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第4章 炎上
4 弓削史子の焦燥
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弓削はノワールへの入居を面接の次の日からすることにした。一旦身の回りの衣服を整理したかったし、あれよあれよという展開に、一度現場を離れて気持ちを落ち着かせたかった。
彼女はK市からそう離れていない街で一人暮らしをしている。レディースマンションの1K。家賃もそう高くなく、浴槽とトイレがセパレートで、そこそこ広い浴槽が気に入っている。
帰るとすぐに浴槽に湯を張り、ゆったりと浸かる。公民館にも形ばかりの浴槽があったが、いつもシャワーを浴びるだけで入浴を済ませていた。狭くて古い浴槽には浸かる気になれなかったし、風呂は男女兼用だったのでいつ朝霧に覗かれるかとひやひやし、ゆっくり風呂に入る気にもなれなかった。
大きく伸びをし、ゆっくり肩を回す。バストが大きいと肩が凝りやすいというが、そもそも物心ついてからバストが小さかったことがないので比較検討できない。バドミントンで鍛えたので体循環はいい方だと思う。それでも首の付け根から肩甲骨当たりが常に張っているのは仕事の疲れか、バストのせいか。
湯面からぷっくりと出た二つの白い浮き島を忌々しく見つめる。もしこのバストがもう少し小さかったなら、自分は警察官にはならなかったのではないかと思う。弓削はこの豊満なバストに惹かれて寄ってくる男が嫌いだった。そういう男たちにはまるで誘蛾灯の周りを舞っている蛾を見るような冷たい視線を向ける。胸に惹かれる男は母性に満たされぬ思いを抱いている場合が多い。それは偏見かもしれないが、勝手に自分に母性を求められることには虫酸が走る思いでいた。
初恋はバドミントンでダブルスを組んでいた先輩だった。女子のダブルス。そのハツラツとした姿を見るにつれ、胸がときめいていった。一つ学年が上の先輩だったが、幼い頃からラケットを握っていた弓削は小学生大会のシングルスでそこそこの成績を残し、入った中学で一番上手かったその先輩と組んだ。ペアを解消されたくなくて必死に練習し、全国大会の準々決勝まで勝ち進んだ。嬉しかったし、負けた時は悔しかった。泣いた自分の頭を抱え込んで抱いてくれた先輩の汗ばんだ肌の感触を今でも覚えている。高校でも先輩と組みたくて同じところに入学した。だけど先輩には彼氏ができ、バドミントンへの情熱は消えていた。同時に弓削のバドミントン熱も冷めていった。それは胸ばかり大きくなり、身長が伸びなかったからではない。同じ身体条件でも強い選手はいる。それはひとえに、先輩への熱が冷めたからだ。弓削のバドミントンへの思いと先輩への思いはイコールだった。
高校を卒業し、警察学校に入学した。警察へ就職を希望したのは、男臭い仕事に身を置きたかったからだ。高校生当時流行っていた刑事ドラマの主人公の女性刑事がカッコよかったからでもあった。とにかく、男臭い仕事がしたかった。男に媚びへつらわなければならないようなOLになんか絶対なりたくなかった。
そうして警察官になってみたのはいいものの、ノンキャリアの自分は地域課で地道に実績を積まなければならず、そこにはドラマチックな展開などなかった。世の中的には女性警察官の割合を増やすことを目標に掲げているが、中に入れば前時代的な男尊女卑がまかり通っている。それでも何とか巡査部長に昇進し、憧れの刑事になれた時は嬉しかった。だけど配属されたK署はH県での犯罪発生件数は下の方、変死があってもほとんどは禍津町でのお年寄りの老衰で、他府県の署に設けられた帳場の頭数を揃えるために駆り出される日々だった。
そこへ起こったのが二年前の鮫島家一家惨殺事件だった。弓削も鼻息荒く奮闘したが、一兵卒の弓削に与えられる仕事では成果は上げられなかった。そして今回の禍津町での事件。主任となって最初の事件であり、被害者には申し訳ないが、正直テンションが上がった。今度こそと意気揚々に現場に出たまではよかった。警察庁が仕切るにしても、現場で部下たちを叱咤激励しながら捜査を進展させるような何かを見つけたかった。なのに、回された先は警察庁でもなく、やる事といえば毎日車の中で訳のわからないコミュニティの張り込み。モチベーションは完全に下がっていた。
