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①
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「ぎゃあああああああああ!」
突如として響いた悲鳴に、ニナ・リンドールは珈琲豆が入った瓶を取り落としそうになった。
(今の声は……団長!?)
そこはフレデリック・アイザス第三騎士団長の執務室で、今はまだ始業前なのでニナ以外は誰もいない。
声がしたのは、執務室の隣にある団長専用の控室だ。
(去年の剣術大会で優勝した団長が、あんな悲鳴を上げるなんて!まさか、刺客!?)
控室には泊まり込みができるように寝台とバスルームがあり、フレデリックのプライベートな空間なので女性であるニナはあまり立ち入らないようにしている。
だが、今はそんなことは言っていられない。
もしかしたら、フレデリックが刺されて死にかけている、なんてことになっているのかもしれないのだから。
「団長!入りますよ!」
意を決して扉を開くと、寝台と最低限の家具が置かれただけの簡素な部屋。
シーツが乱れていることから、フレデリックはまた宿舎に帰るのを面倒くさがってここに泊まっていたらしい。
ここに姿がないということは、バスルームか。
バスルーム……流石にちょっと、急に扉を開けるのは気が引ける。
行き遅れではあるにしても、ニナだって女の子なのだ。
「団長!そこにいらっしゃるんですか!?大丈夫ですか!?返事してください!」
ドンドンとバスルームの扉を叩いて、声をかけてみた。
これでなんの反応もなかったら、その時は中に突入しよう、と乙女心に覚悟を決めていたのだが、扉はすぐに内側から開かれ、騎士団の制服のトラウザーズに、インナーシャツを着ただけのフレデリックが姿を現した。
青みががかった銀髪は乱れ、ニナよりかなり高いところにある端正な顔は完全に血の気を失い青ざめている。
「団長!ご無事ですか!いったい、なにがあったのです!」
顔色が悪いだけで怪我はなさそうなことに、とりあえずニナは胸を撫でおろした。
フレデリックのいつもは冷静沈着な藍色の瞳が揺れている。
第三騎士団の事務官として働きだしてからもう四年になるニナでも、こんなに動揺した彼を見るのは初めてのことだった。
「……ぞうさんが……」
「え?なんですか?」
掠れた小声は聞き取りにくく、ニナはつい聞き返してしまった。
「ぞうさんが……いる……」
「? 増産が 要る?どういうことですか?」
ここは第三騎士団。
なにかを生産するような部署ではない。
意味がわからない、とニナが首を傾げると、
『ぱおーん』
なんだか不思議な音がした。
「え?なんの音?」
あんな音がするものがこの部屋のどこにあるのだろう、とキョロキョロと見まわすニナ。
『ぱおーん』
また同じ音。
なんだか聞き覚えがあるような……でも、なんの音だったか思い出せない。
というか、今、目の前のフレデリックから音がしたのではなかったか。
「あの、団長」
なにが起こっているのですか、と問いかけようとしたニナの鼻先で、バスルームの扉がバタンと勢いよく閉じられた。
「エルネストを呼んできてくれ!」
バスルームの扉越しに悲鳴に近い叫びが響いた。
エルネストというのは、フレデリックの友人でニナの幼馴染でもある魔術師、エルネスト・シェルズのことだ。
「エル兄さんをですか?具合がお悪いのなら、お医者様の方が」
「医者では無理だ!今すぐ!大至急!エルネストを呼んでくれ!早く!」
なんだかよくわからないが、とにかくただ事ではない。
ニナは慌てて魔術師搭へと走った。
「あ~~ははははははははは!」
控室からエルネストが爆笑する声が聞こえたと思ったら、
「笑い事ではない!!」
フレデリックの怒号がそれに続いた。
ニナは先輩事務官のハワード・キースと顔を見合わせた。
「あれだけ大きな声が出せるのだから、具合が悪いというわけではなさそうだね」
「そうですね……」
状況が理解できず困惑するばかりのニナに対し、ハワードは普段通りの穏やかな笑みをうかべている。
