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7.追憶の日高川
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凪いだ波間を揺れるように、ゆるゆると意識が回復しつつあった。
見憶えのある天井が見える。
いくつもの木の節が人間の眼みたいだ。無数の瞳で非難されているようにも感じ、由海は息がつまりそうになる。
自宅の和室にちがいない。きっと八畳の隅には祖父の遺影を立てた仏壇があるはずだ。眉間にしわを寄せ、仏頂面をした落ち武者みたいなヘアスタイルの写真。
いまでこそ一人部屋のベッドで横になっているが、子供のころは、よく祖母とこの部屋で寝起きしたものだ。
部屋の真ん中に敷かれたふかふかの布団。そこに横になっていた。掛け布団は心地よい日なたの匂い。
枕側の窓から光が差し込んでいることから察するに、すでに朝を迎えているようだが、時間まではわからない。
由海は薄目をあけた。
布団を挟む形で響子と母、沙苗がひそひそ話に夢中になっている。
二人はまだ目ざめたとは気づいていない。
由海は眠ったふりをして、そのやりとりを聞き、昨夜のその後の経緯をまとめようとした。
会話の内容を要約すればこうだ。
――深夜に駐在所から連絡があった。由海を御坊警察署に保護したので、いまから引き取りに来ていただきたいとのこと。
急な電話だったので、庄司家はてんやわんやの騒ぎとなった。とるものもとりあえず響子だけを残し、所轄の署に駆けつけた。
たまたま由良町の北西の漁師町でボヤ騒ぎがあり、パトカーが現場に着いていた。
幸いことなきを得て、事件性がないのを確認したあと、その帰り道だった。
街灯もろくにない県道二十三号線を歩いていた由海を発見。署員は不審に思い、声をかけた。
放心状態の由海。
とたんに泣き崩れ、なにがあったが問いかけるもさっぱり要領を得ない。署員はこれを保護した。
署に戻ったあと、どうにか学生証を出させ、庄司家に連絡したという流れだった。
家族と再会するも、由海は安心したのか、その場で気を失った。
見たところ、なんらかのトラブルに巻き込まれたにはちがいないものの、少なくとも暴行を受けた様子はないと警察は判断した。
とはいえ楽観視はできない。とりあえずは今日のところは帰宅させることにした。
衝動的な行動に出ないよう、家族の者は見張りをかねて、当面はゆっくり静養させてあげてくださいとだけ告げ、立ち去ったという。
――あの騒動のあと、由海はポルシェを乗り捨て、光宗たちがいた反対方向に歩き続けたのだった。
怒りにまかせ、とんでもない行動に出てしまった。マグマのようなアドレナリンが切れたとき、ふと我に返り、茫然自失の体となり、夜道をさまよった。
いまのところ光宗たちは被害届を出していないらしく、大ごとにはなっていないようだ。やはり彼らとて、一人の女子高生を傷つけてしまったことに責任を感じたのかもしれない。
が、車は盗難したも同然。
ましてや破損が著しい。損害賠償を請求された場合、いくらになることか。遠からず事件として扱われる恐れがあった。
いずれにせよ、ややこしい事態になるのは目に見えていた。
由海の右に座る沙苗が声をひそめ、
「いったいこの子の身になにがあったんでしょうか? 最近は、部活やら生徒会の活動で帰りが遅いと言ってましたけど、ひょっとしてちがう事情があったのかも……。気づいてやれないなんて、親として恥ずかしいかぎりです」と、反対側に座る響子に頭をさげた。
「なにを寝ぼけたことを。夏休み明けからガラリと変わったじゃないか。やたらと化粧に時間をかけるようになったし、服も買い込み、それこそ盛りがついたみたいに色気づいた」と、着物姿の響子が冷ややかな声で言った。「男に決まってる。この年ごろのやることなすことは、リトマス試験紙みたいなもんさ。たやすく判別できる。ごまかしゃできやしないよ」
「やはり――」沙苗は額を押さえ、天井を仰いだ。「ですが、イタズラされたわけじゃなさそうなので、とりあえずは一安心。好きな人にふられたのかもしれません。だったら、時間が解決してくれるでしょうが」
