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Episode➃ 最後の一滴
第14章|『シューシンハウス』営業社員 折口勉の休日 <2>児童公園にて その1
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<2>
アルコールを補充して元気を取り戻した。少し気分がマシになった俺はしばし歩き、目的の児童公園に着いた。いるのは一組の親子と、少し離れた場所でボールを蹴っている少年だけで、ベンチは空いていた。すかさず座った。
ストロング系の缶入りアルコール飲料、というものを知ってから、俺はこの商品の魅力に感心した。アルコール度数が9%と高く、手軽に、爽やかに、安く酔える酒だ。
虚しさでいっぱいになり、軋んでいた心のコップが、上から注がれた酒の麻酔で、痛みを忘れていく。俺はストロング缶のファンである。
エコバッグの中では、缶の冷気と牛丼の熱気を受け、A4用紙に印刷した“哲学カフェ”のレジュメが皺くちゃになっていた。
ーーー~『神は死んだ』ニーチェの思想をもとに考える~
レジュメには、今日の簡単なテーマと、俺と山田のプロフィール、事務局の連絡先を印刷してある。
でも、まあどうでもいいや。
今日の“哲学カフェ”には誰も来なかった、つまりこの紙はただのゴミである。
牛丼を取り出し、食い始めた。
俺が“哲学カフェ”なんかを始めたのは、友人の山田のアイディアに乗ったからだ。
山田と俺は京京大学の哲学科で同期で、二人とも大学の『吉野寮』に棲みついていた。少しは社会の一般常識に通じていた俺に対して、山田は正真正銘の変わり者で、雑草を食い、ギリギリの貧乏暮らしをしながらアルバイトをして金を貯め、最低限の資金ができると、好奇心のままに紛争地帯に身一つで出かけて行くような無鉄砲だった。
大学生の頃、戦争状態だった中東の某国に半年ほど滞在していた山田が唐突に帰国した時、野放図に伸びた毛と浅黒く焼けた肌はまるで現地人のような異国情緒を醸し出していたが、心にも身体にも大きな創はなく、身代金を要求されることもなく、無事に日本まで戻って来られたことは奇跡的に幸いだった。その日は吉野寮の仲間一同、大喜びし、カンパして肉を買い、朝まで無事の帰還を祝った。
山田は事もなげに、あっちに居た時は何度か銃を突き付けられたもんでね、と話した。ねずみ顔に眼鏡、ヒョロヒョロした体躯の山田が、G.I.ジョーでも股間をヒュンとさせられるような武勇伝を訥々と話すのは面白かった。山田は現地で紛争のとばっちりに巻き込まれて一時的に身柄を拘束されていたが、逃げ出すことに成功したという。彼がホラ吹きではなく確かにその場にいたことは、当時同国に滞在していたフリージャーナリストのホームページ写真で裏付けられていた。
そして、その日の“山田の帰還を祝う焼肉の会”で、一番先に床で寝てしまったのも山田であった。なぜなら山田は右翼でも左翼でもなかったし、特別の信仰心や功名心を持っているわけでもなかった。ただ、ニュースで見たその場所に、実際に行ってみたいと思い立って行動しただけの純真な大学生だったのだから、とりあえず彼にとって帰宅してやるべきことは、ゆっくりと眠ることだったのだ。
山田は、大学を数年留年したあと、なんとか教授の温情で卒業し、気ままなアルバイターになった。京京大卒でアルバイトかよ、と言うヤツもいたが、当時、山田の背中に、俺はある種のカッコ良さを感じ取った。
今の若者には信じられないかもしれないが、俺たちが大学を卒業して社会に出た当時の世の中では、今で言う『非正規雇用』のことを『フリーター』と呼び始めたばかりで、しかも、本当にやりたいことや夢を追いかけるために敢えて正社員にならない生き方は進歩的でイケてるぜ、くらいの空気が一部界隈で流れていたのである。
“家畜”ならぬ“社畜”として、自我を押し殺し、長時間労働に従事して生きる親世代へのアンチテーゼもあったと思う。
