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Episode➃ 最後の一滴
第23章|人生ゲーム <12>ユングとフロイト(折口勉の視点)
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<12>
「哲学カフェ、どうやって参加すればよいのでしょうか」産業医が言った。
「あっ、あ………。とりあえず、そこに座ってください」
机の上には既に本日のレジュメが並べてある。座った産業医はそれを眺めた。
「『ユングの思想をヒントに ~“心”とは何か~』……。カール・グスタフ・ユング。精神科医・心理学者の大家ですね」
「ええ……まぁ。俺、ご存知の通り、アルコール依存症になったんですけど。アルコール依存症の自助グループ団体って、大きく分けると『断酒会』と“アルコホーリクス・アノニマス”……略して『AA』に分類できるんです」
「『断酒会』は実名を名乗って会員となり参加するグループで、家族参加も推奨されている。一方『AA』は参加者の匿名性が重んじられており、依存症の当事者本人のみが参加する、という特徴の違いがありますね」
「はい。そのうち『AA』の歴史をたどると、ユングに行き当たります。アルコール依存症に悩まされ、ユングの患者でもあったアメリカの実業家ローランド・ハザードがきっかけで、『AA』が作られていった。それで調べているうちに、僕もユングの思想に対して興味が出てきまして。ユングは医療者ではあるけれど、多くの書を残していますし、哲学の影響も大きく受けています」
「ユングが『AA』の創設に関わっていたことは知りませんでしたね……興味深いエピソードです」
「ところで鈴木先生は、どうしてこの哲学カフェの開催を知ったんですか」
「弊社保健師の足立から聞きました」
「あ、足立さん……、か……」
どう返事をしていいか分からず、ごくりと唾を飲み込んだ。
彼女からずっと、LIMEの返事は来てない。俺からの毎晩の報告メッセージも、もう送っていない。
「そういえば……折口さんには謝らなければなりません。足立はまだ保健師として働き始めて日が浅いのです。契約先企業の社員さんと個人的には連絡を取らない、という弊社の方針をよく分かっておらず、あなたと定期的に個人LIMEで連絡していることを知り、先日より僕が、これ以上の返信を送ることを強制的に止めております」
産業医が深々と頭を下げた。
「ああ………。まぁ……それは、そうですよね……。俺、夜の時間帯にメッセージを送ってしまってたし……。足立さんにも、勤務時間とそうでない時間があるのにね………」
「彼女が熱心な保健師であるということは僕も理解しています。しかし長く仕事を続けていくために、守るべき境界線もあるかと思い……。このたびは中途半端な状態となりまして申し訳ありません」
「いや……俺も、最初から頭ではよく分かっていたんですよ。足立さんの優しさに、依存しすぎてはいけないって………」
机の上に、目線を落とした。
「ユングはフロイトの弟子だった。そしてフロイトは忠告した。治療者と患者の間に、治療中に現れる特殊な感情には気を付けるように。しかしユングは患者と治療者の垣根を越えて、妻がありながらも女性患者と深い関係に陥った」
「“転移”に関するエピソードですね。決してユングが性的に放逸であったからとは言い切れない……。精神医学の大家とされる人物でも、治療を通して患者との相互関係に強く引き込まれてしまうことがある。それだけ人間の心と心は、共鳴しやすいものなのかもしれません」
「俺は弱い人間です。正直、足立さんのこと、女の人としても好意的に思っていました。毎日若い女のコと連絡を取り合ってちょっと浮かれている一面もあっただろうし、足立さんが保健師だったから余計特別だったかもしれないとも思う。付き合えるもんならお付き合いしてみたいと思ったこともあります。そういう男と、仕事とはいえ頻繁に連絡を取ることが、働く女性にとってリスクになることもわかります。だからもう個人的な連絡は一切しません。ただ………」
「何でしょうか? 」
「ただ……どうか、足立さんを怒らないであげてください。俺、邪な気持ちもあったけど、彼女が手を差し伸べてくれたことに、心から感謝もしていました。
1人で部屋に座って、思わずお酒をまた飲んでしまおうと思ったときに、彼女の顔が浮かんで……。足立さんの存在が、一本の蝋燭のように心を照らしてくれた。
いつでも連絡していいですよと言ってくれた彼女の優しさに救われた日が確かにあったんです。
世間って冷たいじゃないですか。特に俺みたいな『オジサン』になっちゃうと。でも足立さんは、今どき珍しく、人情味があるタイプ、っていうのかな。彼女のそういういい所、俺、なくなってほしくないんですよ………」