「どっちにしたって、いまは刺激しない方がよさそうだね。二三日は横にさせておきましょ。学校へは体調不良だと伝えておきなさい」
「はい、お義母さま」
「なにがあったか知らないけど、どうせこの子のことだ。やっぱり庄司の血だよ。衝動的に思い立って、なにかやらかしちまったと見るね。蛇の紋章を授けたからには、どうせ男を深追いしたはずさ。ふられたかどうかは、本人から聞いてみないことには、なんともだけどね」
「蛇の紋章。お言葉ですが、お義母さまも、かつてはいろいろと?」
そう問われて、響子は三白眼ぎみの冷徹な眼で沙苗を睨んだ。沙苗は思わず下を向いた。
響子は、部屋の端にある仏壇を見やり、
「いろいろとあったさ。若いころも、旦那といっしょになってからも、紆余曲折の連続だった。死なせた男もいる」
と、苦々しげに声を絞り出した。最後の一フレーズはすすり泣きのように震えたほどだ。
「衝動的になにかをやってしまった――」沙苗は胸に手を当て、由海の寝顔を見つめていたが、ふいに思い出したように響子に向きなおった。「忘れもしませんわ。この子が保育園の年長さんのときにも、日高川で」
「そんなこともあったね。日高川での出来事。運が悪けりゃ、清さまみたいに入水同然で命を落とすところだった。目撃した人によると、紙一重だったと言ってたね」と、祖母は手を伸ばし、由海の頬に触れた。
響子の聖痕が見えた。
薄目をあけた状態でも、着物の袖のすき間から、紫色のとぐろを巻いたような蛇のあざがはっきり見えた。ちゃんと頭部に当たる部分には眼らしきものまでついていた。
一瞬、その眼が光ったように見えた。それを境に由海は意識を失い、遠い過去に舞い戻っていた。
眼のまえには、いつも川が流れていた。
五歳の由海にとって、日高川は絶好の遊び場だった。
一九八九年、上流にて椿山ダムが建設されたため、以前にくらべ川幅はせばまり、砂利の浜の面積だけが広がった。
庄司家では、園内で流行りのポータブルゲーム機を買い与えない方針だったので、少女は自然を相手に遊ぶしかなかった。おかげでまわりの子供たちよりたくましく育った。
きらめく夏。八月十四日。お盆の真っ只中だった。
お盆の最中は川遊びをするべきではないと響子は言ったものだ。だが父は気にするなと言って、たも網とバケツを持たせて家から送り出してくれた。
なんでもお盆は地獄の釜のふたが開き、先祖の霊が帰ってくるのだと。
ところが、同時に悪い霊までこの世に入ってきてしまう。
そのとき、ふたが閉まるまえに人を引きずり込もうとして連れて行こうとするのだという。悪霊は川や海などの水辺に潜み、獲物を求めているそうな。
それを聞いて由海は震えあがった。
父は笑って、「そんなのは迷信だよ」と、ウインクしてくれた。だから父を信じた。
川の水そのものは澄んでいた。
ただ前々日、大雨が降ったので、いつもより水かさが増し、流れも烈しかった。
由海は川の浅いところで、たも網を使い、小魚や川エビをすくうのに夢中になった。
獲物はバケツに入れ、帰ったらペットとして飼っているフェレットにあたえるつもりだった。純白のフェレットは可愛い顔に似合わず、貪るように食べ尽くしたものだ。
ひとしきり川遊びしていると、ふいに上流の対岸で、子供たちの歓声が沸いた。
そのあたりの川幅は一〇メートル強。ふだんは穏やかな流れも、今日はうねりを伴い、神経質なほど速かった。川音が大きく、対岸でなにを騒いでいるのかまでは聞き取れない。
よく見れば同じ保育園に通う、年長組の男児が四人。いつも悪さをして先生を困らせる顔ぶれ。
一人の体格のいいリーダー格が、ダンボールの箱をこれから川に流そうとしていた。三人の取り巻きたちはうしろではやし立てている。
由海は眼をこらした。
どうやら夢がつまった思い出の品を、海まで届けるわけではなさそうだ。
ダンボールの舟には数匹の猫を乗せていた。いずれも茶トラの子猫。
子猫たちは船べりに前脚をかけ、必死で助けを乞うている。
由海はたも網を捨て、川に踏み込んだ。
全身を耳にする。対岸でどんなやり取りがされているか、聴覚を研ぎ澄ませた。
「これより出航するぞ!」と、リーダー格の男児が言うと、太鼓持ちの痩せた子がでたらめなファンファーレを口ずさんだ。