そして当時、瞬間風速的に、フリーターの時給は、大卒新入社員の時給よりもチョット割高でさえあった。
アルコールを補充して元気を取り戻した。少し気分がマシになった俺はしばし歩き、目的の児童公園に着いた。いるのは一組の親子と、少し離れた場所でボールを蹴っている少年だけで、ベンチは空いていた。すかさず座った。
ストロング系の缶入りアルコール飲料、というものを知ってから、俺はこの商品の魅力に感心した。アルコール度数が9%と高く、手軽に、爽やかに、安く酔える酒だ。
虚しさでいっぱいになり、軋んでいた心のコップが、上から注がれた酒の麻酔で、痛みを忘れていく。俺はストロング缶のファンである。
エコバッグの中では、缶の冷気と牛丼の熱気を受け、A4用紙に印刷した“哲学カフェ”のレジュメが皺くちゃになっていた。
ーーー~『神は死んだ』ニーチェの思想をもとに考える~
レジュメには、今日の簡単なテーマと、俺と山田のプロフィール、事務局の連絡先を印刷してある。
でも、まあどうでもいいや。
今日の“哲学カフェ”には誰も来なかった、つまりこの紙はただのゴミである。
牛丼を取り出し、食い始めた。
俺が“哲学カフェ”なんかを始めたのは、友人の山田のアイディアに乗ったからだ。
山田と俺は京京大学の哲学科で同期で、二人とも大学の『吉野寮』に棲みついていた。少しは社会の一般常識に通じていた俺に対して、山田は正真正銘の変わり者で、雑草を食い、ギリギリの貧乏暮らしをしながらアルバイトをして金を貯め、最低限の資金ができると、好奇心のままに紛争地帯に身一つで出かけて行くような無鉄砲だった。
大学生の頃、戦争状態だった中東の某国に半年ほど滞在していた山田が唐突に帰国した時、野放図に伸びた毛と浅黒く焼けた肌はまるで現地人のような異国情緒を醸し出していたが、心にも身体にも大きな創はなく、身代金を要求されることもなく、無事に日本まで戻って来られたことは奇跡的に幸いだった。その日は吉野寮の仲間一同、大喜びし、カンパして肉を買い、朝まで無事の帰還を祝った。
山田は事もなげに、あっちに居た時は何度か銃を突き付けられたもんでね、と話した。ねずみ顔に眼鏡、ヒョロヒョロした体躯の山田が、G.I.ジョーでも股間をヒュンとさせられるような武勇伝を訥々と話すのは面白かった。山田は現地で紛争のとばっちりに巻き込まれて一時的に身柄を拘束されていたが、逃げ出すことに成功したという。彼がホラ吹きではなく確かにその場にいたことは、当時同国に滞在していたフリージャーナリストのホームページ写真で裏付けられていた。
そして、その日の“山田の帰還を祝う焼肉の会”で、一番先に床で寝てしまったのも山田であった。なぜなら山田は右翼でも左翼でもなかったし、特別の信仰心や功名心を持っているわけでもなかった。ただ、ニュースで見たその場所に、実際に行ってみたいと思い立って行動しただけの純真な大学生だったのだから、とりあえず彼にとって帰宅してやるべきことは、ゆっくりと眠ることだったのだ。
山田は、大学を数年留年したあと、なんとか教授の温情で卒業し、気ままなアルバイターになった。京京大卒でアルバイトかよ、と言うヤツもいたが、当時、山田の背中に、俺はある種のカッコ良さを感じ取った。
今の若者には信じられないかもしれないが、俺たちが大学を卒業して社会に出た当時の世の中では、今で言う『非正規雇用』のことを『フリーター』と呼び始めたばかりで、しかも、本当にやりたいことや夢を追いかけるために敢えて正社員にならない生き方は進歩的でイケてるぜ、くらいの空気が一部界隈で流れていたのである。
“家畜”ならぬ“社畜”として、自我を押し殺し、長時間労働に従事して生きる親世代へのアンチテーゼもあったと思う。
そして当時、瞬間風速的に、フリーターの時給は、大卒新入社員の時給よりもチョット割高でさえあった。
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