【完結】メゾン漆黒〜この町の鐘が鳴る時、誰かが死ぬ。

大杉巨樹

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第2章 切迫

7 禍津町の生命の樹

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 そして7月22日、捜査会議を免除された弓削ゆげ刑事は、係長の浦安うらやすに連れられて、宇根野うねの駅の寂れた商店街の一角にあるku-onというバーで飲んでいた。ku-onはクオンと発音するらしく、名前はシャレているのだが店構えは昭和のスナックという雰囲気で、店前に置かれた小さな電飾の看板の店名も「久遠」となっており、最近名前だけ今風にしたことが伺えた。店の中の造りも紫を基調とした古めかしい壁紙や、電車のシートのような硬いソファ、年季の入って黒ずんだ木製の棚やカウンターの醸し出す雰囲気は完全にスナックで、天井からカウンターを照らすように吊り下げられた剥き出しの茹で卵のようなシーリングライトだけがku-onという店名に見合っていた。

「あーもう!何なんですか、あのチャラいヤツは!」

 二人並んでカウンターに座り、浦安が生ビールを頼むと、弓削も同じものを頼んだ。グラスを合わせて乾杯し、二口、三口を一気に飲んで喉を潤した後の弓削の第一声がそれだった。実はこの日、弓削は遺体の第一発見者である青井草太あおいそうたの事情聴取を自分がやりたいと浦安に願い出ていた。弓削はきのうの会議で紹介された公安調査庁の調査員の朝霧あさぎりの指示で今日から行動を共にすることになっており、組織捜査を信条とする日本警察の立場上、浦安は最初のうちはその弓削の要望を却下していたが、弓削のあまりにも強い熱意にほだされ、自分も立ち会うという条件付きで夕方の少しの時間だけ朝霧をまいて青井に対峙するという時間を確保することを約束した。浦安にしても内心、自分が面倒をみている班員が公安という他組織の傘下に組み込まれることを快く思っておらず、また弓削の忸怩じくじたる思いが分からないでもなく、普段娘のように感じていた弓削のわがままをつい承諾してしまったのだった。

 しかし、青井に対する聴取はこれからという時に朝霧に阻まれてしまった。朝霧にしてみれば第一発見者の聴取よりも自分たちが犯人と目星をつけている禍津町まがつちょうのコミューンの捜査の方が大事だったのだろう。その後ずっと、コミューンの入り口を調査室専用車内で見張らされていた弓削は面白くない胸の内を浦安にぶちまけた。元より浦安も弓削の愚痴の一つも聞いてやろうとこのバーに誘ったのだが、弓削は思いの外朝霧に対して唾棄したいという感情を募らせていた。

「でも確かにねえ…鑑識から聞いた遺体の状態は常軌を逸してる。あんな状況を青井が作れるとも思えないのは確かだねえ」

 浦安は弓削の溜飲を下げるよう穏やかに言ったが、それは弓削の懸念していることでもあった。弓削は鑑識班の報告を思い起こす。死亡推定時刻がおかしいこと、そして、あの遺体の状況だともっと周囲に血痕が飛び散っていてもおかしくないのに、どれだけルミノール反応を調べてみても首の無くなった遺体の周辺から血液の形跡は見つからなかった、ということ……。

「今のところ頭部も見つかっていないし、普通の人間にできる犯行とは俺も思えないんだよなあ」
「じゃあ、係長も朝霧の言うようにセフィロトっていうコミューンが怪しいとおっしゃるんです?」
「うんまあそれは…これからの捜査次第じゃないかな?」

 弓削はまだまだ朝霧のことを毒づきたくて口を尖らせた。弓削にしたら本当は青井のことはもうどうでもいいのかもしれない。あのチャラいホスト崩れのことが生理的に受け付けないのだ。個人攻撃の言葉が次々と頭に浮かぶが、ビールと一緒にそれらを飲み下す。そして、