「………わかりました」
産業医は深く頷いた。
その時、部屋にまた誰か1人、入ってくる気配がした。
「哲学カフェ、どうやって参加すればよいのでしょうか」産業医が言った。
「あっ、あ………。とりあえず、そこに座ってください」
机の上には既に本日のレジュメが並べてある。座った産業医はそれを眺めた。
「『ユングの思想をヒントに ~“心”とは何か~』……。カール・グスタフ・ユング。精神科医・心理学者の大家ですね」
「ええ……まぁ。俺、ご存知の通り、アルコール依存症になったんですけど。アルコール依存症の自助グループ団体って、大きく分けると『断酒会』と“アルコホーリクス・アノニマス”……略して『AA』に分類できるんです」
「『断酒会』は実名を名乗って会員となり参加するグループで、家族参加も推奨されている。一方『AA』は参加者の匿名性が重んじられており、依存症の当事者本人のみが参加する、という特徴の違いがありますね」
「はい。そのうち『AA』の歴史をたどると、ユングに行き当たります。アルコール依存症に悩まされ、ユングの患者でもあったアメリカの実業家ローランド・ハザードがきっかけで、『AA』が作られていった。それで調べているうちに、僕もユングの思想に対して興味が出てきまして。ユングは医療者ではあるけれど、多くの書を残していますし、哲学の影響も大きく受けています」
「ユングが『AA』の創設に関わっていたことは知りませんでしたね……興味深いエピソードです」
「ところで鈴木先生は、どうしてこの哲学カフェの開催を知ったんですか」
「弊社保健師の足立から聞きました」
「あ、足立さん……、か……」
どう返事をしていいか分からず、ごくりと唾を飲み込んだ。
彼女からずっと、LIMEの返事は来てない。俺からの毎晩の報告メッセージも、もう送っていない。
「そういえば……折口さんには謝らなければなりません。足立はまだ保健師として働き始めて日が浅いのです。契約先企業の社員さんと個人的には連絡を取らない、という弊社の方針をよく分かっておらず、あなたと定期的に個人LIMEで連絡していることを知り、先日より僕が、これ以上の返信を送ることを強制的に止めております」
産業医が深々と頭を下げた。
「ああ………。まぁ……それは、そうですよね……。俺、夜の時間帯にメッセージを送ってしまってたし……。足立さんにも、勤務時間とそうでない時間があるのにね………」
「彼女が熱心な保健師であるということは僕も理解しています。しかし長く仕事を続けていくために、守るべき境界線もあるかと思い……。このたびは中途半端な状態となりまして申し訳ありません」
「いや……俺も、最初から頭ではよく分かっていたんですよ。足立さんの優しさに、依存しすぎてはいけないって………」
机の上に、目線を落とした。
「ユングはフロイトの弟子だった。そしてフロイトは忠告した。治療者と患者の間に、治療中に現れる特殊な感情には気を付けるように。しかしユングは患者と治療者の垣根を越えて、妻がありながらも女性患者と深い関係に陥った」
「“転移”に関するエピソードですね。決してユングが性的に放逸であったからとは言い切れない……。精神医学の大家とされる人物でも、治療を通して患者との相互関係に強く引き込まれてしまうことがある。それだけ人間の心と心は、共鳴しやすいものなのかもしれません」
「俺は弱い人間です。正直、足立さんのこと、女の人としても好意的に思っていました。毎日若い女のコと連絡を取り合ってちょっと浮かれている一面もあっただろうし、足立さんが保健師だったから余計特別だったかもしれないとも思う。付き合えるもんならお付き合いしてみたいと思ったこともあります。そういう男と、仕事とはいえ頻繁に連絡を取ることが、働く女性にとってリスクになることもわかります。だからもう個人的な連絡は一切しません。ただ………」
「何でしょうか? 」
「ただ……どうか、足立さんを怒らないであげてください。俺、邪な気持ちもあったけど、彼女が手を差し伸べてくれたことに、心から感謝もしていました。
1人で部屋に座って、思わずお酒をまた飲んでしまおうと思ったときに、彼女の顔が浮かんで……。足立さんの存在が、一本の蝋燭のように心を照らしてくれた。
いつでも連絡していいですよと言ってくれた彼女の優しさに救われた日が確かにあったんです。
世間って冷たいじゃないですか。特に俺みたいな『オジサン』になっちゃうと。でも足立さんは、今どき珍しく、人情味があるタイプ、っていうのかな。彼女のそういういい所、俺、なくなってほしくないんですよ………」
「………わかりました」
産業医は深く頷いた。
その時、部屋にまた誰か1人、入ってくる気配がした。
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