ためらいもなく、五匹の茶トラを乗せた舟を川の急流へと押し出した。
見憶えのある天井が見える。
いくつもの木の節が人間の眼みたいだ。無数の瞳で非難されているようにも感じ、由海は息がつまりそうになる。
自宅の和室にちがいない。きっと八畳の隅には祖父の遺影を立てた仏壇があるはずだ。眉間にしわを寄せ、仏頂面をした落ち武者みたいなヘアスタイルの写真。
いまでこそ一人部屋のベッドで横になっているが、子供のころは、よく祖母とこの部屋で寝起きしたものだ。
部屋の真ん中に敷かれたふかふかの布団。そこに横になっていた。掛け布団は心地よい日なたの匂い。
枕側の窓から光が差し込んでいることから察するに、すでに朝を迎えているようだが、時間まではわからない。
由海は薄目をあけた。
布団を挟む形で響子と母、沙苗がひそひそ話に夢中になっている。
二人はまだ目ざめたとは気づいていない。
由海は眠ったふりをして、そのやりとりを聞き、昨夜のその後の経緯をまとめようとした。
会話の内容を要約すればこうだ。
――深夜に駐在所から連絡があった。由海を御坊警察署に保護したので、いまから引き取りに来ていただきたいとのこと。
急な電話だったので、庄司家はてんやわんやの騒ぎとなった。とるものもとりあえず響子だけを残し、所轄の署に駆けつけた。
たまたま由良町の北西の漁師町でボヤ騒ぎがあり、パトカーが現場に着いていた。
幸いことなきを得て、事件性がないのを確認したあと、その帰り道だった。
街灯もろくにない県道二十三号線を歩いていた由海を発見。署員は不審に思い、声をかけた。
放心状態の由海。
とたんに泣き崩れ、なにがあったが問いかけるもさっぱり要領を得ない。署員はこれを保護した。
署に戻ったあと、どうにか学生証を出させ、庄司家に連絡したという流れだった。
家族と再会するも、由海は安心したのか、その場で気を失った。
見たところ、なんらかのトラブルに巻き込まれたにはちがいないものの、少なくとも暴行を受けた様子はないと警察は判断した。
とはいえ楽観視はできない。とりあえずは今日のところは帰宅させることにした。
衝動的な行動に出ないよう、家族の者は見張りをかねて、当面はゆっくり静養させてあげてくださいとだけ告げ、立ち去ったという。
――あの騒動のあと、由海はポルシェを乗り捨て、光宗たちがいた反対方向に歩き続けたのだった。
怒りにまかせ、とんでもない行動に出てしまった。マグマのようなアドレナリンが切れたとき、ふと我に返り、茫然自失の体となり、夜道をさまよった。
いまのところ光宗たちは被害届を出していないらしく、大ごとにはなっていないようだ。やはり彼らとて、一人の女子高生を傷つけてしまったことに責任を感じたのかもしれない。
が、車は盗難したも同然。
ましてや破損が著しい。損害賠償を請求された場合、いくらになることか。遠からず事件として扱われる恐れがあった。
いずれにせよ、ややこしい事態になるのは目に見えていた。
由海の右に座る沙苗が声をひそめ、
「いったいこの子の身になにがあったんでしょうか? 最近は、部活やら生徒会の活動で帰りが遅いと言ってましたけど、ひょっとしてちがう事情があったのかも……。気づいてやれないなんて、親として恥ずかしいかぎりです」と、反対側に座る響子に頭をさげた。
「なにを寝ぼけたことを。夏休み明けからガラリと変わったじゃないか。やたらと化粧に時間をかけるようになったし、服も買い込み、それこそ盛りがついたみたいに色気づいた」と、着物姿の響子が冷ややかな声で言った。「男に決まってる。この年ごろのやることなすことは、リトマス試験紙みたいなもんさ。たやすく判別できる。ごまかしゃできやしないよ」
「やはり――」沙苗は額を押さえ、天井を仰いだ。「ですが、イタズラされたわけじゃなさそうなので、とりあえずは一安心。好きな人にふられたのかもしれません。だったら、時間が解決してくれるでしょうが」
「どっちにしたって、いまは刺激しない方がよさそうだね。二三日は横にさせておきましょ。学校へは体調不良だと伝えておきなさい」
「はい、お義母さま」