ハワードはフレデリックより少し年上で、事務官らしく落ち着いた雰囲気の頼れる先輩だ。
仕事上だけでなく、私的なところでも助けてもらったことは一度や二度ではない。
控室の扉を中途半端に開き、笑いすぎて涙目になったエルネストがひょっこりと顔を出した。
「ニナ。珈琲をお願いできるかな?笑ったら喉が乾いてしまったよ」
「わかったわ。すぐ準備するね」
ニナの業務は、毎朝フレデリックに珈琲を淹れるところから始まるのだが、今日はそれがまだできない。
ニナは二人分の珈琲を控室へと運んだ。
コンコンと扉をノックし、
「失礼します。珈琲をお持ちしました」
そう声をかけて扉を開いた次の瞬間、
『ぱおーん』
また例の正体不明な音がした。
音がした方向に視線を向けると、そこにいるのは両手で顔を覆ったフレデリックだ。
「はははははは!マジで!?なにそれ!!面白すぎる!!」
「エル兄さん?なにがそんなに面白いの?」
『ぱおーん』
「待って!もう勘弁して!俺の腹筋が死ぬから!」
笑い転げるエルネストに、ニナはどうしていいかわからずコーヒーカップを乗せたトレイを持ったまま立ち尽くした。
「……リンドール。珈琲はそこのテーブルに置いて、下がりなさい」
「はい、団長」
『ぱおーん』
「はははははは!ははは、もう苦しい、あははははは!」
さっぱり状況がわからないまま、ニナは言われた通りに珈琲を置いて控室を後にした。
とりあえずできることもないので、通常業務をこなしていると、今度はハワードだけが控室に呼ばれた。
しばらくして出てきたハワードは、なんとも苦い顔をしていた。
「団長は、今日は体調不良で休みをとることになった」
「でしたら、午後の全体訓練には不参加ということですね」
「うん、その連絡を頼むよ。体調不良は数日続くかもしれない、とも伝えておいて」
「わかりました」
結局、その日は団長は控室から出てくることはなかった。
体調不良というのは、建前なのだろうということはニナにも察することができた。
なにが起こっているのかハワードは知っているようだが、なにも教えてくれない。
いつも通り書類を捌きながら『訊くな!』というオーラを全力で放つハワードに、問い質すのを諦めるしかなかった。
そしてその日を最後に、フレデリックはニナの前に姿を現さなくなった。
最初の五日は体調不良ということで休みだった。
この時は、ニナは特に不審に思うことはなかった。
フレデリックは普段から働きすぎなのだ。
いくら若くて体を鍛えているといっても、本当に体調を崩す前に、きちんと休養をとる必要がある。
ちょうどいいからゆっくり休んでほしい、と思っていたくらいだ。
ところが、六日目からフレデリックが出勤するようになると、ニナはなにかと理由をつけて執務室から追い払われるようになってしまった。
「これとこれと、あとはこっちの資料を集めてきて。漏れがないようにしっかり確認してね」
「西棟の奥にある物置の整理をお願いするよ」
「この書類を騎士団の各詰所に配ってきて。終わったら直帰していいからね」
「書類上の備品の数と、実際にある数が合わないのがあるらしいから、調べて来てくれないかな。数が多いから時間かかるかもしれないけど、きっちり頼むよ」
以前はニナより少し遅れて出勤していたハワードなのに、今はニナが出勤すると必ず執務室にいる。
席に着く暇も与えられずすぐに用事を言いつけられるので、習慣だった朝の珈琲を淹れることもできない。
たまに追い払われないことがあっても、フレデリックは控室にこもったまま出てこない。
書類は全てハワードが控室に運び込み、フレデリックのサインが書き込まれて返ってくる。
たまには珈琲を淹れようかと提案しても、いらないと断られてしまう。
フレデリックがニナを避けているのは明らかだった。
そして、ハワードもそれに協力している。
その事実はニナの心を苛んだ。
(団長は、私に事務官を辞めてほしいのかな……)
訓練用の木剣の数のチェックを終えて、ニナは溜息をついた。
第一から第四まである騎士団で、それぞれに事務官は複数人在籍しているが、ニナはその中でも唯一の女性で、ダントツで最年少だ。