「何なんですかねえ、セフィロトって…」

 と、ポツンと呟いた。


 セフィロト……それは禍津町の北西部の山あいを縫って進んだ先にあるコミューンの名前だ。1970年代、過激化していた新左翼の学生運動も次第に陰りを見せ、日本の高度経済成長の波に押されて収束していったのだったが、新左翼の中でも過激派だった者たちはそれでも自分たちの矜持を無くすことなく活動を続けた。そして1972年、あさま山荘事件が起きる。連合赤軍の残党が起こしたこの事件は機動隊を含む多くの死傷者を出し、新左翼運動に対する世間の目は一気に冷え込んだ。運動に携わった学生たちもそのほとんどは社会の一員となって資本主義社会の中に同化していったが、一部は自分たちの理想を追い求めた。その一派が禍津町に入り、セフィロトというコミューンを作ったのだ。

 セフィロトという言葉は旧約聖書のエデンの園にある「生命の樹」を意味し、多分に宗教的な色合いを含んでいるが、禍津町にあるコミューンは宗教法人という形態を取っていない。あくまで農業を中心とした自給自足の生活を信条とする共同体で、毎年その理念に惹かれた若者がセフィロトを訪れ、一見過疎化しているように見える禍津町の人口を一定に保っているのだった。そんな理由からか、禍津町の自治体もセフィロトには同調はしないものの、最低限のインフラは途切れないよう支援していた。


「そんな共同体がどうやって今回の事件を起こしたっていうんですかねえ?」

 弓削は浦安から一通りセフィロトに関する説明を聞き、またポツンと呟いた。そして残りのビールを一気に煽り、カウンター前にいる店主と思われる女性にジョッキを差し出した。

「おかわり下さい!」
「あれ、お姉さん、いける口ねえ」

 カウンターの女性は弓削から受け取ったジョッキを流しに置き、縦長のネタケースから冷やしたジョッキを取ってビールサーバーにその口を傾けた。弓削はその一連の所作を見て、こんな辺鄙なところのバーにしては気が利いていると思った。この店に入った時、女性はどうぞとカウンターを指した。込み入った捜査の話をするかもしれないので二つあるボックス席のどちらかに通して欲しかったのだが、その店のルールというものがあるかもしれないので仕方なくカウンターに座った。だが都会のバーなら新規で入った客であろうと一瞬で要望を見抜くかもしれない。内心では田舎であることに偏見を持っていた。

「はいどーぞ~」

 ニコニコ顔で目の前の麻のコースターに冷えたビールを置く。その笑顔をよく見ると、なかなか都会的な美人だ。この店が今風なのはシーリングライトだけだと思ったが、カウンターの女性もku-onという小洒落た名前に見合っている。この店名を考えたのはきっと彼女なのだろう。右肩だけを出したワンピースドレスは派手すぎず地味すぎず、ドラマに出てくるような街のバーに負けない気品がある。

「俺は焼酎の水割りを一杯もらおうかな」

 浦安も飲み干したジョッキを突き出し、弓削にピッチを合わせて飲んだことをアピールするようにシャツの上からこんもりした腹を擦った。

「一杯と言わずどんどん飲んでよー!何ならボトルもあるけど、キープしちゃう?」

 カウンターの女性の後ろのボトル棚には所狭しとネックのかかった焼酎やウィスキーのボトルが並べてあり、そこにはスナックだった頃の名残があった。人口の少ない土地ではワン・ショットいくらというだけではやっていけないのだろう。浦安はそれらのボトルの種類を確かめると、

「じゃあ、二階堂をおろしてもらおうかな?」

 と、キープの提案を受けた。

「やったー!ラッキー!」

 女性は喜々として新しい濃い茶色にオレンジのラベルのボトルの封を切ると、手際よくアイスペールと水の入った透明のピッチャーを浦安たちの前に置いた。そして水割りを作ってコースターに置き、

「ありがとうございまーす!ねえ、あたしも一緒に飲んでいい?」

 と甘えた声で聞いた。

「どうぞどうぞ」

 浦安の言葉に満面の笑みで返し、自分の水割りを作る。そして浦安、弓削とグラスを合わせる。

「お姉さんがここの店主さん?」

 弓削が聞くと、

「いえいえ、あたしはただの雇われ店長。うちの店主はここからちょっと西に行ったところにある寺の住職なんですよ」

 と返し、後ろの棚の下の引き出しから名刺を二枚取って浦安たちに差し出す。ラメ入りのピンクの名刺には丸文字で「店長 六甲道朱美」と書かれていた。それを見た浦安は、

「そうそう、朱美あけみちゃんだったね。俺のこと覚えてないかな?」

 と、懐かしそうに目を細めて聞いたのだった。




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