「なにがあったか知らないけど、どうせこの子のことだ。やっぱり庄司の血だよ。衝動的に思い立って、なにかやらかしちまったと見るね。蛇の紋章を授けたからには、どうせ男を深追いしたはずさ。ふられたかどうかは、本人から聞いてみないことには、なんともだけどね」
「蛇の紋章。お言葉ですが、お義母さまも、かつてはいろいろと?」
そう問われて、響子は三白眼ぎみの冷徹な眼で沙苗を睨んだ。沙苗は思わず下を向いた。
響子は、部屋の端にある仏壇を見やり、
「いろいろとあったさ。若いころも、旦那といっしょになってからも、紆余曲折の連続だった。死なせた男もいる」
と、苦々しげに声を絞り出した。最後の一フレーズはすすり泣きのように震えたほどだ。
「衝動的になにかをやってしまった――」沙苗は胸に手を当て、由海の寝顔を見つめていたが、ふいに思い出したように響子に向きなおった。「忘れもしませんわ。この子が保育園の年長さんのときにも、日高川で」
「そんなこともあったね。日高川での出来事。運が悪けりゃ、清さまみたいに入水同然で命を落とすところだった。目撃した人によると、紙一重だったと言ってたね」と、祖母は手を伸ばし、由海の頬に触れた。
響子の聖痕が見えた。
薄目をあけた状態でも、着物の袖のすき間から、紫色のとぐろを巻いたような蛇のあざがはっきり見えた。ちゃんと頭部に当たる部分には眼らしきものまでついていた。
一瞬、その眼が光ったように見えた。それを境に由海は意識を失い、遠い過去に舞い戻っていた。
眼のまえには、いつも川が流れていた。
五歳の由海にとって、日高川は絶好の遊び場だった。
一九八九年、上流にて椿山ダムが建設されたため、以前にくらべ川幅はせばまり、砂利の浜の面積だけが広がった。
庄司家では、園内で流行りのポータブルゲーム機を買い与えない方針だったので、少女は自然を相手に遊ぶしかなかった。おかげでまわりの子供たちよりたくましく育った。
きらめく夏。八月十四日。お盆の真っ只中だった。
お盆の最中は川遊びをするべきではないと響子は言ったものだ。だが父は気にするなと言って、たも網とバケツを持たせて家から送り出してくれた。
なんでもお盆は地獄の釜のふたが開き、先祖の霊が帰ってくるのだと。
ところが、同時に悪い霊までこの世に入ってきてしまう。
そのとき、ふたが閉まるまえに人を引きずり込もうとして連れて行こうとするのだという。悪霊は川や海などの水辺に潜み、獲物を求めているそうな。
それを聞いて由海は震えあがった。
父は笑って、「そんなのは迷信だよ」と、ウインクしてくれた。だから父を信じた。
川の水そのものは澄んでいた。
ただ前々日、大雨が降ったので、いつもより水かさが増し、流れも烈しかった。
由海は川の浅いところで、たも網を使い、小魚や川エビをすくうのに夢中になった。
獲物はバケツに入れ、帰ったらペットとして飼っているフェレットにあたえるつもりだった。純白のフェレットは可愛い顔に似合わず、貪るように食べ尽くしたものだ。
ひとしきり川遊びしていると、ふいに上流の対岸で、子供たちの歓声が沸いた。
そのあたりの川幅は一〇メートル強。ふだんは穏やかな流れも、今日はうねりを伴い、神経質なほど速かった。川音が大きく、対岸でなにを騒いでいるのかまでは聞き取れない。
よく見れば同じ保育園に通う、年長組の男児が四人。いつも悪さをして先生を困らせる顔ぶれ。
一人の体格のいいリーダー格が、ダンボールの箱をこれから川に流そうとしていた。三人の取り巻きたちはうしろではやし立てている。
由海は眼をこらした。
どうやら夢がつまった思い出の品を、海まで届けるわけではなさそうだ。
ダンボールの舟には数匹の猫を乗せていた。いずれも茶トラの子猫。
子猫たちは船べりに前脚をかけ、必死で助けを乞うている。
由海はたも網を捨て、川に踏み込んだ。
全身を耳にする。対岸でどんなやり取りがされているか、聴覚を研ぎ澄ませた。
「これより出航するぞ!」と、リーダー格の男児が言うと、太鼓持ちの痩せた子がでたらめなファンファーレを口ずさんだ。
ためらいもなく、五匹の茶トラを乗せた舟を川の急流へと押し出した。
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