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Episode② 港区ラプソディ

第8章|右肩上がりの市場価値 <8>『ジュリー・マリー・キャピタル』江鳩悟さん 初回面談

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<8>

 栗栖さんとの話のあと、『ジュリー・マリー・キャピタル』の部屋で、江鳩さんと鈴木先生の初回産業医面談を実施させてもらうことになった。
私も、保健師として同席する。


 ここは、応接室として使われる部屋のようだ。定員は6名くらいだろうか。それほど広くない。

でも、テーブルの上に小さなグリーンが置かれていたりして、なんとなく居心地がいい。この空間も、栗栖さんの趣味で誂えられているのだろうか。


「今日のところは主に僕が話しますので、足立さんは聞きたいことがあれば随時、発言してください」

「わ、わかりました」




――――ドアがノックされる音。



「……こんにちは、江鳩です。よ、よ、よろしく……お願いします」


 部屋に入って来たのは、ジャケット姿の痩せた男性だった。土気色の顔をして暗い表情を浮かべていて、34歳という実年齢よりも、正直なところ、老けて見えた。細い目、細い鼻、小さい口。おとなしい顔立ち。背中を丸めている。

挨拶の時は目を合わせてくれたけれど、席に着いたあとは下を向いて、うなだれていた。
時々、小さく手が震えている。


「初めまして。産業医の鈴木と申します」

「保健師の足立です」


 挨拶を交わして、ひと呼吸置いてから、面談を始めた。


**************************


「江鳩との面談は、いかがでしたか」


 産業医面談が終わり江鳩さんが応接室を出ると、栗栖さんがすぐ部屋に入ってきた。面談が終わるのを今か今かと待っていたようだ。


鈴木先生が答える。
「面談の概要をお伝えさせて頂きます。江鳩さんは既にメンタルクリニックを受診しておられ、精神科主治医から『適応障害』との診断を受けています。
症状としては、不眠症と食欲低下が著明です。処方されている内服薬は睡眠薬のみ。しかし睡眠については、治療開始後も毎日3時間しか眠れない状況が続いています。体重はここ1か月で5kgほど減ったとのこと。
産業医としての見立てでは、体調的に、本人から同意が得られるのであればすぐに休職させてもよいレベルかと考えますが、ご本人は“絶対に休職したくない”とおっしゃっています。実家暮らしで、プライベートに大きな問題や変化はないとのこと。
主治医からは『適応障害を起こした主因は職場環境だろう』と言われており、休職指示はなく、会社と相談して対応してもらうように、と言われているようです」


「“職場環境”……。『X社』で何かあったのかしら」栗栖さんが眉間に皺を寄せて考えている。


「実はその点については、様々な形で質問をしてみましたが、ご回答頂けませんでした。今回は面談時間も限られていましたし初回面談ということで、まずは信頼関係の構築に努めることを優先しました。次回、さらに詳細をヒアリングしていきます」


「是非お願いします。私からも先方の上層部に話を聞いてみますね。
ところで……鈴木先生。まだ江鳩は、働けますか? 実は、いま彼に突然休職されると非常に困るのです。うちの会社は少人数でやっていて、『X社』にすぐ行かせられる代わりの人材がいません。
かといって、弊社からの取締役が不在になると、『X社』の経営に、我々のコントロールが利きづらくなりますし……」


「難しい判断です……。『適応障害』という病気では、周囲の環境が変化すると速やかに症状が改善・消失する場合もあります。今のところ遅刻や欠勤は発生していないようですし、今日のところは“残業禁止”の就業制限を付け、一週間ほど経過をみてはいかがでしょうか。勤怠記録を見ますと先月の残業時間は月40時間ほどですので、しっかり定時に帰宅させるだけでも負荷軽減にはなると思います」


「わかりました。勤務時間については私から先方に掛け合います。それから近日に江鳩が休職することも考えて、代理で仕事にアサインできる者を水面下で準備します」


「お願い致します。……それから江鳩さんは、“会社が入っているこのビルに近づくと、吐き気が起きてしまう”、とおっしゃっています。
弊社『株式会社E・M・A』の事務所はここから歩いてすぐの場所ですし、我々のオフィスには、心理療法やストレス対処方法について書かれたお勧めの図書や、各種資料などを揃えたスペースがあります。
それらを“セルフケア”の参考例として江鳩さんにもご紹介したいと思いますので、次回は1週間後、弊社『株式会社E・M・A』のオフィスにて、江鳩さんの産業医面談を行わせて頂けませんか」鈴木先生が言った。


「次回は江鳩を、そちらのオフィスに行かせます」栗栖さんがうなずいた。


「ありがとうございます。それと御社の、メンタル不調者に関する社内体制の整備状況はいかがでしょうか? 」


「それは……、特にありません。うちは社員が13人しかおりませんので、メンタル不調者が発生することなど、想定しておりませんでした……」


 鈴木先生は少し腕を開き、胸元を栗栖さんに向け、軽く身を前に乗り出した。そして声のトーンを一段階下げ、微笑みながら話す。



(あ、鈴木先生が……“営業マン・鈴木セブン・モード”になっている……)



「メンタル不調……つまり“心の病気”で通院や入院をしている人たちは、国内で約420万人程度と言われ、日本人のおよそ『30人に1人』の割合です。また、生涯を通じて『5人に1人』が心の病気にかかるともいわれています。
内閣府調査では、年収600万円の会社員が6か月休職した場合、同僚の残業費など、会社のコスト負担は約422万円、という試算もございます。御社のように少数精鋭のチームであれば、社員が1人、休職されたと仮定しても、影響は非常に大きいと思われます。
これを機に御社でも、社員のメンタルヘルスに関する体制を整備されてはいかがでしょうか。よろしければ『株式会社E・M・A』より、不調者発生を予防する取り組み、メンタル不調者の早期発見ポイント、不調者が発生した際の対応マニュアル、休職に関する社内規定整備など、トータルソリューションとしてご提案させて頂きたいと思います」


「そうですね……。それも是非お願いします。御社からメールでお見積書を頂ければ幸いです。栗栖宛にお送りください」


「承知いたしました。早急に手配致します」



(商談成立の予感、だなぁ……)と、こっそり思った。



『ジュリー・マリー・キャピタル』のオフィスから帰るとき、栗栖さんが言った。

「江鳩は優秀なメンバーで、我が社になくてはならない存在です。どうか助けてやってください」


「お力になれるよう、尽力させていただきます」


ご挨拶をして私達は、『ジュリー・マリー・キャピタル』をあとにした。

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