そんな中で一服の清涼となったのは、一人の美青年を見かけたことだった。その美しい顔を見た時、胸が疼いた。弓削は性的マイノリティーを自認していない。同性の先輩に憧れることは思春期の女子にはよくあることだ。だが適齢期も過ぎようとしている今、あの初恋のときのようなときめきを男に感じることは一度もなかった。やはり自分は相手が男ではダメなのではないか…そんな思いも抱き始めていた。朝霧はその美青年のことをセフィロトの代表なのだと言った。弓削は朝霧が止めるのも聞かず、入り口へ入っていく美青年をしばらく尾行した。そして自分の携帯にその顔を収めた。何より男にときめいている自分が嬉しかったのだが、彼はどこか先輩に面影が似ているような気もした。
(いや…)
そこまで考え、首を振る。本当に自分は今まで男に惹かれなかったのか?弓削はいつも初対面の人間が自分のどこを見るかを意識している。そしてその視線が真っ先に胸に向かうと、相手がどんな立場だろうとまず軽蔑の念を抱く。それが男であっても、女であっても関係ない。ある程度は仕方のないことなのかもしれない。視線だけならまだしも、さらに胸の大きさのことを言及してくる人間のことを、その後何があっても好感度が挽回することはなかった。
今の職場でいうと、遠藤も須田も速水も、それぞれニュアンスは違えども、初対面の時にはみんなまず胸のことを言った。部下の真美も番場もそうだ。だが浦安と橋爪だけは胸のことを見なかったし、今まで一度も言及したこともない。浦安はお父さんという感じで恋愛対象にはなり得ない。一方橋爪は同い年だったが、何年かの職歴を経て警察官を志望したのでキャリア的には弓削の方が先輩だ。だが彼は国家公務員であり、地方公務員の自分とは違う。K署に来てからも、あからさまに自分とは上司からの対応も違うので面白くない存在ではあった。
あったのだが………。
そこまで考え、弓削は激しく首を振る。そんなこと今考えてどうなるというのか。少しのぼせ気味になり、湯船を出た。
風呂から上がって髪を乾かし、落ち着いてからダイニングのテーブルに買ってきた惣菜を広げて缶ビールのプルタブを引く。喉を数回鳴らしてプハーと息を吐き、スマホの画面を見る。禍津町に携帯ショップなんてあっただろうか?今日はもう割れた画面を直す時間はない。
写真アプリを開き、セフィロトの美青年の隠し撮り写真を見る。最近はそれがオフ時のルーティンになっている。フフッとニヤけた顔をし、温めた惣菜を頬張ってまたビールを飲んだ。そしてリモコンでテレビをつけ、ニュースをやっているチャンネルを探す。仕事終わりにその辺の親父がやってることとほぼ同じだ。妻的な女性と暮せば案外幸せかもしれない。ニュースでは今日も禍津町の事件をやっている。連続殺人事件と紐づけ、K市で起こった女子高生のマンション内死亡事件とその彼氏の飛び降り自殺とも関連づけている。司会の女性アナウンサーが煽情的な言葉で語り、コメンテーターが訳知り顔でそれっぽい解説をする。それらを聞き、少し得意な気分になった。あんたたちに何が分かるというのか。あたしなんてもっとすごいことを知っているんだから。
ふと、きのうの飲み会で話題になったKikTokの動画が気になった。恐怖のピタ止めチャレンジだっけ?きのうは酔い過ぎで上手くできなかったけど、普段ならあんなの一発でやれる。動体視力には自信がある。
kikTokのアプリを開くと、視聴履歴からすぐに動画は見つかった。十年以上前に無くなったというモデルが優しく微笑んでいる写真。一つ大きなため息をつき、写真のモデルに合掌した。そして影に向かって移動するひよこを見据えて手を振り上げる。そこでふと、手を上げる必要がないことに思い当たる。右手を携帯のすぐ上にかざし、改めてひよこを睨む。割れた画面でも何度かその姿は見えていた。えいっと人差し指を押し付けた時、モデルの写真は自分の顔に切り替わった。
