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Episode➃ 最後の一滴
第18章|ビラ配り <11>見つけた獲物
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<11>
「ちょっ……ちょっと、どこ行かれるんです? 」
老人が歩き出したのを見て、酒瓶のことを思い出した。
彼が背負った荷物の中にある酒瓶。あれだけは俺の手元に、置いて行ってくれないかなぁ、と思った。
「ゼンキ、オオミネを目指す………」
「はあ? この辺にそんな場所あったかな………ここ、若洲ですよ。江東区の若洲公園です。道、わかりますか? 」
「この辺は子供の頃から歩いておるから問題ない。道が分かっていないのはお前のほうだ。はぐれると死ぬから離れるなよ。油断大敵だ」
「あ、あははは………そりゃ大変だナァ………」
若洲公園が一般人に開放されたのは、平成になってからだ。
推定年齢80代くらいのこの老人が子供の頃に、ここを歩いていたはずがない。
頓珍漢な爺さんに会ってしまった、と苦笑した。
ただ、人間って、不吉なことを言われると、なんとなく気になってしまうものだ。
“はぐれると死ぬ”とは縁起でもない。少しだけ、様子見でついていくか。
急いで紙袋を回収し、すたすたと歩き出した老人の背中を追った。
周辺には靄が出始めていた。周囲の景色が霞んでいく前にと、俺はもう一度、振り向いて東京ゲートブリッジを見てから、芝生広場をあとにした。
**************************************
海を右手に見ながらしばらく北へ歩いていくと、いつの間にか徐々に景色は森に切り替わっていった。
しばらく歩いて喉が渇き、自動販売機がないかと探すと、老人が足下の小さな沢を指差した。
柔らかい水音とともに、透明な水が流れている。
人工の埋め立て地なのに、こんなところに綺麗な小川があるとは思わなかったな。
飛びついて、その水をごくごくと飲んだ。とても澄んだ味だった。
顔を上げると、鳥の鳴き声がし、樹木の匂いがした。
気付かぬうちに太陽が高く登って、木々の間から光が差している。
「ここはどこですかね」
スマートフォンで、現在地を見ようとしたが、電池切れで電源が入らなかった。
**************************************
俺を先導する名も知らぬ老人は、木の枝を杖にしながら、息を切らしてどんどん山道を進んだ。
比較的平坦だと思っていた足元は、最初のうちこそ整えられた登山道のようだったが、そのうち原生林に近づいていき、行先は不明瞭となり、何度も石や岩、木の根などに足を取られそうになった。
「ちょ、ちょっと、いい加減、いったん休憩しませんか、ハァ、ハァ………」
老人もキャンプ道具一式を背負っているけれども、俺は両手にずっしり重い紙袋を持っている。
そう身軽には動けるものではない。
「……………休憩は少しだけだぞ。日があるうちに出来る限り、移動しとかなならん」
老人は足を止め、荷物を置いて、手ごろな岩場に座った。
遠くに白装束の行列が見えた。
目を凝らすと、山伏のようである。先頭の行者が法螺貝の笛を吹き鳴らし、後ろに続く者は、声を合わせ般若心経を唱えていた。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中…………
ゲートブリッジの前で聞いた、正体不明の声が言った事を思い出す。
【お前はもうすぐ死ぬ】
老人も言っていた。
【お前、このままだと死ぬぞ】
まったくの事実無根だとしたって、そんなことを言われた後で般若心経を聞かされるのは、気分の良いものではない。
まさか、俺の葬式が、どこかで既に始まってやしないだろうな?
絵葉書のように美しい、今見ている山の景色は本当に若洲公園なのか?
よもやここは、『あの世』ではあるまいな?
