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Episode⑤ 女の勝ち組/女の負け組

第24章|港区の風 <3>井場本先生のカウンセリング

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<3>


――――――ハァ、ハァ。ハァ、ハァ……………。


息が苦しい。世界がゆがむ。助けて。苦しい。助けて。


――――――足立さん、今、誰かに自分を見られてる感じがする? 


遠くから、井場本先生の声が聞こえる気がする。


――――――ハァ、ハァ……………。病院での実習会場。周りにはたくさんの人がいます。私を見て、馬鹿にして笑っているのは………実習で一緒の班になった病院職員たち。


「ほかにも、誰かの視線を意識している? 」 

「…………いいえ。ああ、でも、あれは………………会場の隅で……天井の端っこから……私を一番じっと見ている目は…………。近藤さんかなぁ……。精神科の………精神科の看護師として働いていたときに、担当していた患者さんです」

「『近藤さん』ね。その人は今、どんな感じであなたを見てるの? 」

「表情………見えない。わからない。私からは彼の顔が見えない! 」


叫ぶように答えて、ハッとして目を開けた。


…………目を開けると、そこはクリニックの、特別診察室の中だった。
窓の外には変わらず穏やかな空と雲が見えている。ゆっくりと雲が流れている。外は少し風が強いのだろうか。けれどもビルの中では、空調の微かな音しか感じ取れない。


「足立さん、大丈夫よ。今日はこのへんまでにしておきましょう」
井場本先生は静かに言った。

「すみません。大きな声を出してしまって」
思わず自分の身の回りを確かめた。私の汗が診察室の椅子にまで染みていたらどうしよう、と思うほどに体中から汗が吹き出ていたのだ。
壁の時計を見ると、診察室に入ってからもう2時間が経過していた。そんなに長く話し込んでいたなんて。

「問題ない。ここは安全な場所。誰もあなたを批判しない。今、お茶を出すね」

井場本先生がコールボタンを押すと、後ろのドアから看護師が現れた。先生の依頼にうなずいて、しばらくするとお茶を持ってきてくれた。

「どうぞ」お茶は薄くて端正なティーカップに入れられていた。きっとこのカップも高級品だろうと思う。香りのいい紅茶の温度は、熱くも冷たくもなくてちょうど良かった。

「ありがとうございます。………井場本先生とお話ししている間、私、いつの間にか現実世界から離れていたみたいです。これは、催眠術みたいなものですか? 」出されたお茶を飲み干しながら訊いた。

「催眠術? 違うわ。単なるカウンセリング。私は足立さんに、発作時の状況を質問して、詳しく教えてもらっていただけ。でも、いくつか感じた事がある」

「何ですか? 」

「回想を始めた時と比べて、本格的な発作のシーンを再現する少し前、明らかに呼吸が浅く、速く変わったポイントがあった。肩が上がって、足先は出口に向けられた。腕は閉じて、手のひらは首元に這わされた。それらの意味は『逃げ出したいほどの不安を抑えて耐えている』。そして、追加で起きた何かが引き金になって、パニックのような爆発的発作が起きたように見えた。おそらく発作のベースにあるのは不安とストレス。引き金には、あなたの心の傷が関係していると思う」

「心の傷……ですか? 」

「強く傷つき、後悔したままのことかしら? でも誰にも知られたくないんじゃないかな。他人にも、あなた自身に対しても、普段は隠していること。今、そんな表情に見えた」

「………………」

「すぐにその正体を見つける必要もないし、私に話しても話さなくてもいい。ただ、私はカウンセリングの内容を、ほかの誰にも口外しないから安心してね。この病院のカルテは担当医師以外には見えないようになっているし、もちろん鈴木先生にも話さないから」
井場本先生は続けて言った。
「ひとつアドバイス。心が不安になったら、先に身体を整えてみてほしいの。胸をできるだけ広げて、深呼吸をして。自分が一番リラックスしている時間を思い出して、好きな場所や、安心できる人と一緒にいることを思い浮かべる。体の中からポカポカと暖かくなるようにね。今、やってみて? 」

「あ、はい………」私はティーカップを置いて、言われたとおりにした。

「人間の脳には『大脳辺縁系』という本能を司る部分がある。嫌な人のことや、つらい思い出をずっと忘れられないのは、また同じ危険に直面したときに身を守るための防御反応。でもいつまでも過去の記憶に囚われていると、『いまここで起きていること』に向き合えなくなってしまう。心が不適切な反応をしそうになったら、理性で先に身体をコントロールするといい。身体の動きから逆走して『大脳辺縁系』を落ち着かせることが可能になるから」

「姿勢を戻して深呼吸したら、少し気持ちが楽になった気がします………」

「良かった。じゃあ今日のセッションはこれで終わりにしましょう」井場本先生がふっと表情を和らげた。


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診察室を出る前に訊いた。

「あの………このクリニックは、井場本先生が経営されているんですか」

「そうねぇ……家族経営、ファミリービジネスみたいなもの。正確には夫の父が理事長を務める『井医和いいわ会グループ』が運営母体。『井医和会』は関西エリアを中心に、15の病院、18の介護施設、5つの医療系専門学校などを運営している……。
このクリニックは、夫の発案で作ったものよ。東京にいる知り合いの経営者や政治家や芸能人が、プライバシーを守って受診できる病院を必要としてる、ってね。開院してみたら意外に多かったのは、医療ツーリズムで海外から来る患者さんかな……ここは羽田からも近いしね。私、お金持ち相手のクリニックにはあんまり興味ないんだけど、実家がこの近くだから何かと都合が良いのもあって。非常勤医ってことで、定期的に診療しに来てるの」


――――――そっか。そうなんだ……。『夫』という言葉を聞いて、少し安堵した。


だって、鈴木先生と井場本先生は、見た目は全然違うけど、話してみるとよく似ている気がしたから。
雰囲気というか、“魂の色合いが似てる”っていうのかな…………うまく言えないんだけど。

一瞬、ふたりがもし並んで座っていたら、お似合いかな、って思ってしまったんだ。
でも、私の考えすぎだったみたいだ………。


「日本の医療制度は世界でも類を見ないほど優れている。でも足りないところもある。精神科医療はそのひとつだと思っているの。現状の診療報酬では、保険診療で長い時間をかけて患者の話を聞いていたら、経営が成り立たない。精神科のニーズは年々右肩上がりで、今、都内のメンタルクリニックはどこも予約でいっぱいでしょう。結果的に、短時間診察が精神科外来のスタンダードにならざるを得ない。だけど心の問題を抱える患者の中には、薬よりも丁寧なカウンセリングを必要としている人が、かなりの数いると思うのよね」

「確かに……今日、じっくりお話を聞いていただいて、なんか肩の荷が下りたみたいに感じます」

「それは良かった。でもきっとあなたも、同じ力を持っているのよ」

「私が、ですか? 」

「そう。あなたは産業保健師なんでしょう? 仕事を通して、働く誰かの話を聞いてあげる機会があると思う。その時は思い出してね。『聴く』ということは、ときにはどんな薬よりも、人の心を癒やすってこと」

「あ。は、はい…………」

わかったような、わからないような………。

「よかったらまた来てね。今日の続きを話しましょう」

診察室を出て、結局その日のお会計では、一円も請求されなかった。
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