日、夜にごみステーションに行こうと思って外に出たら、昼と夜で、全然違う街みたいになっていた。昼はただの道路と思っていた場所に、夜になると黒い服を着たコワモテのお兄さんがわらわら立っていて、けばけばしいネオンが眩しかった。

しかも、ちょっと近所を散歩してみたら、あれ、こんなところに?というほどの間口しかない場所に、小さなラーメン屋やホルモン焼きのお店が沢山あった。基本的に飲み屋さんらしく、お昼は静まっていて、夜になると営業が始まる。その店たちが換気扇から出す排気と煙は、強烈なにおいがする。
つまり、夜中に部屋の窓を開けて風を入れると、私の部屋に、豚骨や油の濃厚な気配が漂うのだ。

 でも……、そんなこと正直に話したら、両親と弟を心配させてしまう。
 私はわざと、明るい声を出した。

「あのね父さん、東京の街って、色んな顔があるからね!×××は、近くに大学があるし、文化的なコンサートができる施設とかもあるし、若者に人気の場所なんだよ。オシャレな服屋さんとかショップも、色々あるから便利だよ。ご飯食べる場所も多いし!」

そう。この駅周辺全部の治安が悪いわけじゃない。ただ、私の借りた部屋が……偶然、たまたま、ちょっとだけ。怪しい雰囲気のお店やラブホテルがぎっしり並ぶ通りの、ど真ん中にある、というだけなのだ。でも今更引っ越せないから、とりあえずしばらくは、この部屋に住むしかない。


「そうか、防犯には気を付けるんだぞ」

「わかってるって~。ちゃんと鍵はかけるし、夜は絶対、窓を開けないって決めてるからね!」

 うわずる声で答えたら、耕大が目ざとく、部屋の中の様子に気付いた。

「あれ?姉ちゃん、スーツ吊るしてるねぇ」

「あ、うん。明日ちょっと仕事で使うからさ、久しぶりに出してみたんだ」

「え……それって、リクルートスーツっしょ? 転職活動、もう終わってるんだよね? それに、前は病院に出勤するときに、スーツなんて着てなかったし…………って……まさか、姉ちゃん、“転職”って、ヘンな店で働き始めたとかじゃ、ないよね!?たしか……都会には、『イクラ』……いや、『タラコ』だっけ?名前は忘れたけど、スーツでコスプレして働く店があるって、俺、聞いたことあるんだけど!」

「は? ナニそれ、はんかくさっ。耕大、想像が先走りすぎ!」


―――“はんかくさい”は、北海道弁で“バカらしい”という意味だ。
……ヘンなお店の『イクラ』とか『タラコ』……って、何だろう? 聞いたことないし。
 そういえば、うちの窓から真ん前に大きく見える看板には『イ・メ・ク・ラ 安い!楽しい!』って書いてあるけど、あれは、なんのお店なのか。東京は、わからないことだらけだ。


「『イクラ』……。うーん、やっぱり、魚卵系料理のお店かねぇ? ……って、本当に大丈夫なのか、里菜?」父さんが心配そうだ。


「あ~、もう! そんなんじゃないよ。私ね、『産業保健師』になるんだよ。働く人の健康を守る、看護師の仕事だよ」


「へぇ~、そんな仕事があるんだ。母さん、初めて聞いたべさ」


「明日から、産業医の先生とペアになって、東京の、いろんな会社のオフィスに訪問するんだよ~。ちゃんとした会社の人と会うから、私もスーツ、着ないとね。それに、私が転職した会社も、すっごく立派な赤坂のビルにあって、働いている人も、みんな優しいよ~。電話切ったらメールで、勤務先、送るね!」

その後は、世間話や、お互いの健康を気遣う言葉を交わして、電話を切った。


明日はいよいよ、産業医の鈴木風寿先生と「ペア」になって、契約先に向かう初めての日だ。

 『株式会社E・M・A』のエントランスで見た、鈴木先生の刺すような視線を思い出す。
私がこれまで病棟で一緒に働いていたお医者さんとは、少し違う雰囲気だった。

「医者」っていうより、「冷酷なビジネスマン」ってカンジだったよね……。


――――初対面の挨拶以来、鈴木先生とは会話してないけど、大丈夫かな。


緒方先生からは『“働く女性の健康サポート策”についてアドバイスしてほしい』って課題をもらったけど……
とりあえず、Google検索で予習しておこうかな。


 あ、家電量販店で“社会人必携ですよ!”って店員さんに強力プッシュされて、思わず分割払いで買ってしまった新しいプリンターも、まだ箱から出していない。これも、設定しないと使えない。

せっかく東京に引っ越してきたけど、今日は出かけずに家で過ごすことになりそうだ。

「はぁあ~。私、これから、どうなっちゃうんだろうナァ」


部屋で一人、溜め息をついた。

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