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Episode➃ 最後の一滴

第20章|折口の復職 <4>送れないメール

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<4>


 あの日、アルコールの離脱症状で幻覚を見た俺は、見知らぬ老人に会った。

老人が言っていた言葉の中でハッキリと覚えているものは、いくつかあった。例えば『むろとざき』、『ぜんき』、『おおみね』という言葉。それらを後から調べてみたら、実在の地名と分かった。和歌山県の俺の地元近くには前鬼ぜんき大峰おおみねという場所があり、地元の海辺から海を挟んで西の方角には、高知県の室戸岬むろとざきが見える。

俺は登山などしないが、和歌山は地元なので、無意識にインプットされていた情報が幻覚に出てきたのかもしれない。必死で登っていたつもりの山はもしかすると、大峰山だったのかもしれない。

あの老人は言っていた。


―――「…………山頂まで無事に辿りつけたら、お前は富を手に入れる」

―――「……………えっ。富? “富”が手に入るって………。それどういうことですか? 何かもらえるんですか? 」

―――「そうだ。家の2軒や3軒など簡単に買えるほどの富をやる。お前は息子のようなもんだ、惜しむ必要はない」


…………。

だがその後、俺に『富』が転がり込んできた気配はさっぱりなかった。
持っている銀行口座の残高をつぶさに確認してみたが、残高に予想外の増減はない。

しょせんアルコール離脱が見せた幻覚の中のストーリーなのだから当然かもしれないが、ちょっと残念だった。



 そして、幻覚のうちもうひとつ気になったのは、友人の山田のことである。

俺の幻覚の中で、山田は首を吊って遺体に成り果てていた。

現実の世界で山田とずっと連絡が取れないことが、俺にあんな幻覚を見させたのだろうか。

それともオカルトめいているけれども、山田は……もしかしてどこかで、本当に死んだのだろうか。


遠い国で起きている大きな戦争の状況は、決着する気配もなく、泥沼化している。
それに大学の哲学科というのは、ダントツに自殺率が高い集団でもある。
人間、何も考えていないのは問題だが、考えすぎるのもまた問題なのだ。
哲学科には、色々考え抜いた結果、結論として人生が嫌になって死ぬやつが毎年必ずいた。
卒業後の就職先が乏しいのに加えて自殺率まで異様に高いなんて、俺が親なら子供を哲学科にはやりたくないと思うだろうが………哲学科とはそういうところなのである。


俺が精神病院に入院している間、スマホの利用には制限がかけられていた。
現代社会ではスマホとクレジットカードさえあれば、刑務所の中からでも犯罪を犯すことが可能なわけだし、精神科病棟に入院している者に好きなだけスマホを使わせるわけにはいかない、という病院の方針もやむを得ない。当時はナースステーション預かりになっている自分のスマホを借りて、1日15分だけ使わせてもらっていた。その貴重な短時間に、俺は何度も、山田宛に「元気? 実は俺、入院してる」という内容のメールを作っては消去して、結局、送信することができないまま退院してしまった。


……思い返せば婚活の時も、俺はこんな感じだった。


若いころは無知ゆえの勢いで、恋愛をこじらせて女の子の家に押しかけてみたりもしたが、中年になるにつれて理性が先に立つようになった。

そうなると、メール一通送るのも考えてしまう。

この文面、相手にどう思われるんだろうか。
相手にとって自分など、どうでもいい存在なんじゃないか。
迷惑だと思われたら、無視されたらどうしよう………………。

そう思い始めると、たった一通のメッセージがなかなか送れなくなって、考え込んでしまう。

結婚紹介所の顔合わせで会って、少しいい雰囲気になった相手にも、定型文みたいな返事しかできず、それから1か月以上も連絡をせずに、結局「冷たいから」という理由で振られたりしていた。

相手の女の人が嫌いだったわけじゃない。むしろ気になっていたし、もう少し仲良くなりたいとは思っていた。

ただ、考えすぎて、どう接していいかがわからなくなってしまった。



そうやっていつの間にか、中年になった俺はひとりになった。


同級生も次々と家庭を作り、つながりのあった女の子とも疎遠になり。

結婚して実家を離れた姉。
高齢化して頼りなくなってきた親。


………酒という逃げ道を失ってから冷静に周囲を見渡してみると、時折、深い穴のような孤独がすぐそばに横たわっていると感じる。

この隙間風のような軽薄な寂しさは、深刻な病ほどの危機ではないくせに妙に重く、酒の一滴もなしに一生抱えて生きていける自信は、まだ湧き起らない。
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