どういう仕組みなのだろう?青白く浮かび上がった自分の顔は、まるで自分自身を哀れんでいるかのような眼差しを向けている。そしてその目に、口に、タバコを押し当てたような黒い焦げ跡ができ、燃え広がるようにジワジワと顔全体を黒く染めていく。顔はシワシワの老婆のように歪み、画面はロウが溶けるようにドロドロと融解し出した。見ているとズキンと頭に激痛が走った。そして、あまりの痛みに、弓削はそのままテーブルに突っ伏した。
彼女はK市からそう離れていない街で一人暮らしをしている。レディースマンションの1K。家賃もそう高くなく、浴槽とトイレがセパレートで、そこそこ広い浴槽が気に入っている。
帰るとすぐに浴槽に湯を張り、ゆったりと浸かる。公民館にも形ばかりの浴槽があったが、いつもシャワーを浴びるだけで入浴を済ませていた。狭くて古い浴槽には浸かる気になれなかったし、風呂は男女兼用だったのでいつ朝霧に覗かれるかとひやひやし、ゆっくり風呂に入る気にもなれなかった。
大きく伸びをし、ゆっくり肩を回す。バストが大きいと肩が凝りやすいというが、そもそも物心ついてからバストが小さかったことがないので比較検討できない。バドミントンで鍛えたので体循環はいい方だと思う。それでも首の付け根から肩甲骨当たりが常に張っているのは仕事の疲れか、バストのせいか。
湯面からぷっくりと出た二つの白い浮き島を忌々しく見つめる。もしこのバストがもう少し小さかったなら、自分は警察官にはならなかったのではないかと思う。弓削はこの豊満なバストに惹かれて寄ってくる男が嫌いだった。そういう男たちにはまるで誘蛾灯の周りを舞っている蛾を見るような冷たい視線を向ける。胸に惹かれる男は母性に満たされぬ思いを抱いている場合が多い。それは偏見かもしれないが、勝手に自分に母性を求められることには虫酸が走る思いでいた。
初恋はバドミントンでダブルスを組んでいた先輩だった。女子のダブルス。そのハツラツとした姿を見るにつれ、胸がときめいていった。一つ学年が上の先輩だったが、幼い頃からラケットを握っていた弓削は小学生大会のシングルスでそこそこの成績を残し、入った中学で一番上手かったその先輩と組んだ。ペアを解消されたくなくて必死に練習し、全国大会の準々決勝まで勝ち進んだ。嬉しかったし、負けた時は悔しかった。泣いた自分の頭を抱え込んで抱いてくれた先輩の汗ばんだ肌の感触を今でも覚えている。高校でも先輩と組みたくて同じところに入学した。だけど先輩には彼氏ができ、バドミントンへの情熱は消えていた。同時に弓削のバドミントン熱も冷めていった。それは胸ばかり大きくなり、身長が伸びなかったからではない。同じ身体条件でも強い選手はいる。それはひとえに、先輩への熱が冷めたからだ。弓削のバドミントンへの思いと先輩への思いはイコールだった。
高校を卒業し、警察学校に入学した。警察へ就職を希望したのは、男臭い仕事に身を置きたかったからだ。高校生当時流行っていた刑事ドラマの主人公の女性刑事がカッコよかったからでもあった。とにかく、男臭い仕事がしたかった。男に媚びへつらわなければならないようなOLになんか絶対なりたくなかった。
そうして警察官になってみたのはいいものの、ノンキャリアの自分は地域課で地道に実績を積まなければならず、そこにはドラマチックな展開などなかった。世の中的には女性警察官の割合を増やすことを目標に掲げているが、中に入れば前時代的な男尊女卑がまかり通っている。それでも何とか巡査部長に昇進し、憧れの刑事になれた時は嬉しかった。だけど配属されたK署はH県での犯罪発生件数は下の方、変死があってもほとんどは禍津町でのお年寄りの老衰で、他府県の署に設けられた帳場の頭数を揃えるために駆り出される日々だった。
そこへ起こったのが二年前の鮫島家一家惨殺事件だった。弓削も鼻息荒く奮闘したが、一兵卒の弓削に与えられる仕事では成果は上げられなかった。そして今回の禍津町での事件。主任となって最初の事件であり、被害者には申し訳ないが、正直テンションが上がった。今度こそと意気揚々に現場に出たまではよかった。警察庁が仕切るにしても、現場で部下たちを叱咤激励しながら捜査を進展させるような何かを見つけたかった。なのに、回された先は警察庁でもなく、やる事といえば毎日車の中で訳のわからないコミュニティの張り込み。モチベーションは完全に下がっていた。