このような異例の抜擢をしてくれたのはフレデリックなのだが、それで不都合なことが起きているのかもしれない。
だいたい、男所帯の騎士団に女性のニナがいるというのは不自然なことなのだ。
ニナは十八歳から、もう四年もここで働いている。
もしかしたら、そろそろ潮時なのだろうか。
執務室に戻る気にもなれず、そのまま退勤手続きをして帰途についた。
「おかえりなさい、ニナ」
「ただいま。クリスは?」
「もうすぐ帰ってくると思うわ。それから夕ご飯にしましょうね」
ニナは、母と今年十四歳になる弟のクリスと三人で暮らしている。
四年前、ニナが学校を卒業する直前、両親が乗っていた馬車が事故にあい、父が亡くなってしまった。
母は命は助かったものの大怪我を負い、その治療のために大金が必要になった。
それを賄うには、家にあった預金と、ニナが将来結婚する時のために準備してあった持参金だけでは足りず、家も家財も売り払ってしまった。
それで辛うじて母の命を繋ぐことはできたが、ほとんど寝たきりとなった母と、まだ十歳の弟を抱えてニナは途方にくれた。
家族のために背に腹は代えられないと、娼館の扉を叩こうとしていたニナを引き止め、手を差し伸べてくれたのが、既に魔術師として頭角を現していた幼馴染のエルネストと、フレデリックを代表とする第三騎士団だった。
四年前、フレデリックは魔物討伐で功績を上げたということで第三騎士団長に任命されたばかりだった。
ちょうど事務官を探していたとのことで、ニナを即採用してくれたのだ。
というのも、ニナの父も騎士だったからだ。
剣の腕はぱっとしなかったが、後輩たちに優しく面倒見がいい人柄で、多くの騎士たちに慕われていた。
フレデリックもかつてニナの父に世話になったことがあるのだそうだ。
彼以外にも、ニナの父のことを知る騎士が第三騎士団には多く在籍していて、皆でリンドール一家を気遣い手助けをしてくれた。
与えられるばかりではいけないと、ニナも頑張った。
他の騎士団の事務官や文官などに軽んじられることもあったが、フレデリックと騎士団のためにと必死で働いた。
夜遅くまで資料と睨めっこをして稟議書を書き上げ、古くなっていた第三騎士団の装備を一新する予算を勝ち取った時は、胴上げされる勢いで喜ばれた。
いつもは言葉数が少ないフレデリックも珍しく褒めてくれて、ニナはそれがとても嬉しかった。
そうやってニナは自分の居場所を作ってきたつもりだったのだが。
気づかないところで、なにかやらかしてしまったのだろうか。
「お腹空いた!」
「もう、この子ったら。帰ってきたらただいまでしょ」
「ただいま!今日はシチューかな?」
「そうよ。着替えてらっしゃい」
「はーい!」
クリスが学校から帰ってくると、一気に賑やかになる。
四年前は起き上がることすら困難だった母も、今は家の中のことならなんとかこなせるくらいに回復している。
クリスもあと四年で学校を卒業になる。
元気で明るく成績もいいクリスなら、きっといい就職先を見つけることができるだろう。
(それまでは、私が稼がないと。でも、騎士団に迷惑をかけるのは嫌だわ)
今の事務官の給料なら、家族三人で慎ましく暮らしながらクリスを学校に通わせて、貯金まですることができる。
だが、もし事務官を辞めるとしたら、特別な技能があるわけでもないニナが同じだけの稼ぎを得るには、それこそ娼館に行く以外の方法などない。
美人だったならどこかの貴族か裕福な商人の愛人になれたかもしれないが、ありふれたチョコレート色の髪と橙色の瞳で、目立つところもない容姿のニナでは逆立ちしても無理だ。
クリスは娼婦の弟と後ろ指を指されるかもしれないが、それでも学校を中退するよりはマシだ。
フレデリックと第三騎士団には、四年間も世話になった。
亡き父の恩義に報いるというのも、もう十分なのではないだろうか。
ニナもあの頃より大人になった。
(身の振り方を考えなくてはいけないわね)
密かに覚悟を決めながら、ニナは母と弟と食卓を囲んだ。
突如として響いた悲鳴に、ニナ・リンドールは珈琲豆が入った瓶を取り落としそうになった。
(今の声は……団長!?)
