騎士団長の象さん事情

鈴木かなえ

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(これで大丈夫なはず。できることは、全てやったわ)

 ニナはぴかぴかになった執務室を見渡した。

 思いつく限りのマニュアルを丁寧につくり、内容ごとにファイルに纏め、執務室を上から下まで掃除した。

(立つ鳥跡を濁さず、ってことにできたと思うわ。ハワード先輩にはまた負担がかかると思うけど、それも次の事務官が来るまでの間だし。そんなに長い時間じゃないはずだわ)

 ニナはもう一度執務室を隅々までチェックし、なにも見落としがないことを確認してから、フレデリックの机にそっと退職届を置いた。

 四年間お世話になった執務室とも今日でお別れだ。

 大切な思い出の残る室内を目に焼き付けたくて、ぐるりと見まわした。

 もうすぐフレデリックが率いる遠征隊が帰還する。
 最後に一目会いたいという気持ちはあるが、そうしたらきっと決心が鈍ってしまう。

(お別れも言えないのは寂しいけど、しかたがないわ)

 ニナは室内に向かって深々と一礼し、最低限の荷物が入った鞄を手に執務室を後にした。

 向かう先は、辻馬車乗り場だ。
 ここで王都から離れたところにある都市に行き、そこで娼館の扉を叩くつもりだ。

 第一騎士団の若い騎士はあれからなにも言ってこないし、考えてみれば王都の花街で娼婦になると知り合いの騎士たちが客としてやってくる可能性がある。
 さすがに、そういう事態になるのは避けたい。
 
 それに、遠くの都市で娼婦になった方が、クリスが娼婦の弟と後ろ指をさされることもないのではないかと考えたのだ。

 フレデリックたちだけでなく、母とクリスにもお別れを言うことができなかった。
 絶対に引き止められるとわかっていたからだ。

 事情を全て認めた置手紙を家に残してきたし、あれを読めば納得してくれるだろう。

 母とクリスの生活のためにも、しっかりしなくては。

 ニナは帽子を目深に被り、足早に先を急いだ。





 遠征からやっと帰還できたというのに、出迎えの人々の中にニナの姿はなかった。
 急ぎの書類でもあったのだろうかと執務室に足を向けたハワードだったが、そこにもニナはいなかった。

 今日遠征隊が帰還することはニナも知っているはずだ。
 もしなにか急用で出勤できないような事情でもあるのなら、そう記されたメモがあるに違いない。

 そう思ってなにげなく自分の机の上に置いてあった書類を手に取ったハワードは、そこで動きを止めた。

(え?仕事を辞める?理由は団長が知ってる……?)

 見慣れたニナの筆跡で認められたそれは、業務上のメモというよりは今までお世話になったことの感謝が綴られたハワード宛の手紙だった。

(どういうことだ?なにかの冗談?)

 とても本気だとは思えず、ニナの机の方に目を向けたハワードだったが、そこで今度は息をのんだ。

 ニナの机には、ニナの制服がきっちりと畳まれて置いてあったのだ。
 そして、その横には真新しく分厚いファイルがある。
 恐る恐るファイルを開いてみると、ニナが担当していた業務を事細かに記載されたマニュアルが綴じられていることがわかった。

(嘘だろ……団長好みの珈琲の淹れ方マニュアルまである)

 ふと、執務室がいつもより明るいような気がして、ハワードは室内を見渡した。

 窓も床も壁も、丁寧に磨き上げられているようだ。

 そして、ニナの私物は執務室の珈琲セット以外なにも残っていないことに気が付いた。
 その珈琲セットの中には、フレデリック専用のカップと来客用のカップがいくつかあるだけで、いつもニナが使っていたカップは見当たらない。

 そこに、ニナの本気が感じられた。

 最後にフレデリックの机を見ると、一枚の書類が置かれていた。

 飛びつくようにその書類を手にとったハワードは、予想通りの内容に一瞬だけ目を強く瞑り、それから書類を握りしめて執務室を飛び出した。

 それは、ニナの退職届だった。




(どうしてニナは出迎えてくれなかったのだろうか。もしかして、照れくさかったのかな?)

 なんて能天気なことを考えながら、部下たちに指示を出していたフレデリックに、

「おーい、第三の!」

 と声がかけられた。

「マクガレン殿」

 振り向くと、第一騎士団長のマクガレンが、若い騎士を後に従えて歩み寄ってくるところだった。

 同じ騎士団長ということでフレデリックとは同格ではあるが、マクガレンは騎士団長歴二十年の大ベテランだ。
 人望とか貫禄とか、そういったものはフレデリックではまだまだ敵わない。

「遠征ご苦労だったな。随分と活躍したそうじゃないか」

 歓迎してくれているような言葉と裏腹に、マクガレンは厳しい顔をしてフレデリックを睨みつけている。

「あの、なにか問題でも?」

 睨まれる理由に心当たりがなく、フレデリックは首を傾げた。

「おまえさんのとこの、事務官の娘。第一騎士団で引き取るからな」
「はぁ!?どういうことです!?」

 ぎょっとして目を剥くフレデリックに、マクガレンの眉間の皺が深くなった。

「どうもこうもない。とにかく、筋は通した。文句言うなよ」
「待ってください!なんでそんな話になっているんです!?」

 マクガレンは溜息をついてフレデリックを睨んだ。

「なんでって、おまえさんがあの娘を放り出すからだよ。放り出すんなら、せめて次の職くらい世話してやれよ。あれは、あのリンドールの娘なんだろ?おまえさんがそんなに薄情者だとは思わなかったよ」
「放り出す!?そんなことはしていませんよ!」