そんな中で一服の清涼となったのは、一人の美青年を見かけたことだった。その美しい顔を見た時、胸が疼いた。弓削は性的マイノリティーを自認していない。同性の先輩に憧れることは思春期の女子にはよくあることだ。だが適齢期も過ぎようとしている今、あの初恋のときのようなときめきを男に感じることは一度もなかった。やはり自分は相手が男ではダメなのではないか…そんな思いも抱き始めていた。朝霧はその美青年のことをセフィロトの代表なのだと言った。弓削は朝霧が止めるのも聞かず、入り口へ入っていく美青年をしばらく尾行した。そして自分の携帯にその顔を収めた。何より男にときめいている自分が嬉しかったのだが、彼はどこか先輩に面影が似ているような気もした。
(いや…)
そこまで考え、首を振る。本当に自分は今まで男に惹かれなかったのか?弓削はいつも初対面の人間が自分のどこを見るかを意識している。そしてその視線が真っ先に胸に向かうと、相手がどんな立場だろうとまず軽蔑の念を抱く。それが男であっても、女であっても関係ない。ある程度は仕方のないことなのかもしれない。視線だけならまだしも、さらに胸の大きさのことを言及してくる人間のことを、その後何があっても好感度が挽回することはなかった。
今の職場でいうと、遠藤も須田も速水も、それぞれニュアンスは違えども、初対面の時にはみんなまず胸のことを言った。部下の真美も番場もそうだ。だが浦安と橋爪だけは胸のことを見なかったし、今まで一度も言及したこともない。浦安はお父さんという感じで恋愛対象にはなり得ない。一方橋爪は同い年だったが、何年かの職歴を経て警察官を志望したのでキャリア的には弓削の方が先輩だ。だが彼は国家公務員であり、地方公務員の自分とは違う。K署に来てからも、あからさまに自分とは上司からの対応も違うので面白くない存在ではあった。
あったのだが………。
そこまで考え、弓削は激しく首を振る。そんなこと今考えてどうなるというのか。少しのぼせ気味になり、湯船を出た。
風呂から上がって髪を乾かし、落ち着いてからダイニングのテーブルに買ってきた惣菜を広げて缶ビールのプルタブを引く。喉を数回鳴らしてプハーと息を吐き、スマホの画面を見る。禍津町に携帯ショップなんてあっただろうか?今日はもう割れた画面を直す時間はない。
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ふと、きのうの飲み会で話題になったKikTokの動画が気になった。恐怖のピタ止めチャレンジだっけ?きのうは酔い過ぎで上手くできなかったけど、普段ならあんなの一発でやれる。動体視力には自信がある。
kikTokのアプリを開くと、視聴履歴からすぐに動画は見つかった。十年以上前に無くなったというモデルが優しく微笑んでいる写真。一つ大きなため息をつき、写真のモデルに合掌した。そして影に向かって移動するひよこを見据えて手を振り上げる。そこでふと、手を上げる必要がないことに思い当たる。右手を携帯のすぐ上にかざし、改めてひよこを睨む。割れた画面でも何度かその姿は見えていた。えいっと人差し指を押し付けた時、モデルの写真は自分の顔に切り替わった。
どういう仕組みなのだろう?青白く浮かび上がった自分の顔は、まるで自分自身を哀れんでいるかのような眼差しを向けている。そしてその目に、口に、タバコを押し当てたような黒い焦げ跡ができ、燃え広がるようにジワジワと顔全体を黒く染めていく。顔はシワシワの老婆のように歪み、画面はロウが溶けるようにドロドロと融解し出した。見ているとズキンと頭に激痛が走った。そして、あまりの痛みに、弓削はそのままテーブルに突っ伏した。
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