そこはフレデリック・アイザス第三騎士団長の執務室で、今はまだ始業前なのでニナ以外は誰もいない。
声がしたのは、執務室の隣にある団長専用の控室だ。
(去年の剣術大会で優勝した団長が、あんな悲鳴を上げるなんて!まさか、刺客!?)
控室には泊まり込みができるように寝台とバスルームがあり、フレデリックのプライベートな空間なので女性であるニナはあまり立ち入らないようにしている。
だが、今はそんなことは言っていられない。
もしかしたら、フレデリックが刺されて死にかけている、なんてことになっているのかもしれないのだから。
「団長!入りますよ!」
意を決して扉を開くと、寝台と最低限の家具が置かれただけの簡素な部屋。
シーツが乱れていることから、フレデリックはまた宿舎に帰るのを面倒くさがってここに泊まっていたらしい。
ここに姿がないということは、バスルームか。
バスルーム……流石にちょっと、急に扉を開けるのは気が引ける。
行き遅れではあるにしても、ニナだって女の子なのだ。
「団長!そこにいらっしゃるんですか!?大丈夫ですか!?返事してください!」
ドンドンとバスルームの扉を叩いて、声をかけてみた。
これでなんの反応もなかったら、その時は中に突入しよう、と乙女心に覚悟を決めていたのだが、扉はすぐに内側から開かれ、騎士団の制服のトラウザーズに、インナーシャツを着ただけのフレデリックが姿を現した。
青みががかった銀髪は乱れ、ニナよりかなり高いところにある端正な顔は完全に血の気を失い青ざめている。
「団長!ご無事ですか!いったい、なにがあったのです!」
顔色が悪いだけで怪我はなさそうなことに、とりあえずニナは胸を撫でおろした。
フレデリックのいつもは冷静沈着な藍色の瞳が揺れている。
第三騎士団の事務官として働きだしてからもう四年になるニナでも、こんなに動揺した彼を見るのは初めてのことだった。
「……ぞうさんが……」
「え?なんですか?」
掠れた小声は聞き取りにくく、ニナはつい聞き返してしまった。
「ぞうさんが……いる……」
「? 増産が 要る?どういうことですか?」
ここは第三騎士団。
なにかを生産するような部署ではない。
意味がわからない、とニナが首を傾げると、
『ぱおーん』
なんだか不思議な音がした。
「え?なんの音?」
あんな音がするものがこの部屋のどこにあるのだろう、とキョロキョロと見まわすニナ。
『ぱおーん』
また同じ音。
なんだか聞き覚えがあるような……でも、なんの音だったか思い出せない。
というか、今、目の前のフレデリックから音がしたのではなかったか。
「あの、団長」
なにが起こっているのですか、と問いかけようとしたニナの鼻先で、バスルームの扉がバタンと勢いよく閉じられた。
「エルネストを呼んできてくれ!」
バスルームの扉越しに悲鳴に近い叫びが響いた。
エルネストというのは、フレデリックの友人でニナの幼馴染でもある魔術師、エルネスト・シェルズのことだ。
「エル兄さんをですか?具合がお悪いのなら、お医者様の方が」
「医者では無理だ!今すぐ!大至急!エルネストを呼んでくれ!早く!」
なんだかよくわからないが、とにかくただ事ではない。
ニナは慌てて魔術師搭へと走った。
「あ~~ははははははははは!」
控室からエルネストが爆笑する声が聞こえたと思ったら、
「笑い事ではない!!」
フレデリックの怒号がそれに続いた。
ニナは先輩事務官のハワード・キースと顔を見合わせた。
「あれだけ大きな声が出せるのだから、具合が悪いというわけではなさそうだね」
「そうですね……」
状況が理解できず困惑するばかりのニナに対し、ハワードは普段通りの穏やかな笑みをうかべている。
ハワードはフレデリックより少し年上で、事務官らしく落ち着いた雰囲気の頼れる先輩だ。
仕事上だけでなく、私的なところでも助けてもらったことは一度や二度ではない。
控室の扉を中途半端に開き、笑いすぎて涙目になったエルネストがひょっこりと顔を出した。