 憤然と言い返すフレデリックだが、マクガレンはさらに続ける。

「おまえさん、なんとかって令嬢と結婚するそうだな」
「団長、イリーナ・ディオン侯爵令嬢です」
「ああ、そうだった。そのなんとか令嬢だ」

 名前に聞き覚えはあるが、顔は思い出せない。
 おそらく、少し前に夜会でダンスをした令嬢の一人だろう、ということくらいしかわからない。
 当然ながら、そんな令嬢と結婚する予定などない。

「俺はそんなのと結婚なんて」
「おまえさんと結婚するって、なんとか令嬢本人が得意気に触れまわっているぞ」

 マクガレンの言葉に、若い騎士が頷いた。
 どうやら貴族らしいこの騎士が、そういう情報を社交界から得てマクガレンに知らせたのだろう。

「おまえさんが結婚するからって、なんであの娘を馘にしなきゃならんのかわからんが、いらないんなら第一騎士団でもらうだけだ。俺も昔、リンドールに世話になったことがある。ちゃんと最後まで面倒みるよ」
「そ、それは、どういう」
「決まってるだろ。結婚相手まで世話してやるって意味だ。俺は、おまえさんがそこまですると思ってたんだがなぁ。あの娘は優秀だし、リンドールの娘なら気立てもいいだろう。相手はすぐに見つかるだろうな」
 
 フレデリックには、マクガレンがなにを言っているのかさっぱりわからなかった。

(俺がニナを放り出す?俺が結婚する?ニナが馘?ニナの結婚相手?わけがわからない!)

「可哀想に、あの娘、馘になったら娼婦にでもなるしかないって思いつめてそうだ」
「なっ!し、娼婦!?」
「あの娘なら、おまえさんが口を利いてやったらすぐに別の部署で採用されるだろうに、なんで馘になんかするんだよ。なんとか令嬢と結婚するから、用済みになったってことなのか?それにしても酷すぎるんじゃないか」

(ニナが娼婦!?ニナが娼婦だと!?なぜ!?なんでそんなことに!?)

 青ざめたまま立ち尽くすフレデリックに、マクガレンはまた溜息をついた。

「とにかく。あの娘はもらう。ほら、迎えに行ってやれ」 
 
 後半は、後ろに控えていた若い騎士への言葉だった。

 誰を迎えに行くのかを理解したフレデリックは、離れて行こうとした若い騎士の腕を慌てて掴んだ。

「待て!ニナは連れて行かせない!」

 フレデリックは必死でマクガレンに訴えた。

「誤解です!なにからなにまで誤解です!俺はなんとか令嬢と結婚する予定はありません!ニナを馘にするつもりもない!」

 マクガレンがそれに応える前に、息を切らせたハワードが走ってきた。

「団長!大変です!リンドールがこんなものを!」

 手渡された紙を見て、フレデリックはさらに青ざめた。

「ニナの退職届!?なぜ……」
「理由は団長が知っているということらしいですが、どういうことですか?」

 その理由というのは、たった今マクガレンに言われたことであるのは間違いない。

「第三騎士団長、それがニナちゃんの意志です」
「そ、そんなはずは……」

 ニナをすっかり手に入れたつもりだったフレデリックは、足元の地面が崩れ去るような気分だった。

「放してください。俺、ニナちゃんを迎えに行かないと」
「リンドールを迎えに?なにがどうなってるんですか、団長!」

 険しい顔をする若い騎士と、困惑するばかりのハワード。

(こんなの、認められない!)

 フレデリックは退職届をビリビリに破いた。

「ハワード!ニナはどこだ!」
「わかりません。執務室にはいませんでした」

 なにがどうなっているのかはわからない。
 だが、混乱したままのフレデリックでも、ニナと話をしなくてはいけないということはわかった。
 そうしなくては、きっと大変なことになる。

「ハワード!馬の準備を!」

 フレデリックは、悪友の魔術師の姿を探して走った。

「エルネスト!!」
「どうした?そんなに慌てて」
「ニナを探してくれ!」
「ニナを?なんで」
「いいから早くしろ!!」

 胸倉を掴む勢いのフレデリックに何事か察したエルネストは、空中に魔法陣を描いて探索魔法を展開した。

「……ニナは、ケーク通りのパン屋と雑貨屋が並んでるあたりの裏路地を東に進んでる」

 どうやら家に向かっているわけではないらしいが、なぜ裏路地に?

「えっ!そこ、そのまま進むと花街ですよね!?俺、待っててってあれだけ言ったのに!」

 追いかけてきた若い騎士が顔色を変えて叫んだ。

「確かにそうだが、なんでニナが花街に用があるんだよ?
 って、待てよ?なにかおかしいぞ」

 エルネストはさらに魔法陣に魔力を流し込んだ。

「……これは、意識がない状態だ!眠らされたまま、運ばれてるぞ!」

 それを聞いた一同が青ざめたところで、ハワードがフレデリックの馬を牽いてやってきた。

「マクガレン殿!ハワード!俺は先行する!後を頼んだ!」

 フレデリックは馬に飛び乗ると、ケーク通りに向かって全速力で駆けだした。


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