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10.ヴァーチャルとリアルの狭間で
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二月中旬をすぎた。
春の足音が聞こえるころなのに、めずらしく日高川町に雪が積もっていた。
傷つけ、傷つけられた二カ月間だった。
校内で傷害事件を起こしてしまった。ただちに由海は逮捕された。
県立日高学園にとっては前代未聞の事案であろう。学園側は火消しに躍起になった。
千尋は頬に一〇針縫う大怪我をしたが、幸い命に別条はなかった。
ただしその後、刃物の類を見ると事件を思い出し、バイブレーターみたいに身体を震わすようになった。PTSD。心的外傷後ストレス障害――身も心も、傷痕は一生消えないかもしれない。
由海は家庭裁判所では保護処分を受け、家庭内で更生をするよう言い渡された。
地元でも屈指のいい弁護士をつけてもらい、示談が成立。不起訴処分となり、前科がつくことはなかった。
なぜこんな事件を起こしてしまったのかと原因を追及されても、由海は沈黙を貫き、家族にすら打ち明けなかった。事件を目の当たりにした、数人のクラスメートの証言が由海を守った。
なんとか学校へ通い出していた。退学を免れたのは、これもひとえに庄司家の力の働きかけがあったからだ。
しかしながら、由海の居場所はなかった。
ある朝、通学すると、教室の中央に位置する机には、花を生けられた花瓶が置かれていた。
由海のアイデンティティは喪失したも同じだった。まともな神経で授業など受けられるはずもなかった。
二月三週目の日曜日。
由海はコートの袖をさげ、蛇の紋章をのぞかせた。
聖痕はここに来て、ほのかな光を発しているように見えた。
いまこそこの苦しみに終止符を打たなければなるまい。
由海は最寄りのホームセンターでポリタンクを四つ買った。
さっそく係の人に灯油を充填してもらい、届けてもらうことにした。配達先は日高川の河原。近くにバス停があり、それを目印にお願いできないか尋ねてみた。
「運んできてくれたなら、そこから渡し舟に乗せて対岸の孤立した集落に運びます。そこに住む親戚の家まで届けるので。脚の不自由なおばあちゃんが一人暮らしをしてるんです」
と言えば、係の者はなんの疑いもせず対応してくれた。
見えすいたウソに、まんまと騙されたものだ。いまどき日高川町といえど、渡し舟もあるまい。
ぶじ、日高川沿いの道路にポリタンクは届けられた。路肩には泥まみれの雪が積もっている。
配達員から渡された伝票にサインをした由海。
ホームセンターの配送トラックが去っていくのを見届けると、土手から眼下の日高川を見おろした。
川の流れは穏やかだ。水量もたかだか知れている。五歳のとき、必死で子猫たちを救おうと泳いだときとは大違いだ。
それとは別に河原には、かれこれ三年ぐらいまえから不法投棄された貨物コンテナが置き去りにされていた。
鉄とアルミニウムで作られた長方形の箱は六メートルもの長さを誇り、自重については二トンを超えていた。
ましてやコンテナ後部にあたる観音開きのドアを開けると、内部はたいへんなことになっていた。
産業廃棄物の山であふれていたのだ。用途不明の鉄のガラクタが詰め込まれたうえ、わけのわからぬ書類の束までが山積みにされており、ひどいありさまだった。
不法投棄するにあたり、トレーラーごと河原に乗り入れ、コンテナだけを切り離して捨てていったのだろう。
悪質な業者のしわざにちがいない。廃棄物から証拠となるようなものも見つからず、役所も泣き寝入りするしかなかった。
当然のことながら、地域住民から町の美観を損ねるとして撤去を嘆願する声もあがった。
だが財政難のため、ズルズルと先延ばしにされ、そのまま放置してきた。日高川町の恥ずべき負の遺構だった。
由海は十八リットルの灯油が入ったポリタンクを一個ずつさげて、えっちらおっちら坂道をくだった。
都合四往復して河原に運びおろした。凍てつく夕方なのに、汗をかいた。貨物コンテナのそばに並べる。
由海は心ここにあらずの顔で日高川を見つめた。
――これでようやく眼が醒めた。
「まえまで光宗センセのことを愛してたけど、いまはちがう感情が燃えている。あなたは生かしちゃおけない存在。恥ずかしいけど、私は一度はあなたに心奪われた。その心を返してもらうために、あなたには死んでもらわなくちゃいけない。そうでないと私は以前の平穏さを取り戻すことができない」
すべてがあやふやだった。
これは夢なのか現なのか。
思春期特有の地に足がついていない感覚が、由海の正常な判断力を奪っていた。
裏切られたからといって、相手を殺害していいはずがない。
こんなことがまかり通るなら、それこそ世の男女は、累々たる屍の山を築くことになるだろう。大量虐殺もいいところである。
だけど、そうせずにはいられない。由海の背中を押す、異質な存在を感じた。
『由海には清さまが守護霊としてついているんだよ』と、響子は口癖のように言ったものだ。
幅二.四メートル、長さ六メートル、高さ二.六メートルのこのコンテナこそ、光宗を死に追いやる罠であり、同時にそのまま葬り去る棺桶だ。そして墓標にもなり得る。
観音開きのドアには閂がかかっていたが、誰でも入ろうと思えばかんたんに出入りできた。
由海は扉をあけて、ポリタンクを四つともなかに入れた。
たっぷりとまんべんなく、コンテナ内に灯油をまいた。
とくに紙類の束には念入りにふりかける。床に水たまりができてびちゃびちゃになるほどだ。
臭いが鼻について勘づかれる恐れがあったが、それ以上に由海がプレッシャーをかければいいだけだ。
切れ者の光宗だ。そうかんたんに、この死へと誘うトラバサミに引っかかるだろうか?