急に不安になった。
「般若心経を唱えて歩くあの行列は……何ですか? 」
「修験道の者たちか。何が見えても気にするな。いずれ見えなくなる」
「……………気にするなっていわれてもね。気になりますよ。そもそも、あなたは何処のどなたなんですか」
「それは答えられない。ただ、ワシはお前の味方だ。信じてええ」
――――埒があかない。
こんな怪しい爺さんと一緒に山に来て、道に迷って遭難でもしたら大変なことだ。
ここらで別れて、海沿いの道に引き返したい。
「俺、そろそろ営業所に帰らないといけないんで………」
しかし老人は、唐突に俺の紙袋に手を突っ込んで、チラシを一瞥した。
「こんなん、ここに置いていけ。この先はもっと険しい。両手が使えなんだら絶対に乗り越えられない」
「だから、俺はこれ以上、山奥には行きませんって」
「今さら戻ることはできやんぞ。だが山頂まで無事に辿りつけたら、お前は富を手に入れる」
「……………えっ。富? “富”が手に入るって………。それどういうことですか? 何かもらえるんですか? 」
「そうだ。家の2軒や3軒など簡単に買えるほどの富をやる。お前は息子のようなもんだ、惜しむ必要はない」
「え。ほ、本当に………………? 」
意外な老人の言葉だった。
こちらはただ付いてきただけのつもりだったが、向こうは結構、俺を気に入っていたらしい。
もしかして、漫画のストーリーじゃないが、この貧乏そうな爺さんが見た目に反して、しっかり財産を溜め込んでいるってこともあるんだろうか………? と、頭の片隅で素早く計算した。
世間には、オレオレ詐欺に限らず、認知症気味になった高齢者の資産を狙うビジネスが色々とある。
先ほどから見ていると、この老人も、健脚ではあるが、所々、現状への理解が怪しい部分がある。
こういう老人を口車に乗せるのは、案外容易いのかもしれない。
どうせ明日までにチラシを1万枚配り終えることは不可能に決まっている。
だが、もし太い見込み客を一人連れて帰ることができれば、チラシを1万枚撒いたよりずっと価値がある。
この爺さんが直接、財産を分けてくれるというなら当然、それが一番効率的なんだが………、気付いた親類縁者が横槍を入れてこないとも限らない。
しかし例えば、ちょうどこのチラシに載っているような売れ残り物件の、売買契約を結ぶ形ならどうだ……
老人の親戚や周囲に気づかれぬうちに契約を交わしてしまえば、その約束には社会的な効力が生まれるはずだ………。
たとえそれが、相場より遥かに割高であったとしても……
住宅ローンは年齢的に組めないと思うが、現預金さえあるなら問題はない。取引は成立する。
住宅営業は、単価が高いから一発当たるとでかい。
ひと月に2棟売れたら支店トップが取れる。1棟売れたら、半年間くらいはそれだけで、一応は営業部隊の中で、人権を付与されたメンバーとして過ごすことができるくらいのインパクトがある……。
先ほどまでは会社の養分にされることを忌避していたはずの自分が、たった今、目の前の爺さんを『獲物』と認識しはじめているのがおかしかった。
だが俺のサラリーマン人生にとって、今は生死の境目のような状況なのである。
偶然に出会った耄碌した老人を、なんとか金の成る形にまとめあげることができたら、そのエキスでしばらく俺は延命できるのだ。
この人がただの嘘つきの可能性もあるが、チラシを配れず営業所に帰り、座して死を待つよりはスカを引く方がマシだ。
何も俺は、押し売りをしようってわけじゃない。
富をくれるという話は、爺さんが自分から言い出したのだ。
賭けてみる価値はあるじゃないか。
若洲にこんな深い山や森があるとは知らなかったが、人間の作った山の規模など、どうせたかが知れているだろう……。
「わかりました。じゃあ付いていきます。『富』、欲しいです。山頂まで辿り着いたら……約束ですよ」
「男に二言はないさけ、安心しろ」
「で、そういえば、爺ちゃん、下の名前は、どんな漢字表記? 前に聞いたことあるかもしれないけど、うっかり忘れちゃったなぁ……」
