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Episode➃ 最後の一滴
第20章|折口の復職 <3>モデルハウスの日常ふたたび
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<3>
――――――――折口勉、45歳。俺は今週から、『シューシンハウス』に復職した。そして今日も今日とて、モデルハウスで客待ちである。
「客、来ないなぁ………」
キシキシ鳴る事務用椅子を軋ませながら、独り言のようにつぶやいた。
「いつも通り、だろ」隣にいた栃内が首だけ回してこちらを見、表情ひとつ変えずに言った。
アルコール依存で入院させられていた精神病院からは、2つのオプションを提示された。
ひとつは短期で退院して、外来通院と自助グループ(依存症患者同士のグループセラピー)への参加で治療を続けていく方法。もうひとつは約3か月、このまま長期入院をしながら治療する、という方法。
主治医は“しっかり長期入院するほうがいい”と言ってきたが、俺は早期退院を選んだ。理由は様々。入院費の負担を考えると傷病手当金だけでは生活が心許ない、という金銭的なこともあったし、長期入院組の患者をそばで見ていて、あまり自分には合わないように思ったこともある。それに入院生活には自由がない。病室は大部屋なので、俺は好きでもない精神疾患の男3名と同居させられていたわけで、そのストレスはなかなか大きかった。主治医も最終的には、こちらの意見を尊重してくれた。
「家、売れねぇなぁ………」天井を見上げた。
「そう簡単に売れねぇよ。業界全体が沈んでるんだからしょうがない」栃内がくさい息を吐いた。
人事部の中泉が上役に交渉してくれたこともあったのか、俺の復職は比較的スムーズだった。
退院してすぐに主治医は『復職可能』の診断書を書いてくれたし、産業医の鈴木医師との面談では、当面は自動車運転をしないこと、かかりつけ医への定期通院や自助グループへの参加を続けること、酒を断つことなどを誓わされたが、最終的には『復職可能』の判定がもらえた。
産業医との面談には、保健師の足立里菜さんも同席してくれた。
…………足立さんは優しい。
退院後の生活は、常に酒の誘惑と隣り合わせである。断酒を続けられるか不安だ、と言ったら、LIMEの連絡先を教えてくれた。個人的な会話はしていないが、毎日一回、断酒を達成したこと、明日も断酒を継続する意思があることを連絡している。
アルコール依存症の自助グループでは、入院前の俺のように、アルコール依存によって強い逆境に直面し、それまで否認していた現実の受け入れを始めるきっかけとなることを“底つき体験”という。依存症の患者は、強制入院、解雇、離婚、逮捕など、どん底まで落ちるような喪失体験をして、やっと生まれ変われることが多い。依存症患者が依存から回復していくことは、社会的な死を味わったあと、再生していくことである。そういう意味で、俺は生まれたばかりの赤ん坊になったようなものだ。
今日は酒を飲まずにいられた。生後1日。
次の日も飲まずにいられた。生後2日。
そうやって、着実に飲まない日を重ねていくのが理想的なのである。
足立さんへのLIMEメッセージは、赤ん坊の俺が今日もまだ生存できていることの報告であり、明日も生きていきたいという決意表明だ。
その報告に足立さんが返してくれる小さなリアクションが、今の俺には、心の支えになっている。
「俺、外回りの営業行ってくるかなぁ………」
「また、重すぎるチラシ袋持って、ビラ配るってぇの? 」俺の言葉を聞いた栃内がニチャア、と笑った。
「んだよ。そのネタは、イジられ飽きたぞ」
俺が夢の島と若洲を3日間さまよい歩いていたことは、GPSの軌道とともに拡散され、社内で面白おかしく噂にされていた。
会社に戻ってみると、若手後輩社員の目黒に、意外にも友好的な態度で“発見が遅れてたら、折口さんは若洲の地縛霊になってたっスね”と、笑われた。
「でも、あれさぁ、折口もけっこう根性あるじゃん、って、営業社員の間では好評だったんだぜ。普通は飲まず食わずで3日もビラ配りできねぇから。日頃から未達の反省文で『コント』とか『屁え出る』とかわけわかんないこと言ってるけど、哲学を知ると人間は強くなるのかもしれないなぁ~って、今、社内がちょっとした哲学ブームだぞ」
「………………『コント』、『屁え出る』。それまさか、『カント』と『ヘーゲル』のことか。お前のネタが下品すぎて、なんのこと言ってるかが一瞬わからなかったわ」
「あはは。わりぃわりぃ」
「……ま、水は飲んでたんだよ。その辺の小川の湧き水とか」
「えっ。それヤバくないかぁ」
「なんで? 」
「あの地帯は、もともとゴミの埋め立て地だろ。そのせいで地中から腐敗発酵でメタンガスが発生するもんだからさ、そのガスを逃がすための特殊なパイプ管を地上に立ててるし、『しびれ水』っつー有毒な黒い汚水も染み出してくるんだぜ。そんな場所で湧き水飲んだら、なんか体に悪そうだろ」
「いや……湧き水だと思ってたけど、違うのかもしれない。あの頃、ちょっと幻覚入ってたから………」