「ニナ。珈琲をお願いできるかな?笑ったら喉が乾いてしまったよ」
「わかったわ。すぐ準備するね」
ニナの業務は、毎朝フレデリックに珈琲を淹れるところから始まるのだが、今日はそれがまだできない。
ニナは二人分の珈琲を控室へと運んだ。
コンコンと扉をノックし、
「失礼します。珈琲をお持ちしました」
そう声をかけて扉を開いた次の瞬間、
『ぱおーん』
また例の正体不明な音がした。
音がした方向に視線を向けると、そこにいるのは両手で顔を覆ったフレデリックだ。
「はははははは!マジで!?なにそれ!!面白すぎる!!」
「エル兄さん?なにがそんなに面白いの?」
『ぱおーん』
「待って!もう勘弁して!俺の腹筋が死ぬから!」
笑い転げるエルネストに、ニナはどうしていいかわからずコーヒーカップを乗せたトレイを持ったまま立ち尽くした。
「……リンドール。珈琲はそこのテーブルに置いて、下がりなさい」
「はい、団長」
『ぱおーん』
「はははははは!ははは、もう苦しい、あははははは!」
さっぱり状況がわからないまま、ニナは言われた通りに珈琲を置いて控室を後にした。
とりあえずできることもないので、通常業務をこなしていると、今度はハワードだけが控室に呼ばれた。
しばらくして出てきたハワードは、なんとも苦い顔をしていた。
「団長は、今日は体調不良で休みをとることになった」
「でしたら、午後の全体訓練には不参加ということですね」
「うん、その連絡を頼むよ。体調不良は数日続くかもしれない、とも伝えておいて」
「わかりました」
結局、その日は団長は控室から出てくることはなかった。
体調不良というのは、建前なのだろうということはニナにも察することができた。
なにが起こっているのかハワードは知っているようだが、なにも教えてくれない。
いつも通り書類を捌きながら『訊くな!』というオーラを全力で放つハワードに、問い質すのを諦めるしかなかった。
そしてその日を最後に、フレデリックはニナの前に姿を現さなくなった。
最初の五日は体調不良ということで休みだった。
この時は、ニナは特に不審に思うことはなかった。
フレデリックは普段から働きすぎなのだ。
いくら若くて体を鍛えているといっても、本当に体調を崩す前に、きちんと休養をとる必要がある。
ちょうどいいからゆっくり休んでほしい、と思っていたくらいだ。
ところが、六日目からフレデリックが出勤するようになると、ニナはなにかと理由をつけて執務室から追い払われるようになってしまった。
「これとこれと、あとはこっちの資料を集めてきて。漏れがないようにしっかり確認してね」
「西棟の奥にある物置の整理をお願いするよ」
「この書類を騎士団の各詰所に配ってきて。終わったら直帰していいからね」
「書類上の備品の数と、実際にある数が合わないのがあるらしいから、調べて来てくれないかな。数が多いから時間かかるかもしれないけど、きっちり頼むよ」
以前はニナより少し遅れて出勤していたハワードなのに、今はニナが出勤すると必ず執務室にいる。
席に着く暇も与えられずすぐに用事を言いつけられるので、習慣だった朝の珈琲を淹れることもできない。
たまに追い払われないことがあっても、フレデリックは控室にこもったまま出てこない。
書類は全てハワードが控室に運び込み、フレデリックのサインが書き込まれて返ってくる。
たまには珈琲を淹れようかと提案しても、いらないと断られてしまう。
フレデリックがニナを避けているのは明らかだった。
そして、ハワードもそれに協力している。
その事実はニナの心を苛んだ。
(団長は、私に事務官を辞めてほしいのかな……)
訓練用の木剣の数のチェックを終えて、ニナは溜息をついた。
第一から第四まである騎士団で、それぞれに事務官は複数人在籍しているが、ニナはその中でも唯一の女性で、ダントツで最年少だ。
このような異例の抜擢をしてくれたのはフレデリックなのだが、それで不都合なことが起きているのかもしれない。