老人が俺を別の誰かと勘違いしているかもしれないから、ニュースで見たオレオレ詐欺のやり方を念頭に置いて、敢えて自分からは名乗らずに相手のプロフィールを探った。
が、老人は問いに答えてくれなかった。
俺はチラシ入り紙袋をこの地点で諦め手放すことに決め、手近な木の根元に置いた。
そこからは老人と二人で、ひたすら前へ前へと無我夢中で歩き続けた。
「ちょっ……ちょっと、どこ行かれるんです? 」
老人が歩き出したのを見て、酒瓶のことを思い出した。
彼が背負った荷物の中にある酒瓶。あれだけは俺の手元に、置いて行ってくれないかなぁ、と思った。
「ゼンキ、オオミネを目指す………」
「はあ? この辺にそんな場所あったかな………ここ、若洲ですよ。江東区の若洲公園です。道、わかりますか? 」
「この辺は子供の頃から歩いておるから問題ない。道が分かっていないのはお前のほうだ。はぐれると死ぬから離れるなよ。油断大敵だ」
「あ、あははは………そりゃ大変だナァ………」
若洲公園が一般人に開放されたのは、平成になってからだ。
推定年齢80代くらいのこの老人が子供の頃に、ここを歩いていたはずがない。
頓珍漢な爺さんに会ってしまった、と苦笑した。
ただ、人間って、不吉なことを言われると、なんとなく気になってしまうものだ。
“はぐれると死ぬ”とは縁起でもない。少しだけ、様子見でついていくか。
急いで紙袋を回収し、すたすたと歩き出した老人の背中を追った。
周辺には靄が出始めていた。周囲の景色が霞んでいく前にと、俺はもう一度、振り向いて東京ゲートブリッジを見てから、芝生広場をあとにした。
**************************************
海を右手に見ながらしばらく北へ歩いていくと、いつの間にか徐々に景色は森に切り替わっていった。
しばらく歩いて喉が渇き、自動販売機がないかと探すと、老人が足下の小さな沢を指差した。
柔らかい水音とともに、透明な水が流れている。
人工の埋め立て地なのに、こんなところに綺麗な小川があるとは思わなかったな。
飛びついて、その水をごくごくと飲んだ。とても澄んだ味だった。
顔を上げると、鳥の鳴き声がし、樹木の匂いがした。
気付かぬうちに太陽が高く登って、木々の間から光が差している。
「ここはどこですかね」
スマートフォンで、現在地を見ようとしたが、電池切れで電源が入らなかった。
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俺を先導する名も知らぬ老人は、木の枝を杖にしながら、息を切らしてどんどん山道を進んだ。
比較的平坦だと思っていた足元は、最初のうちこそ整えられた登山道のようだったが、そのうち原生林に近づいていき、行先は不明瞭となり、何度も石や岩、木の根などに足を取られそうになった。
「ちょ、ちょっと、いい加減、いったん休憩しませんか、ハァ、ハァ………」
老人もキャンプ道具一式を背負っているけれども、俺は両手にずっしり重い紙袋を持っている。
そう身軽には動けるものではない。
「……………休憩は少しだけだぞ。日があるうちに出来る限り、移動しとかなならん」
老人は足を止め、荷物を置いて、手ごろな岩場に座った。
遠くに白装束の行列が見えた。
目を凝らすと、山伏のようである。先頭の行者が法螺貝の笛を吹き鳴らし、後ろに続く者は、声を合わせ般若心経を唱えていた。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中…………
ゲートブリッジの前で聞いた、正体不明の声が言った事を思い出す。
【お前はもうすぐ死ぬ】
老人も言っていた。
【お前、このままだと死ぬぞ】
まったくの事実無根だとしたって、そんなことを言われた後で般若心経を聞かされるのは、気分の良いものではない。
まさか、俺の葬式が、どこかで既に始まってやしないだろうな?
絵葉書のように美しい、今見ている山の景色は本当に若洲公園なのか?
よもやここは、『あの世』ではあるまいな?