「そんなら、いいけど」
……俺はあれから、時おり、考える。
あの時、俺が見た幻覚はなんだったのかと。
――――――――折口勉、45歳。俺は今週から、『シューシンハウス』に復職した。そして今日も今日とて、モデルハウスで客待ちである。
「客、来ないなぁ………」
キシキシ鳴る事務用椅子を軋ませながら、独り言のようにつぶやいた。
「いつも通り、だろ」隣にいた栃内が首だけ回してこちらを見、表情ひとつ変えずに言った。
アルコール依存で入院させられていた精神病院からは、2つのオプションを提示された。
ひとつは短期で退院して、外来通院と自助グループ(依存症患者同士のグループセラピー)への参加で治療を続けていく方法。もうひとつは約3か月、このまま長期入院をしながら治療する、という方法。
主治医は“しっかり長期入院するほうがいい”と言ってきたが、俺は早期退院を選んだ。理由は様々。入院費の負担を考えると傷病手当金だけでは生活が心許ない、という金銭的なこともあったし、長期入院組の患者をそばで見ていて、あまり自分には合わないように思ったこともある。それに入院生活には自由がない。病室は大部屋なので、俺は好きでもない精神疾患の男3名と同居させられていたわけで、そのストレスはなかなか大きかった。主治医も最終的には、こちらの意見を尊重してくれた。
「家、売れねぇなぁ………」天井を見上げた。
「そう簡単に売れねぇよ。業界全体が沈んでるんだからしょうがない」栃内がくさい息を吐いた。
人事部の中泉が上役に交渉してくれたこともあったのか、俺の復職は比較的スムーズだった。
退院してすぐに主治医は『復職可能』の診断書を書いてくれたし、産業医の鈴木医師との面談では、当面は自動車運転をしないこと、かかりつけ医への定期通院や自助グループへの参加を続けること、酒を断つことなどを誓わされたが、最終的には『復職可能』の判定がもらえた。
産業医との面談には、保健師の足立里菜さんも同席してくれた。
…………足立さんは優しい。
退院後の生活は、常に酒の誘惑と隣り合わせである。断酒を続けられるか不安だ、と言ったら、LIMEの連絡先を教えてくれた。個人的な会話はしていないが、毎日一回、断酒を達成したこと、明日も断酒を継続する意思があることを連絡している。
アルコール依存症の自助グループでは、入院前の俺のように、アルコール依存によって強い逆境に直面し、それまで否認していた現実の受け入れを始めるきっかけとなることを“底つき体験”という。依存症の患者は、強制入院、解雇、離婚、逮捕など、どん底まで落ちるような喪失体験をして、やっと生まれ変われることが多い。依存症患者が依存から回復していくことは、社会的な死を味わったあと、再生していくことである。そういう意味で、俺は生まれたばかりの赤ん坊になったようなものだ。
今日は酒を飲まずにいられた。生後1日。
次の日も飲まずにいられた。生後2日。
そうやって、着実に飲まない日を重ねていくのが理想的なのである。
足立さんへのLIMEメッセージは、赤ん坊の俺が今日もまだ生存できていることの報告であり、明日も生きていきたいという決意表明だ。
その報告に足立さんが返してくれる小さなリアクションが、今の俺には、心の支えになっている。
「俺、外回りの営業行ってくるかなぁ………」
「また、重すぎるチラシ袋持って、ビラ配るってぇの? 」俺の言葉を聞いた栃内がニチャア、と笑った。
「んだよ。そのネタは、イジられ飽きたぞ」
俺が夢の島と若洲を3日間さまよい歩いていたことは、GPSの軌道とともに拡散され、社内で面白おかしく噂にされていた。
会社に戻ってみると、若手後輩社員の目黒に、意外にも友好的な態度で“発見が遅れてたら、折口さんは若洲の地縛霊になってたっスね”と、笑われた。
「でも、あれさぁ、折口もけっこう根性あるじゃん、って、営業社員の間では好評だったんだぜ。普通は飲まず食わずで3日もビラ配りできねぇから。日頃から未達の反省文で『コント』とか『屁え出る』とかわけわかんないこと言ってるけど、哲学を知ると人間は強くなるのかもしれないなぁ~って、今、社内がちょっとした哲学ブームだぞ」
「………………『コント』、『屁え出る』。それまさか、『カント』と『ヘーゲル』のことか。お前のネタが下品すぎて、なんのこと言ってるかが一瞬わからなかったわ」
「あはは。わりぃわりぃ」
「……ま、水は飲んでたんだよ。その辺の小川の湧き水とか」
「えっ。それヤバくないかぁ」
「なんで? 」
「あの地帯は、もともとゴミの埋め立て地だろ。そのせいで地中から腐敗発酵でメタンガスが発生するもんだからさ、そのガスを逃がすための特殊なパイプ管を地上に立ててるし、『しびれ水』っつー有毒な黒い汚水も染み出してくるんだぜ。そんな場所で湧き水飲んだら、なんか体に悪そうだろ」
「いや……湧き水だと思ってたけど、違うのかもしれない。あの頃、ちょっと幻覚入ってたから………」
「そんなら、いいけど」
……俺はあれから、時おり、考える。
あの時、俺が見た幻覚はなんだったのかと。
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