やるしかない。こうなったら知恵比べだ。
春の足音が聞こえるころなのに、めずらしく日高川町に雪が積もっていた。
傷つけ、傷つけられた二カ月間だった。
校内で傷害事件を起こしてしまった。ただちに由海は逮捕された。
県立日高学園にとっては前代未聞の事案であろう。学園側は火消しに躍起になった。
千尋は頬に一〇針縫う大怪我をしたが、幸い命に別条はなかった。
ただしその後、刃物の類を見ると事件を思い出し、バイブレーターみたいに身体を震わすようになった。PTSD。心的外傷後ストレス障害――身も心も、傷痕は一生消えないかもしれない。
由海は家庭裁判所では保護処分を受け、家庭内で更生をするよう言い渡された。
地元でも屈指のいい弁護士をつけてもらい、示談が成立。不起訴処分となり、前科がつくことはなかった。
なぜこんな事件を起こしてしまったのかと原因を追及されても、由海は沈黙を貫き、家族にすら打ち明けなかった。事件を目の当たりにした、数人のクラスメートの証言が由海を守った。
なんとか学校へ通い出していた。退学を免れたのは、これもひとえに庄司家の力の働きかけがあったからだ。
しかしながら、由海の居場所はなかった。
ある朝、通学すると、教室の中央に位置する机には、花を生けられた花瓶が置かれていた。
由海のアイデンティティは喪失したも同じだった。まともな神経で授業など受けられるはずもなかった。
二月三週目の日曜日。
由海はコートの袖をさげ、蛇の紋章をのぞかせた。
聖痕はここに来て、ほのかな光を発しているように見えた。
いまこそこの苦しみに終止符を打たなければなるまい。
由海は最寄りのホームセンターでポリタンクを四つ買った。
さっそく係の人に灯油を充填してもらい、届けてもらうことにした。配達先は日高川の河原。近くにバス停があり、それを目印にお願いできないか尋ねてみた。
「運んできてくれたなら、そこから渡し舟に乗せて対岸の孤立した集落に運びます。そこに住む親戚の家まで届けるので。脚の不自由なおばあちゃんが一人暮らしをしてるんです」
と言えば、係の者はなんの疑いもせず対応してくれた。
見えすいたウソに、まんまと騙されたものだ。いまどき日高川町といえど、渡し舟もあるまい。
ぶじ、日高川沿いの道路にポリタンクは届けられた。路肩には泥まみれの雪が積もっている。
配達員から渡された伝票にサインをした由海。
ホームセンターの配送トラックが去っていくのを見届けると、土手から眼下の日高川を見おろした。
川の流れは穏やかだ。水量もたかだか知れている。五歳のとき、必死で子猫たちを救おうと泳いだときとは大違いだ。
それとは別に河原には、かれこれ三年ぐらいまえから不法投棄された貨物コンテナが置き去りにされていた。
鉄とアルミニウムで作られた長方形の箱は六メートルもの長さを誇り、自重については二トンを超えていた。
ましてやコンテナ後部にあたる観音開きのドアを開けると、内部はたいへんなことになっていた。
産業廃棄物の山であふれていたのだ。用途不明の鉄のガラクタが詰め込まれたうえ、わけのわからぬ書類の束までが山積みにされており、ひどいありさまだった。
不法投棄するにあたり、トレーラーごと河原に乗り入れ、コンテナだけを切り離して捨てていったのだろう。
悪質な業者のしわざにちがいない。廃棄物から証拠となるようなものも見つからず、役所も泣き寝入りするしかなかった。
当然のことながら、地域住民から町の美観を損ねるとして撤去を嘆願する声もあがった。
だが財政難のため、ズルズルと先延ばしにされ、そのまま放置してきた。日高川町の恥ずべき負の遺構だった。
由海は十八リットルの灯油が入ったポリタンクを一個ずつさげて、えっちらおっちら坂道をくだった。
都合四往復して河原に運びおろした。凍てつく夕方なのに、汗をかいた。貨物コンテナのそばに並べる。
由海は心ここにあらずの顔で日高川を見つめた。
――これでようやく眼が醒めた。
「まえまで光宗センセのことを愛してたけど、いまはちがう感情が燃えている。あなたは生かしちゃおけない存在。恥ずかしいけど、私は一度はあなたに心奪われた。その心を返してもらうために、あなたには死んでもらわなくちゃいけない。そうでないと私は以前の平穏さを取り戻すことができない」
すべてがあやふやだった。
これは夢なのか現なのか。
思春期特有の地に足がついていない感覚が、由海の正常な判断力を奪っていた。
裏切られたからといって、相手を殺害していいはずがない。
こんなことがまかり通るなら、それこそ世の男女は、累々たる屍の山を築くことになるだろう。大量虐殺もいいところである。
だけど、そうせずにはいられない。由海の背中を押す、異質な存在を感じた。
『由海には清さまが守護霊としてついているんだよ』と、響子は口癖のように言ったものだ。
幅二.四メートル、長さ六メートル、高さ二.六メートルのこのコンテナこそ、光宗を死に追いやる罠であり、同時にそのまま葬り去る棺桶だ。そして墓標にもなり得る。
観音開きのドアには閂がかかっていたが、誰でも入ろうと思えばかんたんに出入りできた。
由海は扉をあけて、ポリタンクを四つともなかに入れた。
たっぷりとまんべんなく、コンテナ内に灯油をまいた。
とくに紙類の束には念入りにふりかける。床に水たまりができてびちゃびちゃになるほどだ。
臭いが鼻について勘づかれる恐れがあったが、それ以上に由海がプレッシャーをかければいいだけだ。
切れ者の光宗だ。そうかんたんに、この死へと誘うトラバサミに引っかかるだろうか?
やるしかない。こうなったら知恵比べだ。
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