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Episode➃ 最後の一滴

第21章|折口の復調 <11>バッカスの誘惑

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<11>


「ハァ~~~~~ッ………」


『シューシンハウス』城東支店に戻った俺は、深い深い溜息を吐いた。


見込み客として期待していた織田さんだったが、二度目の打ち合わせで話を聞いていると、パートナーとの意見が一致していないのは明らかだった。織田さんだけの与信ではローンが借りられないし土地も買えそうにないのに……。

しかも今日は、商談のあとで思いがけず酒を勧められるというハプニングが起きた。
織田さんとの会話を思い出す。


****************************


――――「家を建てるのって大変だなぁ……。考えることだらけだ。ところで折口さん、お酒はお好きですか」

――――「あ………は、はい。最近はあまり飲みませんけど………」

――――「どんなお酒が好きなんです? 」

――――「わりとなんでも飲みますね………ワインも好きです! 詳しくありませんけど、白よりは赤のほうが好きかなァ」

ワイン輸入業の織田さんの好感度を上げようと話を合わせたところ、織田さんが立ち上がり、部屋の間仕切りをスライドさせた。

その仕切りの向こうの隣部屋には、何台もの小型ワインセラーがずらっと並んで貯蔵室のようになっていた。壮観だった。


――――「ぜひ一杯、息抜きにどうですか」

――――「あ………い、いや………」

――――「折口さんのお好みに合わせてワインをチョイスさせて頂きますよ。ブドウも色々、産地も色々です。うちの会社が得意なのは、ギリシャワインなんです」


アルコール依存症の治療を受けていた病院では、“酒の席に誘われたら、アルコールにアレルギーがあると言って断るのが一番角が立たない”と教えられた。しかしその手法は、この会話の流れでは使えなかった。

それに、ワインを愛する人にとって、俺の病歴は、酒宴を台無しにする、面白くないもののはずだ。

営業マンは、客からの好感度が地に落ちたら絶対に売れない。
ここで断ると、織田さんの気持ちを下げてしまうかもしれない。

便意を必死で我慢しているときのような、切迫感のある冷や汗と動悸が沸き上がってきた。

――――「ギリシャはワイン作りのルーツの一つで、紀元前3,000年代には既にワインを作っていたとされています。哲学とワインの生まれ故郷に思いを馳せながら、折口さんと僕でワイングラスを傾けるだなんて、ロマンチックではありませんか。あっ、このワインとかお勧めですよ」

――――「ああ………えーと………あ、……」

――――「どうしたんですか、折口さん。顔色が悪いですけど」

――――「じ…………実は!! 私は!! あ、アルコール、いっ……いぞっ…」

――――「え…………? 」

――――「いや、実は次に、商談がもう一件入っておりましてっ………………。ですから飲めません!!! 申し訳ございません!!!! 」

****************************


………なんとか飲まずに乗り切ったものの、あぶないところだった。

ふと思い返す。
精神科病院に入院する前、俺が“アル中”という言葉にほんのり感じていた蔑視の感情を。

世の中がリベラル化しているとは言えども、不特定多数の世間の目は、甘くない。

これから俺が社会で暮らしていくにあたって、アルコール依存症だったことをオープンにして、完全に断酒しながら暮らしていくのは、意外に難しいことかもしれない。


――――営業マンとして、やっぱり少しぐらいは織田さんのワインを飲むべきだったかなぁ……。いや……ワインを飲んでも、家が売れるかどうかとは別問題か……ああ、ああ、アルコールが飲みたい……………


織田さんの前ではなんとか酒を断ったが、飲まないかと誘われたことで飲酒欲求がぶり返す感じがあった。


飲みたい。飲みたい。飲みたい。飲んじゃだめだ。

飲めばよかった。一杯くらい飲んでも大丈夫だった。いや、飲んでも売上には関係なかった。飲まなくて良かった。

結局今回も、家は売れないかもしれない。ダメかもしれない。また支店長に見下される。哲学カフェなんかやっても無駄だった。いや、頑張ればまだ、俺にも売れるかもしれない…………


ぐるぐると頭の中を思考が回って、決着がつかないままに空転した。
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