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 アーレンが東の山脈へと向かったのは昨日のことだ。
 ふと気を緩めると不吉な予感で脳裏が埋めつくされそうになるのを、普段通りにお針子の仕事をこなすことで意識を逸らしている。
 それだけでなく、今日は魚のパイの作り方を教わった。
 サクサクのパイ生地の下に、旨味たっぷりの魚の身と茸のホワイトソースが閉じ込められていて、びっくりするほど美味しかった。
 今夜は練習として同じパイを作ってみるつもりだ。
 レシピもしっかりメモしてきたから大丈夫なはず。
 アーレンが帰ってきたら、美味しいパイを食べさせてあげたい。

 アルベルトさんとノーランさんは、どちらも平民上がりながら第二王子時代のアーレンの護衛騎士をしていて、ルークさんとも知り合いなのだそうだ。
 そういう人を選んでアーレンのお兄さんが連れてきてくれたのだと思う。
 王子様なだけあって、流石の気遣いだ。
 平民上がりということで、二人とも労働に忌避感がなく、私のことも丁寧に扱ってくれる。
 丁寧すぎて、居心地が悪いくらいだ。
 近所のお針子さん、くらいな感じで接してほしいとお願いしてみたが、即座に却下された。
 敬愛するアーレン殿下の奥方様に無礼なまねはできない!と強く主張されて受け入れるしかなかった。

 二人はアーレンとの思い出話も聞かせてくれた。

 東の山脈に最初の遠征隊が送られたころ、十代だったアーレンはまだ幼さを残した美しい顔立ちで、絵に描いたような箱入り王子様に見えたのだそうだ。
 側近の侍従や護衛騎士に守られたお飾りの指揮官で、平民の兵士を前線に立たせて、本人は安全な後方で優雅にお茶でもすすっているのだろう、と全員が思っていた。
 
 実際、初戦はそうだった。
 押し寄せた魔物に多数の犠牲者をだし、それを見て愕然とするアーレンに舌打ちをする思いだった。
 ところが、そこからアーレンが激変した。
 相変わらず後方に留めようとする側近たちに逆らい、最終的には抜剣寸前の大喧嘩までして最前線に飛び出し、驚くほど巧みに剣と魔法を操って率先して魔物を狩り始めた。
 それにより多くの命が救われることとなり、周囲のアーレンを見る目も変わった。
 第二王子だというのに常に最前線にいるアーレンは、特に平民の兵士たちから絶大な人気を集め、アルベルトさんとノーランさんもアーレンのおかげで命拾いをして、アーレンのことが大好きになったのだそうだ。
 
 私と出会う前のアーレンのことを聞くのはとても楽しくて、アーレンらしいなと思いつつもやっぱり王子様だったんだなと思った。

 昼間はそうやって気を紛らわすことができるが、夜はそうもいかない。
 一人で冷えた寝台に横になると、寂しくて心配で不安でしかたなくなってしまう。
 最後にアーレンが着ていた寝間着の中に、アーレンの枕を入れてぎゅっと抱きしめる。
 少しだけアーレンの匂いが残っている気がするが、それが逆にアーレンが側にいないことを強調するようで胸が苦しくなる。
 涙が零れそうになるのをこらえて、できるだけ前向きなことを考えることにした。

 大丈夫、大丈夫。
 アーレンはとっても強いんだから。
 帰ってくるって約束したんだから。
 アーレンが私との約束を破るはずがない。
 今はアーレンの無事を祈って、アーレンが帰ってきた後にしてあげたいことを考えよう。
 まずは、美味しい魚のパイを作ってあげる。これは決定。
 明日は、習ったレシピにアーレンの好きなチーズも加えてみようか。
 ルークさんたちにも味見してもらって、アーレンが帰ってくる前に、アーレンのための美味しいレシピを完成させよう。
 それから、アーレンが好きなお酒も買っておこう。
 魚のパイに合うお酒もあるかもしれない。
 酒屋の店員さんに聞いてみようかな……

 アーレンが喜んでくれそうなことを必死で考えながら、私は結局ほとんど眠ることができぬまま朝を迎えた。

 そんな夜が二晩も続き、ついに私は眩暈がして倒れてしまった。
 意識を失ったのはほんの数分程度だったが、その間に見た短い夢の中にアーレンが出てきた気がする。
 抱きしめて、漆黒の羽をいつものように撫でて、愛していると全身で伝えた……朧気ながらそんな記憶がある、ような気がする。 

 すぐに目が覚めたのに、ルークさんもアルベルトさんもノーランさんも青い顔で私の体調を心配し、今日はもう休め!と家に帰らされてしまった。
  
 まだ昼間だったが、大人しく言われた通りに寝台に横になると、夜はあれだけ眠れなかったというのにあっさりと眠りに落ちた。
 夢の中でとはいえ、アーレンに触れたことで少しだけ安心できたのかもしれない。

 目が覚めると、もう夕方近くになっていた。
 ぐっすりと眠れたことで頭もスッキリしているし、体の調子もいい。 
 よし!と自分に気合いを入れて、私は魚のパイの試作に取り掛かることにした。

 チーズとアーレンが好きなササ芋を薄切りにしたものを加えたパイは、我ながらとても美味しくできた。
 教えてもらったレシピに引けを取らないくらいの味に仕上がったと思う。
 なにより、アーレン好みの味になっているはずだ。
 
 アーレンのためのパイのレシピが完成した。
 これで、いつアーレンが帰ってきても大丈夫!

 お裾分けしに行こうかな、と外を見ると、もう暗くなっている。
 エケルトは治安のいい町だが、この時間に一人で出歩くと不用心だと怒られるので、お裾分けは明日にすることにした。

 まだ眠くないし、なにか刺繍でもしようかと裁縫道具に手を伸ばそうとしたところ、玄関の扉をノックする音がした。
 アルベルトさんかノーランさんが様子を見に来てくれたのだろう。
 ちょうどよかった、パイを持って行ってもらおう。

「はーい、今開けます」

 そう言って扉を開くと、そこにいたのはアルベルトさんでもノーランさんでもなかった。

 美しい金色の瞳を優しく細めた、私の愛しい夫が立っていた。
 
 私は一瞬息をのみ、それからアーレンをその場で押し倒す勢いで抱きついた。

「おかえりなさい、アーレン」
  
 ぽろぽろと溢れる嬉し涙でアーレンのシャツの胸元が濡れていく。

「ただいま、ナディア」

 アーレンは私を抱きしめて、それから優しくキスをしてくれた。
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