【完結】メゾン漆黒〜この町の鐘が鳴る時、誰かが死ぬ。

大杉巨樹

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第5章 懐疑

8 ノワールからの犠牲者

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 7月28日

 ズキズキとした頭痛で目を覚ます。窓からはすでに朝の光が差し込み、セミの鳴き声が周囲を包んでいた。トントンと包丁でまな板を叩く音が聞こえ、味噌汁の香りが鼻腔をくすぐる。周囲を伺うと自分はソファの上で寝ており、どうやらきのう酒を飲んだままメゾン・ド・ノワールのダイニングで寝てしまったようだ。キッチンにはすでにスウェット姿の青井あおいの姿がある。

「すまん、寝てしまったようだ」
「あ、おはようございます。大丈夫っすか?」

 大丈夫かと聞かれれば大丈夫ではない。一体自分はいい年をして何をやっているのか。いや、若い頃から考えても酒には強い方で、こんな失態をやらかしたことはない。ひょっとしてこの家にあった安酒がいけなかったのか?そういえばあれからやたらと一乗寺いちじょうじ乃愛のあに絡まれて酒を何杯も一気させられていた。棚に戻されたウイスキーの瓶にはホワイトオークという聞き慣れない名前が印字されていた。

「コーヒーでもいれましょうか?」
 
 聞いてくれる青井に、コーヒーではなく水を頼んだ。コーヒーでは胃にもたれてしまいそうだ。

「いやあ、ちょっと飲みすぎてしまったようだ。青井君は大丈夫なのかい?」
「ああ、僕は適当なところでいつも抜けさせてもらってるっす。あの人たち、放っといたら際限ないんで」

 起き上がり、出してもらった水を一気する。そしてもう一杯を所望した。おそらく彼がかけてくれたのだろう、膝にかけられている毛布を畳んで礼を言って隣りに置いた。

「朝食、よかったら食べて行って下さい。いつも明彦あきひこさんと二人分作るんですけど、三人分でもそんな変わんないんで」

 時刻は7時過ぎ、携帯を見ると妻から夜中に着信が入っていた。これまでも急に署で寝泊まりしないといけないこともあり、その都度連絡は入れていたのだが、今回は完全に怠ってしまった。記憶の限り、無断で外泊するのは結婚以来始めてのことだ。きっと妻も心配して、夜だと会議の邪魔になるので夜中に電話をくれたのだろう。悪いことをしてしまった。青井の前で詫びの電話をするのは憚られ、ダイニングを出て電話をかけようとする。

「あ、洗面所は突き当りにありますから。あと、申し訳ないんですが、明彦さんを起こしてきてもらえませんか?3号室に。いつも7時前には起きてくるんすけど、今日はちょっと遅いみたいなんで」

 彼は昨夜、部下の死でかなり打ちひしがれていた。深酒をして寝てしまっても無理もないだろう。

「工場があんなことになっても仕事があるのかい?ちょっとゆっくり寝かしてやった方がいいんじゃないか?」
「ええ、そうなんですけど、今まで朝食に遅れる時に連絡をくれなかったことはないんです。ちょっと様子が心配なんで、扉を叩くだけでもお願いできませんか?」
「分かった。3号室だったね」
「はい、洗面所の右手です」

 浦安うらやすは言われた通りにまず3号室に向かい、そして軽く洗面を済ませてから妻に連絡しようと思った。ダイニングを出ると薄暗く、夏の湿気でムッとしているが街中に比べたらまだましな方だろう。廊下を突き当り、右に折れて3号室前で扉をノックする。コンコンと小気味いい木の音がするが、何の反応もない。数回ノックし、ノブをそっと回してがっつり鍵がかかっているのを確認すると、諦めて洗面所に向かった。シャワー室、トイレとある個室の前に洗面台があり、顔を洗って口をゆすぐ。ついでにトイレも済ませ、電話をしようと玄関に向かう。きっと住人たちは今頃熟睡しているのだろう。しんとする廊下で電話をかければ辺りに響いてしまいそうだった。

 昼ほどではないが、すでに日差しは強く、クマゼミのシャンシャン鳴く音が二日酔いの耳をつく。二階からはカラスたちが朝の挨拶とばかりにだみ声を発していたが、きのうの夜にやって来た時ほどの数はいなかった。門の右横の小屋を恐る恐る覗くと、きのう噛んできた白い猪はどうやらぐっすり寝ているようで、丸くなった白い背だけが見えた。

「すまん、連絡できなくて。年甲斐も無く酒で潰れてしまっていたよ」

 コールしてすぐに出た妻に取り敢えず謝る。

『まあまあ、で、今どこに?』
「うん、署の仮眠室に泊まったよ。今日もひょっとしたら帰りが遅くなるかもしらん。もし遅かったら先に寝ててかまわないから」
『そうですか…分かりました』