だいたい、男所帯の騎士団に女性のニナがいるというのは不自然なことなのだ。
ニナは十八歳から、もう四年もここで働いている。
もしかしたら、そろそろ潮時なのだろうか。
執務室に戻る気にもなれず、そのまま退勤手続きをして帰途についた。
「おかえりなさい、ニナ」
「ただいま。クリスは?」
「もうすぐ帰ってくると思うわ。それから夕ご飯にしましょうね」
ニナは、母と今年十四歳になる弟のクリスと三人で暮らしている。
四年前、ニナが学校を卒業する直前、両親が乗っていた馬車が事故にあい、父が亡くなってしまった。
母は命は助かったものの大怪我を負い、その治療のために大金が必要になった。
それを賄うには、家にあった預金と、ニナが将来結婚する時のために準備してあった持参金だけでは足りず、家も家財も売り払ってしまった。
それで辛うじて母の命を繋ぐことはできたが、ほとんど寝たきりとなった母と、まだ十歳の弟を抱えてニナは途方にくれた。
家族のために背に腹は代えられないと、娼館の扉を叩こうとしていたニナを引き止め、手を差し伸べてくれたのが、既に魔術師として頭角を現していた幼馴染のエルネストと、フレデリックを代表とする第三騎士団だった。
四年前、フレデリックは魔物討伐で功績を上げたということで第三騎士団長に任命されたばかりだった。
ちょうど事務官を探していたとのことで、ニナを即採用してくれたのだ。
というのも、ニナの父も騎士だったからだ。
剣の腕はぱっとしなかったが、後輩たちに優しく面倒見がいい人柄で、多くの騎士たちに慕われていた。
フレデリックもかつてニナの父に世話になったことがあるのだそうだ。
彼以外にも、ニナの父のことを知る騎士が第三騎士団には多く在籍していて、皆でリンドール一家を気遣い手助けをしてくれた。
与えられるばかりではいけないと、ニナも頑張った。
他の騎士団の事務官や文官などに軽んじられることもあったが、フレデリックと騎士団のためにと必死で働いた。
夜遅くまで資料と睨めっこをして稟議書を書き上げ、古くなっていた第三騎士団の装備を一新する予算を勝ち取った時は、胴上げされる勢いで喜ばれた。
いつもは言葉数が少ないフレデリックも珍しく褒めてくれて、ニナはそれがとても嬉しかった。
そうやってニナは自分の居場所を作ってきたつもりだったのだが。
気づかないところで、なにかやらかしてしまったのだろうか。
「お腹空いた!」
「もう、この子ったら。帰ってきたらただいまでしょ」
「ただいま!今日はシチューかな?」
「そうよ。着替えてらっしゃい」
「はーい!」
クリスが学校から帰ってくると、一気に賑やかになる。
四年前は起き上がることすら困難だった母も、今は家の中のことならなんとかこなせるくらいに回復している。
クリスもあと四年で学校を卒業になる。
元気で明るく成績もいいクリスなら、きっといい就職先を見つけることができるだろう。
(それまでは、私が稼がないと。でも、騎士団に迷惑をかけるのは嫌だわ)
今の事務官の給料なら、家族三人で慎ましく暮らしながらクリスを学校に通わせて、貯金まですることができる。
だが、もし事務官を辞めるとしたら、特別な技能があるわけでもないニナが同じだけの稼ぎを得るには、それこそ娼館に行く以外の方法などない。
美人だったならどこかの貴族か裕福な商人の愛人になれたかもしれないが、ありふれたチョコレート色の髪と橙色の瞳で、目立つところもない容姿のニナでは逆立ちしても無理だ。
クリスは娼婦の弟と後ろ指を指されるかもしれないが、それでも学校を中退するよりはマシだ。
フレデリックと第三騎士団には、四年間も世話になった。
亡き父の恩義に報いるというのも、もう十分なのではないだろうか。
ニナもあの頃より大人になった。
(身の振り方を考えなくてはいけないわね)
密かに覚悟を決めながら、ニナは母と弟と食卓を囲んだ。
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