急に不安になった。
「般若心経を唱えて歩くあの行列は……何ですか? 」
「修験道の者たちか。何が見えても気にするな。いずれ見えなくなる」
「……………気にするなっていわれてもね。気になりますよ。そもそも、あなたは何処のどなたなんですか」
「それは答えられない。ただ、ワシはお前の味方だ。信じてええ」
――――埒があかない。
こんな怪しい爺さんと一緒に山に来て、道に迷って遭難でもしたら大変なことだ。
ここらで別れて、海沿いの道に引き返したい。
「俺、そろそろ営業所に帰らないといけないんで………」
しかし老人は、唐突に俺の紙袋に手を突っ込んで、チラシを一瞥した。
「こんなん、ここに置いていけ。この先はもっと険しい。両手が使えなんだら絶対に乗り越えられない」
「だから、俺はこれ以上、山奥には行きませんって」
「今さら戻ることはできやんぞ。だが山頂まで無事に辿りつけたら、お前は富を手に入れる」
「……………えっ。富? “富”が手に入るって………。それどういうことですか? 何かもらえるんですか? 」
「そうだ。家の2軒や3軒など簡単に買えるほどの富をやる。お前は息子のようなもんだ、惜しむ必要はない」
「え。ほ、本当に………………? 」
意外な老人の言葉だった。
こちらはただ付いてきただけのつもりだったが、向こうは結構、俺を気に入っていたらしい。
もしかして、漫画のストーリーじゃないが、この貧乏そうな爺さんが見た目に反して、しっかり財産を溜め込んでいるってこともあるんだろうか………? と、頭の片隅で素早く計算した。
世間には、オレオレ詐欺に限らず、認知症気味になった高齢者の資産を狙うビジネスが色々とある。
先ほどから見ていると、この老人も、健脚ではあるが、所々、現状への理解が怪しい部分がある。
こういう老人を口車に乗せるのは、案外容易いのかもしれない。
どうせ明日までにチラシを1万枚配り終えることは不可能に決まっている。
だが、もし太い見込み客を一人連れて帰ることができれば、チラシを1万枚撒いたよりずっと価値がある。
この爺さんが直接、財産を分けてくれるというなら当然、それが一番効率的なんだが………、気付いた親類縁者が横槍を入れてこないとも限らない。
しかし例えば、ちょうどこのチラシに載っているような売れ残り物件の、売買契約を結ぶ形ならどうだ……
老人の親戚や周囲に気づかれぬうちに契約を交わしてしまえば、その約束には社会的な効力が生まれるはずだ………。
たとえそれが、相場より遥かに割高であったとしても……
住宅ローンは年齢的に組めないと思うが、現預金さえあるなら問題はない。取引は成立する。
住宅営業は、単価が高いから一発当たるとでかい。
ひと月に2棟売れたら支店トップが取れる。1棟売れたら、半年間くらいはそれだけで、一応は営業部隊の中で、人権を付与されたメンバーとして過ごすことができるくらいのインパクトがある……。
先ほどまでは会社の養分にされることを忌避していたはずの自分が、たった今、目の前の爺さんを『獲物』と認識しはじめているのがおかしかった。
だが俺のサラリーマン人生にとって、今は生死の境目のような状況なのである。
偶然に出会った耄碌した老人を、なんとか金の成る形にまとめあげることができたら、そのエキスでしばらく俺は延命できるのだ。
この人がただの嘘つきの可能性もあるが、チラシを配れず営業所に帰り、座して死を待つよりはスカを引く方がマシだ。
何も俺は、押し売りをしようってわけじゃない。
富をくれるという話は、爺さんが自分から言い出したのだ。
賭けてみる価値はあるじゃないか。
若洲にこんな深い山や森があるとは知らなかったが、人間の作った山の規模など、どうせたかが知れているだろう……。
「わかりました。じゃあ付いていきます。『富』、欲しいです。山頂まで辿り着いたら……約束ですよ」
「男に二言はないさけ、安心しろ」
「で、そういえば、爺ちゃん、下の名前は、どんな漢字表記? 前に聞いたことあるかもしれないけど、うっかり忘れちゃったなぁ……」
老人が俺を別の誰かと勘違いしているかもしれないから、ニュースで見たオレオレ詐欺のやり方を念頭に置いて、敢えて自分からは名乗らずに相手のプロフィールを探った。
が、老人は問いに答えてくれなかった。
俺はチラシ入り紙袋をこの地点で諦め手放すことに決め、手近な木の根元に置いた。
そこからは老人と二人で、ひたすら前へ前へと無我夢中で歩き続けた。
応援ありがとうございます!
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