 妻はそこで電話を切ったが、安心半分不満半分といった感じだった。謹慎を食らっていることは内緒にしており、きっと妻は捜査の延長での飲み会の末のことと思ったことだろう。妻の君枝きみえには趣味らしい趣味もなく、近所の主婦たちと団地の花壇の世話をするのを日課にしている。そんな彼女の一日の報告を聞いてやるのが自分の役割なのだが、捜査が立て込んだ時などはそれがおざなりになり、そんな日に見せる妻の寂しそうな顔が胸をキュッと締め付ける。正直、浦安にはそれが煩わしいと思えることもあった。だが君枝を一人にしている罪悪感のようなものもある。刑事の定年は65歳に迎えるが、君枝のために早期退職し、二人でのんびりと過ごすという選択肢も日に日に大きくなっている。そのためにも、今起こっている自分の刑事史上最悪の事件を早く収めなければならない。寝起きのシャツにはシワも入って着心地も悪いが、どうせ謹慎の身だ。署に出勤するわけでもないので、このまま今日も自分の出来ることをやろうと思っていた。

 ダイニングに戻り三国みくにが出なかったことを青井に報告すると、彼は不安な顔をした。

「今まで、明彦さんが呼んでも出て来ないことなんてなかったのに…」
「マスターキーとかないのかい?そんなに気になるんなら一度部屋を開けて覗いてみたら?」
「管理人室にマスターキーを置くのは不用心なんで、大家さんのところに置いてあるんす。でも、様子を見た方がいいかもしれないっすね。ちょっと、大家さんの家まで行って来るっす」

 青井はそう言ってダイニングを出ていく。テーブルには三人分の食事の用意がすでにできていた。だし巻きに味噌汁、香の物にご飯というシンプルな朝ご飯だ。折角なんでいただくことにした。キッチン側が青井でテレビの正面が三国だろうと判断し、入り口側のソファに座って箸を取る。まずはだし巻きを割って口に入れるが、あまりの辛さにすぐに茶を含む。完全に塩の分量を間違えている。ひょっとしてこれは自分への嫌がらせだろうかと青井の分の端っこを割って食べてみたが、やはり同じ味だった。幸い味噌汁は逆にかなりの薄味で、大量のご飯と共に味噌汁で流し込めば食べられないこともない。折角作ってくれたので残すのは悪く、ご飯をおかわりしながら悪戦苦闘の末に何とか食べ終えた。ホッとして茶をすすっていると、青井が駆け込んでくる。出た時よりも顔色が蒼白になっている気がする。

「明彦さんが…死んでます」

 セリフを棒読みするような、抑揚のない声だった。辛さを落ち着かせていた浦安には青井の言葉がすぐに飲み込めず、一度茶をすすってから青井の顔を眺める。

「明彦さんが…何かに噛まれて死んでるんです!」

 動きのない浦安に業を煮やし、一際大声で叫んだ青井の声が今度は頭を直撃した。

「死んでる?見間違いじゃないのか?」

 直ぐ様立ち上がり、三国の部屋まで走った。3号室の扉は開け放たれており、部屋の前から中の様子が見渡せた。鉄臭い匂いが鼻をつき、数々の現場を見てきた浦安の顔が強張る。それは刑事になってから何度も嗅いだ死の匂いだった。部屋の真ん中のフローリングには物が周囲にどかせてあり、そこに大の字になるように、頭を東の壁に寄せて三国が倒れている。首に何者かに噛まれた跡があり、そこから流れた血はすでに乾いて赤黒く変色していた。真っ白い顔からは一目瞭然で生気は感じられなかったが、一応腕から脈が無いことも確かめた。

 ここからの行動が肝心だった。自分は謹慎中であり、ここにいることは明らかに規律違反だ。だが、我が身の保全の為に目の前の死人をおろそかにするわけにはいかない。浦安は即座に扉の前で心配そうに見ている青井に声をかけ、弓削を起こして応援を要請させるよう指示をした。自分は直接動かない方がいい、それが浦安の判断だった。

 青井が二階に上がり、弓削を呼んでくる間、自分もある程度の初動捜査を試みる。ハンカチを取り出し、手袋の代わりとした。まずは遺体の様子を確認する。首元ががっつりと噛まれて肉がえぐられ、そこから血が流れたことによる失血死と思われる。遺体に触らないように傷口を見る。獣に噛みちぎられたような噛み跡。それはK市で起こった池田いけだなぎさの亡くなり方に似ている。部屋の東側に窓があるが、がっちりと鍵が閉まってそこから侵入したとは思えない。部屋の中を見渡しても、首の噛み跡に合った怪我を負わせられるような凶器は見当たらなかった。後は死体発見時の状況だが、それは後から来る捜査員が青井に確認を取るだろう。

 そうこうしているうちに弓削が部屋にやって来る。弓削にしても遺体と対面するのは始めてでないだろうが、例え一晩でも自分の住む家から出た死人の姿にショックを受けているようだ。どうも浦安が弓削に見舞いに行った時に苦しんで倒れたことは覚えていないらしく、あやうくセクハラまがいのことをしかけたのも記憶に無いようでホッとする。たが弓削の目にはまだ夢の中を浮遊するような不確かさがあった。

「気をしっかり持て!刑事の本分を忘れるな」

 三国の遺体を見て弓削らしからぬ動揺をするのを叱咤し、弓削にK署へ連絡を入れるよう指示し、後から来る捜査員たちにかち合わないように早足でノワールを後にした。





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