裏切られた令嬢は、30歳も年上の伯爵さまに嫁ぎましたが、白い結婚ですわ。

夏生 羽都

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64 恋に落ちるのは一瞬で

 イアンは呼吸を落ちつけてから、ゆっくりとローゼリアのいるベッドに近づく。

「昨日貴女は俺にもう義母と呼ばないで欲しいとおっしゃっていましたよね」

 落ち着いた口調のイアンに、ローゼリアが布団を少しだけずらして顔を見せてくれた。

「ええ、言いましたわ」

「これからはどうお呼びしたらよろしいでしょうか?」

「……………ロゼ、と呼んで下さい」

 ローゼリアは少し考えてからそう答えてまた布団で顔を隠してしまった。

「ロゼ?」

「はい」

「ロゼ……」

 二度目は思いつめたような低い口調で名前を呼ばれたので、ローゼリアが恐る恐る布団から顔を覗かせると、何といつの間にか目と鼻の距離にイアンの顔があり、ローゼリアは驚いて目を見開いた。緑色の瞳がローゼリアをじっと見つめる。

「俺は貴女が好きです……ロゼ」

 イアンに告白された途端、ローゼリアは心臓をきゅっと掴まれたような感覚を覚えた。

 ローゼリアが見ている世界が鮮やかに色付いていく。

「わ、私は……」

 自分もイアンが好きだとそう言いたかったが、ローゼリアの頭の中にはまだ理性が残っていて、たとえ白い結婚でも自分には夫がいるのだともう一人の自分が気持ちにストップをかけるのだった。

 伝えたくても伝えてはいけない、そんな思いがローゼリアの中で渦巻き、強い感情は涙となってぽろぽろと流れ落ちていった。

 そんなローゼリアの気持ちを察してか、イアンは一度ローゼリアから少し離れた。

「貴女が真面目な方なのはよく知っています。俺は貴女を悩ませたり悲しませたりしたいわけじゃない。でも気持ちとは育てるものだと俺は思うのです。初めて会った頃、俺は貴女の事を何とも思っていなかった。嫌っていた時期さえもありました。でも貴女と一緒にいて貴女を知っていくうちに俺の貴女への気持ちはゆっくり育っていったのです。貴女の気持ちが育ったのは急だったのかもしれないし、急だったからすぐに消えてしまうかもしれない。でも、それでも俺は貴方が欲いし、あなたの中でやっと芽生えたその気持ちを俺も一緒に育てていきたい。俺は貴女を一年以上思ってきました。もう一度言います。ロゼ、俺は貴女が好きだ」

 そう言ってイアンは部屋から出て行ってしまった。

 ローゼリアは自分の中で生まれたばかりの気持ちへの恐れと不安で頭の中が混乱していた。

 イアンが伝えてくれた言葉を頭の中で反芻する。

 イアンは自分の気持ちを育てたと言っていた。自分のこの気持ちは昨日今日で育った気持ちなのだろうか?

(いえ、恋に落ちるのは一瞬だと前に読んだ小説には書いてありましたわ。でもこんな強い気持ちが一瞬で育ってしまうものなの?昨日暴漢から隠れている時にイアン様が私を落ち着かせるために抱き寄せた後に笑顔を見せて下さった。あの時イアン様がとても素敵に見えたわ。きっとあの瞬間私はイアン様に恋をしたのだわ!)

 ローゼリアがこれまで目標としてきたのは、イアンに結婚の世話をした上で晴れ晴れとした気分でオルコット家を出て行き、そしてエルランドにいる家族の元へ行く事だった。

 ローゼリアの初恋は突然やってきて、その気持ちにようやく気が付いたのはイアンに告白をされた後で、告白をされた事でローゼリアの気持ちはさらに燃え上がってしまった。

 以前ローゼリアは恋に落ちるのは一瞬だとイアンに言った事があったが、あの時は読んだ小説に書いてあった事を言っただけだった。

(私ったら、自分が経験もしていなかった事を得意そうに言った上に、その相手に恋をしてしまうなんて……。何て事を言ってしまったの!よりによってイアン様にあんな事を言ってしまうなんて、ああっ、もうどうしましょう!とても恥ずかし過ぎますわっ!)

 それに恋なんて本の中で味わうだけで充分、そう思っていたが、実際の恋は本の中で見て想像していた美しいだけの世界とは全く違っていた。

 好きになった相手に自分と同じ気持ちだと告げられたのに、嬉しさと同時に嫉妬心や悲しさがローゼリアの中で広がっていた。

 相手を独占したいし、自分も相手に独占されたい。

 イアンには自分以外の女性と話して欲しくないし、自分もイアン以外の人間と書類上でも婚姻関係にあると思うだけで自分に対して嫌悪感でいっぱいになっていく。

 ランゲルの法律では、白い結婚を理由にした妻からの一方的な離縁には三年以上の婚姻期間が必要になる。三年以内の白い結婚を理由にした離縁には医師の証明書の他に配偶者のサインも必要になる。

(白い結婚が成立するまであと一年近くもありますわ。いいえ、伯爵様との契約では五年経たないと離縁は出来ない事になっていますから、契約を破棄していただかないと私が新たに婚姻を結べるのは今から三年後になってしまうのではなくて?)

 ローゼリアは頭をかかえてしまった。自分はなんていう契約をしてしまったのだと、良い契約を交わせたと自信満々だった過去の自分を扇子で張り倒したい気分になってしまった。

(考えるのよローゼリア!大きな何かを忘れている気がするわ。契約書……、そう契約書をもう一度見直すのよ!)

 ローゼリアはがばりと起き上がると、朝食を食べるのも忘れて自室へと掛け込んだ。
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